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環譜術式

 現代の魔術師は、呪文を紙に書かない。


 術式は、親指ほどの透明筒に収まっている。硝子管の奥には、肉眼ではほとんど見えない円環が幾重にも重なり、それぞれが別の速さを持っていた。カートリッジを杖の基部へ差し込むと、低い環から順に動き出す。深い呼吸のように回るもの。針の先で鳴る鈴のように細かく響くもの。棚に残された筒は、灯を内側へ細く返していた。


 雨の夜だった。


 魔術大学の解析室は、古い石壁の内側に湿り気を抱えていた。窓硝子には雨筋が絡み、灯の色を細くほどいている。棚には数百本のカートリッジが並んでいた。赤、白、青、金、銀。同じ透明筒のようでいて、目を凝らすと、内側で休んでいる円環の癖が少しずつ違う。


 少女は、その棚の前に立っていた。


 左手には、母の古いハンカチが握られている。洗いすぎて布目はやわらかく崩れ、隅に刺繍された小さな花だけが、まだ形を保っていた。雨の匂いに混じって、石鹸と乾いた日なたの残り香がする。


 ここへ来たのは、火を学ぶためではなかった。防壁を覚えるためでもない。


 十年前、学院の記録室に残された母の音声署名を、ひとことだけ聞くためだった。


 けれどその願いを口に出すには、喉の奥がまだ冷たかった。


「火炎術なら、赤い熱量の波形を構成する環が多い」


 老魔術師は、赤いカートリッジを指先でつまみ上げた。皺の深い手だった。爪の先だけが不思議なほど清潔で、硝子の表面を撫でるたび、灯が薄く欠けた。


 少女の目は、赤い筒を追わなかった。


 棚の中段に、淡い琥珀色の一本があった。ラベルは古く、端が少しめくれている。


「防壁術なら、低周波の大きな円が安定して回る。幻影術は、人の視覚に引っかかる輪郭だけを巧妙に並べる。治癒術は、損傷した形を読み取り、失われた縁を逆に編む」


 老魔術師の言葉は、講義室で聞くときより低かった。雨が窓を叩くたび、語尾が石壁へ吸われる。


 少女は黙って聞いていた。


 火も、壁も、幻も、傷をふさぐ力も、いまは遠かった。ただ、もうどこにもいない人の声が、本当に円環の中から戻ってくるのか。それだけが、握った布の奥で小さく動いている。


「では、音声模倣術は」


 最後の語だけ、喉で擦れた。


 老魔術師の手が止まる。赤いカートリッジは棚へ戻されなかった。彼はしばらくそれを見ていたが、やがて元の位置へ置いた。


「声紋をエピサイクルとして保存する。声は空気の震えだからな。円環の列に分解できる。十分な成分をそろえれば、死者の声さえ再生できる」


「死者の、声……」


 少女の唇が、その言葉をなぞった。


 ハンカチの刺繍が、掌の中で折れる。小さな花弁の縁が、皮膚へ当たっていた。


「無論、それは魂ではない」


 老魔術師は、静かに言った。


 叱ってはいない。慰めてもいない。禁忌の前に長く立ってきた者の、温度だけが抜けていた。


「それでも、声は同じになる。歩き方も、筆跡も、鼓動の癖も、記憶へ反応する間さえ近似できる。十分な円環と、十分な解析精度があれば、周囲の者が見分けられないほどのふるまいを作れる」


 少女の手が、布をさらに握った。


「それは……その人のようであって、その人ではないのですね」


 老魔術師は答えなかった。棚の奥へ手を伸ばし、銀のカートリッジを取り出した。


 透明筒の奥には、無色の円環が収まっていた。火炎の赤も、幻影の青もない。ただ、雨夜の窓辺に置いた水滴のように、灯をひそかに返している。


 カートリッジを杖へ差し込むと、基部で小さな音がした。硝子を爪で撫でたような、細い響きだった。


「呪文を唱えないのですか?」


 少女が問うと、老魔術師は白い眉を上げた。


「もう唱えている」


 彼の指が空中を軽く叩いた。


 見えない拍に従って、円が動き出す。


「言葉ではなく、位相でな」


 最初に浮かんだのは、淡い輪がひとつだった。次に、その縁から小さな輪が生まれ、さらにその先で、針ほどの光が忙しなく回りはじめる。大きな円の先を小さな円がたどり、小さな円の先を、もっと細い円が追った。


