その数ヶ月前
どうしても、眠りの底まで沈みきれなかった。
寝台の上で、月明かりを浴びたわたしの黒髪が、白い寝具へ溶けていくのを、ぼんやりと眺めていた。瞼を閉じても、胸の奥で渦を巻くものが静まらない。浅い呼吸が喉の奥で途切れ、肩が自分でも分かるほど細かく震えていた。
眠っているふりをしている人がいる。
そう分かっていても、すぐには縋れなかった。手を伸ばしてしまえば、もう戻れなくなる気がした。
やがてわたしは、ためらいながら、その胸元へ指を伸ばした。
指先はひどく冷たかった。布地の上から触れた自分の手が、頼りなく震えている。厚手の寝間着越しに伝わる体温の確かさに触れた途端、喉の奥から嗚咽がこぼれた。自分でも情けないほど細い、それでもどうしようもなく切実な声だった。
止めなければ、と思いながら、止められなかった。
涙は一度流れ出すと、もう指では掬いきれない。
この身体が、借りものなのだということ。
もしもまだ、この奥底のどこかに、本来のメービスが眠っているのだとしたら。
わたしは、彼女にとってのさまざまな初めてを、勝手に奪ってしまったのではないか。触れられる権利のないものへ、手を伸ばしてしまったのではないか。
その思いは、誰にも触れさせてはいけない傷のように、長いあいだ心の底へ押し込めていた。けれど、その夜はどうしても隠しおおせなかった。夜気の冷たさが、かえって痛みを細く尖らせていく。
そっと回された腕が、わたしを包んだ。
子どもをあやすみたいに、ゆっくりと、慎重な動きで引き寄せられる。戦場での彼の荒々しい一撃とはまるで別の、静かで、ひどく優しい抱擁だった。
「怖いか?」
低い声が耳元をかすめる。吐息が髪を揺らし、胸の鼓動が近くなる。
わたしは言葉にならず、小さく一度だけ頷いた。喉の奥がきゅうと縮んで、返事を紡ぐ余裕などなかった。
しばらくは、胸の鼓動と彼の体温だけを数える時間が続いた。涙が枕を少しずつ濡らしていく感触だけが、現実とわたしをつなぎとめている。
やっと息が整いかけた頃、わたしはようやく問いを形にした。
「……わたしたち、メービスとヴォルフの幸福を壊してしまったのかしら」
ずっと胸の底で丸めていた疑問だった。
答えなど出ないと知っていた。それでも、彼に聞いてほしかった。
彼は迷わなかった。
「壊したと思うなら、そうかもしれん――」
一度、真正面から受け止める。
そのうえで、声の温度を変えずに続けた。
「だが、お前が今ここにいることの方が大事だ」
夜の静けさの中で、その言葉だけがくっきりと残った。
わたしは思わず食い下がった。胸元を掴む指先に、知らないうちに力が入る。
「それは都合のよすぎる解釈ではないかしら?」
彼はすぐに返した。
「なら一緒に背負え」
短い言葉だった。
けれど、胸の奥で固く凍っていたものに、細いひびが入った。
「メービスとヴォルフが残した“幸福の権利書”を、俺たちが受け取った。なら、白紙のまま放っておくわけにはいかんだろう」
その言い方があまりに彼らしくて、心に張りついていた硬い棘が、ほんの少しだけほどけた。
ああ、そうか。
わたしは、罪悪感を消してほしかったわけではない。何もなかったことにしてしまえばいい、だなんて思っていない。
ただ、それを抱えたままでも歩いていけるように、隣で支えてくれる誰かがいてほしかったのだ。その誰かに、一緒に、と言ってほしかっただけなのだ。
それを、彼は分かってしまったのだろう。
腕の力が、ほんの少しだけ強くなる。外では夜明け前の風が軒鈴を鳴らし、そのかすかな音が胸の奥まで沁みてきた。
わたしは目を閉じ、彼の鼓動に耳を澄ませた。ささやかな温もりが、暗闇の中で脈打っている。
この人は、きっと支えてくれる。
たとえこの先、どんな戦場が待っていようとも、わたしの中で震えている小さな灯が、消えてしまわないように。
そう思えたとき、怖さの底に、かすかな安堵が滲んだ。夜明け前の薄闇の中で、わたしはひとつだけ、静かに誓い直した。
自分の罪も、愛も、この人と一緒に抱えて、未来まで運んでいくのだと。
夜明けとともに、胸のどこかへ小さな決意が沈んだ。
少し日が経った午後のことだった。
西窓から差し込む光が、机の上の書類の端を琥珀色に染めていた。影が長く伸びはじめた頃、わたしは自分でも不思議なくらい静かな気持ちで、彼の執務机の前に立っていた。窓硝子越しに入り込む冷たい空気が、肌をかすかに撫でていく。
「ヴォルフ……これを見てほしい」
