第二十八話 読まれない報告書
見栄優先の白灰は、染みを止めるためではなく、染みを隠すために壁へ塗られると、次の雨でいちばん醜く剥がれる。
監査官クラウスが朝いちばんに欲しがったのは、昨日書き始めた内訳表ではなかった。北門から旧記録室、そこから司令部まで抜ける北側の細い廊下を見回し、壁の下半分に残る濡れ染みへ杖の先を向ける。
「ここだ。巡察役が通る線に、この色は要らない」
北門見張り塔の根元から続くその廊下は、雨のたびに片側だけ暗くなる。石壁が悪いのではない。塔の軒樋が詰まると、流れきれなかった滴が壁を伝って落ち、紙を抱えて歩く肩へ当たる。
昨日の仮処分の控えも、下の角だけ少し波を打っていた。北門から旧記録室へ運ぶあいだ、兵が胸へ押し当てたせいだ。命令書は乾かし板へ立てれば戻るが、封蝋の跡は一度ふやけるともう締まらない。
私は昨夜のうちに書いた二枚を差し出した。片方は「北門臨時収受」の内訳表。もう片方は、廊下の濡れ染みに関する短い報告書だった。
「白灰を塗る前に、見張り塔側の樋口と導き板を直してください。石灰一袋を使っても、水筋が残れば次の雨で戻ります」
クラウスは二枚を受け取ったが、読んだのは見出しだけだった。
「清書は一冊にまとめろ。報告が増えるほど読む側の手が止まる」
「止まるのは手ではなく水です」
「違う。巡察で見える壁だ」
そこで終わりだった。彼は内訳表を後ろの書記へ渡し、濡れ染みのある壁へもう一度杖を向けた。
「今日中にここを明るくしろ。補助札は巡察線から外へ寄せる。見苦しい縄もだ」
継ぎ場の縄を外せば、また問いで人が止まる。私はそう言いかけたが、その前にアルノルトが口を開いた。
「人は俺が止めない。壁もお前は止めるな」
クラウスは眉を寄せた。
「司令官、これは監査の付帯命令だ」
「命令書は読んだ。塗るなとは書いていない。先に濡れを止める」
一拍だけ、廊下の空気が張った。けれどクラウスは言い返さず、代わりに冷たい声で言った。
「半刻だ。それで見た目が変わらなければ、石灰を入れる」
半刻あれば充分だった。
私は控え小屋で外した高い帳面棚の上板を抱え、ミアに細釘、ベルンに脚立を頼んだ。ネラには北門の板をひとつだけ持たせる。『通行右寄せ』。縄を外さず、人の肩が壁へ触れないようにするための短い札だ。
石灰一袋は、もともと西の物置の掛け金座を起こす日に回すつもりだった。見える壁へ先に塗れば、戸はまた痩せたまま鳴く。数字を読まない手は、たいてい石灰から使いたがる。
見張り塔の付け根へ脚立を立てて樋口を覗くと、去年だか一昨年だかの白灰の欠けと、湿って固まった藁屑が口を塞いでいた。壁を白く見せるたび、水の出口だけが狭くなってきた形だ。
「ほら、石じゃない」
ミアが下から受け皿を差し出す。掻き出した白灰片は、指で潰れるほど脆かった。私は樋口をさらい、割れていた導き板の先へ棚板を細く割って継ぎ足した。銅線の切れ端で縛り、先端だけ少し外へ振る。これで滴は壁ではなく石畳の端へ落ちる。
ベルンが下で廊下幅を見ていた。
「右へ寄せれば、荷札持ちも濡れねえな」
「ええ。紙を壁から離して歩かせたいの」
ネラが『通行右寄せ』の札を縄の脇へ掛ける。たった四字なのに、北門から旧記録室へ控えを運ぶ兵が、自然に足を右へずらした。壁側の黒い染みから肩が離れる。
ちょうどそこへ、薄い雨が来た。
前なら最初の三滴で壁がまた濃くなったはずだった。けれど今日は違う。滴は新しく継いだ板の先でまとまり、石畳の端へ細く落ちる。廊下の真ん中は乾いたままで、兵は通告の綴りを胸へ抱え込まずに歩けた。旧記録室の戸口へ入った紙の角も濡れていない。
綴りを抱えていた若い兵が、戸口の手前で一度だけ自分の袖を見た。今日は黒くなっていない。そのまま紙を持ち替えずに棚の中央段へ差し込み、戻り際に壁へ肘も当てなかった。たったそれだけの動きで、朝から二度止まっていた廊下がまた通る。
私は濡れなかった綴りを開き、さっきの報告書の下へ一行足した。
巡察線仮白灰 石灰一袋、兵二人、半日、次雨で再発。
樋口さらい、導き板継ぎ足し、通行右寄せ札 棚板転用一枚、銅線少量、半刻、紙濡れ停止。
クラウスは雨の止み際に戻ってきた。壁を見上げ、石畳の端へ落ちる水を見て、今度は少しだけ黙った。私は濡れなかった綴りごと報告書を差し出す。
「見た目を明るくする前に、これで濡れを切れます」
彼は受け取り、最初の一行を目でなぞった。
「巡察線仮白灰」
そこだけ読んで、頁を閉じる。
「なら、その下へ清書しろ。『北門臨時収受附属 巡察線整備』でまとめればいい」
「比較表です」
「王都へ上げる報告は、比較より結果だ」
結果だけ欲しい。その言い方は、王都で何度も聞いた。剥がれる前の白灰、裂ける前の結界、落ちる前の漆喰。どれも途中の数字が読まれなかったから壊れた。
アルノルトが私の手から報告書を抜き、閉じられた頁をもう一度開いた。
「結果なら出てる。紙が濡れてない」
クラウスはその一文にも頷かず、書記へ次の指示を飛ばした。
「本日分の要約に、巡察線整備を追加。三日後の上席巡察に間に合わせる」
私は顔を上げた。
「上席巡察?」
「王都より追送が来た。聖女候補セラフィナ・ルーミス、護衛騎士ユリウス・ヴァルト。第三日の昼、第七砦へ入る」
昨日までなら、北門の縄も板も、彼らのために外せと言われただろう。そうなれば、濡れた壁の前でまた荷も人も詰まる。
北門の廊下で、ミアの手が止まった。ネラは掛けたばかりの札を見上げ、ベルンは雨の抜けた坂の先を見た。私はクラウスの指先ではなく、彼が閉じたまま持っている報告書を見ていた。
読まれなかった紙が、また見栄えの先触れにされる。
それでも、さっき継いだ板の先から落ちる水は、もう壁を濡らさない。私は報告書を取り戻し、見出しをひとつ書き足した。
読まれない場合の被害。
三日あるなら、今度は見出しだけで閉じさせない形に直す。




