第二十三話 流民の親子
先送りされた西の物置は、人より先に風だけを泊めていた。
北門見張り塔の鐘が遅れなくなった翌朝、門前には昨日より早い荷車が二台並んでいた。塩樽の後ろ、厚手の布束を積んだ二台目の荷台の陰に、人が二人うずくまっている。羊毛袋の裂け端を肩へ巻いた男と、その脇で膝を抱える娘だった。娘の靴先だけが濃く濡れている。夜露ではない。長く歩いた湿りだ。
商隊頭が手綱を引いたまま言う。
「北裾の放牧小村が、夜明け前に灰牙へやられた。全部は乗せきれん。歩けるやつから拾ってきた」
男は荷台から降りると、片膝をついた。
「ベルンです。娘はネラ。壁ひとつぶんの風除けがあれば助かります」
アルノルトが門脇の板札から顔を上げる。
「傷は」
「深いのはありません。馬と縄は扱えます。荷馬の口も見てきました」
その声は掠れていたが、手綱の持ち方だけは崩れていなかった。指先が、濡れた革の細りを知っている持ち方だ。隣のネラは何も言わない。ただ、門の石へ足をつけたまま、踵を浮かせている。冷えた靴底を全部預けると痛む足だ。
ミアが私の袖を引いた。
「りねっと、あの子、左だけ先で歩いてる。靴の中、たぶん擦れてる」
私は頷いて、門の内側を振り返った。兵舎は兵の寝台で埋まっている。負傷兵小舎へ民間の親子を入れるわけにもいかない。けれど、西庭の端にはいま朝市の余り板と割れた窓枠を押し込んでいるだけの物置がある。前に戸板を三枚抜いてから、奥半間は風の通り道になったままだ。
「西の物置を見ます」
アルノルトはすぐに首を振らなかった。
「寝かせる気か」
「風を止めます。今朝まで壊れた枠の置き場だったところです」
「増えるのは」
「寝床二つと、門前の馬を見る手ひとつです」
ベルンの目がわずかに上がる。私はもう一度、彼の手を見た。親指の付け根に古い擦れ跡が重なっている。手綱と縄を長く引いた手だ。
アルノルトは男へ向き直った。
「馬繋ぎの杭を半列増やす。水桶も二つ置く。幅を切れるか」
「できます」
「なら娘は西庭だ。お前は門へ来い」
ネラの肩がびくりと揺れた。私はしゃがみ、娘と目を合わせる。
「先に靴を乾かす場所を作るわ。父さんはすぐ見えるところにいます」
西の物置は、戸を開けた瞬間に理由が分かった。西壁の小窓は下板が抜け、敷居は片側だけ沈んでいる。扉の下から細い風が絶えず入り、積んだままの割れ枠へぶつかって鳴いていた。けれど床石の高い奥だけは乾いている。軒の雨筋が届かないうえ、朝市で使った仮台を運び出してから物が減り、二人なら十分横になれる広さがあった。
「ミア、使える板を三枚。細釘じゃなく長釘を」
「うん。割れてないやつだけ取る」
ネラは戸口に立ったまま、物置の中を見ていた。怯えているというより、どこから風が入るかを見ている顔だった。私は抜けた窓板を指した。
「あそこを塞げば半分止まる」
すると、ネラが初めて口を開いた。
「下も。そこ、夜は鳴る」
小窓ではなく、敷居の右端だった。見れば、石が半指ぶん下がり、外の白い土が見えている。私は掌を差し入れた。たしかにそこがいちばん冷たい。
「よく見てる」
言うと、娘は何も返さなかったが、視線だけが少し動いた。
まず割れた窓枠を外し、朝市で使わなかった戸板を内側から当てる。長釘だけでは木が痩せた枠をさらに裂くので、私は釘穴のまわりへ細く継ぎ縫いを入れてから打った。次に敷居を起こす。完全に据え直す時間はない。沈んだ石の脇へ乾いた砂利を噛ませ、古麻袋へ羊毛屑を詰めて細長く縫い、敷居の内側へ押し込む。風が床を舐める音がひとつ減った。
ミアが板を抱えて戻ってくる。
