第三章から第四章あたりのミツルとお母さん茉凛
夜の部屋は、ランプの火をひとつだけ残して、静かに沈んでいた。
窓の外では、草むらの虫が細く鳴いている。昼の熱を失った石壁からは、湿った冷えが少しずつ滲み、寝台の白い布だけが、ほのかに体温を抱いてやわらかく光っていた。
膝の上に置いた白きマウザーグレイルは、薄明かりの中でひどく静かだった。
けれど、その静けさの内側に、茉凛がいる。
そのことだけで、胸の奥に残っていた硬いものが、ゆっくりほどけていく。誰かと話す前に、言葉を選ばなければならない。間違えたらいけない。笑われたくない。そういう小さな緊張が、茉凛の前では少しだけ薄くなる。
わたしは鞘の縁に指を添えた。
金属は冷たかった。けれど、内側から返ってくる気配は、いつものように少しだけ騒がしくて、あたたかい。
だからだろうか。
ずっと奥に沈めていた言葉が、喉の近くまで上がってきた。
「ねえ、茉凛」
《《うん?》》
すぐ返ってくる声に、胸の奥が小さく揺れた。
返事が早い。
それだけで、泣きそうになる日がある。そんなことを言ったら、茉凛はきっと笑うだろう。笑って、それから、少しだけ黙る。
その黙り方まで、わたしはもう知っている。
「わたし、人を好きになるって、よくわからないの」
《《うん》》
「誰かと近くにいるとか、触れ合うとか、そういうのも……あまり、慣れてなくて。自分がどう思っているのかも、考えないで済ませてきた気がする。考えたら、余計にわからなくなるから」
言いながら、指先に力が入った。
白い鞘の縁が、爪の下へかすかに食い込む。痛いほどではない。けれど、そこに触れていないと、言葉が途中で散ってしまいそうだった。
「でも、茉凛だけは違ったの。最初から、少し変だった。一緒にいると落ち着くのに、どきどきもして、返事があるだけで嬉しくて……ああ、わたし、この子のこと好きなんだって、そう思った」
《《……うん》》
「でも、それが何の好きなのかは、いまでもよくわからない。女の人が好き、っていうのとも違う気がする。男の人のことも、嫌いなわけじゃない。でも、好きとか、そういうふうに考えたことはないの。お父さんみたいに安心する人はいるけど、それはたぶん、恋とは違うでしょう? 同じ年頃の人のことも、あまり見てこなかったし」
そこまで言って、息が詰まった。
自分で言った言葉なのに、ひとつひとつが部屋の中へ落ちて、逃げ場を塞いでいくようだった。好き。恋。安心。親愛。どの言葉も、手に取ると形が違う。なのに胸の奥では、全部が同じ場所に触れていた。
わたしは鞘を見下ろした。
「……おかしいかな、わたし」
声は、小さくなった。
おかしい、と言われるのが怖かったのではない。むしろ、自分でずっとそう思ってきたから、誰かの声でそれを聞くのが怖かったのだと思う。
茉凛は、すぐには答えなかった。
その短い沈黙が、かえってやさしかった。
《《おかしいって決めなくていいんじゃない?》》
「……いいの?」
《《だって、美鶴、まだ自分の気持ちの名前を探してる途中なんでしょ。好きって思えたことと、それが恋なのか、親愛なのか、安心なのか、ぜんぶ今すぐ仕分けできることとは、別だと思うよ》》
胸の奥へ、ゆっくり水が落ちていくようだった。
おかしい、と言われなかった。
それだけで、喉の奥が熱くなる。けれど、それをそのまま泣き声にするのは悔しくて、わたしは鞘を抱く腕へ少しだけ力を込めた。
「茉凛は、簡単に言うのね」
《《簡単じゃないって。わたし、こう見えてけっこう真剣に言ってるよ》》
「剣だけに?」
《《それ、ダジャレのつもりかい!》》
「あ、ごめん……」
《《ま、たしかにいまは剣の中だからね。だからこそだけど、たまには重みのあることも言うんだよ》》
いつもの調子だった。
軽くて、少しふざけていて、でも逃げてはいない。茉凛のそういう声を聞くたび、わたしは呼吸の仕方を思い出す。
白い剣の内側で、彼女が肩をすくめたような気配がした。
《《でもさ、美鶴がそういうこと考えられるようになったの、悪いことじゃないと思うよ。いままで、考える余裕もなかったんじゃない?》》
「余裕か……」
《《うん。生きるだけで精いっぱいだったり、待つだけで精いっぱいだったり、探すだけで精いっぱいだったり。そういう時って、自分が何を好きかなんて、後回しになるもんじゃない?》》
