第四十一話 雨漏り砦から防衛都市へ
先送りしてきた第一水門の石枠は、砦へ戻る水と人の数が増えたぶんだけ、朝いちばんの鳴き方を隠さなくなった。
王都から戻って三月。旧洗い場倉の床石を上げた穴の縁へしゃがむと、左の石枠が梃子の重みを受けるたび、乾いた骨みたいな短い音を返す。二指ぶん開けて持たせてきた間は誤魔化せたけれど、もう誤魔化す段階は過ぎた。
外では北門見張り塔の鐘がひとつ鳴り、坂の下から荷車の軋みが続いた。食堂前広場へ回る卵籠の擦れる音、その向こうで鍛冶場の槌が二度返る。西洗い場の脇からは、朝のうちに靴だけ温めに来た夜番の兵が笑う声まで混じった。前なら、どれかひとつ通せばどれかひとつを止めた音だ。いまは全部が同じ細流にぶら下がっている。
「今日でやる」
私は石枠の継ぎ目へ指を入れた。
「ここを本で締めないと、次の冬に全部遅れる」
アルノルトが床下へ降ろした梃子棒を受け直す。横ではベルンが麻縄の輪を確かめ、ミアとネラは鍛冶場から届いた留め金を濡らさない順に布へ並べていた。白い細板には、もう『見習い札』だけでは足りなくて、『見習い卓』『水門班』『洗い場枝』と三枚増えている。今朝その板へ新しい刻みを書いたのは、王都から来た見習いの少年だった。昨夜の月次照合便で、ハンナの控え二通と一緒にこの砦へ着いた。
少年はまだ石粉だらけの床へ膝をつくのに慣れていない。けれど、ミアが顎で示した場所へすぐ板を差し込んだ。
「王都の西棟、今月も乾いてるって」
肩袋から抜いた控えをミアが振る。
「第二接合部、桶ゼロ。ハンナが『見出しそのまま』って書いてきた」
「ならこっちも負けられない」
私は石枠左のひびへ銀の筆先を当てた。応急で起こしてきた線が、朝の冷えで細く鳴く。今日は縫うだけじゃない。石をいったん浮かせ、鍛冶場で打たせた留め金を噛ませ、石灰灰目地を詰め替え、板戸右下の痩せも削り直して受ける。二指開のまま守る水門から、四指まで安全に開ける水門へ変える。
「ミア、沈砂槽」
「見てる」
「ネラは冬囲い床の南枝。濁りが行ったらすぐ戻して」
「うん」
「王都の見習いは、刻み板。開き三、開き四、流量の間を書き続けて」
三人がばらけると、砦の朝も一緒に動いた。北門では若い馬が鼻を鳴らし、広場の南壁では吊り金具へ豆袋が掛かる。旧洗い場倉の軒下には、割れた樋、痩せた座金、欠けた留め金を並べる見習い卓ができていて、昼からはそこへ子どもと若い兵が集まる予定だった。読めるようになった場所名を、今度は直せる手へ渡す。学校なんて立派な言葉より、板と実物がある方が私にはしっくりくる。でも、戸板の上にミアが太い字で書いた『補修見習い小屋』は、思ったより悪くなかった。
「上げるぞ」
アルノルトの声で梃子棒が持ち上がる。石枠がわずかに浮き、古い目地がぱきりと割れた。そこへ私は筆を差し入れ、ひびの縁だけを起こす。ベルンが麻縄で重みを受け、鍛冶場の留め金が乾いた音で噛んだ。ネラが南枝側から「まだ濁りなし」と叫び、ミアが沈砂槽の縁を叩いて返す。流れは落ちていない。いける。
石灰の匂いが床下へ広がった。王都から来た見習いが咳をこらえながら刻みを書く。開き二、据え直し。開き三、鳴き止み。私は板戸右下の痩せを薄く削り、最後に銀線をひと筋だけ通した。継ぎ縫いは派手な音を立てない。ただ石が、ここへ戻るのが当然だったみたいに静かになる。
「四指」
「開ける」
梃子棒がもう半段入る。次の瞬間、沈砂槽へ落ちる水の音が一段深くなった。西洗い場の石槽が先に鳴り、そのあと鍛冶場側から短い歓声が返る。冷し槽の縁で待っていた職人が、二つ目の桶を持ち上げたのだと分かる。さらに遅れて、簡易浴場の壁管から湯気が細く伸びた。夕刻まで待たなくても、朝の泥をひとつ落とせる量だ。
ミアが駆け戻ってきた。頬に石灰をつけたまま笑っている。
「西洗い場、二つ目の槽も使える!」
「冬囲い床は?」
と聞く前に、ネラが南から走ってきた。
「青い札の列、ぜんぶ濡れてる。枯れてない」
青い札。冬囲い床で育てた薬草苗を、今朝はじめて広場の端へ並べている。前は夜の鍋へ刻む青葱だけで手一杯だった場所だ。
北門見張り塔の鐘がもう一度鳴った。今度は荷車の入りだけじゃない。月次便の返り荷と、見習い二人の到着を知らせる合図だ。広場の向こうでは、修理待ちの鋤先と刃欠け鎌が仮台へ掛けられ、物置あがりの布屋根の下では、補修見習い小屋の戸が開いた。王都の見習いが刻み板を抱えたままそちらを振り向き、ミアがその背を押す。
「行くよ。午前は水門、午後は割れた樋」
「あたしが教えるの?」
「さっき沈砂槽の音、先に分かったでしょう」
ミアは一瞬だけ目を丸くして、それから細板をひったくるみたいに受け取った。肩袋の口から、『西棟第二接合部 夜番見習い』の古い札が少しだけ見える。王都で覚えた刻みが、第七砦の朝へそのまま混じっていた。
私は床下から這い出て、濡れていない石へ立った。食堂前広場には、籠、豆、刃物、薬草苗、湯気、人の声が、前みたいに互いを押し合わずに並んでいる。北門から来た荷は坂で止まらず、西洗い場の水は桶で奪い合わず、補修見習い小屋の軒下では、まだ直せる古い部材が朝日を弾いていた。
アルノルトが梃子棒を壁へ立てかける。
「足りるか」
「まだ増やせます」
答えると、彼は私の袖口についた石灰を親指で払った。仕事の邪魔になる位置じゃない。けれど、その手つきはもう司令官が部下の泥を払うものではなかった。
「なら、次は」
「北門の手洗い樋」
私は広場の端で並ぶ小さな背を見た。
「見習いが増えたから。泥の手で板を触らせたくない」
彼は短く頷く。
「昼までに木を出す」
その返事の速さが、いちばんよく直ったものかもしれないと思う。けれど口には出さない。代わりに私は、四指まで開いた第一水門の音をもう一度聞いた。
雨漏りを待つだけだった砦は、朝いちばんに水と人を迎えにいく場所へ変わっていた。




