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みどり児 

 母の朝は、青菜の匂いから始まる。


 小鍋の中で、刻んだ小松菜が粥に沈んでいく。白い粥の表面へ淡い緑がほどけ、湯気は台所の窓を曇らせた。五月の光はもう十分に明るいのに、家の隅には夜の湿りがまだ残っている。流しの底へ水滴が落ちるたび、床板の奥が薄く鳴った。


 ガス台の横には、昨日洗った薬杯が伏せてある。冷蔵庫に貼った訪問看護の予定表は、角だけが浮いていた。窓辺では、根を残した豆苗が小皿の水に浸かっている。二度目の茎はまだ短く、光のほうへ傾いていた。


 わたしは匙で粥をすくい、唇の近くで温度を確かめる。熱すぎてもいけない。ぬるくなりすぎると、母は舌で押し返してしまう。匙の縁へ息を吹きかける仕草は、いつの間にか、わたしの身体に入り込んでいた。


「おかあさん」


 背後から、かすれた声がした。


 振り向くと、母が椅子の上で小さくなっていた。薄い肩からカーディガンがずり落ち、膝の上の手には、透けるような血管と浮いた節だけが残っている。昔はあの手で、何でもできた。硬い瓶の蓋を開け、魚を三枚におろし、熱を出したわたしの額へ、迷いなく触れた。


 瓶の蓋が開くと、母はいつも「勝った」と言った。得意そうに口の端を上げる、その顔をわたしは好きだった。


 その手が今は、湯呑みの縁を探すだけで疲れてしまう。


「おかあさん、どこ」


 母はわたしを見ている。けれど焦点は、もっと遠いところに合っていた。


 換気扇が低く鳴り、粥の表面で泡がひとつ潰れた。青菜の匂いに、薬の甘苦さが混じっている。わたしは匙を持ったまま、喉の奥を狭くした。


「ここにいるよ」


 言ってから、舌の上に苦みが残った。


 母が探している母は、もう三十年も前に死んでいる。ここにいるのは娘だ。あなたが産んだ子だ。そう言うべきだったのかもしれない。けれど母は、わたしの返事に安心したように目元をゆるめた。


 その顔があまりに幼くて、匙の柄が指の中で少し滑った。


 粥を一匙、口元へ運ぶ。母は唇を薄く開け、少しだけ飲み込んだ。喉がゆっくり上下する。わたしは次の匙を冷ましながら、母の唇の端についた青菜を指で拭った。


 指先に、ぬるい粥の膜が残る。


「おいしい?」


 母はしばらく瞬きをした。唇が一度だけ動き、それから、遅れて笑った。


「きれいねえ」


「味じゃなくて?」


「みどり」


 母の視線は、匙の上の小さな緑に留まっていた。


 わたしは笑えばよかったのだと思う。そうね、春の色ね、とでも返せばよかった。けれど、朝食の時間はもう二十分を過ぎていた。食卓の端には薬袋が三つ並び、ひとつは昨夜の湿気を吸って、糊のところが浮いている。


「ちゃんと飲み込んで。薬もあるんだから」


 声が少し硬くなった。


 母は叱られた子のように目を伏せる。匙を避けようとして、湯呑みに肘を当てた。中の白湯がテーブルへ広がり、薬袋の端を濡らした。


「ああ、もう」


 言った瞬間、自分の声の尖りに気づいた。


 母の肩がびくりと揺れる。その怯えが、湯気よりも熱く、わたしの目の奥へ刺さった。


「……ごめん」


 布巾で白湯を吸わせる。水を含んだ布が重くなり、手の中で冷たく沈む。薬袋を避け、湯呑みを置き直し、テーブルを拭く。どれも小さな作業なのに、ひとつずつが遠かった。


「ごめんね、お母さん」


 母はもう、何を謝られたのか分かっていない顔をしていた。ただ、わたしの指先をじっと見ている。


 ――いつ終わるの、こんな毎日が。


 声に出さなかった言葉が、喉のあたりで濁って沈んだ。思ったとたん、母の首筋の皺が目に入った。薄い皮膚の影が、朝の光の中で濃く見えた。


 布巾の縁から、ぬるい水滴がぽとりと膝の上に落ちた。わたしはそれを叱るように、手の甲で拭った。


「手」


「え?」


「つめたい」


 母がそっと、わたしの手の甲へ触れた。


 触れたというより、落ちてきたものが偶然そこに乗ったくらいの軽さだった。けれどその一瞬で、喉の奥に熱がせり上がる。子どものころ、風邪を引くたびに、母はわたしの手を両手で包んだ。冷たいねえ、と言って、息を吹きかけた。手だけではなく、わたしの心細さごと温めようとしていたのだと、今なら分かる。


 けれど、今の母の手は、わたしより冷たい。


 わたしはその手を握り返さず、粥の椀へ視線を戻した。握ったら、ほどけてしまう。どこが、とは言えなかった。


「もう少し食べよう。あと三口だけ」


 母は頷いた。


 午後、母が眠っているあいだに、わたしは押し入れの下段を開けた。介護保険証の控えが必要になったのに、どこへしまったのか思い出せなかった。湿気を吸った古い紙の匂いが、畳の青さの下から立ちのぼる。箱をひとつずつ引き出すたび、結婚式の写真、使わなくなった裁縫箱、古い書類の束が、黙ってこちらを見上げてきた。