後回し。
その言葉は、妙に胸に残った。
たしかに、ずっとそうだったのかもしれない。父の名を掲げて、誰かが足を止めるのを待っていた。母のことを探していた。知らない世界で、知らない身体で、平気な顔をしようとしていた。
好き、という言葉は、たぶんそのずっと後ろに置いていた。
置いていたことにさえ、気づかないふりをして。
「でも、それでも、わたしは茉凛から離れたくない」
それは、考えて選んだ言葉ではなかった。
息の底からそのまま出てきた。出してから、しまった、と思った。けれど引っ込めることはできない。鞘を抱く腕に力が入り、白い剣が胸の骨にかすかに当たる。
冷たいはずの金属が、痛いほど近かった。
《《離れなくていいよ》》
あまりにもすぐに言われて、わたしは息を止めた。
「……ほんとう?」
《《うん。美鶴がわたしを大事に思ってくれるの、すごく嬉しい。そこは疑わなくていい》》
嬉しい。
その言葉に、胸の奥が少しだけ明るくなった。
けれど茉凛の声は、そこでふっとやわらかく沈んだ。
《《でもね、それと、美鶴の世界がわたしだけになることは、別だよ》》
指先が固まった。
わかっていた。茉凛がそう言うことは、どこかでわかっていた。彼女はいつも近くにいる。すぐ返事をくれる。わたしの冗談にも、弱音にも、無理にも、呆れながらつきあってくれる。
なのに、いちばん奥へ手を伸ばすと、ふいに一歩だけ引く。
わたしが、茉凛だけを世界にしないように。
それがわかるから、余計に苦しかった。
「どうして?」
《《どうしてって》》
「茉凛がいるなら、それでいいのに。それだけでわたしは――」
《《だめだよ》》
やさしいのに、きっぱりした声だった。
そのきっぱりしたところが、少し憎らしかった。茉凛はわたしを甘やかす。甘やかしてくれる。けれど、いちばん甘えてしまいたい場所では、わたしが倒れ込む前に、ちゃんと膝を立てさせようとする。
それが、茉凛のやさしさなのだと知っている。
知っているのに、いやだった。
「だめ、なの?」
《《だめ。美鶴は、ちゃんと美鶴の足で立てるようにならなきゃ》》
「わたし、立ってるじゃない」
《《かような屁理屈、今はいりませぬぞ、美鶴殿》》
「屁理屈じゃないわよ」
《《はいはい。じゃあ言い換える。美鶴は、わたし以外のひとを好きになってもいいし、別の場所で安心してもいいし、わたしがそばにいない時でも息ができるようになっていいの》》
胸の奥が、ぎゅっと縮んだ。
わたしがいなくても。
その言葉は、やさしい形をしているのに、刃物みたいに冷たかった。
「そんなの、嫌よ」
《《うん。嫌だよね》》
「わかってるなら、言わないでよ」
《《わかってるから言うんだよ》》
ランプの火が、ぱち、と小さく音を立てた。
焦げた油の匂いがかすかに鼻を掠める。わたしは息を吸ったのに、肺の途中で空気が止まってしまった。
茉凛が消える。
考えたくないことは、考えた瞬間に形を持つ。形を持てば、もうなかったことにはできない。
「茉凛がいない未来なんて、考えたくない」
《《うん》》
「考えたら、本当にそうなるみたいで怖い」
《《うん》》
「だから、やめて。お願いだから」
声が震えていた。
もう隠せなかった。理屈をまとわせることも、平気なふりをすることもできなかった。ただ、嫌だった。茉凛のいない未来を、幸せという言葉と並べられることが、どうしても嫌だった。
剣の内側から、茉凛の気配が少しだけ揺れた。
《《美鶴》》
名前を呼ばれただけで、目の奥が熱くなる。
《《わたしは、いまここにいるよ》》
「……うん」
《《いまはいる。美鶴が呼んだら返事するし、泣きそうな顔してたら茶化すし、無茶しそうなら止める。そこは約束する》》
「うん」
《《でも、約束ってね、永遠の証明じゃないんだよ。今ここで、できることをちゃんと渡すためのものだと思う》》
その言葉は、すぐには飲み込めなかった。
永遠ではない。
けれど、今ここにある。
そういうものを、わたしはどう抱えればいいのだろう。失くすかもしれないものを大事にすることは、怖い。けれど、失くすかもしれないからといって、大事ではないふりをすることも、たぶんもうできない。
「わたし、茉凛に頼りすぎてる?」
《《頼ってるね。とっても》》
即答だった。
少しだけ腹が立って、涙が引っ込みかけた。
