第三十五話 王都再訪
見栄優先の王都搬入口は、裂けた継ぎ目へ最短で人と材を通すためではなく、煤のついた手と濡れた靴を祝祭の白布から遠ざけるために、保全部の足をいちばん長い回り道へ追いやっていた。
王都へ着いたのは昼前だった。南門の正面はまだ半分だけ白布が残っていて、剥がし損ねた金糸が風に鳴っている。けれど私たちの荷馬はそこへ入れられなかった。近衛の案内兵が西側の搬入口へ回れと手を振る。祈祷列と見舞い客を正面へ通すため、工具と継ぎ板と濡れた外套は裏へ回せということだ。
「防壁が裂けているのに、まだ入口を分けるのね」
私が言うと、アルノルトが荷馬の首を軽く叩いた。
「王都は割れても順路を守るらしい」
西搬入口は石畳の継ぎ目まで泥が詰まり、軒先から落ちる水が荷車の轍へ細い溝を作っていた。戸口脇には巻いた白布、折れた花台脚、空の供物箱。片づける人手が足りないのではない。壊れた順ではなく、隠したい順で積まれているだけだ。
その山の向こうから、見覚えのある声がした。
「リネット!」
ハンナだった。灰青の上衣は袖口が黒ずみ、いつもきっちり結んでいた髪紐も片方がほどけかけている。抱えている綴りは三冊、どれも端が波打っていた。
「来ると思っていたけど、正門へ回されたかと思った」
「修繕師を正門へ入れるくらいなら、搬入口を三つ増やす方が先でしょう」
「同感」
笑った声が乾いていない。眠れていない顔だった。
ハンナは私の荷より先に、搬入口の奥を指した。
「旧保全部詰所は残ってる。でも西仕廊下が塞がれたの。祝祭前に『見苦しい』って。いまは北回りで行くしかなくて、梯子一本持つだけで礼拝回廊の列とぶつかる」
私は奥を見た。搬入口の先にあるはずの西仕廊下は、白木の飾り枠と垂れ布で半分埋まり、その下へ水が溜まっている。石床そのものは落ちていない。詰まっているのは人の都合だ。樋の口が布切れと花の軸で塞がれ、脇戸も水を吸って膨れている。
「半刻」
私は飾り枠の足元へしゃがんだ。
「これ、半刻あれば開く」
ハンナが瞬いた。
「防壁より先に?」
「防壁へ人と材を通す道だから、先よ」
アルノルトは返事の代わりに、飾り枠の上端へ手を掛けた。第七砦から連れてきた足場持ち二人もすぐ寄る。私は床の水を指でなぞった。冷たい。上からではなく、詰まった樋が脇へあふれている水だ。
「ハンナ、旧詰所にまだ帳面掛けの輪は残ってる?」
「壁の高いところに二つだけ」
「なら綴りを床へ置かない線を戻せる。乾いた紐も探して」
「ある。花台を縛ってた麻紐なら」
ユリウスがそこで眉をひそめた。
「いまは第一防壁が先だと言っているだろう」
「だからです」
私は膨れた脇戸の蝶番へ銀の筆を差し込んだ。
「いまこのまま人を北回りへ流せば、工具も人足も急ぎ綴りも、礼拝回廊と見舞い列のあいだで止まります。止まる線は増やさない」
セラフィナは白い杖の先で水たまりを見た。
「ここ、まだ使えるの?」
「床は死んでいません。死んでいるのは塞ぎ方の方です」
アルノルトと兵が飾り枠を持ち上げる。濡れた垂れ布から埃と香油の匂いが落ちた。私は樋口へ詰まっていた花軸を抜き、泥を掻き出した。途端に溜まり水が細く吸われ、石床の目地へ沿って流れが生まれる。脇戸の下へ差し込んだ梃子棒を足場持ちが踏み、私は蝶番の痩せた軸だけを継ぎ縫いで起こした。戸が軋み、指二本ぶん開く。
「そのまま。開いたら板を噛ませる」
「板は?」
「その花台脚。飾りより先に戸を立てる」
ハンナが麻紐を抱えて戻ってきた。後ろには知らない顔の若い技師が二人いる。どちらも袖へ白灰を付けたまま、手の甲だけ濡れていた。
「この子たち、夜明けから北回りで梯子運んでる」