 裁縫箱の針山には、曲がった待ち針が三本刺さったままだった。母は針仕事のあと、いつも糸くずを指先で丸めて捨てていた。その玉が、なぜか台所の隅や座布団の縫い目から出てきた。わたしはそれを何度も嫌がったのに、今はもう一つも見つからない。


 奥に、緑色の手帳があった。


 表紙の角は擦り切れ、透明なビニールカバーの下で、若葉のような色が褪せている。母子手帳、と金の文字が残っていた。わたしの名前が、母の丸い字で書かれている。


 開くつもりはなかった。


 けれど指が勝手に動いた。紙は薄く、めくるたびに乾いた音を立てる。出生体重、予防接種、身長の記録。数字の横に、母の書き込みがいくつもあった。余白に押し込められた字は、少し右へ傾いている。


  よく泣く。


  夜中に三回起きる。


  ミルクを飲むのがへた。


  右の頬にえくぼ。


 そこまでは、なんとか読めた。


 次のページで、息が止まった。


  雨あがりの朝。抱くと、葉っぱみたいな匂いがした。


  みどり児、という言葉を思い出した。


 古いインクは、少し滲んでいた。払いの端に、急いで書いたらしい筆圧が残っていた。


 みどり児。


 母の口の端についた粥を拭いながら、わたしは今朝、母を赤ん坊のようだと思った。思ってしまった。こちらの時間ばかり奪っていくもののように。そんな考えをしたことを、母にも、自分にも知られたくなかった。


 けれど母は、かつてわたしをそう呼んでいた。


 泣くことしか知らなかったわたしを、母は葉っぱの匂いがする子だと書いた。


 その字のそばに、怒りの跡はなかった。眠気に負けた線はあった。急いで書いたらしい跳ねもあった。けれど、赤ん坊のわたしを閉じ込める言葉は、ひとつもなかった。


 ページの角が、膝の布越しに当たっていた。わたしはそこを押さえたまま、指の腹へ移った紙の乾いたざらつきを感じていた。余白に残る若い字の丸さだけが、古い時間の中でまだやわらかかった。


 その文字の向こうに、若い母の夜があった。眠れない夜があり、うまく笑えない朝があり、泣き止まない子を抱いて途方に暮れた日もあったのだろう。たぶん何度も、黙って。


 襖の向こうで、母が声を漏らした。


「おかあさん」


 わたしは手帳を閉じた。表紙の緑を、指の腹で一度だけ撫でる。紙の冷たさが皮膚へ移り、遅れて涙が落ちそうになった。けれど泣かなかった。泣いてしまえば、許されたような気になってしまいそうだった。


 母の部屋へ戻ると、母は布団の中で目を開けていた。午後の光が障子を透け、顔の皺をやわらかく曇らせている。口元には乾いた唾の跡があり、髪は枕の上で乱れていた。部屋には日なたの布と、薬の匂いが薄く混ざっている。


「どうしたの」


 母はわたしを見て、首を傾げた。


「葉ちゃん」


 名前を呼ばれた。


 それだけで、床の上に足が沈むようだった。久しぶりだった。あまりに久しぶりで、返事の仕方を忘れてしまう。


「……なあに」


「寒くない?」


 母の声はか細く、すぐに消えてしまいそうだった。それでも、その問いだけは昔のままの形をしていた。


 わたしは布団の端を直し、母の肩まで掛け直した。木綿の布は陽を含んで、少しだけ温かい。母の頬にかかった髪を指でよけると、皮膚は紙のように薄かった。


「寒くないよ」


 母は安心したように瞼を落とす。


「よかった」


 そのあと、また目を開けた。


「おかあさん、どこ」


 わたしは今度、すぐに答えなかった。


 母は布団の襟を指先でつまみ、まっすぐにしようとしていた。うまくいかず、皺だけが増えていく。エプロンの紐も、座布団の角も、母はいつもそうやって直していた。


 わたしは母の手を取った。


 冷たい指を、両手で包む。かつて母がわたしにしたように、息を吹きかけることまではできなかった。ただ、包んだ。骨ばった指がわたしの掌の中で震え、その震えが、遅れて自分のものみたいに伝わってきた。


「ここにいるよ」


 母は、意味を受け取ったのかどうか分からない。けれど、かすかに微笑んだ。その口元だけが、若いころの母に似ていた。


 夕方、わたしは台所に立った。


 黄ばんだスポンジで、朝の鍋の縁にこびりついた粥を落とす。明日の分の小松菜を刻む。包丁がまな板を叩く音は小さく、家の中に淡く響いては消えていく。青い匂いが指に移り、爪の間へ残った。


 窓辺の豆苗へ、水を足す。


 小皿の底で根が白くほどけ、細い茎が揺れた。


 明日の粥にも、青菜を入れようと思った。


 刻んだ小松菜は、まな板の上でしばらく濡れていた。

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