第四十二話 雨の日の約束
婚約の書付が司令部の引き出しに入って七日たっても、壊れかけの北門の手洗い樋は、雨のたび同じ場所へ泥を落とす。
朝から降り続く細い雨で、北門の石は鈍く光っていた。坂を上がってきた荷車の車輪が泥を跳ね、軒下の水受け桶の縁を叩く。継ぎ場の案内板は読めるのに、その手前で人が一度もたつく。濡れた袖を見て、手洗いを諦めるからだ。
私は軒下へしゃがみ、欠けた樋の曲がりを指でなぞった。手洗い桶の上へ落ちるはずのない雨筋が、裂けた継ぎ目から内側へ戻っている。そのまま桶をあふれた水が板台の脚を濡らし、泥の筋を控え小屋の戸口まで引いていた。
「洗えば泥は落ちるんですがね」
ベルンが水桶を持ち上げ直しながら言う。
「そのあとで袖が濡れる。結局、門銭板も欠け札も泥の手で触ることになる」
控え小屋の戸口脇では、ミアが濡れた板を布で拭いていた。今朝書いた『見習い先に手洗い』の字の下だけ、指の跡で黒く曇っている。ネラはその横で、洗った手と洗っていない手の印を比べるみたいに板を見ていた。
「昨日のうちに切っておいて正解でした」
私は立ち上がって脚立へ手を掛けた。
「雨が降ると、どこへ戻っているかよく分かる」
「祝いの菓子が残ってるうちに働かせる顔じゃないな」
下からアルノルトの声が返ってくる。彼は片手で脚立の脚を押さえ、もう片方で油紙を挟んだ板を抱えていた。図面というほど立派なものじゃない。昨夜、私が控え小屋の裏で切った寸法の走り書きだ。けれど彼は、婚約の書付より先にそちらを持ってきた。
「菓子は逃げません。雨は待たないので」
「知ってる」
脚立を上る。軒先のすぐ下は、思ったとおりだった。樋の口が半指だけ内へ痩せ、継ぎ目の留め金もひとつ浮いている。これでは屋根から落ちた雨がまっすぐ外へ行かず、手洗い桶の上へ戻る。洗うための場所が、洗えない理由を増やしていた。
私は上から声を落とした。
「ベルン、受け皿の石を右へ半尺。ネラはその横へ簀の子」
「はいっ」
「ミア、板をもう一枚。『洗ってから触る』だけじゃなくて、『洗った手はこっち』も要る」
「分けるの?」
「分けないと、きれいな手がまた泥を踏む」
下で音が散った。ベルンが石をずらし、ネラが鍛冶場の余り板を並べ、ミアは舌を出しながら新しい板へ字を置く。王都から来た見習いの少年も、今日は見習い卓ではなく樋の下へ呼んだ。割れた樋を実物で見せる方が早い。
「見て」
私は欠けた曲がりを指先で弾いた。
「ここが内へ痩せると、水はまっすぐ落ちない。手洗い桶へ戻る。戻れば袖が濡れる。濡れれば、みんな桶を避ける」
少年が真剣な顔で頷く。ミアはもう地面の泥筋を見ていた。
「だから板台の脚まで汚れる」
「そう。壊れたのは樋だけじゃない。流れ方です」
私は銀の筆で裂けた縁だけを軽く起こし、アルノルトへ手を下ろした。
「留め金」
「ある」
渡されたのは、鍛冶場で打ってもらった細い留め金だった。昨日、第一水門のあとで切ったものだ。私はそれを痩せた継ぎ目へ噛ませ、外側へほんの少しだけ勾配を戻した。下ではアルノルトが、私の言う前に油紙の板へ次の寸法を書き足している。
「受け皿、もっと右」
「半尺と三寸」
「ええ」
その返事の速さが、いまだに少しだけ胸へ残る。言葉を探す時間じゃなく、次の手がもう同じ雨の下にある感じがするからだ。
留め金が噛む。継ぎ目の裂けが閉じる。けれどそれだけでは足りない。私は樋口の内側へ薄板を一枚差し込み、戻り水が内へ逃げないよう鼻先を長くした。
「ベルン、流して」
下から水桶の一杯目が来る。樋を走った水は今度こそ外へ滑り、手洗い桶の上ではなく受け皿の石へ細く落ちた。ネラが置いた簀の子の隙間を抜け、泥を踏まずに脇の溝へ消える。控え小屋の板台の脚は濡れない。戸口の石にも新しい濁りが広がらない。
ミアがすぐ板を掛けた。
『洗う前』
『洗った手』
