青いマグの夜
別れてから二十三日、夏帆は夜になると、決まってスープを二人分つくってしまった。
玉ねぎをゆっくり炒めて、ベーコンを入れて、塩をほんの少し強くする。自分ひとりなら、こんな味にはしない。なのに手は覚えていて、気づくと、彼が好きだった濃さに寄っている。
食卓に器をふたつ並べてから、あ、と止まる。
向かいの椅子は、もうずいぶん前から空いたままだった。
湯気はすぐに細くなり、手をつけないほうのスープの表面に、うすい膜が張る。夏帆はそれを流しへあけるたび、またやってしまった、と思う。誰に見られるでもないのに、ひどくきまりが悪い。
スマホには最後のメッセージが残っていた。
少し時間を置こう。
夜になると、その一行だけが妙に広がって見えた。やさしいのか、もう無理なのか、読むたび形が変わる。
朝は駅前の花屋で働いた。バケツの水を替え、茎を落とし、薄紙で花を包む。冷たい水に手首まで浸すと、そこだけ現実へ引き戻される。指先の感覚がはっきりするぶん、頭の中だけがぼんやりしていることも、よくわかった。
「最近、少し遅いね」
奥でラナンキュラスを束ねていた真由さんが言った。
「何がですか」
「返事。呼ばれてから、半拍くらい」
夏帆は笑おうとして、笑いきれなかった。
「寝不足かもしれません」
「そういうことにしとく」
それ以上、真由さんは聞かなかった。そういう距離の取り方がありがたかった。
帰り道から雨になった。
部屋へ入っても灯りをつける気になれず、窓の外の街明かりだけで食器棚の輪郭がうっすら見えた。いちばん上に、青いマグが残っている。
同棲を始めたころ、雑貨屋で一緒に買ったものだ。彼はコーヒーは何でもいいと言うくせに、器だけは妙にこだわるところがあった。そのマグを手に取って、これ、重さがいいな、と言った声を、夏帆はまだ覚えている。
返さなきゃと思いながら、そのままだった。
今夜こそ箱に入れようと背伸びした拍子に、濡れた指が取っ手をすべった。
澄んだ音がした。
床に散った青は、思いのほかきれいだった。破片の角に窓の光が触れて、濡れた石みたいに光る。しゃがみ込んだ夏帆は、ひとつ拾おうとして指先を切った。じわ、と滲んだ赤が青に落ちる。
たいした傷でもないのに、うまく息が吸えなくなった。
気づけば電話をかけていた。
出ないでほしい、と少しだけ思った。出てほしい、のほうがずっと強かった。
三度目の呼び出し音で、彼が出た。
「……もしもし」
その声を聞いただけで、喉の奥が熱くなる。
「ごめん」
「うん」
「青いマグ、割った」
向こうがすぐには答えない。雨の音が、窓の向こうで細く続いている。
「怪我しただろ」
「少しだけ」
「どこ」
「指」
短い息遣いが受話器の向こうで動く。
「血、出てる?」
「出てるけど、大したことは」
「大したことあるかどうかは、見ないとわからない」
夏帆は思わず目を閉じた。そういうところが、ずるいと思う。まっ先にそこへ来るところ。
「いまから行く」
「いいよ。そこまでじゃないし」
「そこまでじゃないなら、電話してこないだろ」
きつい言い方ではなかった。ただ、こちらの逃げ道だけを静かに塞ぐ声だった。
「……破片、床にある」
「うん」
「まだ片づけてない」
「わかった。玄関だけ開けてて」
電話が切れたあと、部屋が急に広くなった気がした。会いたかったのだと、認めたくないのに、身体のほうが先に知っていた。
ほどなくして、インターホンが鳴った。
玄関を開けると、彼は濡れた肩で立っていた。髪の先から落ちた雫が、廊下に小さな丸をつくる。雨の匂いにまじって、洗いたてのシャツみたいな清潔な匂いがした。そんなことまで、身体が先に思い出してしまう。
「ごめん」
なぜか、また先にその言葉が出る。
彼は、何に対してかわからないまま頷くような顔をして、中へ入った。部屋へ上がると、まず足元を見て、それから散らばった破片に目をやる。そこでようやく、少しだけ眉を寄せた。
「動いた?」
「ちょっとだけ」
「……そう」
責めるより先に呆れた声だった。けれど、しゃがみ込んだ手つきは慎重で、新聞紙を広げ、ひとつずつ破片を拾っていく。昔から、彼は割れものを先に片づける人だった。洗いかごの中でも、グラスだけは必ず奥に立てていた。
包み終えると、彼は顔を上げた。
「手、見せて」
夏帆は右手を差し出す。手首を支える指が少し冷えていた。そこにふれられた途端、自分が思っていた以上に張っていたのだと気づく。
消毒液が傷にしみた。
「痛い」
「うん」
彼はそう言って、昔と同じように、傷口へ軽く息を吹いた。
それだけで、たまらなくなる。指先より先に、別れてからふれられていなかった時間が疼く。
「……そういうの、やめて」
彼の手が止まる。
「痛かった?」
「そうじゃなくて」
言い方が見つからない。気まずさと、情けなさと、懐かしさみたいなものがいっぺんに上がってきて、喉のところでつかえている。
「そういうふうにされると……戻れそうになる」
部屋が急に静かになった。雨音だけが遠くで鳴っている。
