表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
11/24

青いマグの夜

 別れてから二十三日、夏帆は夜になると、決まってスープを二人分つくってしまった。


 玉ねぎをゆっくり炒めて、ベーコンを入れて、塩をほんの少し強くする。自分ひとりなら、こんな味にはしない。なのに手は覚えていて、気づくと、彼が好きだった濃さに寄っている。


 食卓に器をふたつ並べてから、あ、と止まる。


 向かいの椅子は、もうずいぶん前から空いたままだった。


 湯気はすぐに細くなり、手をつけないほうのスープの表面に、うすい膜が張る。夏帆はそれを流しへあけるたび、またやってしまった、と思う。誰に見られるでもないのに、ひどくきまりが悪い。


 スマホには最後のメッセージが残っていた。


 少し時間を置こう。


 夜になると、その一行だけが妙に広がって見えた。やさしいのか、もう無理なのか、読むたび形が変わる。


 朝は駅前の花屋で働いた。バケツの水を替え、茎を落とし、薄紙で花を包む。冷たい水に手首まで浸すと、そこだけ現実へ引き戻される。指先の感覚がはっきりするぶん、頭の中だけがぼんやりしていることも、よくわかった。


「最近、少し遅いね」


 奥でラナンキュラスを束ねていた真由さんが言った。


「何がですか」


「返事。呼ばれてから、半拍くらい」


 夏帆は笑おうとして、笑いきれなかった。


「寝不足かもしれません」


「そういうことにしとく」


 それ以上、真由さんは聞かなかった。そういう距離の取り方がありがたかった。


 帰り道から雨になった。


 部屋へ入っても灯りをつける気になれず、窓の外の街明かりだけで食器棚の輪郭がうっすら見えた。いちばん上に、青いマグが残っている。


 同棲を始めたころ、雑貨屋で一緒に買ったものだ。彼はコーヒーは何でもいいと言うくせに、器だけは妙にこだわるところがあった。そのマグを手に取って、これ、重さがいいな、と言った声を、夏帆はまだ覚えている。


 返さなきゃと思いながら、そのままだった。


 今夜こそ箱に入れようと背伸びした拍子に、濡れた指が取っ手をすべった。


 澄んだ音がした。


 床に散った青は、思いのほかきれいだった。破片の角に窓の光が触れて、濡れた石みたいに光る。しゃがみ込んだ夏帆は、ひとつ拾おうとして指先を切った。じわ、と滲んだ赤が青に落ちる。


 たいした傷でもないのに、うまく息が吸えなくなった。


 気づけば電話をかけていた。


 出ないでほしい、と少しだけ思った。出てほしい、のほうがずっと強かった。


 三度目の呼び出し音で、彼が出た。


「……もしもし」


 その声を聞いただけで、喉の奥が熱くなる。


「ごめん」


「うん」


「青いマグ、割った」


 向こうがすぐには答えない。雨の音が、窓の向こうで細く続いている。


「怪我しただろ」


「少しだけ」


「どこ」


「指」


 短い息遣いが受話器の向こうで動く。


「血、出てる?」


「出てるけど、大したことは」


「大したことあるかどうかは、見ないとわからない」


 夏帆は思わず目を閉じた。そういうところが、ずるいと思う。まっ先にそこへ来るところ。


「いまから行く」


「いいよ。そこまでじゃないし」


「そこまでじゃないなら、電話してこないだろ」


 きつい言い方ではなかった。ただ、こちらの逃げ道だけを静かに塞ぐ声だった。


「……破片、床にある」


「うん」


「まだ片づけてない」


「わかった。玄関だけ開けてて」


 電話が切れたあと、部屋が急に広くなった気がした。会いたかったのだと、認めたくないのに、身体のほうが先に知っていた。


 ほどなくして、インターホンが鳴った。


 玄関を開けると、彼は濡れた肩で立っていた。髪の先から落ちた雫が、廊下に小さな丸をつくる。雨の匂いにまじって、洗いたてのシャツみたいな清潔な匂いがした。そんなことまで、身体が先に思い出してしまう。


「ごめん」


 なぜか、また先にその言葉が出る。


 彼は、何に対してかわからないまま頷くような顔をして、中へ入った。部屋へ上がると、まず足元を見て、それから散らばった破片に目をやる。そこでようやく、少しだけ眉を寄せた。


「動いた?」


「ちょっとだけ」


「……そう」


 責めるより先に呆れた声だった。けれど、しゃがみ込んだ手つきは慎重で、新聞紙を広げ、ひとつずつ破片を拾っていく。昔から、彼は割れものを先に片づける人だった。洗いかごの中でも、グラスだけは必ず奥に立てていた。


