第三話 天井が落ちる夜
壊れかけの漆喰は、落ちる前に粉を吐く。
点検簿の上に落ちた白い欠片を、親指で潰した。表面だけが濡れた壁なら、もっと軽く割れる。これは内側まで水を抱えて、重さが一点へ寄ったときの崩れ方だ。
「根拠は三つです」
私は欠片を指先で示した。
「桶が昼はひとつ、今は三つ。染みの縁が膨らんでいます。梁の音も、雨の打音とは別に遅れています。二列目の上で水が溜まり、漆喰ごと落ちる直前です」
アルノルトは天井ではなく、私の顔を見た。
「どれだけ空ければいい」
「二列目の寝台、六床分。左右の通路もです。今すぐ」
近くにいた兵が眉をしかめた。
「六床も空けたら、寝る場所がなくなる」
「潰れた寝台の上よりましです」
返した直後、染みの中心から細い水筋が一本、垂れた。さっきまでぽたり、と落ちていた滴とは違う。糸みたいに切れず、まっすぐ布団の上へ伸びていく。
アルノルトが声を張った。
「二列目を空けろ。毛布と私物は一列目と三列目へ寄せろ。遅い者から外で寝ろ」
兵たちの動きは最初の一息だけ鈍かった。けれど司令官の声が二度飛ぶころには、寝台の上の荷が腕の中へ移り、まだ乾いていた毛布が通路を流れていく。桶を抱えた若い兵が、私の足元で止まった。
「どこへ置く」
「その一番濃い染みの真下に、いちばん大きい桶を」
桶が据わった瞬間、ぱし、と乾いた音がした。
白い漆喰に、指先ほどの亀裂が走る。
私は銀の筆を抜いた。
「何をする気だ」
「落ちる場所を決めます」
答えて、筆先を亀裂へ差し込んだ。押し広げるのではなく、縁をなぞって一番薄いところを探る。そこへ小さく穴を開けると、次の瞬間、天井裏で溜まっていた水が一気に喉を鳴らした。
どぶり、と桶に落ちる。
茶色く濁った水だった。藁くずと黒い砂が混じり、夕方から寝台へぽたぽた垂れていた分とは重さが違う。
「うわっ」
桶を抱えていた兵が半歩下がる。直後、さっきまで枕が置いてあった寝台の上へ、拳大の漆喰が落ちて布団を叩いた。湿った音がして、白い粉が跳ねる。
私は天井を見上げたまま、必要なものを口にした。
「梯子。縄。折れた寝台の脚を四本。灯りを二つ。細い棒が一本あれば助かります」
「折れた寝台だと?」
「今夜だけ梁を支えます。壊れたものでも、まっすぐな脚は使えます」
アルノルトが振り返る。
「聞いたな。資材置き場の廃寝台を持ってこい。槍庫から古い訓練槍も一本抜け」
雨脚はまだ強い。屋根の上で打つ音が、さっきより近く聞こえる。私は桶の水位を確かめてから、梯子を借りて壁際の点検口へ手を伸ばした。屋根裏は、梁と梁の間に身を滑らせて進むしかない。
「灯りを」
下から差し出された角灯を受け取ろうとしたとき、先に伸びてきた手があった。アルノルトだった。
「俺が持つ。お前は両手を空けろ」
私は点検口へ体を押し込んだ。
屋根裏は黴と濡れ藁の匂いで息が重い。梁の上には古い埃が泥になって張り付き、角灯の光を受けて鈍く光っている。音の近い方へ膝で進むと、すぐに原因が見えた。
屋根の勾配が合わさる谷の部分で、集水樋が真っ黒に膨れていた。落ち葉、鳥の羽、崩れた漆喰の欠片。全部が詰まり、水の逃げ場を失った分だけ、脇の梁へ染み込んでいる。梁の端には、誰かが昔あてた木片の補修が半分剥がれたまま残っていた。
私は梁へ手を当てた。
冷たい。しかも表面だけではなく、芯まで重い。
「訓練槍を」
下からアルノルトが棒を差し上げる。私はそれを受け取って、集水樋の出口を探った。壁際に埋まった陶管の口が、泥に塞がれている。槍の石突きを押し込むと、最初は柔らかい抵抗しかない。もう一度、肩を入れて突く。
ぐずり、と鈍い感触が崩れた。
次の瞬間、溜まっていた水が一気に走った。屋根裏の奥でごぼりと音がして、外壁の向こうへ滝のような水音が落ちる。さっきまで梁へにじんでいた冷たさが、少しだけ薄くなった。
「流れました」
下から、兵たちのどよめきが返る。外へ回っていたらしい誰かが、壁の外で声を上げた。
「司令官! 石段の脇へ水が出てきた!」
死んでいた排水が、生き返ったのだ。
けれど梁の割れは残っている。私は這って戻り、裂け目の真下へ折れた寝台の脚を立てた。四本を二本ずつ束ね、縄で縛り、梁へ当てる。木と木の間に端切れ布を噛ませて滑りを止め、最後に銀の筆で裂け目の縁へ細く魔力を流した。