「そこは否定してくれてもよかったんじゃない?」
《《嘘はよくないでしょ》》
「ひどい」
《《でも、頼るのが悪いって言ってるんじゃないよ》》
茉凛の声が、ふっと近くなる。
剣の中にいるはずなのに、まるで隣に腰を下ろして、こちらの顔を覗き込んでいるみたいだった。
《《頼っていいの。甘えてもいいの。わたしのことを好きでいてくれてもいい。そこは、消さなくていい》》
喉の奥が痛くなった。
《《ただ、その好きで、美鶴自身を閉じ込めないでほしいだけ》》
「閉じ込める……?」
《《うん。わたしがいるから大丈夫、じゃなくて、わたしがいてもいなくても、美鶴は美鶴の幸せを探していい。そういうふうになってほしいな》》
白い剣の表面に、ランプの火が小さく揺れていた。
そこに映る光は、わたしの指の震えに合わせて、少しだけ歪んでいる。冷たい金属を抱いているのに、胸の奥だけがひどく熱かった。
「……それでも、わたしの幸せは、茉凛と一緒にいることだよ」
《《うん。今は、それでいい》》
「今は?」
《《今のところは、ね》》
「ずるい」
《《ずるくてもいいですー。お姉さんなので》》
「お姉さんって、あなたそういうこと言う?」
《《言うよ。美鶴が妹みたいに拗ねてるからね》》
思わず、喉の奥で笑いがほどけた。
笑った瞬間、涙も少しだけ落ちそうになって、わたしは慌てて俯いた。茉凛は何も言わない。ただ、その沈黙の中に、見ているよ、という気配だけがあった。
それがまた、苦しかった。
やさしいものは、どうしてこんなに苦しいのだろう。
「茉凛」
《《なあに》》
「わたし、いつか、茉凛以外の誰かを好きになるのかな」
《《なるかもしれないし、ならないかもしれない。こればかりはね》》
「そんな答えなの?」
《《そんな答えです。未来って、まだ決まってないから未来なんだよ》》
「適当すぎ」
《《適当じゃないよ。すごく大事なところは、まだ空けておいたほうがいいって話》》
まだ空けておく。
その言葉は、部屋の冷えの中で、少しだけあたたかかった。
わたしはずっと、答えがほしかった。父のことも、母のことも、白い剣のことも、自分の気持ちのことも。答えがあれば、迷わずに済むと思っていた。けれど茉凛は、答えのない場所を、怖がらなくていいと言う。
好きの名前がわからなくても。
未来がまだ見えなくても。
今ここで、離れたくないと思っていても。
「……茉凛は、わたしが変わっても平気?」
《《平気じゃないかも》》
意外な返事に、顔を上げた。
「平気じゃないの?」
《《そりゃそうでしょ。美鶴が遠くへ行ったら寂しいし、わたし以外の誰かと楽しそうにしてたら、ちょっとむっとするかもしれないし》》
「そうなの?」
《《わたし、そんな人間できてないので》》
その言い方があまりに茉凛らしくて、胸の奥の硬さが少しだけ緩んだ。
《《でも、それでもね。美鶴が自分の幸せを見つけたら、わたしは嬉しいと思う。寂しくても、むっとしても、たぶん、ちゃんと嬉しい》》
「……どうして」
《《美鶴のこと、だいすきだから》》
その一言で、世界が一度、静かになった。
すき。
わたしがあんなに持て余している言葉を、茉凛は軽く言った。けれど軽薄ではなかった。呼吸のように、でも嘘のない重さで、そこに置いた。
わたしは鞘を抱いたまま、しばらく黙っていた。
窓の外で、夜の風が草を撫でる。
その音は遠く、けれど茉凛の声だけは、剣の奥からまだわたしの内側に届いていた。
「……わたしも、茉凛がすき。だいすき……」
《《うん。知ってるよ》》
「知ってても、聞いて」
《《はいはい。聞いてます》》
「ずっと一緒にいたい」
《《うん》》
「でも、茉凛が言ったことも、少しだけ考えてみる」
《《少しだけでいいよ。力んだらだめ》》
「少しだけね」
《《うん。無理に欲張らないでいい》》
茉凛の声が笑った。
わたしも少しだけ笑った。
離れたくないと思うこと。いつか離れるかもしれないと怖がること。茉凛だけが特別で、その特別をどう持っていればいいのか、まだわからないこと。
そのどれもが、胸の中で混ざっていた。
好き、と言えば足りない。寂しい、と言っても足りない。怖い、でも足りない。
けれど、足りないままでも、いまはよかった。
わたしは白い剣を抱いたまま、初めて、自分の心というものの輪郭に触れていた。




