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仕返し編

 執務室の扉を押し開けたとき、まず鼻先に触れたのは、乾きかけたインクの匂いだった。


 湯浴みのあとに選んだ夜着の裾が、足首のあたりでふわりと揺れる。薄い布はまだ肌の温度を含んでいて、肩に掛けたショールの内側だけが、湯の名残でやわらかかった。


 呼びに来ただけ。


 そういう顔をしているつもりだった。けれど、髪に少しだけ残した香油の甘さも、胸元のリボンをいつもより丁寧に結んだことも、袖口のレースを指で整えてからここへ来たことも、わたしの言い訳をひとつずつほどいてしまう。


 夕暮れの光は、もう窓辺で藍へ沈みかけていた。机の上に散った書類の端だけが、最後の明るさを拾って琥珀色に光っている。封蝋の欠片、開いたままの記録簿、途中で放り出された羽根ペン。几帳面な人間なら眉をひそめるようなありさまだった。


 その混乱の真ん中から少し離れたソファで、ヴォルフは眠っていた。


 豪快、という言葉がこれほど似合う寝姿もない。


 白を基調とした王配の公式服は、本来なら彼をいっそう端正に見せるためのものだった。けれど今は、片腕がソファの背へ投げ出され、長い脚は肘掛けの向こうへ半分落ちかけている。上着は肩からずれ、胸元の飾り紐も少し緩んでいた。


 書類の束が一枚、彼の腹の上で静かに上下している。


 呼吸に合わせて、紙の角がかすかに震えた。


「あらあら、なんて恰好なのかしら。うちの王配殿下さまは」


 呆れた声にしたつもりだった。


 けれど、部屋に落ちた声は思ったよりずっとやわらかかった。自分でそれに気づいてしまい、わたしは小さく咳払いをする。誰も聞いていないのに、妙な言い訳をしたくなる。


 まったく、と胸の内で続けた。


 剣を振るうときは、あれほど隙がないのに。敵の気配なら、壁の向こうからでも拾い上げるような人なのに。書類仕事となると、どうしてこうも削られてしまうのだろう。


 机の上には、几帳面とは言いがたい字で書き込まれた注釈が並んでいた。最初の数行だけはまだ整っている。けれど途中から線が乱れ、最後のほうは、眠気と戦った跡がありありと残っていた。羽根ペンの先には、乾いたインクが小さな黒い粒になって固まっている。


 その不器用さに、呆れる。


 呆れるはずだった。


 なのに、視線はまたソファへ戻ってしまう。


 銀色の髪が、頬の横へさらりと落ちていた。戦場では汗と埃に乱れ、兜の下で押しつぶされていることも多い髪だ。けれど今は、窓辺の淡い月光と燭台の火を受けて、細い糸みたいにやわらかく光っている。


 瞼は閉じられ、いつも何かを見抜こうとする目は静かに伏せられていた。口元も、黙っていればひどく端正だ。鼻筋の影、頬の線、喉元に落ちる薄い陰。白い公式服の金糸が胸の上でかすかに光り、彼の寝息に合わせて、ほんの少しだけ揺れる。


 ほんとうに、口を開かなければ、絵物語の王子さまみたいな人なのに。


 そう思った瞬間、喉の奥で息がひとつ引っかかった。


 口を開けば、兵法だの、間合いだの、腹が鳴っただの。こちらの気持ちを見透かしたうえで、わざと外した言葉を寄越してくる。照れ隠しなのか、悪戯なのか、その両方なのか。いつもわたしのほうが先に乱される。


 腹立たしい。


 ほんとうに、腹立たしい人。


 そう思いながら、足はもうソファのそばへ向かっていた。


 床板は柔らかく沈み、絨毯の毛足が靴音を吸い込む。近づくほど、彼の寝息が聞こえた。深く、穏やかで、ひどく無防備な音。昼の熱を少し残した部屋の空気に、その息だけがゆっくり混じっている。


 わたしはソファの横で足を止めた。


 見下ろすと、睫毛の影が頬に落ちていた。髪が一筋、唇の近くまでかかっている。邪魔そうだと思った。そう思っただけのはずなのに、指が先に動いた。


 髪へ触れる。


 さらり、と指の腹をすべった。


 その感触があまりにも静かで、わたしは息を止めた。


 睫毛の影が、ほんの少しだけ揺れた気がした。


 けれど、燭台の火が揺れたせいだと、わたしはそう思うことにした。


 剣を握る彼の手や、戦場での硬い声や、守るときに半歩前へ出る背中とは違う。いま目の前にいる彼は、ただそこにいた。何かを背負うことも、わたしを見透かすこともせず、静かに呼吸している。