継ぎ縫いは、壊れていないものを強くする魔法ではない。
今ある形を、今夜だけ保たせるための手だ。
濡れた木の呼吸を探って、裂けた繊維を少しずつ噛み合わせる。深くは入れない。明日の朝には、乾いた材と交換する前提で止める。欲張れば、かえって朝の剥がしが重くなる。
筆先を引くたび、梁の軋みが短くなる。
最後に軽く叩くと、さっきまで腹へ響いていた鈍い震えが、細いきしみに変わった。
「下へ戻ります」
梯子を降りると、兵舎の空気が少し変わっていた。桶にはまだ水が落ちている。けれど落ちる場所は一か所にまとまり、二列目全部へ散っていた滴は止まっている。兵たちは濡れた寝具を壁際から外し、乾いている毛布だけを寄せ集めていた。
さっき文句を言っていた兵が、空いた二列目を見上げたまま訊いた。
「今夜、ここは使えるのか」
「二列目の六床は閉鎖です。一列目と三列目は使えます。ただし、中央寄り二床は壁から離して」
「理由は」
「まだ梁が水を吐き切っていません。跳ね返りで足元が濡れます」
兵は短く頷いて、無言で寝台を引いた。濡れた木が床を擦る音がする。隣では別の兵が、桶の脇へ雑巾を厚く敷き、飛び散る泥水を受ける準備をしていた。誰にも頼んでいない動きだった。
アルノルトが桶の中を覗き込み、茶色い水へ指を入れた。指先を嗅いで、天井を見上げる。
「雨水だけじゃないな」
「集水樋に土と漆喰が詰まっていました。外壁の陶管も死んでいました。次に大雨が来れば、また同じ場所へ溜まります」
「今夜は」
「夜明けまでは保ちます。ですが明日、屋根の谷を開けて、腐った梁端を切り分けないといけません」
私は点検簿を開き、濡れていない頁へ走り書きをした。
南兵舎二列目六床、夜間閉鎖。
屋根谷の詰まり除去、外壁陶管再開通済み。
仮支柱四本、朝一番で交換。
書き終えた紙を破って渡すと、アルノルトは目を落としたまま受け取った。王都なら、ここで「後で見る」と言われて終わっていた紙だ。
彼はその場で読んだ。
「南兵舎の今夜の当番をひとり増やす。水位が桶の七分を越えたら起こせ」
近くの兵が「はっ」と返す。
「寝台は指示どおり詰めろ。閉鎖した六床には誰も戻すな。濡れた毛布は炊事場の火の脇へ運べ」
命令が飛ぶたび、兵舎の中で人の向きが変わった。
さっきまで桶の周りで立ち尽くしていた兵が、今は布団を肩に担いで走る。火鉢のそばでは、扉の隙間風が止まっているおかげで、細い炎が消えずに残っていた。濡れた靴下を干す縄が渡され、裸足の兵の足元から白い湯気が上がる。
二列目の中央は、まだ桶が水を受け続けている。
その両側では、寄せた寝台の上で兵たちが毛布を叩き、乾いている面を探していた。さっき漆喰が落ちた寝台は壁際へ退かされ、その空いた分だけ通路が少し広くなっている。
ひとりの年嵩の兵が、寝台へ手を置いてから私を見た。
「今夜、濡れずに寝られるのか」
私は桶に落ちる水の間隔を数えた。さっきまで途切れず落ちていた筋が、今は三つ数えるごとに一滴になっている。
「肩までは濡れません」
兵はそれ以上訊かず、毛布を広げた。布が木枠に触れても、水音はしなかった。
アルノルトが私へ乾いた布を一本寄越した。いつの間にか誰かに持ってこさせたらしい。
「手が冷えている」
受け取って初めて、自分の指先がかじかんでいることに気づいた。濡れた木へ触れ続けたせいで、爪の色が少し白い。
「ありがとうございます」
布で銀の筆を拭いながら、私は壁際の桶と閉鎖した寝台をもう一度見た。今夜は越せる。けれど、この砦はひと晩ごとに偶然を引き当てているだけだ。入口を止めたら天井が鳴り、天井を止めたら次は別の音が出る。
アルノルトも同じものを見ていたらしい。
「明日の朝、砦を一周しろ」
「はい」
「宿舎だけじゃない。井戸も、穀倉も、防壁もだ」
「見るつもりです」
彼は私の点検簿へ視線を落とした。
「直す順も出せ」
兵舎の奥で、閉まり直した扉が風に鳴らなかった。
桶の中へ落ちる滴はまだある。けれど、その手前の寝台にはもう水が走っていない。毛布をかけ直した兵が、寝返りの場所を確かめるように一度だけ体を沈め、それから天井ではなく火鉢の方へ足を向けた。
私は濡れた頁の端を押さえた。
「生きるのに必要な順で書きます」
アルノルトは短く頷いた。
その返事だけで、明日の朝に出す紙は、少なくとも読まれずには終わらないと分かった。