「寝るの、こっち? 壁鳴かないの奥だけ」
「そこへ床を作る」
物置の隅には、朝市で荷を浮かせるのに使った空き木枠がふたつ残っていた。上下を返し、間へ板を渡すと低い寝台になる。ネラがその端を押さえた。指が震えているのに、力は抜かない。
「結ぶほうがいい」
娘は板の脚を見て言った。
「釘だけだと、乗ったら開く」
私は縄束を差し出した。ネラは濡れた指で迷わず輪を作り、木枠の脚へ斜めに回した。馬具をほどかない結び方だった。きつく締めると、枠の脚が横へ逃げなくなる。
「父さんに教わったの?」
「荷台の箱、いつもこうする」
そのころ、外では杭を打つ音が始まっていた。一定の間隔で、石へ響く低い音だ。アルノルトの短い声と、ベルンの返しが重なる。
私は壁へ古い毛布を一枚掛けた。仕切りではない。扉から見てすぐの風を落とすための内張りだ。ミアが細釘を二本、ネラが結んだ残り縄を一本渡してくる。三人の手が止まらないと、半間は思っていたより早く部屋の形になる。
昼前、物置の戸を閉めると、さっきまで頬へ当たっていた細い風が消えた。内張りの毛布は少しだけ膨らむが、鳴かない。木枠の上へ乾いた毛布を二枚、端へ湯気の抜けるように重ねる。戸口脇には靴を脱がせる板を一枚敷いた。濡れたまま石へ置けば、夕方にはまた冷える。
ミアが戸板の切れ端へ炭を走らせる。
西の物置
仮宿二人
私はその下へ小さく追記した。
靴は内側
外へ出ると、北門前の景色も少し変わっていた。南壁の残り杭が二本、門脇へまっすぐ立っている。間は馬の首が噛み合わない広さで切られ、水桶は蹴られても倒れにくいよう石へ寄せてあった。ベルンが縄のたるみを指で確かめ、桶の位置を半歩だけずらす。荷馬が鼻先を水へ向けても、後ろ脚が通り道へはみ出さない。
「その幅で足りるか」
アルノルトが訊くと、ベルンは杭と荷車の輪のあいだを見た。
「三頭までは絡みません。四頭来たら、奥をもう半歩あけたい」
「明日来た数で決める」
それは追い返さない言い方だった。
ネラは物置の戸口から父親を見ていた。さっきまで踵を浮かせていた足が、いまは板の上へ全部乗っている。ミアがその横へ小さな板をもう一枚持ってくる。
「これ、明日のぶん。桶が減ったら線を一本。綱を返したら丸」
板には、炭で縦線が二本と丸がひとつ描いてあった。ネラは黙って受け取り、指でなぞる。読めない字を見る顔ではない。手順を覚える顔だった。
夕方、鍋番から受け取った湯気の立つ椀を二つ、私は西の物置へ運んだ。戸を開けると、内側の空気は外よりひと息だけ柔らかい。直したばかりの板と羊毛の匂いが、湯気と混ざっている。ネラの靴はもう戸口の板の上で水を落とし、木枠の寝台には毛布の端がきちんと揃っていた。
ベルンが椀を受け取るとき、指先の震えが少し遅れてきた。門前では止まっていなかった手だ。
「明朝の鐘ひとつで門へ来い」
戸口の外からアルノルトが言う。
「桶は朝に満たす。昼継ぎが入ったら荷を止めるな」
「はい」
「娘は西庭だ。ミアの横で数を覚えろ」
ネラは椀を抱えたまま、ミアの板と父親の顔を見比べた。それから小さく頷いた。
私は点検簿を開く。
西の物置。
西窓下板欠損、敷居右沈み、風入り。
戸板当て、敷居仮起こし、羊毛詰め、内張り毛布、木枠寝台二。
ベルン親子、仮宿へ収容。
北門、馬繋ぎ半列、水桶二。ベルンへ朝夕管理。
書いているあいだ、外では荷馬が一頭、増えた杭へ首を預けて水を飲んだ。桶の縁はこぼれず、通り道も塞がない。西の物置の戸は、もう風に鳴らなかった。椀の湯気は内張りの毛布へぶつかって薄く上がり、ネラの脱いだ靴先だけが、板の上でゆっくり乾いていった。