 いまなら、からかわれない。


 そう思った。


 いまなら、先に見抜かれない。


 いつもなら、少し目を上げただけで気づかれる。視線が唇へ落ちる前に、呼吸の乱れを拾われる。わたしが言えないでいるものを、彼は先に拾ってしまう。


 ちゅーしたい、とは面と向かって言えたことがない。


 ほしい、とも。


 言えないまま、見透かされて、からかわれて、気づけば彼の間合いに入っている。自分で選んだようで、いつの間にか選ばされている。そんな気がして、悔しい。


 だから。


 これは仕返し。


 そう思ったのに、みぞおちのあたりがきゅっと縮んだ。


 仕返し、という言葉は便利だった。


 呼びに来ただけだという顔も、鏡の前で少しだけ迷ったことも、彼が起きていたらたぶん言えなかったことも、全部その一語へ押し込められる。


 けれど、彼の頬へ落ちた髪を指で避けたら、その言葉の端が少しだけほどけた。


 わたしはそっと膝を折る。ソファの縁に片手を添え、顔を近づける。寝息が頬をかすめた。近い。思っていたよりもずっと近い。閉じた瞼、静かな眉間、少しだけ緩んだ口元。


 鼓動がうるさい。


 彼には聞こえないはずなのに、部屋じゅうに響いている気がした。


 もう一度、胸の内で言い聞かせる。


 けれど、その言葉は少しも強くならなかった。むしろ、言えば言うほど頼りなくなっていく。仕返しなら、こんなに指先が震えるはずがない。こんなに喉が乾くはずがない。


 近づくほど、彼の温度がわかる。


 頬のあたりに残る微かな熱。公式服の襟元に沈んだ、紙とインクと彼自身の匂い。燭台の火が小さく揺れるたび、銀の髪に淡い金がほどけて、触れた指先の内側まで明るくなるようだった。


 彼の唇のすぐそばで、息が止まる。


 眠っている人に、こんなことをしていいのかしら。


 そんな理屈が、遅れてやってきた。遅すぎる。けれど、遅れてきたからこそ、わたしはほんの少しだけ角度を変えた。


 唇ではなく、頬へ。


 ぴと、と。


 触れた。


 彼の肌は、思っていたよりあたたかかった。


 それだけで、もう負けたような気がした。


 わたしはその場で固まった。


 勝った、と思えばよかった。


 やっと一度くらい、彼に見透かされる前にできたのだと、胸を張ればよかった。


 なのに、逃げるように立ち上がろうとした瞬間、袖のあたりで布がほんの少し引かれた。


 掴まれた、というほどではない。


 こちらが少し動けばほどけてしまうくらいの、頼りない触れ方だった。


 それが、余計に困る。


 眠っていたはずのヴォルフの瞼が、ゆっくり開く。まだ眠気を残した青灰の瞳が、すぐ近くでわたしを見ていた。からかうには静かすぎて、責めるにはやわらかすぎる目だった。


「……勝ち逃げか」


 低い声が、寝起きの掠れを含んで落ちた。


 喉が詰まる。


 頬に一気に熱が上る。言い訳を探そうとして、舌が動かない。仕返しだと、そう言えばいい。言えばいいのに、袖口の布を引かれた場所だけが熱くて、声がうまく出てこなかった。


 彼の指はまだ、わたしの袖口に触れている。


 引き止めるというより、こちらが身じろげば一緒に揺れてしまうくらいの触れ方だった。指先に力はない。けれど、その弱さだけが、布の端に残っている。


 息だけが、遅れた。


「……起きていたの?」


 ようやく落とした声は、自分でも情けないほど細かった。


 ヴォルフは一度だけ瞬きをした。寝乱れた髪が頬にかかり、さっきまで絵物語の王子さまみたいだった横顔が、少しだけいつもの彼へ戻る。


「途中からな」


 それだけ言って、彼は目を伏せた。わたしを責めるより先に、自分が起きていたことのほうを少しだけ恥じるように。


 笑われる、と思った。


 けれど、笑いはそこまで届かなかった。彼の視線が、袖口へ落ちる。


 引くには遅く、掴むには弱い指だった。


 兵法だと言われるかもしれない。あるいは、奇襲にしては詰めが甘い、とか。そういう彼らしい言葉が来るのだと身構えた。


 けれど、ヴォルフは何も続けなかった。


 ただ、袖を引いていた指を、ほんの少しだけ緩める。


 逃げられるように。


 それでも、ここにいていいように。


 その半端な優しさに、喉の奥が小さく詰まった。


 ほんとうに、どうしようもない人。


 からかわないでくれるのに、逃がしてくれるのに、その指だけをまだ袖口に残している。


 そんな触れ方をされたら、離れられなくなるのは、こちらのほうだった。


 わたしは逃げなかった。


 袖口にその指を残したまま、ソファのそばに膝をつく。夕暮れの光はもう赤みを失い、部屋の奥には薄い夜が満ち始めていた。机の上の書類は相変わらず散らかっていて、羽根ペンの先は固まり、王配殿下さまはだらしなくソファに沈んでいる。


 夜着の裾が、絨毯の上で音もなく広がった。


 頬の熱は、まだ引かない。


 あの一瞬の温度も、消えない。


 わたしは彼の乱れた髪をもう一度、指でそっと分けた。銀の髪が指の間をすべり、彼の目が、眠気の奥から静かにわたしを追う。


 今度は、仕返しとは言えなかった。


 指先を離すと、ヴォルフの手がほんの少しだけ動いた。袖口に触れていた指が、布の上を迷い、わたしの手の近くで止まる。


 触れるか、触れないか。


 その半端な距離に、指先だけが少し動けなくなった。


 わたしは何も言わなかった。


 言えばまた、仕返しだとか、たまたまだとか、余計な理屈で包んでしまう気がしたから。


 だから、ただそこにいた。


 彼のそばに。


 散らかった書類と、乾いたインクの匂いと、夜着の薄い冷えと、唇に残る小さな熱を抱えたまま。


 しばらくして、ヴォルフの指がそっと、わたしの指先へ触れた。


 それでもまだ、握らない。


 ただ、触れている。


 逃げようと思えば逃げられる、その小さな余地ごと、あたためるように。


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