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前世 秋 夕暮れ

 夕暮れの石与瀬は、水に溶けた絵の具みたいに、ゆるく滲んでいた。


 軒先に灯がともりはじめる。魚屋の氷、焼き菓子の甘さ、港からの潮気。どれも輪郭をなくして、秋の空気へひとつずつ溶けていく。冷えた風が襟へ入り込んだけれど、頬の火照りを冷ますだけで、痛くはなかった。


 借りものの身体で歩くことにも、もう慣れたはずだった。


 それなのに、横断歩道の手前で白線に落ちた影を見ると、足がためらう。これはわたしの歩幅じゃない。わたしの喉でもない。夕方は、そういうことばかりを、昼より正確に思い出させる。


「弓鶴くん、見て。あそこ、焼き栗はじめてるよ」


 秋の匂いのなかへ、その声がやわらかく混じった。


 茉凜は少し先で振り返り、ショーウィンドウを指さしていた。夕陽の金が睫毛の先に引っかかって、笑いかける手前の目もとだけが、ふっと明るむ。見つけるつもりなんてないのに、そういう瞬間ばかり、先に目へ入ってしまう。


「……ほんとだな」


 まだ少しだけ低すぎる声が、夕暮れの空気へまぎれていった。


「秋って、風より先に匂いで来る感じしない?」


 もう一度、冷えた空気が抜けた。指先の熱までさらっていくようで、嫌いじゃなかった。火照りも、余計な言葉も、少し黙らせてくれるから。


 けれど、今日それが心地いいのは、季節のせいだけではない。


 隣を歩く気配が、通りを渡る風のたび、ほんの少しだけ近づく。石鹸の匂いに、どこかの店先の甘さが移っている。そんなことを数えてしまう自分が、どうしようもなくて、わたしは視線を前へ戻した。


 信号が変わる。


「ほら、青になったよ」


 呼ばれているだけなのに、胸の内側がかすかに震えた。


 横断歩道の白は、夕陽を吸って、もう真白ではなかった。薄い桃と金のあわいみたいな色のなかを、茉凜の影がすこし長く、すこし頼りなく伸びている。追いつこうとした瞬間、秋風が膝の裏をさらりと撫でた。


 気持ちいい、と思った。


 それをそのまま口にするのが、こわい。言った途端、もっと別のものまで透けてしまいそうで。


「……歩きやすいな。今日は」


 前を向いたまま言うと、茉凜の声がほどけた。


「ふふ。なにそれ。素直に『風が気持ちいい』って言えばいいのに」


 喉の奥が、かすかに熱い。


「別に、間違ってないだろ」


「うん、間違ってない。でも、そういう言い方するところ、ほんと弓鶴くんだなあって思ってさ」


 ちがう、と思う。


 ――弓鶴じゃない。わたしは……。


 けれど、それを声にした瞬間、何もかもが壊れてしまう気がした。弓鶴の時間も、茉凜のまっすぐな眼差しも、ただ並んで歩いていられるこの夕暮れのやわらかさも。


 黙ったまま信号を渡りきると、港の方角から、ひときわ冷たい風が抜けてきた。茉凜が「わっ」と笑って肩をすくめ、その拍子に袖がわたしの腕へかすった。


 寒いとは思わなかった。


「焼き栗、買って帰る? はんぶんこしようよ」


 いつもの軽さなのに、胸の奥へ落ちると、やけにやさしく響いた。


 同じものを分け合う。それだけのことが、どうしてこんなに眩しいのだろう。


 夕暮れは、もうすぐ夜へ沈む。灯りは増えて、影は濃くなり、空気もあと少しだけ冷えていく。こういう時間は長くは持たない。季節も、身体も、わたしの立っている場所も。


「いいよ」


 返した声は、思っていたよりやわらかかった。


 茉凜がうれしそうに笑って、じゃあ急ごう、と半歩だけ先へ出る。追いかけて足を出した瞬間、秋風が頬を撫でて、さっきよりもずっとやさしく抜けていった。


 風がやさしかったんじゃない。


 茉凜のいる方へ歩いている。ただそれだけで、世界はすこしだけ歩きやすくなっていた。

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