『六月の海辺で、あなたと』
六月の朝は、思っていたよりも白かった。
テラスの向こうで、海が光を静かに返している。焼きたてのパンの温かな匂いが、柑橘を絞った果汁の甘酸っぱさと混ざり、潮風に運ばれてくる。波が薄い硝子を撫でるような音だけが、朝の静けさを際立たせていた。
メービスは膝の上でナプキンを整え、向かいに座るヴォルフを見た。
シャツの襟元が少し開き、鎖骨のあたりに朝の光が落ちている。いつもの礼装よりもずっと隙があって、剣を帯びていないだけで、彼の肩の線までやわらかく見えるのが不思議だった。
「意外と言ったら失礼だけど……あなた、こういう場所でも落ち着いているのね」
ヴォルフは珈琲のカップを置き、目だけで笑った。白い湯気が、彼の指先のあたりで淡くほどけていく。
「落ち着いて見えるなら成功だな」
「成功? なにが?」
「内心では、わりと浮ついている」
「あなたが? どうして?」
ヴォルフはすぐには答えず、視線だけを海へ向けた。朝の光を受けた横顔は涼しげなのに、耳の先がわずかに色づいている。メービスはそれを見逃さなかった。
メービスはパン皿の縁へ視線を落とした。湯気の消えた珈琲の香りが、今さら頬の熱を追いかけてくる。いつもは人の動揺を先に見抜く人が、こうして隠しそこねている。
「ま、お前が笑ってくれるなら、それが何よりさ」
ヴォルフの声は低く、波音のすき間にちょうど収まるくらいだった。メービスがそのやわらかさに気づいたとき、彼はもう珈琲に口をつけている。
「……愛してる、メービス」
カップの縁に唇を寄せたまま、ひどく自然にそう言った。
続くはずの返事は、唇のすぐ手前でほどけて消えた。
焼きたてのパンを割った手に、まだ温かさが残っている。言いたい。返したい。けれど、その言葉だけは、どうしても胸の奥で鈴のように鳴るばかりで、外へ出てくれなかった。
ヴォルフは、何も急かさなかった。
ただ少しだけ目を細め、テーブル越しにメービスの頬を見ている。困っていることに気づいているのだろう。それでも待ってくれる。この人はいつもそうだった。逃げ道を塞ぐのではなく、こちらが自分の足で進むまで、ほんの少し先で立っていてくれる。
「……わ、わたしも……」
絞り出すようにそれだけ言うと、ヴォルフの口元がほんの少し緩んだ。笑うのをこらえている顔だった。
「聞こえなかったな。波がうるさい」
「聞こえてたでしょう?」
「もう一回言ってくれると確信が持てるんだがな」
「いじわる……」
顔が熱い。耳の先まで火が灯ったようだった。ヴォルフは満足げに珈琲を飲み干し、それ以上は追わなかった。
その加減が、ずるかった。
カップの底で、飲み残した珈琲がかすかに揺れている。メービスは返す言葉の代わりに、ナプキンの端を一度だけ折った。
今日だけは、女王でも、巫女でもなく。
ただ、彼と朝食を食べる女でいたかった。
◇◇◇
朝食のあと、ふたりは白い石段を下り、館の裏手から浜辺へ出た。
途中、浜へ降りる門の前で、係の者が恐縮しながら帯剣を控えるよう告げた。完全貸切の保養地で、警護も十分に敷かれている。そう説明されても、ヴォルフはしばらく納得しなかった。
剣帯を外す指は静かだったが、眉間にははっきり不満が残っていた。王配としてではなく、剣士としての習性が、手元の空白を嫌がっているのだろう。メービスはその横顔を見て、笑わないように唇を噛んだ。
砂は思っていたより熱くない。夜の名残を含んだ白砂が、素足の裏へ細かな冷たさを返してくる。波が寄せてはほどけ、そのたびに薄い泡がレースの縁のように足もとへ届いた。
メービスは裾を片手で押さえながら、一歩、また一歩と波打ち際へ近づいた。潮風に髪がほどけ、肩にかかる薄い羽織が背中でふわりと鳴る。
「冷たい……」
呟いた声は、波音に半分さらわれた。
隣でヴォルフが、彼女の足もとを見ている。転ぶかどうかを測っている目だった。ほんの少しでも重心が崩れれば、すぐ腕を出すつもりなのだろう。その過保護さに気づいてしまい、メービスはわざと一歩だけ先へ出た。
