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ヴォルフ(魂はヴィル)の兵法

 夜は、窓の外から静かに部屋へ沈んでいた。


 庭木の梢を風が撫でている。硝子を隔てた葉擦れは遠く、聞こえるというより、眠りの端に触れてはほどける音だった。暖炉の火は低く、薪の奥に残った赤い熱だけが、石壁へゆるく息を返している。


 乾いた木の匂いと、夜を吸った石の冷えが、部屋の隅にまだ残っていた。


 ヴォルフの指先が、わたしの肩に触れた。


 短い接触だった。布越しの体温は、強く押しつけられるものではない。確かめるように置かれただけの手なのに、喉の奥がふっと狭くなる。触れられた肩だけが遅れて熱を持ち、身体のどこかに、小さな波紋のようなものが残った。


 この身体がメービスのものだと知っていても、その戸惑いだけは、借りものにはならなかった。


 ヴォルフの手が止まる。


 次の瞬間、その指が離れかけた。


「震えている。怖いのか?」


 低い声が落ちた。


 責める声ではなかった。続けるための問いでもない。わたしが少しでも怖がっているなら、そこで退く。そのための確認なのだと、言葉より先に、彼の指の退き方が告げていた。


 胸の奥で、何かが遅れてほどける。


 ――違う。


 そう言うより先に、わたしの指が動いていた。


 彼の袖を摘む。強くはない。けれど、離れないで、と言うにはそれで精いっぱいだった。厚い布は外気を含んで少し冷えていて、その下にある体温だけが、掌へゆっくり移ってくる。


「嬉しいから。ほら、感動のあまり震えがきちゃうってあるでしょう?」


 言葉にしたあと、頬が熱くなった。


 嬉しい、という響きは、思っていたより頼りなかった。軽く包んだつもりだったのに、口に出した途端、隠していたものまで火のそばへ置いてしまったような気がする。


 ヴォルフは、すぐには答えなかった。


 暖炉の薪が小さく爆ぜる。赤い火の粉が一粒だけ跳ね、暗がりに吸われた。そのわずかな間に、彼の視線が揺れる。戦場では見たことのない迷いが、硬い横顔の端へ淡く滲んでいた。


「なるほど、武者震いってやつか。ならわかるが」


 彼はそこで、言葉を少しだけ逸らした。


 剣や戦場に近いものへ寄せれば、たぶん息ができるのだろう。そう思うと、腹立たしさより先に、喉の奥で笑いがほどけた。


 困るほど、彼らしかった。


 わたしは袖を摘んだまま、短く息を吐いた。布の皺が指の腹に残る。身体に残る揺れは、まだ消えない。けれどもう、隠すためだけのものではなかった。


「あらやだ。照れ隠しならまだ許せるのだけど」


 笑いは、小さく喉でほどけた。


 言いながら、わたしの指はまだ彼の袖を離していない。見抜いたつもりでいるのに、その布の端をつかんでいるのは、わたしのほうだった。


 暖炉の熱が頬へ届き、背中には夜の冷えが残っている。近くにいるのに、まだ触れきらない。その半端な距離だけが、ふたりの間で細く揺れていた。


 彼が少しでも動けば崩れてしまいそうで、けれどその崩れを、どこかで待っている自分もいた。


「ふふ、これも兵法のうちだ」


 まただ、と思った。


 兵法という言葉へ逃がせば、照れも迷いも形になるのだろう。そう思ったのに、指先は少しもほどけなかった。


 逃げているはずのその手は、わたしの手元から退かない。


 袖を摘んだわたしの指を、振りほどこうともしない。


「だから、それがわかってないっていうのよ」


 わたしは彼の胸を軽く押した。


 押したはずなのに、距離はほとんど変わらなかった。掌の下には衣越しの硬さがあり、その奥で鼓動がひとつ遅れて伝わってくる。落ち着いているのか、そう見せているだけなのか。そこまでは、わからない。