 ただの明滅に見えた。


 けれど、輪の先端が重なり、ほどけ、また寄り添うたびに、空気の上へ線が残る。線は細く、すぐ消えそうだった。それでも消えない。やがてそれは、花の輪郭となり、花弁の重なりとなり、最後には一輪の薔薇の影になった。


 赤くはなかった。


 銀の薔薇だった。


 棘の先まで、形を持っていた。少女はその棘を見た。触れていない掌が、先に身構えた。


「この円のひとつひとつが、薔薇を構成する音だ。見える形も、聞こえる声も、燃える熱も、すべては揺れとして読める」


「では、読めさえすれば、何でも作れるのですか?」


 老魔術師は、またすぐには答えなかった。


 銀の薔薇の輪郭が、一瞬だけ乱れた。花弁の端が外へ滲む。余った光が、触れてはいけない蜜のようにこぼれた。


 美しかった。


 美しいことが、不吉だった。


「読めたと思う者ほど、よく間違えるものだ」


 老魔術師は言った。


「世界とは、こちらの知っている単語でできているわけではないからな」


 少女は、薔薇を見つめていた。


 花のかたちは完璧に近い。輪郭の揺らぎ、花弁の重なり、中心に沈む影。けれど近づくほどに分かる。これは薔薇のふるまいをしているだけだ。濡れた土の匂いはない。棘に触れたときの痛みもない。夏の朝に開く熱もない。


 足りないものの輪郭まで、よく似ていた。


 母の声も、たぶん同じだ。


 名前を呼ぶ抑揚。叱る前に一度だけ息を吸う癖。眠る前、額に触れてくれた手の温度。そういうものが全部、円環の列に置き換えられて、透明筒の中で保存されるとしたら。


 それは、あまりにも母に似ている。


 だからこそ、母ではない。


「先生」


 少女は、ハンカチを胸へ押し当てた。布は冷たかった。けれど、その冷たさの奥に、忘れきれない日なたがまだ残っている。


「わたしは、亡くなった母の声を聞きたいです」


 老魔術師は、少女を見た。


 少女の瞳は濡れていたが、泣いてはいなかった。まばたきが遅れ、睫毛だけが重くなっている。


「けれど、母そのものを作りたいわけではありません」


 解析室に、雨の音が満ちた。


 老魔術師は息を吐いた。長い吐息だった。銀の薔薇が、その息に触れて、花弁をひとつぶん揺らした。


「ならば、おまえはまだ術式を読めよう」


「どういう意味ですか」


「読解とは、欲しい意味に置き換えることではない。そこにあるものを、そこにあるものとして受け取ることだ」


 少女は何も言わなかった。


 老魔術師は、銀のカートリッジを杖から抜いた。円環は低いものから順に止まり、薔薇の影はほどけて消えた。残ったのは、雨の匂いと、石壁の湿りと、少女の手の中で皺になったハンカチだけだった。


 棚の最奥には、封印された黒いケースがあった。


 生体波形完全保存。


 その名を読むだけで、部屋の温度がひとつ下がる禁術だった。


 少女は、そのケースを見なかった。見ないまま、母のハンカチをたたみ直した。角と角を合わせる指は少し震えていたが、布を乱暴には扱わなかった。


 黒いケースには触れなかった。


「先生」


「何だ?」


「母の声を、ひとことだけ」


 老魔術師は目を伏せた。


 しばらく、雨だけが聞こえた。


 やがて彼は棚の中段から、淡い琥珀色のカートリッジを選んだ。銀ではない。黒でもない。保存されているのは完全な生体波形ではなく、十年前、学院の記録室に残された古い音声署名だけだった。


 杖の基部で、円環が動き出す。


 低い円が回り、高い円が鳴る。


 雨の音の隙間から、女の声がした。


《おかえり》


 たった四音だった。


 不完全で、かすれていて、息の端が少し欠けていた。けれど少女は、その欠けたところまで知っていた。母は寒い日に、いつも少し鼻にかかった声でそう言った。


 少女の睫毛から、涙が落ちた。


 ハンカチを握った手は、黒いケースの方へ動かなかった。


 老魔術師は何も言わない。ただ杖を下ろし、カートリッジの円環を止めた。声は消え、輪は消え、雨が残った。窓硝子の上を、細い水筋がまたひとつ下りていく。


 それでも少女は、しばらく顔を上げなかった。


 透明筒の中で、円環たちは次の術式を待っている。火を呼ぶもの。壁を築くもの。幻を結ぶもの。傷をふさぐもの。声をなぞるもの。そして、決して目覚めさせてはならないもの。


 たたみ直したハンカチの折り目は、しばらく掌から消えなかった。


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