第二十二話 北門の見張り塔
先送りされた北門の半拍は、荷より先に道の上へ人を止める。
翌朝、私はアルノルトとミアを連れて北門へ向かった。空は晴れているのに、北から吹く風だけがまだ雨の冷たさを残している。門脇の見張り兵が、上の塔を見上げたまま顔をしかめた。
「今朝も遅れました。ひとつ目の合図は返るんですが、二つ目が坂の手前まで来ないと鳴らない」
門の外では、二頭立ての荷車がひとつ、曲がり角の手前で止まっていた。幌の脇に塩樽の縁が見える。御者は門へ入るでも戻るでもなく、手綱を握ったまま塔の上を見ている。
北門の道は、尾根から下りきる前に一度だけ狭くなる。そこでもたつくと、後ろの荷車が詰まる。風の強い日なら、馬も人も落ち着きを失う。門が見えているのに止まらされる場所としては、いちばんよくない。
私は塔の石段へ足をかけた。昨日の当番帳にあった「被膜やせ」と「半拍遅れ」を、今日は紙の上ではなく手で見る。
塔の上は、思っていたより狭かった。鐘木を吊るす横木は北側へ少しだけ傾き、その脇を細い信号線が走っている。銅線のまわりに巻かれた古い油布の被膜は、軒先の案内輪へ触れる場所だけ白く痩せ、糸がほぐれていた。昨夜の雨がそこへ落ちたらしい。布が冷えて縮み、線が輪へ吸いつくように張りついている。
「ミア、下へ回って、一つ鳴るまで数えて」
「うん」
ミアが駆け下りる。私は案内輪へ指を添えたまま、アルノルトへ頷いた。
「下から一度、引いてください」
すぐ足下から合図が伝わった。線がぴんと張る。けれど鐘木はすぐには動かず、半呼吸ほど遅れてから、鈍い音で鐘腹を叩いた。指先に残ったのは、滑るはずの線が輪へ食いつくざらつきと、横木の根元から返るわずかな揺れだった。
「二つ遅れています」
下からミアの声が飛ぶ。私は横木の根元へしゃがんだ。鐘木を支える木の楔が、指一本ぶん痩せている。鳴り始めに横木が逃げ、そのあとでようやく木が振れている。線だけではなかった。
「案内輪と楔、両方です」
「要るものは」
「鍛冶場の細い輪金具を二つ。査閲台の残り板から乾いた切れ端をひとつ。あと、油を吸っていない布」
アルノルトは塔の床を一度だけ踵で踏んだ。
「落ちる前に済ませろ」
「落としません」
兵が走るあいだ、私は痩せた被膜をほどいた。中の銅線そのものはまだ生きている。切れる前でよかった。輪へ擦られたところだけが細り、そこへ雨筋が乗って動きを鈍らせていた。塔の外へ身を乗り出して軒を見ると、石の継ぎ目がひとつ欠け、雨がまっすぐ案内輪へ垂れる形になっている。
先にそこを止める。
私は欠けた継ぎ目へ継ぎ縫いを浅く入れ、雨筋を半寸だけ外へ逃がした。次に届いた輪金具を受け取り、古い案内輪を外す。錆の粉が指へついた。鍛冶場で昨日打たれた細い輪は、前より口が滑らかで、線を削る角がない。査閲台の残り板から切った楔を横木の足へ打ち込み、鐘木の揺れを受ける位置を戻す。最後に、乾いた布へ獣脂を擦り込み、痩せた被膜の上へ巻き直した。
「もう一度」
アルノルトが下から線を引く。
今度は、張りが来たのとほとんど同時に、鐘木が前へ出た。乾いた腹の音が、さっきより高く返る。半拍の空白が消えただけで、塔の上の風まで変わったように感じた。下で待っていたミアが、石段の途中から顔を出す。
「いま、一つで鳴いた」
「二つ目も見ます。坂へ走れる?」
「走る」
ミアは返事と同時に外へ飛び出した。私は塔の縁へ寄り、北の道を見た。さっき止まっていた塩樽の荷車が、御者台からこちらを見ている。アルノルトが門脇の兵へ短く指を振ると、兵は外へ向かって旗を上げた。
ほどなくして、坂の向こうで小さな布旗が振られた。門前の兵が線を二度引く。一度目はすぐ鳴る。二度目も、間を空けずに返った。
曲がり角で止まっていた荷車が、そのまま速度を落とさず門へ下りてきた。
御者は門をくぐるなり、肩の力を抜いた。
「今日は早いな」
「塔を直しました」
私は塩樽の縄を見た。濡れは少ない。坂で止められる時間が短かったぶん、荷も馬も無駄に冷えていない。
御者は門の内側へ荷車を寄せながら、塔を見上げた。
「半拍遅れる日は、後ろを詰まらせるからな。次の荷に合図が届かん」
「今日からは届きます。雨後は朝に輪と軒筋を見ます」
「なら助かる」
昼前には、同じ道から三台続きの商隊が現れた。先頭は塩と油、二台目は厚手の布、三台目は空樽と修理待ちの金具を積んでいる。坂の手前で止まる気配がない。見張り兵の一つ目の合図に二つ目がすぐ返り、門前の兵が荷台の数まで呼べたからだ。
「三台、塩四、油二、布束六」
北門の声がそのまま食堂前まで届く。広場の鍋番が先に椀を寄せ、鍛冶場では預かり戸板を外へ向けた。門の中で待つ時間が短くなると、次の手が先に動ける。
商隊の頭をしている男が、荷札板へ炭を走らせた。塩樽の胴へ寄りかかりながら、私に聞く。
「ここ、七の日以外も昼継ぎできるか」
「門前を詰まらせないなら」
「馬の水桶と、繋ぎ場が半列ぶんあれば足りる」
男は荷札板の隅へ、第七砦の印をひとつ書き足した。通り過ぎる印ではない。昼継ぎの丸印だった。
「北回りの帳面、次からここを継ぎに入れる」
私はその字を見た。旧記録室で拾った古い当番帳の墨よりずっと新しい炭の黒だったけれど、やっていることは同じだった。読めば次の手が早くなる印だ。
ミアが私の袖を引く。
「りねっと、後ろの荷車、空いてる」
三台目の後ろには、まだ縄だけが掛かった空きがある。ここで預かりの蝶番や鍬先を返せれば、帰り荷がただの空樽で済まなくなる。私は頷いて、門脇の板へ新しく一行だけ足した。
北門 馬繋ぎ半列 昼まで
アルノルトがその字を読み、門前の地面を見た。沈まない石の並びを目で拾い、兵へ言う。
「南壁の残り杭を二本持ってこい。水桶は西洗い場から回す」
塔の上では、さっき直した鐘がまた鳴った。ひとつ。間を置かず、もうひとつ。今度は遅れない。門の外の風の中で、その音だけが先に道を開けていた。
私は点検簿を開く。
北門見張り塔。
信号線被膜巻き直し。案内輪差し替え。鐘木楔打ち直し。
雨後の半拍遅れ消失。
三台商隊、昼継ぎ印。馬繋ぎ半列、水桶要。
書き終えるころには、三台目の荷車の後ろへ、修理上がりの蝶番箱がひとつ積まれていた。塩と油と布だけではない。砦の中で直したものが、同じ道を使って外へ返っていく。
門の外で、また小さな布旗が振れた。ひとつ。間を置かず、もうひとつ。坂の上の荷車は、今度も止まらない。門前では南壁の残り杭が打たれ、水桶が運ばれ、三台目の後ろには返り荷の箱がもうひとつ積み足された。




