第一話 婚約破棄と、雨の匂い
「リネット・アルヴァ。君との婚約は、今夜をもって解消する」
王城西棟の回廊で、ユリウス・ヴァルトはそう告げた。
祝賀会の始まる半刻前だった。
彼は近衛騎士団の白い礼装に身を包み、胸には新しく授かった銀鷲章を留めている。窓硝子の向こうでは、夕立前の雲が王都の空を低く押し潰していた。防雨結界の外縁が、雷の光を受けて淡く青く瞬く。
私は抱えていた点検簿を胸に寄せた。
「理由を伺ってもよろしいでしょうか」
声は思ったよりも平らだった。
怒るべきなのだろう。泣くべきなのだろう。七年間の婚約を、回廊の途中で、しかも祝賀会の前に切り捨てられたのだから。
けれど私の耳は、彼の声よりも天井裏の水音を拾っていた。
ぽたり。
ぽたり。
石材の継ぎ目に水が溜まっている音だ。
「君は悪い女ではない。だが、俺は来月から聖女候補セラフィナ様の護衛騎士となる。聖女の傍らに立つ者が、宮廷結界保全部の女を妻にするわけにはいかない」
「保全部の女、ですか」
「地味だろう。君の仕事はいつも、ひび割れの記録、魔力管の掃除、古い術式の補修ばかりだ。セラフィナ様のように人々を照らす力とは違う」
彼の隣で、淡桃色のドレスをまとった少女が困ったように目を伏せた。
聖女候補セラフィナ。
神殿が推す新しい象徴で、光輪結界という華やかな魔法を得意とする。
その白い杖の先には、金の飾り糸がいくつも巻かれていた。
けれど、巻き方が逆だ。
装飾としては美しい。術式としては、負荷が逃げない。
私は視線を上げ、回廊の梁を見た。青白い結界線の一部が、細く濁っている。
西棟第二接合部。
昨日の点検で、再縫合が必要だと報告した場所だ。
「ユリウス様。西棟の防雨結界ですが、今夜の雨量には耐えられません。式典前に一時閉鎖を」
「まだ仕事の話をするのか」
「必要な話です」
「もう君のそういうところに疲れたのだ。何を見ても不具合、不備、危険。祝賀会の前にまで水を差すな」
水を差す。
その言葉と同時に、また一滴、天井から落ちた。
濡れた石の匂いが鼻を刺す。
その瞬間、頭の奥で別の記憶が開いた。
薄暗い機械室。
深夜二時の漏水警報。
赤字だらけの保全表。
「まだ持つだろう」と笑った上司。
「予算がない」と先送りにした営業。
そして最後に、壊れた設備の前で頭を下げる現場の人間たち。
ああ。
私は、知っている。
壊れる前の音を。壊れる前の匂いを。壊したあとで責任を探し始める人間の顔を。
前世の私は、設備保全会社で工程管理をしていた。
この世界に生まれ直してからも、結局やっていることは変わらない。
壊れるものを見て、壊れる前に止める。
それだけだ。
「リネット?」
私は息を吐いた。
胸の奥で、七年間かけて積もった何かが、静かに剥がれ落ちていく。
「分かりました。婚約解消をお受けします」
ユリウスは一瞬だけ目を見開き、それから満足げに顎を上げた。
「聞き分けがいいな。君にも、相応しい道があるだろう」
「ええ。あります」
ぱきり、と音がした。
天井の結界線に、氷のひびのような亀裂が走った。次の瞬間、銀の燭台の上へ水が落ち、火がじゅっと音を立てて消える。侍女が悲鳴を上げた。貴族たちが衣装の裾を抱えて後ずさる。
「な、何だこれは!」
「西棟第二接合部の破断です。三日前から軽微な漏水、昨日から術式濁り。本日午前、緊急補修申請を提出済みです」
「俺は聞いていない!」
「読んでいないだけです」
ユリウスの顔が赤くなった。
セラフィナが一歩前に出る。
「皆様、下がってください。私が張り直します」
彼女の杖先に、眩しい光が集まった。
私は思わず声を強めた。
「待ってください。そこは上塗りしてはいけません」
「大丈夫です。光輪結界は強い魔法ですから」
