第二話 左遷先は雨漏り砦
壊れかけの移送馬車は、王都の北門を抜けてから三度、同じ場所で軋んだ。
左の後輪だった。
石を踏むたび、車軸の根元から短く乾いた音が返る。油が切れた音ではない。水を吸った木がふくらみ、留め具が少し浮いたときの音だ。
向かいに座る護送役の兵が、鬱陶しそうに眉をひそめた。
「酔ったか、宮廷のお嬢さん」
「いえ。次の継ぎ場で一度止めてください。左後輪の留め具が浮いています」
兵は鼻を鳴らした。
「第七砦まではあと一日半だ。そこまで保てば充分だろう」
充分、という言葉を聞くたびに、私は胸の奥が少し冷える。
壊れかけのものは、保った時間ではなく、壊れた場所で勘定を払わせるからだ。
私は膝の上の点検簿を開き、王都を発つ前に文官から渡された異動書類を挟み込んだ。紙の端には雨粒がひとつ滲んでいる。馬車の天幕も、継ぎ目から細く漏っていた。
「第七砦は初めてか」
「ええ」
「なら覚えておけ。宿舎は雨の日に壁が鳴る。穀倉は床から湿る。井戸は鉄臭い。結界は月の変わり目ごとに脈を外す。技師は三人続けて辞めた」
ずいぶん親切な説明だった。
「皆、どれくらいで辞めたんですか」
「ひとり目は二十日。ふたり目は十一日。最後のは着いて五日だ」
「なるほど」
兵は苦笑いのようなものを浮かべた。
「怖くないのか」
「仕事が多いのは、むしろ助かります」
本心だった。
王都では、壊れる前の音を拾っても、報告書の上で止められた。けれど壊れた場所が隠れない砦なら、少なくとも優先順位だけははっきりしている。
夕方に雨が強くなったころ、北辺第七砦が見えた。
灰色の空の下で、防壁は濡れた羊毛みたいに重い色をしていた。門楼の角からは苔が垂れ、見張り台の樋は途中で折れて、石段へ滝のように水を叩きつけている。門の脇に積まれた砂袋は腹を割き、黒い泥を滲ませていた。
歓迎の鐘は鳴らなかった。
代わりに、砦門の上で外れた樋が、石段を打つ鈍い音だけが続いていた。
馬車を降りた途端、靴の裏に冷たい水が回った。石段の一段目が、すでに浅い川みたいになっている。
「宮廷からの結界技師だな」
声をかけてきたのは、門内で雨避けの外套を着た男だった。背が高いというより、立ち方に無駄がない。濡れた肩布の下から、壁際の荷運びも、番兵の交代も、ひと目で数えているような目をしている。
「本日付で着任しました。リネット・アルヴァです」
「アルノルトだ。第七砦の司令を預かっている」
それだけ名乗ると、彼は私の荷を見た。小さな鞄と、点検簿の束と、銀の筆。
「歓迎式はない。空いている部屋は旧記録室だけだ。寝具が乾いていれば運がいい」
「確認します」
「戻りの補給便は明朝出る。気が変わったら乗ればいい」
試すような言い方だった。
私は答える代わりに、門から兵舎へ続く通路を見た。樋から落ちた水が石段を伝い、そのまま兵舎の入口まで流れ込んでいる。扉は下端がふくらんで閉まり切らず、指二本分の隙間から風が吹き込んでいた。濡れた兵たちがそこを通るたび、床板へ泥と水を広げていく。中では火鉢の煙がうまく抜けず、白く低いところに溜まっていた。
「この樋、いつからですか」
私が訊くと、近くで濡れた外套を絞っていた兵が肩をすくめた。
「三週前だ。上まで登れる大工がいなくてな。桶を置いたが、追いつかん」
桶は置いてあった。
ただ、落ちてくる水の量に対して小さすぎる。しかも石段の脇、本来は排水が走るはずの溝は泥で埋まり、口だけが半分見えていた。
私はアルノルトを見た。
「梯子と、空の樽と、割れていない麻布はありますか。あと、細い釘を二本」
「着いたばかりだぞ」
「ええ」
「自分の部屋より先に、そこを直す気か」
