第二十一話 点検簿を読む男
先送りされた点検簿は、紙より先に人の手順を黙らせる。
七の日の広場を閉じたあと、私は旧記録室へ戻った。昼の売り声が残した熱はもう消えて、棚の間には紙と古布の乾く匂いだけが薄く残っている。今日の点検簿を戻し、広場排水の札と鍛冶預かりの数を書き足して終わるつもりだった。
けれど、戸を開けた途端、机の上に灯りがあった。
アルノルトが座っていた。私の点検簿が三冊、机へ開かれている。いちばん上は南兵舎の補修を始めた頃の薄い一冊で、その下に井戸と穀倉の分厚い一冊、さらに冬囲い床と鍛冶場と広場の札まで挟んだ今の一冊が重なっていた。
「勝手に開けましたね」
言いながら、私は戸を閉めた。責めるつもりで出した声なのに、喉の奥で少し引っかかった。
アルノルトは顔を上げず、頁へ指を置いたまま言う。
「入れ」
それから、そこに書いてある字をそのまま読んだ。
「南兵舎二列目六床閉鎖。桶二。夜番一。梁鳴き、午前三つで止む」
低い声が、湿気を抜いたばかりの記録室でよく通る。私は机の向かいへ立ったまま、頷いた。
「着任二日目です」
「六床を閉じて、何床残した」
「三十四です」
アルノルトは余白へ短く数字を書いた。次の頁をめくる。
「井戸停止。本鍋分離。腹痛申告、東門湧き水へ振替」
「三日で椀が空になる人数を拾いました」
「何人ぶんだ」
「炊事場の鍋二つです。止めなければ、南兵舎の半分が寝込みました」
また数字がひとつ増える。
紙を繰る音だけが続いた。負傷兵小舎の四床。北柵右四本目と五本目。冬囲い床の青葱四株。鍛冶冷し槽から戻った長釘と細釘。広場で地面から離した卵籠と豆袋。私は書いた順にしか覚えていなかったことを、アルノルトは「何人が眠れた」「何杯がこぼれずに済んだ」「何台が帰らずに残った」に置き換えて読んでいく。
別紙の上には、炭の短い数字が少しずつ増えた。三十四。四。二。三。六。紙切れひとつで収まる数なのに、その横に置かれた私の点検簿は五冊ある。守れた寝台も、止めた鍋も、戻した流れも、読まれなければ全部ただの厚みで終わる。
王都では、点検簿はこういう音を立てなかった。頁が開かれる前に、卓の端へ積まれて終わった。報告を渡す手だけが宙に残り、私は次の継ぎ目を見に行った。
「読みにくい字です」
ようやくそれだけ言うと、アルノルトはそこで初めて顔を上げた。
「読める」
「急いで書いたところは、あとで自分でも」
「読めなきゃ困る字ほど、癖が残る」
そう言って、指先で紙端の擦り切れをなぞる。
「これは何冊目だ」
「砦へ来てからなら、五冊目」
「前は」
「王都で八冊」
返した途端、部屋が少し静かになった。棚の奥で、乾かしていた古帳面がかさりと鳴る。アルノルトはそれ以上、王都のことを聞かなかった。ただ机の上の五冊目を閉じ、代わりに別の紙を引いた。
「お前ひとりの頭に置いておく量じゃない」
机の端の紙切れを二度指で叩く。そこには、さっき拾い直した数字が黒く並んでいた。
炭で線を引き、今夜の頁から四つ抜く。
冬囲い床 朝夕の布開閉
広場排水 朝いち石口確認
鍛冶預かり 印と返り時刻
北柵右四・五本目 暮れ前触診
「司令部の当番板へ移す」
私は思わず机を見た。
「今日のぶんだけですか」
「今日から毎日だ」
その言い方は、命令というより手順だった。やるかやらないかではなく、鍋を分けた日から別鍋が続いているのと同じ口調だった。
やがて戸が叩かれ、鍛冶番、鍋番、北見張りの兵、それからミアが記録室へ入ってきた。広場を畳んだあとの埃がまだ袖に残っている。アルノルトは椅子を立たず、今書いた四行を順に読んだ。
「冬囲い床は洗い場の老婆にも伝えろ。布は日の出後一刻で上げ、昼は留めをひとつ外す。広場排水は朝の鐘ひとつ前。石口が重ければ、荷車を入れる前に掘れ」
鍋番が鼻の上で息を鳴らす。
「広場が先に乾いてりゃ、椀を運ぶ腕を曲げずに済むね」
鍛冶番は戸板の端へ爪をかけた。
「預かりは返り時刻まで書く。遅れるなら先に言う」
ミアは炭を受け取ると、アルノルトが読んだ四行を、同じ順で小さな板へ書き写し始めた。字はまだ細く揺れるけれど、止まらない。前は私ひとりの頁に入って終わっていたことが、今は別の手で板へ移る。
全員が出たあと、私は机の端へ残った紙束を見た。そこには私の点検簿だけではなく、旧記録室から拾い上げた古い帳面も混ざっている。アルノルトが一冊だけ引き寄せ、細い裂け目の入った頁を開いた。
「こっちはお前の字じゃない」
「旧当番帳です」
指先で示された行には、薄くこう残っていた。
北門見張り塔 信号線被膜やせ
雨後、鐘鳴り半拍遅れ
私は頁へ顔を寄せた。墨が滲み、端は虫に食われている。それでも「半拍遅れ」の四字だけは、妙にくっきり見えた。
「いつの帳面ですか」
「八年前だ」
「今も鳴きます」
言い終えるより先に、外で鐘が鳴った。北門の見張り塔からの合図だった。ひとつ、間が空いて、もうひとつ。いつもなら風へすぐ乗る音が、今夜はわずかに遅れて届いた。
アルノルトが頁を閉じる。
「明朝、北門へ行く」
翌朝、冬囲い床へ回ると、布はもう半分だけ上げられていた。洗い場の老婆が細釘を噛ませ直し、覆いの内側から逃げる湯気を指で払っている。広場ではミアが排水口へ棒を差し込み、石口の泥を朝の鐘前に掻き出していた。鍛冶場の戸板には、石畑の鎌二本の横へ返り時刻が書き足されている。
私が点検簿を開く前に、今日の最初の確認がいくつか済んでいた。
旧記録室で読まれた字が、朝の風の中ではもう別の手の動きになっていた。紙は積まれたままではない。
北風の中、アルノルトが外套の襟を直しながらこっちを見る。
「行けるか」
私は閉じたままの頁へ指を置いた。
「ええ。今日は北門です」
そのとき、見張り塔の鐘がまた鳴った。今度も、半拍だけ遅れていた。