矢印つきだ。字は少し太い。でも雨の日の板は、それくらいでちょうどいい。
「もう一杯」
私は言い、今度は自分で手洗い桶へ水を落とした。
桶の縁を越えた水は、さっきまでみたいに内へ戻らない。外へ落ち、簀の子の下を抜ける。ネラが泥のついた手をそっと差し入れ、洗ったあとで右側の板へ立った。濡れた指先を見ていたミアが、そのまま補修見習い小屋へ渡す板を受け取る。板の端に泥はつかない。
「ほんとだ」
ネラが手を開いた。
「今度は足の下がぬるぬるしない」
そのとき、坂の下から来た薬草売りの娘が、軒下で立ち止まった。いつもなら桶を避けてそのまま広場へ抜ける子だ。けれど今日は、ミアの板を見てから手を洗い、右側の乾いた板へ移った。そのまま濡れていない指で薬草苗の札を持ち上げる。
「字、消えない」
「消したくないから直したの」
ミアが胸を張った。
北門の流れが、そこでひとつ途切れなくなった。荷車は継ぎ場へ、修理預かりは南壁の仮台へ、見習いは補修見習い小屋へ、そして板へ触る前の手は、ちゃんと桶を通る。たった半間ぶんの軒下なのに、朝のもたつきが消えると門全体が軽くなる。
私は脚立を下りた。石の上へ降りた途端、アルノルトが黙って手を出す。滑るから、ただそれだけの顔で。けれど婚約の書付が入ってからは、その「ただそれだけ」が少し違う重みを持つ。
「終わりませんね」
私が言うと、彼は脚立を畳みながらこちらを見た。
「何が」
「婚約しても、結局は樋です」
「減らす気だったのか」
「少しは」
「無理だな」
即答だった。私は笑ってしまう。
「でしょうね」
雨はまだ止まない。けれど北門の下では、さっき洗った手で王都見習いが割れた樋の欠けを持ち上げ、ミアがその横で『欠け 内戻り』と板へ書いている。ベルンは水桶の置き場を半歩ずらし、ネラは洗った手の子から順に中へ通していた。誰も袖を濡らした顔をしていない。
アルノルトが畳んだ脚立の上へ、油紙の板を置いた。
「約束しろ」
「何をですか」
「壊れた音を見つけたら、ひとりで抱えるな。先に呼べ」
私は雨の筋を見上げた。屋根から落ちる水は、もう手洗い桶へ戻らない。外へ流れ、洗う場所と歩く場所を分けている。さっき直したばかりの細い勾配のことを思う。ひとりで持たせるより、流れる先を先に決めた方が、ずっと長く保つ。
「そちらも」
私は言った。
「先に鳴いたら、黙って我慢しないでください。壁でも樋でも、自分でも」
彼は少しだけ目を細めた。雨の日の見張りより静かな顔だった。
「分かった」
「晴れの日も」
「夜でも」
「では、それで」
約束はそれだけだった。抱き締めるとか、指輪を見せるとか、そういう形じゃない。でも、私たちにはその方が合っている。先に見つけた壊れかけを隠さないこと。同じ雨の下で、図面と脚立と点検簿を別々に持つこと。
私は濡れていない頁を開き、炭筆で次の見出しを書いた。
『北柵西杭 根巻き替え』
横から覗いたアルノルトがもう頷く。
北門では、洗った手の子が乾いた板へ次の札を掛けていた。雨はまだ細く降っている。けれど、落ちた水の行き先も、私たちが次に向かう場所も、もう迷っていなかった。
ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
壊れた場所を直す話として始めたこの物語を、最後まで「直し続けるふたり」の約束で締められて、ほっとしています。
派手な勝利よりも、手を洗いやすくなることや、雨の日に足元がぬかるまないことの積み重ねを書きたくて続けてきました。リネットたちの仕事ぶりを楽しんでいただけていたら嬉しいです。
この物語はここで一区切りですが、北辺の暮らしと修繕はこれからも続いていきます。最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。




