第三十七話 継ぎ縫いの夜
見映え優先の夜番表は、裂け目が夜の冷えと水気でどう戻るかを見るためではなく、誰に白い襷を掛けたかだけを先に残したがる。
日が落ちるころ、第一防壁北東面は昼より静かだった。けれど静かなだけで、戻ったわけではない。第四継ぎ目の口は指一本ぶん閉じたまま濡れていて、第五の受け木はもう端から色を変え始めている。夜気を吸えば、昼に逃がした重みがまた石の裏へ寄る。
北東階段の踊り場へ戻ると、板に新しい夜番表が掛かっていた。近衛四、神殿付き二、補修班二。上から順だ。第三も第四も第五も書いていない。
私はその板を外した。
「それじゃ朝までもたない」
ハンナがすぐ白墨を差し出す。私は昼の札板の下へ、もう六枚足した。
第三触り。
第四縫い足し。
第五受け替え。
溝見。
湯差し。
上り下り刻み。
「持ち場で切るのね」
「ええ。夜は手が冷えるから、一人で抱え込ませると遅れます」
旧保全部詰所の奥では、若い技師が濡れた布を窓際へ広げていた。床へ置けばまた冷える。私は壁輪へ渡した麻紐の下へ、もう一本細い綱を足す。
「乾いた布は左。濡れた布は右。替え座金は火鉢のそば。受け木は階段下で濡らさない」
「火鉢?」
ミアが顔を上げた。煤で鼻先が少し黒い。さっきから黙って、座金を布で拭いていたらしい。
「見張り塔下の番小屋に小さいのがあったでしょう。あれを借りる。湯も一緒」
アルノルトが戸口で頷いた。
「夜番小屋の火鉢と鍋を回す。足場持ちの片方は階段下、もう片方は詰所。走る線はそのまま残せ」
それだけで、部屋の中の動きが変わった。濡れた布の山が右へ寄り、乾いた布と替え座金が左へ揃う。ミアは細板へ「乾」「濡」「替」の三つだけ書いて紐へ掛けた。短い字ならもう迷わない。
私は北東階段の途中へしゃがみ、石段の幅を見た。上りと下りがまた混ざれば、夜はそれだけで遅れる。
「ハンナ、上りは壁側、下りは手すり側。刻みは十息ごとじゃなく、人が動くたびに」
「待ち人数も?」
「待ちは要る。朝になったら、夜の詰まりをそのまま見せるから」
ユリウスが板の前で眉を寄せた。
「そこまで細かく残す必要があるか」
私は第五継ぎ目の方を見た。受け木の先が、じわりと水を吸っている。
「必要です。夜は誰が頑張ったかじゃなく、どこで遅れたかが残らないと次が来ます」
言い終わるより先に、第五の奥で低い音が鳴った。昼の乾いた音と違う。重く湿った音だ。
私は階段を駆け上がった。第五の受け木が、壁とのあいだで半指ぶん沈んでいる。雨そのものは止んでいるのに、裏へ残った水気が木を食わせたのだ。
「第五受け替え、いま。第三触りはそのまま、第四は止めない」
近衛が二人、受け木へ駆け寄ったが、ひとりは剣帯が邪魔で腰を落とせなかった。私はそのままユリウスを見た。
「あなた、そこへ肩を入れて」
「何?」
「合図するまで離さないで。剣は邪魔です」
彼は一瞬だけ動かなかった。けれど第五がもう一度鳴くと、自分で剣帯を外して石へ置いた。白い上衣の肩を壁へ押し当てる。受け木の横へ腕を差し込み、石の冷えに顔をしかめた。
「そのまま。息を合わせて、三つ」
アルノルトが受け木の尻を抱え、年嵩の技師が濡れた楔を抜く。私は隙間へ銀の筆を差し入れて、痩せた縁だけをひと筋縫った。全部を固めるのではない。新しい受け木が滑らない道だけ作る。
「ミア、乾いた布。替え座金二」
返事はもう下から飛んできた。
「乾二、替え二!」
小さな足音が階段を上がる。ミアは布を胸へ抱えたまま、踊り場で待っていた足場持ちへ先にひとつ渡した。濡れた手で受け木を触らせないためだ。もう一枚を私へ、座金は年嵩の技師へ。順が分かっている渡し方だった。
「押して」
ユリウスの肩越しに、新しい受け木が入る。楔が噛み、第五の沈みが止まった。けれど彼はすぐ離れられなかった。木が馴染むまで、半刻は体で持たせる必要がある。
「まだです」
