違う皿、同じ灯 女王メービスと王配ヴォルフの晩餐
晩餐室には、いつもより早く灯が入っていた。
壁際の魔道ランプに灯がともり、薄い金色の明かりが白い卓布の上へ静かに落ちている。窓の外では、夜の庭木が風に揺れ、硝子越しに葉擦れの音だけを寄越していた。昼間の王宮のざわめきはもう遠い。銀器の触れ合う音も、侍女たちの足音も、今夜はやわらかく抑えられている。
わたしは椅子へ腰を下ろし、胸の下へそっと手を重ねた。
悪阻は、だいぶ収まってきた。朝起きた瞬間に胃の底がひっくり返るような日も、侍女の袖に残った香油の匂いだけで涙がにじむ日も、少しずつ遠ざかっている。枕元に置かれた薬湯の湯気に顔を背けることも、以前ほどではなくなった。まだ身体は以前のようには戻らない。それでも、食事の席につける。それだけで、胸の奥に小さな灯がともるようだった。
今夜は、ヴォルフと久しぶりにゆっくり晩餐をとる。
ただそれだけのことが、嬉しかった。
給仕頭が一礼し、料理が運ばれてくる。最初にヴォルフの前へ置かれたのは、厚く切った肉の煮込みだった。葡萄酒と香草で長く火を入れたのだろう。濃い艶のあるソースが肉の縁をゆっくり伝い、焼いた根菜と玉葱の甘い匂いが湯気に混じっている。
それから、わたしの前へ皿が置かれた。
白身魚の蒸し物。
透き通った出汁に、細く刻んだ香草が浮いている。添えられているのは、やわらかく煮た豆と、青菜と、薄く切った蕪。油の匂いはほとんどなく、塩気もごく淡い。湯気は軽く、海の気配をほんの少しだけ連れていた。
ヴォルフの手が止まった。
まだナイフを取る前だった。彼は自分の皿を見、それからわたしの皿を見た。眉間に、深い皺が寄る。
「……違うな」
低い声だった。
わたしは一瞬、何のことか分からず、彼の顔を見た。
「え……?」
「お前の皿、俺のものと違うじゃないか」
「ええ。……違いますわ」
「なぜ?」
短い問い。
その短さに、かえって胸が跳ねた。
「なぜ、と問われましても……その……」
そこで一度、言葉が途切れた。
膝の上で指を組む。説明することは決めていたはずなのに、いざ問われると、言葉の順番だけが急に逃げていく。
「……この子のためよ」
ようやくそう言うと、ヴォルフの目がわずかに揺れた。
「子のため?」
「ええ」
そこで終えればよかったのに、終えられなかった。
喉の奥が乾いて、息が一度だけ詰まる。わたしは自分の皿へ視線を落とした。白い魚の身は、銀のフォークを入れればすぐにほぐれそうなほどやわらかく、淡い湯気の中で静かに横たわっている。
「悪阻が、だいぶ収まってまいりましたでしょう? だから、これからは食べられるものを増やしていってもよいのですけれど……急に脂の強いものというのもよくないのです。胃にも負担がかかるし、匂いでまた気分が悪くなるかもしれないし。それに、脂を控えて、甘いものや穀物も摂りすぎないようにして、塩気も強くしすぎないほうがよいのです。手足もむくみやすくなるし、太りすぎもよくないですしね。体力は必要だけれど、ただ量を増やせばいいわけじゃなくて、血肉になる滋養をきちんと摂る必要があって……」
ヴォルフは黙っていた。
黙っていたが、理解している顔ではなかった。
わたしはそれに気づきながら、止まれなかった。整えたはずの言葉の端がほどけていることにさえ、もう気づけなかった。
「白身魚なら匂いも穏やかでしょう? 赤い肉より脂が軽いですし、豆と青菜を添えれば、偏りも少ない。もちろん、魚なら何でもいいわけではありません。大きな魚は、小さな魚をたくさん食べるでしょう? そうすると、海や川にある重い毒を身に溜めてしまうことがあるの。だから、身重であれば避けたほうがいい魚もあるし、川魚も産地によっては確認が必要だし。だからレシュトルにも相談して、王都周辺で安全と見てよいものと、港から入る魚の種類を照合してもらって、それからルシルにも見てもらって、許しを得てから厨房へ伝えたわ」