 ヴォルフの視線が、わたしの手元へ落ちる。


 袖を摘んだままの指。胸に触れた掌。わたし自身でさえ持て余している近さを、彼は黙って見ていた。


 笑いも、からかいも、そこで一度途切れた。


 その沈黙に先に耐えられなくなったのは、たぶん、わたしのほうだった。


 このまま見つめられていたら、余計なことまで言ってしまいそうだった。だから先に、笑える形へ畳んでしまう。


「まぁ、あなたみたいなひとに、おんなごころをわかれ、なんて無理は申しませんけれど?」


「自分で白状してるじゃないか」


 低い笑いが近くでこぼれた。


 けれど、その笑いは思ったほど長く続かなかった。言ってしまったあとで、ヴォルフ自身も、その言葉の落ちた場所に少し遅れて気づいたようだった。


 彼の視線が、わたしの指先へ落ちる。


 まだ、離していない。


 それから、暖炉の火へ逃げるみたいに、ほんのわずか横へ逸れた。


 おんなごころ、などと。


 わざと軽く言ったはずなのに、その言葉だけが火の明かりの中で妙に残った。兵法への文句にして、いつものように笑ってやり過ごすつもりだった。けれどヴォルフのひと言で、笑いの端をそっと摘まれてしまった。


 頬の熱が、暖炉のせいだけではなくなる。


 わたしは彼の袖を摘んでいた。


 彼は、わたしの逃げ道を摘んだ。


 そう思ったのに、その手にも勝ちを掴んだ人の余裕はなかった。振りほどくでも、引き寄せるでもない。ただ、そこにいる。離れ方を忘れたみたいに、わたしの手元から退かない。


 そのまま、笑いの向こうへ身を引くつもりだった。


 けれどヴォルフの手は、そこで一度だけ迷った。


 上がりかけて、止まる。


 その短い間に、部屋の音が少し遠くなった。わたしが退かないのを確かめるように、彼の指がほんの少し動く。それから、ようやく髪へ触れた。耳の横に落ちた髪を、指の背でそっと分ける。


 剣を握る手だった。


 骨ばっていて、節に硬さがあって、優しいものを扱うには不器用そうな手。それなのに、触れ方だけはひどく慎重だった。壊れものに触れる手ではない。わたしが選んだ距離を乱さないように、そこで待っている手だった。


 頬の横を、彼の指がかすめる。


 熱いわけではない。ただ、そこにある。


 その確かさに、言葉のほうが遅れていった。


 続けたら、また理屈になってしまう気がした。兵法がどうとか、おんなごころがどうとか、そういう軽口の下へ逃げ込めてしまう気がした。


 だから、わたしは言葉を置いていく。


 彼の胸へ、額を寄せた。


 ヴォルフは息を止めたようだった。ほんの一拍。気づかなければ消えてしまうほど短い間。けれど、そのあとで彼の身体から力が抜けるのがわかった。


 拒まれなかった。


 引き寄せられもしなかった。


 ただ、受け止められた。


 その静けさが、身体の奥へゆっくり広がっていく。何かを許されたようで、でも許されたのではなく、わたしが自分でここに来たのだと、ようやく身体が理解していく。


 怖くない。


 そう言葉にする必要はなかった。


 身の内のざわめきは、まだ消えていない。けれどもう、逃げるためのものではない。嬉しさだけでもない。欲しかったものへ、自分から手を伸ばしてしまったあとに残る、名づけきれない揺れだった。


 暖炉の火が低く揺れた。


 壁の影は、肩のあたりだけ近づいていた。


 重なってはいない。けれど、離れてもいない。その曖昧な線を、暖炉の火が低く揺らしていた。外の風はまだ窓を撫でている。遠い葉擦れも、夜の冷えも、部屋の隅に残っている。


 その全部を抱えたまま、わたしは彼の胸に額を預けていた。


 ヴォルフの手が、わたしの髪の上で一度だけ止まる。


 それから、何も言わずに、ほんの少しだけ指が沈んだ。


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