私はそう言って第四へ戻った。第四の継ぎ目は、昼に細らせた白粉をまた石肌へ浮かせている。けれど昼と違うのは、手元へ乾いた布と温めた座金がすぐ届くことだった。詰所から階段下、階段下から壁上まで、止まらず回る。
後ろでユリウスの息が荒くなるのが分かった。肩で壁を受けるのは、剣を振るうのと違う。動けないまま、石が返す重みと湿り気だけを延々と受ける。
ハンナの声が下から上がる。
「上がり七、下り五! 待ち三!」
昼は十二いた待ちが、もう三まで減っていた。階段下へ乾いた布と替え座金が先に揃っているから、壁上で「次がない」と止まらない。
その後も、夜は細かく鳴いた。第三の端がひと息、第四の裏がふた息、第五の木が沈みかけて一度。鳴くたびに、湯差し役が指先を戻し、溝見役が白灰の寄りを払い、上り下り刻みの札が一枚増える。
私は第四へ縫い足しを入れながら、何度も旧詰所と壁上を往復した。壁輪の下では、古い保全部の技師たちが濡れた布を右へ、乾いた布を左へ掛け直している。ミアはそのあいだで、火鉢のそばの替え座金を指先で数え、減るたびに細板へ刻みを足した。ハンナは夜番綴りの余白へ、待ち人数と持ち替え刻を並べていく。
その全部の真ん中を、アルノルトが崩さなかった。
「湯差し、先に上へ。詰所はあとで温まる」
「第三触りと第四縫い足しは交代。第五はもう二十呼吸持たせてから替えろ」
「下り一、担架通す。壁側を空けろ」
命令は短いのに、切れていない。誰を先に立たせるかではなく、どこを先に冷やさないかで回っている。
夜半を過ぎたころ、私は第五の様子を見に行った。ユリウスはまだそこにいた。途中で交代したはずなのに、今度は自分から受け木の尻を押さえている。白い上衣は石粉と濡れ色で灰まだらだ。
「もう交代してます」
そう言うと、彼は壁を見たまま答えた。
「分かっている。だが、いま替えると少し戻る」
そこまで見えるようになったのなら充分だった。私は頷いて、彼の足元へ乾いた布を差し出した。
「なら指だけ拭いて。次は楔を打つ側へ回って」
彼は布を受け取ったが、すぐには手を動かさなかった。踊り場の方を見ていた。ミアが湯を運び、ハンナが刻み板を受け、若い技師が濡れた布を右へ掛け、年嵩の技師が火鉢のそばで座金を返している。そのたびに、壁上で止まっていた手がまた動く。
「こんなものまで、ずっと要ったのか」
ひどく低い声だった。
私は第四の裂け目へ筆を入れたまま返す。
「継ぎ目だけで壁は朝まで立ちません」
彼は何も言わなかった。
夜明け前、第四の鳴きは二度つづけて来なかった。第三の白粉は石肌へ貼りついたまま増えず、第五の受け木も沈まない。北東階段の待ちは一まで減り、最後には担架が一枚、止まらず壁上を抜けた。
私はようやく膝を伸ばして、旧詰所へ下りた。火鉢の赤は小さくなっている。乾いた布の綱には、もう左の方が多い。ミアが眠そうな目で、それでも最後の刻みを板へ足していた。
「上がり二十三、下り二十三」
「同じね」
「途中で止まらなかったから」
ハンナが夜番綴りを閉じずに私へ渡した。待ち人数、持ち替え刻、替え座金の減り、湯差しの回数。夜の重さが、細い字で全部残っている。
「まだある」
彼女はそう言って、書写卓のいちばん下から古い一冊を引いた。紙端の色が違う。春祷祭より前の綴りだ。
表には、薄く消された見出しの下へ、かろうじて元の字が残っていた。
『第一防壁北東面 第四継ぎ目 夜間持ち替え不足』
その下へ重ねて書かれた回付名目は、『北東角楼祝灯整備』。
ユリウスが、その綴りの端で止まった。受領欄の小さな刻みを見たのだ。近衛側受け取りの印。彼の手が、乾いた布を持ったまま固まる。
私は何も言わず、今夜の夜番綴りをその隣へ掛けた。
消し跡の残る古い綴りと、消していない今夜の綴りが、同じ壁輪で並んで揺れる。
防壁の上では、ようやく朝の風が、濡れた石ではなく乾きかけた木を鳴らしていた。