私は開き切らない扉の隙間を見た。中で若い兵が濡れた靴を脱ぎ、冷えた足を火にかざしている。その踵から落ちた水が、床板の継ぎ目へ吸われていった。
「全員が通る場所です。ここが濡れたままだと、濡れたまま寝台へ戻る人が増えます」
アルノルトは少し黙った。
「半刻だ」
それだけ言って、近くの兵に顎をしゃくった。
ほどなくして、古い梯子と、半分欠けた雨樽と、使い古しの麻布が運ばれてきた。釘は二本、火打ちで炙ったせいか赤茶けている。充分だった。
樋そのものは交換できない。だから割れ目を立派に塞ぐより、水の行き先を変えた方が早い。
私は梯子をかけ、折れた樋の継ぎ目へ麻布を巻いた。銀の筆で布の縁へ細く魔力を通す。濡れた繊維が引き寄せられるように締まり、簡易の水路になる。先端は雨樽へ落とし、その下に埋もれていた石の排水口を靴先で掘り起こした。
泥は冷たく重かった。
三度ほど掻き出すと、詰まっていた落ち葉がまとめて外れ、樽から溢れた水がごぼりと喉を鳴らして流れ始める。
次に扉だった。
蝶番の周りの木が割れ、重みで少し落ちている。だから下端が石に擦れ、無理に閉めればさらに歪む。私は薪割り用の細い端材を一枚借りて扉の下へ差し込み、浮いた高さのまま銀の筆で割れ目を継いだ。完全な補修ではない。けれど裂けた木目が噛み合い、蝶番の釘がまっすぐ荷重を受ける位置へ戻る。
「閉めてください」
近くにいた兵が恐る恐る扉を押した。
今度は、きちんと閉まった。
さっきまで細く鳴っていた隙間風が止まる。火鉢の火がふっと背を伸ばし、床を這っていた煙がようやく上へ向かった。入口に溜まっていた水は新しい流れを失い、板の上に残った薄い膜だけが鈍く光っている。
濡れた靴を抱えていた兵が、扉と私を交互に見た。
「……閉まった」
「今夜だけです」
私は樋から落ちる水の筋を確認した。麻布の端はまだ保つ。樽も溢れていない。
「明日には樋の交換と、排水溝の泥上げが必要です。扉は下端がもう腐りかけているので、板を継ぎ足した方が早いでしょう」
「着いて半刻で、そこまで見えるものか」
アルノルトがいつの間にかすぐ後ろに立っていた。
「濡れている場所は、順番を隠しません」
彼は入口の床を見た。さっきまで石段から押し寄せていた水が止まり、兵たちが雑巾で追える量まで減っている。ひとりの兵が、濡れた外套を脱いだまま、火鉢の前でようやく肩を下ろした。
「旧記録室を使え」
アルノルトは腰の鍵束から一本抜いて、私に渡した。
「西側だ。まだましな屋根の下にある」
受け取った鍵は冷たかった。
「ありがとうございます」
「礼は早い。明日の朝、直す順を出せ」
「はい」
旧記録室は、乾いていると言うには埃が多く、使えると言うには紙が少なかった。棚は半分空で、残っている帳面は湿気で波打っている。けれど机があり、扉が閉まり、天井に新しい染みがなかった。それだけで充分だった。
荷を置いたあと、私はもう一度、南兵舎の通路へ戻った。
入口が止まると、別の音が聞こえるようになる。
ぽたり。
ぽたり。
今度は奥だ。二列目の寝台の上。桶が三つ、等間隔に並んでいる。水だけではない。染みの縁がふくらみ、白い漆喰が内側から押し出されていた。
私は一番外側の柱へ手を当てた。木の芯まで冷えている。表面だけではなく、奥で水を含んだ重さがじわりと残っていた。
「この桶、いつから増えました」
近くの兵が毛布を抱えたまま答えた。
「夕方からです。昼はひとつだった」
私は見上げた。
梁の継ぎ目が、雨音とは別の遅い軋みを返している。
背後で足音が止まった。アルノルトだった。
「司令官殿」
「何だ」
「南兵舎二列目、今夜のうちに半分空けてください」
「根拠は」
そのとき、染みの中心から白い欠片がひとつ剥がれ、私の点検簿の上へ落ちた。




