第四話 直す順番
先送りされた補修は、朝になると寝台の数でばれる。
南兵舎の二列目中央六床は、夜明けの薄い光の中でも空いたままだった。昨夜、毛布を寄せ合って寝た一列目と三列目では、起き上がった兵たちの肩が濡れていない。閉鎖した六床の真下に置いた桶だけが、まだ一定の間隔で水を受けていた。
私は桶の縁を指で叩いた。半分より少し下。夜明けまで保つ、という見立ては外れていない。
「眠れたか」
振り返ると、兵舎の入口にアルノルトが立っていた。扉は昨夜の位置で閉まり、足元へ冷たい風を落としていない。
「中央六床以外は使えています。次は、ここを今夜も保たせる順を決めます」
私は点検簿を開き、頁の上へ四本の線を引いた。
生存。
水。
食糧。
防衛。
「まず砦を一周します」
アルノルトは頷いたが、返事の前に兵舎の梁を一度見上げた。
「北面防壁も見ろ。見張りからひびの報告が出ている」
「はい。ただし、見る順は私が決めます」
彼の眉がわずかに動いた。そのまま何も言わず、先に外へ出る。試している歩幅だった。
最初に向かったのは井戸だった。
中庭の石畳には、昨夜の雨がまだ黒く残っている。井戸の縁石は片側が欠け、木蓋は半分ずれて、濡れた縄が泥の筋を引いていた。縁の外側には細い流れ込みの跡が三本ある。高い場所から落ちた雨水が、石を伝ってそのまま井戸口へ寄った線だった。
桶を上げると、縄の毛羽が手袋へ刺さった。
「雨の翌朝は、いつもこうですか」
近くで桶を洗っていた兵が答えた。
「底に砂が沈む日があります。飲めなくはないが、鍋に入れると舌に残る」
私は桶の内側へ鼻を寄せた。今朝はまだ土の匂いが薄い。けれど、この蓋では次の雨で流れ込みを止められない。
点検簿の水の欄に、仮蓋、流し溝、縄交換と書く。
次は穀倉だった。
扉を開けた途端、冷たい穀の匂いに、湿った藁の甘さが混じった。床板は乾いて見えるのに、踏むと靴裏へぺたりと吸いつく。壁際の通気口は内側から泥で半分埋まり、いちばん下の麻袋だけ色が濃い。
私はしゃがみ、端の袋を少し持ち上げた。裏面がじっとり冷たい。角を押すと、中の麦がさらさら崩れず、固まりでずれた。
「この列、下から何段目ですか」
「五日前に積み直してから、そのままです」
兵站係の兵が答えた。声に言い訳はなかった。ただ、人手が足りない現場の声だった。
「あと三度降れば、下二段は先に炊くしかなくなります」
私は通気口の泥を爪先で蹴った。乾いた表面の下から、昨夜の湿り気を含んだ黒い塊が崩れる。
生存の次に食糧を置きたくなる気持ちは分かる。けれど水が崩れれば、鍋も洗浄も止まる。私は書き直さず、そのまま食糧の欄へ濡れ袋の積み替え、通気口掘り起こしと記した。
最後に北面防壁へ上がった。
見張り台へ続く石段の途中からでも、ひびはよく見えた。胸の高さの欄壁に一本、白く乾いた筋が走っている。兵が不安になるひびだった。遠目に目立つし、砦の顔に入っている。
アルノルトがその前で止まる。
「ここだ。皆、最初にこれを指す」
私はひびの縁へ指を差し入れた。石粉は落ちる。けれど内側の芯まで湿っていない。昨夜広がったものではなく、前からあった筋へ雨が入って表面を洗っただけだ。
「今日じゅうに崩れる割れではありません」
「見た目は最悪だ」
「ええ。だから測って、広がり方だけ先に押さえます。今ここへ人を貼ると、今夜また寝台が減ります」
アルノルトは腕を組んだ。
「ここは辺境の砦だ。防壁より兵舎を先にするのか」
「はい」
声が思ったより硬く出た。けれど引っ込めなかった。