「待て」
ヴォルフが片手を上げた。
わたしは口を閉じる。
晩餐室が、急に静かになった。
魔道ランプの灯が、小さく揺れる。肉の煮込みの濃い匂いと、白身魚の澄んだ湯気が、卓の真ん中で薄く触れ合っていた。
「あ……すまん」
ヴォルフはゆっくり瞬きをした。
「途中から、何を言っているのか分からなかった」
「……そうでしょうね。急に言われても……」
「甘いものと穀物を、なぜ同じように気にするんだ?」
「それはね、身体の熱になるものだからよ。必要だけれど、多すぎると身体に障ることもあるの」
「血肉になる滋養、というのは?」
「身体を作るために、大切なもの。ええと……お肉やお魚やお豆に多いものよ」
「大魚が毒を溜める、というのは?」
「大きな魚ほど、小さな魚をたくさん食べるでしょう? その小さな魚の中にある毒を、少しずつ身に溜めてしまうことがあるの。だから……身重の女は避けたほうがいい魚があるのよ。だって、わたくしの食べたものが、この子を育てるの。責任が……あるでしょう」
ヴォルフは、しばらくわたしを見ていた。
その目に、困惑がある。まったく理解が追いついていない人の、正直な困惑だった。けれど、その奥に、別のものがゆっくり満ちていくのが見えた。
呆れではない。恐れでもない。どう受け止め守ればよいか分からず立ち尽くす人の、静かなまなざしだった。
「お前というやつは、まったく」
ヴォルフは言いかけて、一度息を吐いた。
「そこまで考えていたのか」
「考えるわよ……!」
少しだけ、声が尖った。
「だって、初めてなのよ」
言ってしまってから、唇の裏が熱くなる。
初めて。
そのひとことだけが、思っていたより深く響いた。
「……母になるのなんて、初めてのことなのよ。知識があるからって、いざ自分の身に起きると、何も知らないのと同じなの。身体は毎日少しずつ変わるし、昨日は大丈夫だった匂いが今日はだめだったり、朝は平気だったのに夕方には急に気持ち悪くなったりするし……。この子がちゃんと育っているのか不安で、何をすればよくて、何をすればいけないのか……わけがわからなくなるの。いちばんこわいのは、わたしのしたことも、しなかったことも、不安になることまで、ぜんぶこの子に届いてしまうんじゃないかって……」
手が、いつのまにか腹の上へ戻っていた。
まだ丸みは浅い。けれど、そこには確かに重さがある。目に見えないほど小さいのに、わたしの息の仕方まで変えてしまう重さだった。
「だから、考えるしかないの。レシュトルに聞いて、ルシルに確かめて、厨房にお願いして、コルデオには政務と謁見の刻限まで調整してもらって……。もう、ちゃんとできることから、ひとつずつ整えていくしかないの。わたしが不安だから。わたしが怖いから。もし、この子に何かあったらって思うと……っ」
声が途切れた。
続きは喉の奥で崩れ、息だけになった。
ヴォルフは、もう自分の皿を見ていなかった。まっすぐ、こちらを見ていた。戦場で敵の動きを読む時の目ではない。剣も、号令も、勝敗もないところで、ただ妻を見る目だった。
「メービス」
「……なに」
「俺も同じものにしてもらいたい」
思わず目を瞬かせた。
「え?」
「俺の皿も、それと同じでいい」
「だめよ」
反射で返していた。
「あなたまで食事を制限する必要はないわ。だいたい、あなたはいま軍の立て直しで、毎日のように城と営舎を行き来しているじゃない。身体も大きいし、軍務に耐えるだけの滋養も必要よ。わたくしと同じにしたら、足りないでしょう」
「足りるように増やせばいい」
