第四十話 私の居場所
見映え優先の任命案は、昨夜から西棟第二接合部で残っている一滴を止めるためではなく、濡れた回廊の上へ乾いた肩書だけを先に置きたがる。
朝の西棟裏階段を上がると、桶はまだ二つ残っていた。けれど昨夜までと違って、侍女は裾を摘ままずに真ん中の石を歩いている。布箱の底も乾いていた。残っているのは、梁裏のいちばん細い継ぎ目から三呼吸に一度だけ落ちる、意地の悪い滴だった。
私は足場の下で止まり、梁裏の薄板を見上げた。夜の冷えで木が少し縮み、水が痩せた継ぎ線へ寄っている。昨日戻したのは昼の流れだ。夜の冷え方までは、まだ板へ残っていない。
「ミア、見習い札」
資材庭の板の下で、ミアが白い細板を二枚抱えて駆けてきた。後ろには、昨夜から足場へ上がっていた若い技師がいる。目の下は青いが、手元はもうふらついていない。
「一枚はこの子へ。もう一枚はお前」
「あたしも?」
「王都と第七砦で取るって、昨日決まったでしょう」
私は細板へ炭で短く足した。
『西棟第二接合部 夜番見習い』
若い技師の胸へ一枚、ミアの肩袋へ一枚。二人の視線が、同じ梁裏へ上がる。
「昼の滴と夜の滴は、落ちる理由が違う」
私は桶の縁を指で鳴らした。
「昼は流れが多すぎる。夜は冷えた木が痩せる。だから夜番は、滴の数じゃなくて落ちる間を見ます。三呼吸が四呼吸に延びたら、板が持ってる。逆に二呼吸へ詰まったら、梁裏へ上がる前に樋側の細溝を見て」
ミアがすぐ樋側を覗き込み、若い技師が足場の一段目へ手を掛けた。ハンナは回廊の壁へ新しい小板を結びつけ、刻みを書き始める。夜番一刻目。滴三呼吸。樋側溝、半詰まりなし。
私は銀の筆で梁裏の継ぎ線をひと筋だけ起こした。昨日よりずっと細い仕事だった。裂け目を縫うというより、痩せた木肌へ夜の逃げ道を思い出させるだけの線だ。
「そこ、薄板の端を半指だけ上げて」
「半指」
「上げすぎると昼の流れが戻ってくる」
若い技師が板を受け、ミアが下から木片を差し入れる。私が継ぎ線を押さえると、最後の一滴が梁裏でふらつき、そのまま細溝へ吸われた。桶の底へ落ちる音が止まる。
回廊を抜けようとしていた侍女が、足を止めた。
「もう、避けなくていいんですか」
「午前のうちは桶をひとつだけ残します」
ハンナが刻み板へ次を書き足す。
「布箱の底、昼まで乾き確認」
侍女は布箱を抱え直し、そのまま中央をまっすぐ抜けた。裾は石へ擦れるだけで、濡れ色を増やさない。後ろの湯桶持ちも止まらない。半間ぶんの回廊が、ようやく回廊の顔へ戻った。
王の使いが来たのは、そのあとだった。場所は謁見の間ではなく、旧保全部詰所。濡れた綴りを吊っていた壁輪の下へ、乾いた机がひとつ置かれている。王、クラウス、セラフィナ、ユリウス。昨日までなら、ここへ私は呼ばれる側だった。
机の上には、昨夜アルノルトへ預けた任命案が戻っていた。
『王城保全部筆頭技師 リネット・アルヴァ』
王が紙ではなく、私の濡れていない袖を見た。
「西棟第二接合部は」
「最後の一滴も樋側へ戻しました。夜番刻みも作りました。昼の終わりに桶を外せます」
クラウスが綴りを開く。
「今朝から、見習い札を二枚出しています。夜番刻みも場所名のまま残した」
王はそこで任命案を指先で押した。
「残れ。保全部の筆頭に据える。元の卓も戻す」
元の卓。その言葉だけは、少し遅れて胸へ入った。王都の石も、紙の匂いも、旧詰所の壁輪も、嫌いになったわけではない。けれど机の縁へ指を置いた瞬間、先に浮かんだのは西棟ではなかった。第七砦の第一水門だ。石枠左の鳴きと、まだ本補修へ入れていないあの古い枝線。
