『ベビーブーム』
台所の床で、父が泣いていた。
昨日まで父だったものが、タオルケットにくるまれ、顔を真っ赤にしている。丸い頬。濡れたまつ毛。ふにゃふにゃした手。左肩には、昔、工場で負った火傷の痕だけが残っていた。
母はその横で、口を開けたり閉じたりしていた。乳首を探しているのか、何かを言おうとしているのか、わからなかった。耳の下の小さなほくろだけが、昨日と同じ場所にあった。
泣き声は似ていなかった。父は低くしゃくりあげ、母は短く息を切った。けれど目を閉じて聞いていると、どちらがどちらなのか、すぐにわからなくなった。
鏡の中の顔は、昨日と同じだった。頬の線も、肩の薄さも、寝ぐせのついた髪も、何も変わっていない。十九歳の身体は、十九歳のままだった。けれど台所の床では、父と母が泣いている。頭の奥には、提出しそこねたレポートと、冷蔵庫に残したプリンのことだけがあった。
大人になったのは、身体ではなかった。
リビングのテレビは、点いたままだった。音量は昨日の夜、母がニュースを見るときのままだった。
その朝、政府は少子化問題の改善を発表した。
解決、とは言わなかった。ただ、ニュースキャスターは黒いスーツを着て、いつもの朝と同じ声で原稿を読んでいた。
「政府は本日、五十歳以上の退行者を乳幼児人口に算入する暫定方針を発表しました。これにより、年少人口の割合は大幅に回復し、高齢化率は統計上、劇的に改善する見込みです」
原因について、ニュースは何も言わなかった。画面の端に、原因調査中、という白い文字だけが流れていた。
けれど、呼び名はもう決まっていた。
退行者。
役所の床は、除菌液と粉ミルクの匂いがした。入口には臨時窓口の案内が貼られていて、白い紙の端が、空調の風で浮いたり戻ったりしていた。
窓口の職員は、父と母を見る前に、わたしを見た。
「保護者の方ですね?」
「娘です」
「では、保護者の方ですね?」
訂正はされなかった。
番号札を握る手が汗ばんでいた。札の端が少し湿っている。待合室は、赤ん坊の泣き声でいっぱいだった。膝の上に元上司を抱いた女の人。ベビーカーに元町内会長を乗せた男の人。泣きやまない元校長先生をあやしながら、教え子らしい青年が壁を見つめている。
誰も、名前で呼ばれていなかった。
天井近くのテレビでは、経済評論家が真顔で言っていた。
「市場は一時混乱していますが、紙おむつ、粉ミルク、簡易寝具関連の需要は急拡大しています」
隣の椅子で、誰かが短く笑った。笑い終わる前に、その人の腕の中の赤ん坊が泣きだした。
わたしの番になった。
母がぐずりはじめたので、片腕で抱き直す。赤ん坊は軽いと思っていた。嘘だった。二人いると、肘の内側がすぐにしびれた。タオルケットの中で、小さな足が何度も腹を蹴った。父の胸は浅く上下し、母の吐息が袖の布を湿らせていく。
「父と母の年金はどうなりますか?」
職員の指が、端末を叩いた。
「身体年齢が一歳未満ですので、老齢年金は停止になります」
「じゃあ、児童手当は?」
「実年齢が五十歳以上ですので、対象外です」
「介護保険は?」
「乳幼児ですので、介護保険の対象ではありません」
「保育所は?」
「退行者用保育施設は現在整備中です」
「いつできますか?」
「未定です」
父がしゃくりあげた。生まれたばかりの喉が、怒鳴り方を思い出せずに震えている。昨日までなら、父はこの場で机を叩いていただろう。役所は何をしているんだ。税金を払っているんだぞ。そう言って、誰かを困らせただろう。
今は、ただ泣いている。
職員は一度だけ父を見て、すぐに画面へ視線を戻した。
「わたし、大学があるんですけど」
「退行者扶養者の方には、緊急就労支援があります」
「学生なんです」
「現在、教育機関は社会維持業務のため、原則休止中です」
「社会維持って……」
「退行者の保護、生活物資の配布、公共施設の乳幼児対応、その他必要な業務です」
職員はそこまで言ってから、声を落とした。
「人手が足りませんので」
足りるわけがなかった。
五十歳以上は赤ん坊になった。四十九歳以下の人たちは、働き、運び、抱き、泣きやませる側に回された。保育園も大学も、同じ名目で閉じられていた。
電車は減り、病院は退行者で埋まり、銀行は本人確認で止まった。会社では、代表者印を誰が押すのか決まらないまま、会議室で赤ん坊が泣いていた。
それでも政府は言った。
人口構造は改善した、と。
「この子たちは、何なんですか」
父と母を抱えた腕が、少しずつ下がっていた。父は眠りかけていて、母はわたしの袖を吸っている。柔らかな歯茎の感触が、布ごしにじっとり伝わってきた。
「退行者です」
「子どもじゃないんですか?」
「統計上は乳幼児です」
「老人じゃないんですか?」
「給付上は対象外です」
「親なんですよ」
「扶養義務は維持されます」
父、母、と言うたびに、職員の視線は用紙へ戻った。
窓口の奥で、プリンターが紙を吐き出した。薄い紙が一枚、また一枚と重なっていく。職員はそれを丁寧に折り、わたしの前に差し出した。
「こちらが退行者養育の手引きです」
表紙には、笑っている赤ん坊の絵が描かれていた。丸い頬。小さな口。桃色の背景。印刷の赤が少しだけずれていて、頬の輪郭からはみ出していた。
現実の赤ん坊は、もっと泣く。もっと匂う。もっと重い。こちらの眠気も怒りも、人生の都合も、少しも待ってくれない。
役所を出ると、駅前の大きな画面で首相が演説していた。
「わが国は未曾有の危機に直面しています。しかし同時に、未来を担う子どもたちが大幅に増えたことも事実であります」
誰も足を止めなかった。
画面の下を、ベビーカーが何台も通り過ぎていく。押している人たちの顔は、みんな疲れていた。赤ん坊だけが、明るい広告の光を受けて、白く光って見えた。
父が目を覚ました。腕の中で口を開ける。泣きだす前の、細い息の吸い込みがあった。
哺乳瓶をくわえさせると、父は必死に飲んだ。乳首のゴムが、何度も潰れた。喉が小さく鳴るたびに、昨日の父の声がひとつずつ遠くなっていく気がした。
「よかったね……」
声は、自分でも驚くほど小さかった。
「赤ちゃんが増えて」
駅前の画面では、首相がまだ手を振っていた。夕方の光が、ビルの窓を赤く染めている。母が眠り、父も眠った。腕にはもう、ほとんど感覚がなかった。
その夜、政府は新しい祝日を発表した。
人口再均衡記念日。
ニュースキャスターは、にこやかに締めくくった。
「第三次ベビーブームの到来により、年少人口関連指標は大きく改善しました」
テレビを消した。
音がなくなると、部屋の中の匂いだけが残った。ミルクの甘さ。おむつの湿り。洗えていないタオルケットの奥にこもった、知らない赤ん坊の体温。
テレビ台の上には、母の老眼鏡が置かれたままだった。冷蔵庫には、父の缶ビールが一本冷えていた。
布団の上で、ふたりが眠っている。
未来と呼ばれるものが、口を半分開けて眠っている。
それは昨日まで、わたしの過去だった。