「そういう問題ではなくて」
「それと、酒もやめる」
今度こそ、言葉を失った。
ヴォルフは真面目だった。真面目すぎるほど真面目な顔で、まるで明日の出陣について告げるように言った。
「酒も、濃い肉も、甘いものも、お前が避けるなら俺も避ける」
「ちょっと待って。待ってちょうだい」
わたしは片手を上げた。さっきの彼と同じ仕草になったことに気づき、少しだけおかしくなる。けれど笑えなかった。
「あなたがそこまでする必要はないの」
「ある」
「どうして?」
「お前だけに禁じられるものが増えるなど、気分が悪い」
静かな声だった。
「その身体で、命を育てているのはお前だ。苦しくなるのも、食べられなくなるのも、夜に眠れなくなるのも、お前だ。俺には代わってやれん。なら、せめて食卓にいる時くらいは、お前と同じ側にいさせろ」
胸の奥に、何かが当たった。
やわらかいものではない。むしろ、不器用な石のようだった。けれど、その重さが温かかった。
「……ヴォルフ」
「それとも、俺が同じものを食うと、お前が困るのか?」
「困るわよ」
正直に答えると、彼はわずかに目を細めた。
「なぜだ?」
「あなたが倒れたら、どうしたらいいの?」
「倒れはせんだろう。むしろ身体には良いのではないのか?」
「いいえ。倒れるかもしれない。少なくとも、機嫌は悪くなるわ」
「ならん」
「なる」
重ねて言うと、ヴォルフは少し黙った。
それから、低く唸るように言った。
「……まぁ、そこは否定しきれんが」
その声があまりに真面目だったので、今度は少し笑ってしまった。
笑った途端、目の奥に涙が滲んだ。自分でも追いつけなかった。笑ったはずなのに、頬が熱くなり、瞬きをしたら落ちてしまいそうだった。
ヴォルフの表情が変わる。
「気分が悪いのか?」
「違うわ」
「なら、なぜ泣く」
「わからない……」
そう答えた声は、自分でも驚くほど幼かった。
わからない。
本当に、わからない。
嬉しいのに苦しい。守られているのに、胸が痛い。食卓の皿が違うだけで、こんなに心が揺れるなんて思わなかった。
ヴォルフが立ち上がりかける。
「来なくていい」
わたしは慌てて言った。
「座っていて。お願い」
彼は途中で止まり、ゆっくり座り直した。大きな身体が、椅子の背へ戻る。その動きのひとつひとつが、わたしを怖がらせないように抑えられているのがわかった。
その優しさが、また胸を締めつけた。
「……わたしは」
白い魚の皿を見る。
湯気はもう薄くなっている。出汁の表面に浮いた香草が、灯の揺れに合わせて細く動いた。
「この子のために、ちゃんとしなきゃって思っているの。できるだけよいものを食べて、無理をしないで、休んで、怖くても投げ出さないで。母になるなら、そうしなきゃって……」
「ああ」
「でも、それだけじゃない」
喉の奥が、また詰まる。
「わたしたちは、本来のメービスとヴォルフではないでしょう……」
ヴォルフの目が、静かに深くなった。
部屋の温度が、ほんの少し変わった気がした。
この名で呼ばれることに、もう慣れてしまっていた。メービス。ヴォルフ。女王と王配。妻と夫。もうすぐ父と母になる二人。
けれど、その名は、最初からわたしたちだけのものではない。
「この身体は、メービスのものなのよ。この子も、本来なら、メービスとヴォルフが迎えるはずだった命なのかもしれない。眠っている本来の二人の魂が、いつ戻ってくるのか、戻ってこないのか、それもわからない。わたしたちは、彼らの身体を預かって、彼らの時間を代わりに生きているだけ」
言葉にするたび、胸の奥が冷えていく。
「だから、ちゃんとしなきゃいけないの。身体も、国も、この子も。あの羊皮紙に書かれていた願いを、わたしたちは受け取ったでしょう。メービスが残した、あの四つの願いを」