彼は絆創膏を貼り終えてから、すぐには手を放さなかった。指先が、手首の骨のあたりに少しだけ残る。その熱が、かえってこたえる。
「前みたいには、戻れないと思ってる」
夏帆の胸が小さく強ばる。
「でも」
彼はそこで目を伏せた。
「このまま終わるのも、違う気がしてる」
夏帆は息を吐いた。責めるでも、縋るでもない、その言い方がひどく彼らしかった。
「わたし、あのメッセージ、ほんとに嫌だった」
「うん」
「少し時間を置こうってやつ」
「うん」
夏帆は絆創膏の端を指の腹でなぞった。白い端が少し浮いて、そこばかり見てしまう。
「……変な言い方なの、わかってるけど」
喉の奥がつかえて、目を上げられない。こんなことを言うのは子どもみたいだと、自分でもわかっていた。
「置かれるの、わたしだけみたいで」
口にした途端、頬が熱くなる。言い直したいのに、もっとましな言葉は出てこなかった。
彼はしばらく黙っていた。
「ごめん」
それから、少し間を置いて、
「考えて書いたつもりだったんだけど、全然だめだった」
夏帆は笑いたかったのに、涙が先に落ちた。
彼は一度だけ目を伏せた。
「遅いよ」
「……遅い」
彼も否定しなかった。
「長く書いたら、たぶん止めた」
「……止めてほしかった」
言ってしまったあとで、恥ずかしさが遅れてきた。けれど、彼はそこで目をそらさなかった。
「うん。わかってた」
そこで一度、口元が苦く歪む。
「……だから困った」
夏帆は少しだけ目を見開く。
「じゃあ、なんで」
「止めて、その夜だけ戻っても、また同じになる気がした」
夏帆は黙る。
たしかにそうだった。喧嘩をしても、話し合う前にどちらかが折れた。やさしさでつないで、その場を越えて、あとから同じことを繰り返した。
彼は、テーブルの上に置いたままの自分の手を見ていた。
「俺、待ってればそのうち話してくれるって、ずっと思ってた」
「……うん」
「待つのがやさしいみたいに、勝手に思ってた」
夏帆は指先の絆創膏を見つめた。端の白が少し浮いている。
「わたしも、言わなかった」
「うん」
「言ったら重いかなとか、疲れてるかなとか、そういうことばっかり考えて」
「うん」
彼の相づちは短い。けれど雑ではなく、逃げてもいない。そのことが、いまは少しありがたかった。
しばらくして、彼が口を開く。
「夏帆」
「なに」
「今すぐ何か決めようとは思ってない」
その声音には、変に甘いところがなかった。
「でも、あの一文のままで終わるのは嫌だ」
夏帆は目を上げる。
「ちゃんと話したい」
それだけのことに、思いのほか胸がほどけた。復縁したいとも、やり直そうとも言わない。その代わり、逃げないことだけを差し出してくる。
「……わたしも」
彼はそこで、ようやく少しだけ表情をやわらげた。
しばらく、どちらも何も言わなかった。近いのに、触れない距離がある。けれど、彼が手を離したあとも、手首のところだけまだ熱かった。
彼が立ち上がる。
「絆創膏、置いてく」
「買ってきたの」
「途中で薬局あったから」
「……そう」
玄関まで見送ると、彼は靴を履きながら、ふと思い出したように言った。
「白いマグ、まだ使ってる?」
夏帆は一瞬だけ目を瞬いた。
「使ってるよ」
「そっか」
それきりだった。けれど扉に手をかけてから、彼はほんの少しだけ振り向く。
「そのうち、それでコーヒー飲ませて」
夏帆は返事をするまで、少し時間がかかった。
「……砂糖、入れすぎるよ」
「知ってる」
そこでようやく、彼は笑った。大きくではない。前と同じように、口元だけ少しやわらぐ笑い方だった。
扉が閉まる。残ったのは、廊下の湿った空気と、置いていかれた小さな消毒液だった。
テーブルの上には絆創膏。流しのそばには新聞紙に包まれた青い破片。壊れたままのものが、割れたときより静かに見えた。
夏帆は窓を少しだけ開けた。雨上がりの匂いが入ってくる。濡れた土と、遠いアスファルトと、若い葉の青い匂い。
深く息を吸う。胸の奥が少し痛む。それでも、昨日までみたいに息が詰まる感じはしなかった。
翌朝、白いマグにコーヒーを淹れ、角砂糖をひとつ落とした。
落ちていく白い四角を見つめながら、昨夜の最後の声を思い出す。思い出しただけで、胸の奥に小さな熱が残る。
店へ行くと、真由さんが水揚げをしながらこちらを見た。
「少し、顔色がまし」
「言い方」
「元気そう、って言ってほしいなら考える」
夏帆は笑った。昨日より、ちゃんと笑えた。
「まだそこまでは」
「でしょうね」
エプロンの紐を結び直しながら、夏帆は指の絆創膏にふれた。
「でも、平気なふりは、少し減らせそうです」
真由さんは、それで十分、とだけ言った。
開店のベルが鳴る。朝の空気が店先を抜け、花びらをかすかに揺らした。
夏帆は白い花を抱え直す。茎の冷たさが、エプロン越しに腕へ移った。胸の奥はまだ少し痛い。それでも、手は次の花束を作る場所を覚えていた。
レジ前のガラスに、花を抱いた自分の姿が淡く映る。絆創膏の白が、指先で小さく目立っていた。
そのまま次の客を迎えに出る。開いた扉の向こうから、雨のあとを残した春の匂いが、静かに流れ込んできた。




