第三十一話 改竄された点検簿
見栄優先の封蝋は、中身を守るためではなく、差し替えたあとも最初から整っていたように見せるために角だけ厚く盛られる。
上席巡察の翌朝、旧記録室の机は紙でふくらんでいた。北門の控え、クラウスの仮処分綴り、昨日差し戻した比較表、その写し。高窓を開けて風を通していても、机の上で重なった紙は角からまた波を打つ。封蝋付きの綴りまで平置きにすると、読む前に誰かの肘で欠ける。
監査が入ってから、この部屋でいちばん詰まっているのは人ではなく紙だった。
「ミア、棚の背板を二枚。ネラは控え小屋の余り紐と小釘」
ミアはすぐ走った。ネラは返事より先に欠け札の箱を抱えてくる。私は北壁へ寄せてあった古い帳面棚を見た。高窓を開けたとき外した背板が二枚、壁際へ立ててある。まだ湿気は少し残るが、紙の下へ敷くより壁へ立てた方が乾きは早い。
「また板?」
「今度は置き場じゃなくて、読み比べる板」
私は背板を並べ、上へ細紐を二本、下へ一本張った。小釘を浅く打ち、控え小屋で使って余っていた欠け札の穴へ紐を通す。上段は原本、下段は控え。左右をきっちり分ければ、閉じたまま重ならない。見出しだけで閉じられない高さへ、紙そのものを吊るす。
ミアが板を押さえ、ネラが紐のたるみを引いた。
「これなら机、空く」
「ええ。兵が控えを置いて立ち尽くさなくて済む」
ちょうどそこへ、北門の鐘が一度鳴った。荷車の合図ではない。控え綴りが来た音だ。
ベルンではなく、見張り塔の若い兵が自分で包みを抱えていた。青灰の布にくるまれた細い綴りで、外の札には『王都会計棚照合返送』とある。その下に、もっと細い麻紐が一本だけ余計に回っていた。
私はその結び目を見た。
宮廷結界保全部の書写卓では、急いで束ねた綴りでも、紙端を傷めないように紐の下へ小さな端紙を一枚噛ませる癖があった。そこまでやるのはハンナだけだった。書き損じを嫌うのではなく、あとで同じ束をほどく人間の手間を知っている結び方だ。
喉の奥が少しだけ固くなった。
「受け刻み、ここへ」
私は新しい照合板の下段を叩いた。ネラが受け取った時刻を欠け札へ刻み、兵はその札を紐へ掛ける。机へ置かずに済む。そのまま兵は次の控えを取りに戻れた。昨日までなら、ここで誰かの読み終わりを待っていた。
私は包みを机へではなく、板の前で開いた。封蝋は割れていない。布をほどくと、中から薄い羊皮紙が四枚と、短い手紙が一通滑り出た。
『読まれる前に書き替えられた分を拾った。保存命令で焼却籠が止まっている今しか出せない。北行きの照合返送へ混ぜた。見るなら左右に並べて。ハンナ・ヴァイス』
文の癖までそのままだった。長い言い訳を書かない代わりに、必要な手順だけを先に置く。
アルノルトがいつの間にか戸口に立っていた。私の手元を見たが、綴りへは触れない。
「王都か」
「ええ。旧同僚です」
「お前が先に読め」
それだけで充分だった。私は一枚目を左へ掛けた。自分の字だった。王城西棟第二接合部。裂け幅二分、滴下六十七、祝賀前三日以内に封鎖要。必要資材は銀線一巻、座金六、布止め金具四。
右へ掛けた二枚目は、同じ日付、同じ受付印、同じ番号だった。
けれど見出しが違った。
西棟第二接合部。外観乱れ。祝祭導線整備時に処理。
滴下数が消えている。封鎖要もない。銀線一巻と座金六の欄は白灰二袋と飾布留め替えへ変わっていた。本文の端には、誰かが私の字へ被せるように、細い別筆で「美観優先」と足している。
ミアが左と右を見比べて、指先だけを上げた。
「六十七、ない」
「消されたの」
三枚目は予算振替票だった。保全部西棟補修費。私が申請した番号と同じ枝番から、赤い角印で線が引かれている。振替先は春祷祭仮回廊白布張替。金額は、銀線と座金と足場布をまとめて買えるだけ残っていた。
ネラが札の刻みを見てから、振替票の下端を見た。
「これも同じ日?」
「ええ。報告を上げたその日の午後」
四枚目には別の報告があった。東礼拝回廊の排水口再開申請。こちらも回付本では『供物導線清掃』へ変わっている。ひとつだけではない。見出しを整え、危険度を削り、予算を見える場所へ流す手つきが二件続けて並んだ。
私は照合板の上へ小さく札を書いて打った。
左 原本
右 王都回付本
下 振替票
壁へ吊るした途端、違いはもう手の中の秘密ではなくなった。見出しだけ眺める目でも、左右の字が同じ紙に見えない。
クラウスが来たのは、その札を打ち終えた直後だった。書記を連れていた。新しい受け刻みが増えたと聞いて来た顔だったが、北壁を見た瞬間に足が止まる。
「何をしている」
「照合です。受領刻みと封蝋欠けの有無も下へ残しました」
彼の視線は左から右へ移った。いつものように見出しだけを追えば、右の方が整っている。けれど今日はその右の横に、消したはずの左がそのままぶら下がっている。
「これはどこから」
「宮廷結界保全部書写卓。ハンナ・ヴァイス」
「私信を監査綴りへ混ぜるな」
「私信は上だけです。下は受付印つきの回付本と振替票です」
私は下段の欠け札を指で押した。受領時刻、封蝋欠けなし、北門受領者名。クラウス自身が禁じた改変防止の形で、もう繋いである。
彼はようやく左の本文を読んだ。裂け幅二分。滴下六十七。封鎖要。そのあと右の『祝祭導線整備時に処理』へ目が移る。
「……祝祭導線」
「きのう、あなたが畳ませようとした『巡察線整備』と同じ手です」
アルノルトが戸口から動かないまま言った。
「読まずに畳んだ字だけ残ると、こうなる」
クラウスは返事をしなかった。代わりに振替票を手に取ろうとして、途中で止めた。吊ったままの方が封蝋の欠けも見えるからだ。結局、顔を近づけて赤印だけ読む。
「春祷祭仮回廊白布張替」
「西棟の滴を止める銀線の代わりに入った先です」
王城西棟が破れたあの日、白い布は濡れていた。けれど先に裂けたのは布ではなく、継ぎ目だった。私はその場の湿った床と、七年前の同じ匂いを一緒に思い出していた。
ミアが右の回付本の端を見て、小さく息を吸う。
「ここも」
端に赤い追記があった。細い文字で、封鎖見送り、祝祭後再考。
後、で止められた紙のせいで、先に濡れる床がある。王都にいた頃、私はその字を見すぎた。
クラウスはしばらく黙っていたが、やがて書記へ言った。
「別綴りにするな。このまま監査控えへ入れる。受領刻みも写せ」
初めて、紙を閉じずに残す指示が出た。
私は頷かなかった。ただ、下段へもう一枚札を足した。改竄箇所。ミアがその字を見て、同じ幅で次の小札を書き写す。ネラは新しく来た北門控えを下段の空きへ掛けた。兵は机の前で待たずに戻っていく。
旧記録室の紙は、まだ山ほどある。それでも北壁だけは違った。左と右が分かれ、欠け札が時刻を繋ぎ、誰がどこで書き替えたかを閉じずに残せる。
私は最後に、右の回付本へ足された赤字をもう一度見た。
祝祭後再考。
王都は、まだ同じ字で歩いている。