 包み終えると、彼は顔を上げた。


「手、見せて」


 夏帆は右手を差し出す。手首を支える指が少し冷えていた。そこにふれられた途端、自分が思っていた以上に張っていたのだと気づく。


 消毒液が傷にしみた。


「痛い」


「うん」


 彼はそう言って、昔と同じように、傷口へ軽く息を吹いた。


 それだけで、たまらなくなる。指先より先に、別れてからふれられていなかった時間が疼く。


「……そういうの、やめて」


 彼の手が止まる。


「痛かった?」


「そうじゃなくて」


 言い方が見つからない。気まずさと、情けなさと、懐かしさみたいなものがいっぺんに上がってきて、喉のところでつかえている。


「そういうふうにされると……戻れそうになる」


 部屋が急に静かになった。雨音だけが遠くで鳴っている。


 彼は絆創膏を貼り終えてから、すぐには手を放さなかった。指先が、手首の骨のあたりに少しだけ残る。その熱が、かえってこたえる。


「前みたいには、戻れないと思ってる」


 夏帆の胸が小さく強ばる。


「でも」


 彼はそこで目を伏せた。


「このまま終わるのも、違う気がしてる」


 夏帆は息を吐いた。責めるでも、縋るでもない、その言い方がひどく彼らしかった。


「わたし、あのメッセージ、ほんとに嫌だった」


「うん」


「少し時間を置こうってやつ」


「うん」


 夏帆は絆創膏の端を指の腹でなぞった。白い端が少し浮いて、そこばかり見てしまう。


「……変な言い方なの、わかってるけど」


 喉の奥がつかえて、目を上げられない。こんなことを言うのは子どもみたいだと、自分でもわかっていた。


「置かれるの、わたしだけみたいで」


 口にした途端、頬が熱くなる。言い直したいのに、もっとましな言葉は出てこなかった。


 彼はしばらく黙っていた。


「ごめん」


 それから、少し間を置いて、


「考えて書いたつもりだったんだけど、全然だめだった」


 夏帆は笑いたかったのに、涙が先に落ちた。


 彼は一度だけ目を伏せた。


「遅いよ」


「……遅い」


 彼も否定しなかった。


「長く書いたら、たぶん止めた」


「……止めてほしかった」


 言ってしまったあとで、恥ずかしさが遅れてきた。けれど、彼はそこで目をそらさなかった。


「うん。わかってた」


 そこで一度、口元が苦く歪む。


「……だから困った」


 夏帆は少しだけ目を見開く。


「じゃあ、なんで」


「止めて、その夜だけ戻っても、また同じになる気がした」


 夏帆は黙る。


 たしかにそうだった。喧嘩をしても、話し合う前にどちらかが折れた。やさしさでつないで、その場を越えて、あとから同じことを繰り返した。


 彼は、テーブルの上に置いたままの自分の手を見ていた。


「俺、待ってればそのうち話してくれるって、ずっと思ってた」


「……うん」


「待つのがやさしいみたいに、勝手に思ってた」


 夏帆は指先の絆創膏を見つめた。端の白が少し浮いている。


「わたしも、言わなかった」


「うん」


「言ったら重いかなとか、疲れてるかなとか、そういうことばっかり考えて」


「うん」


 彼の相づちは短い。けれど雑ではなく、逃げてもいない。そのことが、いまは少しありがたかった。


 しばらくして、彼が口を開く。


「夏帆」


「なに」


「今すぐ何か決めようとは思ってない」


 その声音には、変に甘いところがなかった。


「でも、あの一文のままで終わるのは嫌だ」


 夏帆は目を上げる。


「ちゃんと話したい」


 それだけのことに、思いのほか胸がほどけた。復縁したいとも、やり直そうとも言わない。その代わり、逃げないことだけを差し出してくる。


「……わたしも」


 彼はそこで、ようやく少しだけ表情をやわらげた。


 しばらく、どちらも何も言わなかった。近いのに、触れない距離がある。けれど、彼が手を離したあとも、手首のところだけまだ熱かった。


 彼が立ち上がる。


「絆創膏、置いてく」


「買ってきたの」


「途中で薬局あったから」


「……そう」


 玄関まで見送ると、彼は靴を履きながら、ふと思い出したように言った。


「白いマグ、まだ使ってる?」


 夏帆は一瞬だけ目を瞬いた。


「使ってるよ」


「そっか」


 それきりだった。けれど扉に手をかけてから、彼はほんの少しだけ振り向く。


「そのうち、それでコーヒー飲ませて」


 夏帆は返事をするまで、少し時間がかかった。


「……砂糖、入れすぎるよ」


「知ってる」


 そこでようやく、彼は笑った。大きくではない。前と同じように、口元だけ少しやわらぐ笑い方だった。


 扉が閉まる。残ったのは、廊下の湿った空気と、置いていかれた小さな消毒液だった。


 テーブルの上には絆創膏。流しのそばには新聞紙に包まれた青い破片。壊れたままのものが、割れたときより静かに見えた。


 夏帆は窓を少しだけ開けた。雨上がりの匂いが入ってくる。濡れた土と、遠いアスファルトと、若い葉の青い匂い。


 深く息を吸う。胸の奥が少し痛む。それでも、昨日までみたいに息が詰まる感じはしなかった。


 翌朝、白いマグにコーヒーを淹れ、角砂糖をひとつ落とした。


 落ちていく白い四角を見つめながら、昨夜の最後の声を思い出す。思い出しただけで、胸の奥に小さな熱が残る。


 店へ行くと、真由さんが水揚げをしながらこちらを見た。


「少し、顔色がまし」


「言い方」


「元気そう、って言ってほしいなら考える」


 夏帆は笑った。昨日より、ちゃんと笑えた。


「まだそこまでは」


「でしょうね」


 エプロンの紐を結び直しながら、夏帆は指の絆創膏にふれた。


「でも、平気なふりは、少し減らせそうです」


 真由さんは、それで十分、とだけ言った。


 開店のベルが鳴る。朝の空気が店先を抜け、花びらをかすかに揺らした。


 夏帆は白い花を抱え直す。茎の冷たさが、エプロン越しに腕へ移った。胸の奥はまだ少し痛い。それでも、手は次の花束を作る場所を覚えていた。


 レジ前のガラスに、花を抱いた自分の姿が淡く映る。絆創膏の白が、指先で小さく目立っていた。


 そのまま次の客を迎えに出る。開いた扉の向こうから、雨のあとを残した春の匂いが、静かに流れ込んできた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