そう言って差し出したのは、小さく折り畳まれた一枚の羊皮紙だった。
指先でそっと撫でると、角はわずかに毛羽立ち、長いあいだどこかに隠されていた名残を、かすかなざらつきとなって伝えてくる。胸の奥に沈めていた時間の重みが、その軽さとは不釣り合いなほど、ずしりと掌へ宿った。
ヴォルフがそれを受け取り、丁寧に開く。乾いたインクと古い革の匂いが、ふっと鼻先をかすめた。
露わになった羊皮紙には、ためらいも飾りもない文字が四行、真っ直ぐに並んでいた。
一、わたしは絶対に死なない。この戦いを生き抜く。
二、この美しい世界と、人々の笑顔を守りたい。
三、ヴォルフ大好き。もう絶対離さない。
四、ささやかでいい。ヴォルフと幸せになりたい。子どもはいっぱいほしい。
それは、いまのわたしではなく、本来のメービスが、魔族大戦のただ中で書きつけた誓いだった。
あの頃、彼女が身に付けていた古い革鎧の裏地に、だれにも知られぬよう密かに縫い込まれていたものだ。
幾度となく血と煙に晒され、傷だらけになった鎧。その内側で、この紙切れだけは、いつも胸の近くで護られていたのだろう。汗と血と火薬の匂いが染み込んだ革の奥で、たった一枚の紙が、小さな未来を抱えたまま、ひそやかに生き延びていた。
取りこぼしていく命ばかりが増えていく、絶望の色濃い戦場で、それでも顔を上げるための護符。
生き延びた先で掴む未来への、ささやかな権利書。
外側から見れば、ふたりの関係は王家の姫君と一介の騎士だった。身分差は歴然としている。救世を成した英雄で、国家再建の象徴として都合が良かったとはいえ、ヴォルフを王配として迎えることは、困難を極めただろう。
それでも彼女は願いを貫いた。
ふたつでひとつのツバサとして。どちらが欠けてもだめ。この人じゃなきゃだめ。
この人と幸せになりたい。
ただ、それだけを。
読むだけで、胸の奥がじんと熱を帯びる。あまりにも真っ直ぐで、あまりにも幼くて、そして痛いほど眩しい言葉たちだった。紙片の上の文字が、いまのわたしの心をじりじりと焼いていく。
わたしには、彼女の気持ちがわかる。
だって、同じだから。
凍える雪原と泥に塗れ、駆け抜けた日々。一緒に旅をして、一緒に笑って、一緒に泣いてきた。彼がいたから、諦めなかった。
ほしい、と。
そう、思ってしまった。
そして、彼女が願った未来を、いまわたしの手で、ようやく掬い上げようとしているのだ。そんな確信が、静かに胸の底で鳴った。
読み終えた彼が、思わず笑う気配がした。吐き出した息が、少しだけ柔らかくなる。
「なるほど。……だったら、俺たちが履行しないわけにはいかんな」
その言葉に、わたしは瞬きをした。
胸の奥で、何かを掴まれたような気がした。そっと羊皮紙を見下ろすと、インクの黒が、今にも涙で滲みそうに見える。
彼は続ける。
「俺たちが二人に遠慮して幸せを放棄して、爺さん婆さんになるまで燻って……そのとき万一、あの二人が戻ってきたらどうする? きっと泣くぞ。『どうしてちゃんと生きてくれなかった』ってな。……そうは思わんか?」
口元が、かすかに震えた。
唇の内側を軽く噛んで、溢れそうなものを押しとどめる。胸の奥で、遠い時代のメービスとヴォルフの笑顔が、ぼんやりと重なった。
羊皮紙の四行は、彼女の願いであると同時に、わたしたちへ差し出されたものだった。
受け取ってしまった以上、見なかったことにはできない。
「……そうね。あの人たちなら、きっとそう言うわ」
小さく返すと、ヴォルフは静かに頷いた。西日が彼の横顔をなぞり、まだ若いはずの顔に、長い旅と戦いの影を柔らかく浮かび上がらせる。
だから、わたしたちがやる。
あの紙片に書かれた願いを、ここに生きているわたしたちが、ひとつずつ履行していく。
メービス。
そして、ヴォルフ。
あなたたちが見たかった景色を、わたしたちが見に行くわ。そうすれば、いつ、どんな時に帰ってきても、よかったと笑えるはずだから。
罪悪感は、多分、きっと消えることはない。
それでも、その痛みごと抱いて、この先を生きていく。笑おうとするとき、胸の奥でかすかに引きつる疼きを、ともに抱えた証として受け入れていく。
執務机の向かい側には、いつも二脚の椅子がある。
本来の主のために用意された席だ。その片方に、今、わたしと彼が腰を下ろしているにすぎない。
それでも、空席のまま冷やしておくよりはいいのだと、そう思いたかった。
羊皮紙の四行は、彼の手の中で静かに伏せられていた。西日の中で、その端だけが淡く光っていた。