「お受けしません」
ユリウスが息を呑み、セラフィナの杖の石突きが床を打った。けれど王は眉ひとつ動かさない。
「理由を聞こう」
「私ひとりを王都へ戻しても、また同じ机へ詰め込まれます。昨日まで潰されていたのは、肩書じゃなくて場所名です」
私は今朝書いた見習い札を机へ置いた。
「王城保全部は、ここへ残る手で回してください。ハンナの照合、今朝の若い技師の夜番、ミアの見習い札。そういう手を増やしたい。私は第七砦へ戻ります」
クラウスが目を細める。
「なら、王都側はどう繋ぐ」
「月ごとに照合板の控えを二通。見習い札は王都と第七砦で往復。壊れた場所の名を潰さないなら、必要な時は来ます。でも所属は変えません」
セラフィナが小さく息を吐いた。
「呼び戻すための任命ではなく、往復するための線に変えるのね」
「ええ。戻るんじゃない。繋ぐんです」
王はしばらく黙って、それから任命案を裏返した。空いている面へ、クラウスへ短く言う。
「書き直せ。第七砦所属のまま、王城保全部との月次照合と見習い交換を許可する」
紙の向きが、そこで変わった。私を王都へ留める札ではなく、王都と第七砦を往復させる札になる。ユリウスは何も言わなかった。言い返すより先に、戻らないという事実の方が乾いて机へ残ったのだと思う。
話が終わると、人は順に出ていった。クラウスは書き直しの文面を抱え、セラフィナは神殿側の見習い札も出すとハンナへ伝え、ユリウスは一度だけ西棟側の回廊を見てから目を逸らした。
詰所の戸口に残ったのは、私とアルノルトだけだった。
彼は外套の内側から、昨夜と同じ形の紙を出した。今度は乾いたままではない。王の新しい文面が裏へ入っている。
「返事、早かったな」
「遅らせると、また誰かが勝手に決めます」
彼はそこで少しだけ口元をゆるめた。笑った、というより、固い木釘がようやく合ったときの顔に近い。
「お前が王都を選ぶなら、それでも止める気はなかった」
私は紙を受け取って、戸口の外を見た。資材庭では『臨時保全部受付』の板の横で、ミアが見習い札を掛け直している。西棟側へ向かう若い技師の背中は、昨日より迷わない。王都にも残したい手はある。けれど、私が次に浮かべる修繕箇所は、やっぱり第七砦だった。
「選びませんよ。あそこには、まだ後回しにしてる音が山ほどある」
アルノルトが一歩だけ近づいた。いつもの短い命令を出す前の間だった。
「なら聞く」
彼の声は低いまま落ちてきた。
「君の仕事が生きる場所で、隣に立ちたい」
それは、守るとか連れていくとかいう言い方じゃなかった。北柵で時間を稼いだ夜も、水門を二指で止めた朝も、当番板を赤と黒へ割った日も、ずっとそうだった人の言葉だった。
私は任命案を折り、代わりに点検簿の切れ端を一枚抜いた。炭筆で新しい見出しを書く。
『第一水門 石枠本補修』
それを彼へ差し出す。
「隣に立つなら、まずこれです。梃子棒と、朝いちの人手を二人」
彼は切れ端を受け取り、即答した。
「通す」
私はようやく息を吐いた。肩の力が抜けるのと一緒に、彼の空いていた左腕へ指先だけ触れる。鎧でも剣帯でもない、仕事の外で初めて触る場所だった。
資材庭では、新しい紙がもう揺れている。王都にも残す線があり、第七砦へ持ち帰る線もある。そのどちらも、もう私ひとりの机へは戻らない。
次に直す場所は、決まっていた。