言葉にした瞬間、胸の奥で古い羊皮紙のざらつきがよみがえった。
「わたしたちは、幸せになっていいのだと、あのとき思ったわ。あなたも、履行しないわけにはいかないって言ってくれた。……でも、いざこの身体の中で命が育ちはじめると、また怖くなるの。わたしが食べたものも、眠れなかった夜も、不安で泣いたことも、ぜんぶこの子に届いてしまうんじゃないかって。もし本来の二人が戻ってきたとき、この身体が壊れていたら。この子に何かあったら。あの人たちの願いを履行するどころか、わたしが壊してしまったことになるんじゃないかって」
言い終える頃には、手が震えていた。
理屈で囲っている。自分でもわかっていた。食事の話から始まって、滋養の話、侍医の許し、厨房への指示、今度は魂と責任の話。あまりに遠くまで来すぎている。
それでも、止まらなかった。
止まらなければ、泣かずに済むと思っていたのかもしれない。
「メービス」
ヴォルフの声が低く落ちる。
「俺は、前にも言ったはずだ。あの願いを、俺たちが履行しないわけにはいかんとな」
わたしは顔を上げた。
「だが、それは、お前ひとりが身を削って果たすものではない。お前が吐き気を堪えて朝を迎えたことも、腹に手を当てて眠ったことも、侍医と厨房まで動かして魚の種類まで調べたことも、偽物ではない。お前がこの子を守ろうとしていることは、本物だ」
「でも……っ」
「聞け」
短く遮られた。
叱る声ではなかった。ただ、逃がさない声だった。
「俺たちは、確かに預かっている。メービスとヴォルフの身体を。彼らの名を。国を。この子を。だから、粗末にはできん。いつ二人が戻ってきても、恥じぬようにしなければならん。それだけは間違いない」
「ええ」
「だがな」
ヴォルフは、少しだけ息を吐いた。
「預かっているからといって、お前が幸せになってはならん理由にはならん。前にもそう決めた。今も同じだ」
その言葉は、ゆっくり届いた。
皿の湯気よりも、灯の温度よりも遅く、胸の一番奥へ沈んでいった。
「俺たちが笑うこと。共に食うこと。子の名を考えること。怖がるお前の手を俺が握ること。それを後ろめたがる必要はない。もし本来のメービスとヴォルフが戻る日が来たとしても、俺は、冷えた空っぽの皿より、温かい食卓を残したい」
涙が止まなくなった。
声を出さないように唇を押さえたが、肩が震える。
ヴォルフが、今度は立ち上がらなかった。約束を守るように、卓の向こうに座ったまま、ただ手を差し出した。
大きな手。
ごつごつした傷の多い、剣を握る手。
わたしは震える指を伸ばし、その上へ自分の手を重ねた。
温かかった。
「……わたし、欲張りなのかもしれない」
「そうか」
「この子を守りたい。メービスの身体を守りたい。国も、ヴォルフも、戻ってくるかもしれない本来の二人の魂も。全部、だいじにしたい。背負うと決めたなら、壊さずに、ちゃんと返したいの」
「それでいい」
「でも、そのうえで……どんなにわがままでも、たとえ仮初でしかないとしても、わたしも、幸せがほしい……っ」
最後の言葉は、ほとんど息だった。
言ってしまった。
怖かった。
けれど、ヴォルフの手は離れなかった。
「なら、そうしろ」
「そんな簡単に言わないで」
「簡単ではない。だから、やるんだ」
彼らしい言い方だった。乱暴で、単純で、けれど逃げ道を閉ざすのではなく、足場だけを置いてくれる。
「お前がそうするなら、俺もそうするまでだ」
「あなたまで?」
「当然だ。俺は、名だけでお前の夫になったつもりはない」
ヴォルフの親指が、わたしの指の付け根を一度だけ押さえた。逃がさないためではなく、そこにいると確かめるみたいに。