「濡れた兵は二晩で咳をします。井戸へ泥が入れば腹を壊します。湿った麦は、見張り番の前に鍋で人数を減らします。壁は兵が立って初めて壁です」
風が、ひびの入った欄壁を舐めて抜けた。
アルノルトはすぐに返さなかった。代わりに、私の点検簿へ目を落とす。
「順を言え」
私は頁を彼に向けた。
「一番は南兵舎です。樋の交換、屋根谷の開放、本支柱への差し替え。二番は井戸。仮蓋を作って、流れ込みを外へ逃がし、縄を替えます。三番は穀倉。通気口を掘り起こして、下二段の袋を木台へ上げる。四番で防壁です。石の開きを測って、日没前に結界線の点検を入れます」
「北面の兵は納得しないぞ」
「なら、炊事場へ連れて行ってください」
階下へ戻ると、ちょうど朝食の仕込みが始まるところだった。大鍋の脇には、今朝運び出した麦袋が二つ置かれている。片方は上段から下ろした乾いた袋、もう片方はさっき私が触った下段の袋だ。
私は兵站係に断って、濡れた方の口を少し開けた。中の麦が、ざらりではなく、重くまとまって鍋縁へ落ちる。塊のまま落ちた粒が湯へ触れ、鈍く沈んだ。
「これを毎朝食べる兵と、乾いた寝台で起きた兵を、同じ数だけ壁へ立たせますか」
炊事場にいた何人かが黙った。鍋番の兵が、濡れ袋と乾いた袋を見比べてから、アルノルトの方を向く。
「司令官殿。下の袋は、今日は回した方がいい」
「回すだけでは足りません」
私は続けた。
「濡れ袋を先に炊くなら、今朝のうちに通気口を開けて、次の袋を濡らさない手当てが要ります。南兵舎も同じです。昨夜保ったからこそ、今朝の順が作れます」
アルノルトは鍋の湯気を見たあと、外にいた伝令兵を呼んだ。
「南兵舎に六人。井戸に二人。穀倉に四人回せ。北面は測りだけ先にやる」
言い切ってから、私を見る。
「お前が立てた順だ。昼までに形にしろ」
そこからは、人の足音が順番そのものになった。
南兵舎では、昨夜開けた排水へさらに泥を掻き出し、折れた樋の下へ仮の導き板を足した。井戸では、外した古い扉板を木蓋へ切り、縁石の外へ浅い逃がし溝を掘る。穀倉では、槍箱の空き木枠をひっくり返して台にし、下二段の袋を半日だけでも床から離した。
昼前、もう一度穀倉へ入ると、通気口から細い風が戻っていた。床に張りついていた湿り気が少し引き、朝に触った袋の裏も、冷たさが一枚薄くなっている。
炊事場の鍋から立つ湯気には、いつもの湿った酸い匂いが混じっていなかった。椀へよそわれた粥は余計な水で伸びず、匙を入れると粒がばらける。
井戸のそばでは、新しい縄に替えた桶が石へぶつからずに下りていった。蓋はまだ仮の板だが、口の半分を塞いでいるだけで、さっきまで見えていた泥筋が途切れている。
南兵舎へ戻ると、中央六床はまだ閉鎖のままだった。それでも一列目の足元へ流れていた細い水が消え、昨夜壁際へ積んだ毛布の下まで湿りが伸びていない。若い兵が、干していた寝具を指でつまんでから息を吐いた。
「今夜も外で寝なくて済みそうだな」
私は桶の位置を半歩ずらし、落ちる滴の筋を見直した。
「今夜を越えたら、次は支柱を替えます」
背後で紙の鳴る音がした。アルノルトが、私の走り書きを読み返している。
「夕刻までに、必要な釘、板、縄、人数を全部出せ」
彼はそう言って、砦の当番板へ私の頁を短剣で留めた。
板の下では、穀倉から戻った兵がまだ麦袋の位置を直している。井戸の新しい縄は、昼の光の中で乾いた毛を立てていた。私は点検簿の次の頁を開き、南兵舎の項目の横に、支柱四本、樋一条、釘三十六本と書き足した。