「名前はあと。いまは綴りと工具を分ける方が先」
旧保全部詰所の戸を開けると、鼻の奥に懐かしい匂いが刺さった。湿った羊皮紙、油差し、古い木棚。けれど部屋の真ん中は空いていた。書写卓がなくなっている。代わりに花台の残り脚と白布の巻きが積まれ、隅の床には「祝祭導線整備」と大きく書かれた綴り束が二山あった。
「まだ、そんな見出しで回してるの」
「裂け目も漏水も段差も、上へ上げるとだいたいそれになる」
ハンナが苦く言い、綴り束を箱の上へ置いた。置いた瞬間、波打った紙端から一滴落ちる。私は高い壁の輪へ麻紐を渡した。第七砦の控え小屋で急ぎ綴りを吊ったときと同じ高さだ。濡れた綴りは下。急ぎ札つきと防壁分は上。床へ置かせないだけで、読む順が死ななくなる。
「ハンナ、裂けた場所の名前で掛け直して」
「見出しを書き戻していいの?」
「もう私は第七砦印で来てる。誰かが困る名前じゃなく、壊れてる場所の名前で」
彼女は一度だけ唇を結び、それから最初の一冊を開いた。「祝祭導線整備」の上へ、細い字で「第一防壁北東面 第四継ぎ目」と書き足す。次は「西棟第二接合部」。若い技師の一人が、その字を見て肩を落とした。
「やっと自分の上げた紙になった」
その間に、西仕廊下の水は目に見えて引いていった。アルノルトが戸板代わりに花台脚を噛ませ、足場持ちが濡れた布を片側へ寄せる。塞がれていた廊下の先に、西棟裏の階段がまっすぐ見えた。北回りをしなくていい。搬入口から詰所、詰所から裏階段、そのまま西棟と防壁側へ抜ける乾いた線だ。
一番年嵩の技師が、抱えたままだった工具箱をようやく床へ下ろした。
「これで回廊の列に頭を下げずに済む」
「頭を下げる先を間違えないで。下げるなら裂け目の位置に」
返すと、彼は疲れた顔のまま少しだけ口角を上げた。
ハンナが掛け直した綴りの一番上を私へ渡す。紙の端には見覚えのある筆跡があった。私が王都を出る少し前まで、同じ卓で数字を書いていた技師の字だ。裂け幅、滴下数、閉鎖要。きちんと残っているのに、回付本では丸ごと見出しに呑まれて消えていた行ばかりだった。
「あなたがいなくなってから、場所の名前で上げる紙ほど嫌われた」
ハンナが低く言う。
「『西棟第二接合部』って書くと、そこを直さなきゃいけなくなるから。『祝祭導線』なら、白布を足したって直したことになる」
私は綴りを閉じなかった。そのまま麻紐へ掛ける。場所の名前を見せたまま残す。
廊下の向こうで鐘がひとつ鳴った。近い。防壁側からの合図だ。私は開いたばかりの西仕廊下へ出た。石床はまだ湿っているけれど、真ん中の線だけはもう靴裏を取らない。裏階段の先、北東側の空へ、細い灰白の揺れが見えた。防壁上で張り直した布が風に鳴っている。応急の布だ。裂け目そのものは、まだ下で歯を食いしばっている。
若い技師が追ってきて、息を切らせたまま言った。
「第四継ぎ目、朝から二度鳴きました。人足は上席付きのままで、壁へ上がれるのが三人しかいません」
「名札で並べてるの?」
「はい。近衛、神殿付き、補修班、その順で」
順番まで古い。
私は裏階段の幅、工具箱の置き場、上り下りの足跡を見た。防壁へ上がる靴跡より、呼び戻されて下りる靴跡の方が多い。上で裂け目を押さえる人間より、下で許可を待つ人間の方が多いということだ。
「ハンナ、上に回ってる人の名札、全部写せる?」
「できる」
「アルノルト、梯子と足場持ちはそのままここへ。北回りへ戻さない」
「分かった」
私は綴りの束を抱え直した。やることは見えている。まず身分札の順を剥がす。次に、裂けた場所の順で人を並べ直す。
王都へ戻ってきたのではない。やっと、壊れている場所の名前で呼べるところまで来た。