「この身体ではヴォルフとして、メービスの夫を務めている。そこから逃げるつもりはない。だが、俺が選んだ相手は、最初からお前だ」
「……」
「ミツル・グロンダイル。俺の妻は、お前だ」
唐突すぎた。
唐突すぎて、わたしは言葉をなくした。思考すら固まった。
彼は自分の皿を見た。それから、わたしの皿を見る。
「まずは、その魚を一口もらおう」
「……味、薄いわよ」
「構わん」
「お肉の方がおいしいと思うわ」
「もちろんそれも食うさ。だが、魚も食う」
「結局、両方食べるの? 欲張りね」
「女王陛下としては、軍総司令の俺に倒れられては困るだろう?」
涙で濡れたまま、少しだけ笑ってしまった。
「もちろん。困るに決まってるわ」
「なら、肉も魚もしっかり食う。酒はやめる」
「そこは本気なの?」
「本気だ」
「でも、あなた、お酒が好きでしょう? いつも懐にスキットルを忍ばせてるくらいだし……」
「酒なくして俺は成り立たん、くらいには思っていたんだがな」
「いいの?」
「問題ない。子が生まれるまでのことだ」
「長いわよ」
「戦場で籠城するよりはましだ」
「また、悪い癖。いちいち比べるものがおかしいのよ」
「情緒の欠片もないと言いたいのか? 俺に繊細な比喩を求めるのが間違いだ」
「もう……少しはわたしの渡した詩集でも読んで勉強してくださいな」
「いやなこった」
今度は、ちゃんと笑えた。
涙の向こうで、魔道ランプの灯が滲む。白い魚の皿も、濃い肉の皿も、まだそこにある。出汁の薄い香りと、葡萄酒で煮た肉の重さが、卓の真ん中で静かに触れ合っていた。
違う皿。違う身体。違う名。借りた時間も、預かった幸福も、消えはしない。それでも、卓の上で重なった手だけは、確かにいまのものだった。
わたしは魚の身を少しだけ取り分け、小皿に乗せる。ヴォルフはそれを受け取り、しばらく眺めてから口に運んだ。
沈黙。
「……薄い」
「だから言ったでしょう」
「だが、悪くはない。魚本来の味が分かる」
「本当に?」
「お前が考え抜いて選んだものだろう。ならば悪いはずがない」
また泣きそうになった。
でも今度は、魚を口に運んだ。淡い塩気と、白い身のやわらかさが舌の上でほどける。さっきより少しだけ、味がした。
ヴォルフも肉を切る。けれど杯には手を伸ばさなかった。給仕頭を呼び、低く告げる。
「葡萄酒は下げてくれ。代わりに、水を」
給仕頭が目を丸くした。
わたしも、少し目を丸くした。
ヴォルフは何事もなかったように続ける。
「それと、明日から俺にも、メービスと同じ仕立ての皿を一品出してくれ。ただし量は増やせ。肉も別に添えること。詳しくは……」
そこで彼は、ほんの少しだけ迷った顔をした。
「ルシルにも話を通しておけ。後でうるさく言われるのは困る」
「まぁ」
とうとう、わたしは吹き出してしまった。
ヴォルフが不満そうにこちらを見る。
「何がおかしい」
「いいえ。何も」
「笑っているだろう」
「はい。笑っております。嬉しいから」
「ならいい」
そう言うと、彼は黙った。少しだけ視線を外す。耳のあたりが、灯のせいだけではなく赤く見えた。
晩餐室には、水差しから澄んだ水が杯へ落ちる音がした。葡萄酒の甘い香りが遠ざかり、かわりに、夜の庭の冷たい匂いが少しだけ入ってきた。
違う皿でも、違う名でもいい。
借り物の身体でも、預かった時間でも、ここで笑ったことまで消えるわけではない。
いつか本来のメービスとヴォルフが目を覚ます日が来るとして、その時に、落胆ではなく、あたたかさを渡せるように。そして、その日が来るまでのあいだ、わたしたちもまた、この仮初の食卓で、少しずつ幸せになっていいのだと。
わたしは腹の上へ手を置いた。まだ返事はない。けれど、体の奥の水底が、ほんのかすかに明るく揺れた気がした。




