第三十話 見せかけの祝福結界
先送り優先の祝福杭は、裂け目を守るためではなく、光った場所だけを残すために、いちばん弱い石目地へ打たれたがる。
翌朝、旧記録室の机に広げられた巡察路図の上へ、白木の杭が四本並んだ。先端だけ薄く銀を巻いた神殿式の仮設杭だ。クラウスはその一本を指で転がし、昨日私が押さえた簡易浴場脇の印へ置く。
「ここへ二本。壁際へ光輪布を渡せば、上席が湯気まで祝福の中を歩ける」
「そこは夕刻に湯番が詰まります」
「巡察は昼だ」
「昼に立てた杭は、夕刻までそこに残るでしょう」
ユリウスが机の端を指で叩いた。
「また細部の話か」
「湯桶は細部じゃありません」
私は羊皮紙を巻き、旧記録室を出た。アルノルトも無言で続く。クラウスは止めなかった。止めるより、現場で否定した方が早いと思っている顔だった。
西洗い場の脇は、朝でも少しぬるかった。壁管の残り熱が石へ薄く移り、浅い洗い槽の縁だけ乾きが遅い。簡易浴場へ入る細い道は、壁と石槽のあいだを人ひとり分で抜ける。湯番の刻になると、夜番上がりと門前帰りがそこへ寄り、桶を持った者が一人止まるだけで後ろが詰まる。
「ミア、空桶を二つ。ネラ、湯番札を持ってきて」
二人が走るあいだに、私は壁の上を見た。壁管のさらに上、煤けた石の継ぎ目に、古い鉄の輪がふたつ残っている。洗い場がまだ広く使われていたころ、濡れ布か靴を掛けていた跡だ。片方は錆び、片方は半分石へ埋まっていた。
ミアが桶を抱えて戻り、ネラが「湯番」の札を持ってきた。私はミアに桶を片手ずつ持たせ、ネラにはクラウスの持ってきた白い光輪布を預けた。
「ミアは湯番。ネラはその横を抜ける巡察の布。いつもの幅で行って」
ミアが壁際へ寄る。ネラが布を肩の高さで張った瞬間、道が死んだ。桶の縁が布へ当たり、ミアは肘を引く。引いた分だけ桶の底が石槽へ寄り、今度は人の足が抜けなくなる。置き場がないから桶を一度床へ置くしかない。床へ置けば浅いぬるみを吸って、次に持つ手の袖も濡れる。
「これに杭が立つと、もっと狭くなります」
クラウスは眉を寄せただけだった。
「上席は昼に通る」
「夜番は夕刻に通ります。仮宿の者も」
アルノルトがミアの手から片方の桶を受け、わざとその場へ置いた。細い道の真ん中へ、湯桶がひとつ座る。ネラは壁へ張りつき、私は横を抜けようとして肩を石へ擦った。
「昨日の図のままだとこうなる」
ユリウスが鼻で笑う。
「通る人数を減らせばいい」
「冷えたまま寝かせる人数を増やせと?」
返すと、彼は黙った。代わりにセラフィナが、桶ではなく私の見ていた壁の輪へ目を向けた。
「あれは何」
「昔の布掛け輪です。まだ石に噛んでる」
私は指先で錆を擦った。表面は死んでいたが、根元は動かない。ここへ新しい輪をひとつ足せば、布は地面ではなく上を渡せる。
「ミア、鍛冶場。小さい輪金具を二つ、平釘を六本。ネラは西庭の細板を二枚。幅の狭いの」
「うん」
「はい」
アルノルトはもう兵をひとり呼んでいた。短い脚立が来る。私は壁の下を測り、片方の細板を肘の高さへ当てた。ここへ受け木を入れれば、桶を床へ置かずにひとつ逃がせる。もう一枚は石のぬるみをまたぐ渡り板だ。
クラウスが後ろから言う。
「原案にない施工だ」
「原案にない詰まりを止めます」
鍛冶場から届いた輪金具は、まだ少し温かかった。ベルンが運んできた脚立を壁へ立て、私は古い輪の間へ新しい輪を打つ。下ではミアが受け木を押さえ、ネラが細板の端を持つ。アルノルトの槌が二度鳴るたび、錆びた輪の横へ新しい鉄が増えた。
桶受けを壁へ留め、ぬるみの上へ渡り板を置く。最後に、白い光輪布を古い輪と新しい輪へ順に通した。地面には杭が一本も立たない。
セラフィナがそこで初めて杖を上げた。金の飾り糸が揺れ、布の縁へ細い光が移る。
「……こっちの方が白が濁らないわね」
湯気の上で、布の光は足元へ落ちずに細く伸びた。石目地も排水口も塞がらない。壁際に寄せた桶受けの下を、渡り板が乾いたまま繋ぐ。
ユリウスの声は硬かった。
「こんな裏方の板まで巡察路に含める気か」
「ここは巡察路である前に、湯を運ぶ道です」
「上席の前で見せる形ではない」
「見せるために壊す形でもありません」
夕刻、湯番が始まる少し前に、私は比較板を持ってもう一度そこへ立った。左に原案。祝福杭四本、光輪布二条、地上固定、湯番停止。右に代案。旧布掛け輪二、新輪金具二、桶受け板一、渡り板一、湯番継続。使う資材も、止まる人手も、その場で書いた。
最初に来たのは北門帰りの兵だった。湯桶を新しい受けへ一度だけ預け、濡れていた手を持ち替え、渡り板を踏んで壁管の前へ入る。後ろの仮宿帰りの女は止まらない。ネラは湯番札をそのまま掛け替え、ミアは桶の底が床へ触れていないかだけを見ている。頭の上ではセラフィナの細い光が湯気を白く拾い、足元の石目地はどこも塞がれていなかった。
その次に来たベルンは、門前で冷えた指を壁管へ向ける前に、桶受けを一度だけ叩いた。板が鳴かないのを確かめ、それから娘を先に通す。ネラは壁へ肩を擦らずに抜け、泥の付いた踵を渡り板の端で止めた。前ならここで、誰かが桶を床へ置き、もう一人が石槽の縁へ半歩逃げていた。今日は違う。湯を温めるための場所が、そのまま人を詰まらせない場所になっている。
セラフィナはその動きを最後まで見ていた。白い杖の先は上を向いているのに、視線だけが珍しく足元を追う。光輪布の下を抜けたあとの石に、濡れた足跡が重ならない。桶の輪染みも床へ増えない。祝福の白さより先に、止まらなかった手と肩の数を数えている顔だった。
クラウスは比較板を見て、それから原案の羊皮紙を見た。
「記録上は、こちらの方が簡潔だ」
「壊れる方がです」
私は比較板を彼へ渡し、原案の羊皮紙を押し返した。
「代案の比較表は出します。でも、この地上杭案には署名しません」
ユリウスが何か言いかけたが、その前にセラフィナが光輪布を見上げたまま言った。
「踏ませる祝福より、通したまま残る方を書きます」
それでも彼女の巡察記の見出しが何になるかまでは、まだ信用できない。私は机へ戻り、比較表の下へ一行足した。
簡易浴場脇 地上杭案差し戻し。壁留め案、夕刻湯番で通行確認。
外では、桶受けへ置かれた湯桶の木肌が、もう石のぬるみを吸っていなかった。