「強ければいい場所ではありません。今は基礎線が裂けています。太い魔力を流せば、周辺の継ぎ目まで――」
言い終える前に、光が放たれた。
白金の輪が天井へ広がる。
一瞬、雨音は消えた。貴族たちの顔に安堵が浮かぶ。
直後、回廊全体が震えた。
亀裂が枝分かれし、青い結界線が蜘蛛の巣のように割れていく。天井の三箇所から水が噴き、絨毯に茶色い染みが広がった。
外の雨が、本降りに変わったのだ。
「どうして……!」
セラフィナの顔から血の気が引く。
「負荷の逃げ道を塞いだからです」
私は点検簿を床に置き、髪に挿していた銀の筆を抜いた。
宮廷では笑われる道具だ。
魔法杖のように派手な宝石もない。刃物のような威圧感もない。ただ、細い銀の軸と、魔力を吸う白い穂先だけ。
けれど、ひびを縫うにはこれでいい。
「保全部、リネット・アルヴァ。西棟第二接合部、応急再縫合に入ります」
誰に許可を取るでもなく、私は筆を走らせた。
魔力を細く絞る。
糸より細く、髪より軽く。
裂け目の縁に沿わせて、古い術式の呼吸を探る。
ひと針。
水の勢いが鈍る。
ふた針。
白金の光輪に押し潰されていた基礎線が、青く息を吹き返す。
み針。
割れた結界が、縫い合わされた布のように静かに閉じていく。
太い魔法ではない。
人を驚かせる光でもない。
ただ、壊れる場所を見つけて、そこに必要なだけの手を入れる魔法だ。
最後の一筆を引いた瞬間、回廊の雨は止まった。
濡れた絨毯。
消えた燭台。
言葉を失った貴族たち。
その沈黙の中で、ユリウスだけが苦々しく口を開いた。
「……やればできるなら、最初からそうすればいいだろう」
私は筆先の水を払い、彼を見た。
「応急処置です。恒久補修ではありません。今夜中に三十二箇所の再縫合が必要です。加えて、セラフィナ様が先ほど流した魔力の影響で第三層の負荷が上がっています。祝賀会を続けるなら、西棟は閉鎖してください」
「指図するな」
「では、報告として残します」
私は床の点検簿を拾い上げた。
水に濡れて、表紙の端が反っている。けれど中の記録は無事だった。耐水紙にしておいてよかった。
「婚約解消の件ですが、正式な書類は明朝、署名いたします」
「当然だ」
「併せて、私から異動願いを出します」
ユリウスが眉を寄せた。
「異動?」
「北辺第七砦です」
近くにいた文官が小さく息を呑んだ。
北辺第七砦。
通称、雨漏り砦。
古い防壁と湿った兵舎と、何度直しても壊れる結界で有名な辺境の防衛拠点だ。技師が三人続けて辞め、補修予算は毎年削られている。
ユリウスが鼻で笑った。
「自棄になるな。あそこは左遷先だ」
「壊れているなら、仕事があります」
「王都に未練はないのか」
ありますよ、と私は思った。
七年分の記録。
直した壁。
守った井戸。
雨の夜に眠らず確認した結界線。
名前も知らない人たちが濡れずに済んだ、その全部。
けれど、直す気のない場所に残っても、私はまた同じものを見るだけだ。
読まれない報告書。
先送りされる補修。
壊れてから慌てる人たち。
「未練はあります」
私はユリウスの胸の銀鷲章ではなく、天井の継ぎ目を見た。
「でも、もう結構です。見栄えのために壊される場所を、黙って支えるのは」
外で雷が鳴った。
王都の空を覆う防雨結界が、遠くで低く軋む。
私は一礼し、回廊を歩き出した。
背後で誰かが呼び止めた気がしたが、足は止めなかった。
北辺第七砦。
雨漏り砦。
慢性的な漏水。歪んだ防壁。湿った穀倉。見捨てられた導水路。
壊れた場所ばかりなら、やることは山ほどある。
胸の奥に、久しぶりに熱が灯った。
恋が終わったからではない。
仕事が始まるからだ。
王都の雨音を背に、私は点検簿を抱え直した。
次の職場は、きっと最高に直しがいがある。