「そんなに見張らなくても、歩けるわ」
「だめだ。砂浜は案外足を取られる」
「わたし、そこまで頼りなく見える?」
「目を離した途端、何か拾いに行きそうだしな」
「拾いに行くったって、ここじゃ貝殻くらいでしょう?」
「それならまだいいが。妙な光り方をした石だの、見たことのない漂着物だの、そういうものを見つけたら、お前は絶対にしゃがみ込む」
言い切られて、メービスは言葉に詰まった。
たしかに否定しきれない。波に洗われた小石のなかには、見慣れない色がいくつもあった。水を含んだ砂の上で、青や白や淡い琥珀が、ひとつずつ違う光を返している。
「……少し見るだけよ」
「ほらな」
ヴォルフの声に、ほんのわずかな笑いが混じった。
メービスは膝を折り、濡れた砂の上に落ちていた小さな貝殻を拾い上げた。掌に残る潮の湿り。巻きの内側に、淡い桃色が隠れている。
「きれい」
そう言った瞬間、ヴォルフが隣に屈んだ。
大きな影が砂の上へ重なる。近い。彼の肩の温度が、素肌に伝わるくらいの距離だった。手が、メービスの掌にある貝殻へそっと近づく。奪うのではなく、見せてくれ、と言うような触れ方だった。
「お前はこういうものを見つけるのが上手い」
「あなたは見つけないの?」
「俺はだいたい、足場と敵影を見てる」
「ここに敵なんていないわよ。完全貸切で警護で固められてるのに」
「これも染み付いた習性だ。……ただ」
「ただ?」
「お前のことだけは、見つけるのが早い」
横を向いた拍子に、視線がぶつかった。
近すぎた。彼の睫毛の長さまで見える距離で、ヴォルフは涼しい顔をしている。こういうことを平気な顔で言う。少なくとも、平気な顔に見せる。朝のテラスで見た耳の赤さを思い出すと、それも少し怪しい。
メービスは耐えきれず、先に目を逸らした。
「……それは騎士の職務でしょう」
「まあ、そういうことにしておくか」
ぜんぜんそういうことにする気のない声だった。
メービスは頬の熱を振り払うように立ち上がり、拾った貝殻をヴォルフへ差し出した。
「じゃあ、これをあげる」
「俺に?」
「ええ。帯剣禁止で落ち着かない王配さまへの、せめてもの慰めです。どうかお受け取りくださいな」
ヴォルフは、しばらくその小さな貝殻を見つめていた。
それから、剣の柄を握るときとはまるで違う手つきで、慎重に受け取った。指の腹で桃色の巻きをそっと撫でる。壊れものに触れるような、彼らしくない不器用さだった。
「……大事にする」
たったそれだけの返事だった。
けれど、彼は本当にそうするのだろうと、メービスにはわかった。戦場の地図や古い手紙と同じように、この小さな貝殻もどこかへしまって、時々取り出して見るのかもしれない。
そう思ったら、頬がまた熱くなった。
「そんなに真面目に受け取らなくてもいいのに」
「お前がくれたものだ。真面目にならなくてどうする」
波が足もとまで寄せ、ふたりの影を白く濡らして引いていく。
メービスは何も返せなかった。ただ、貝殻をしまうヴォルフの手を見ていた。指の節に残る古傷。爪の形。掌の厚み。あの手に何度も支えられてきたのだと、改めて思う。
不意に、ヴォルフの手がメービスの髪に触れた。
風に乗って頬にかかった一筋を、指の背でそっと払う。それだけのことなのに、触れられた肌がじんと熱を帯びた。潮風の冷たさが、その場所だけ避けて通ったみたいだった。
「……なに?」
「いや。髪が邪魔そうだった」
理由はそれだけらしい。
彼の手はすぐに離れたけれど、指が通った跡にだけ、潮風とは違うぬくもりが残っている。メービスはそれをどう扱えばいいのかわからず、羽織の端を胸の前で握った。
海は明るい。白い砂も、足もとの泡も、陽を受けてまぶしいほどなのに、衣の内側には、まだ言葉になる前の熱が残っていた。触れればほどけそうで、息をすれば名前がついてしまいそうで、メービスは少しだけ唇を結ぶ。
さっき言えなかった言葉は、まだ遠くへ行っていなかった。
——今はまだ、うまく言えない。
けれど、この人の隣でなら、いつか声にできる日が来る。たぶん、それもそう遠くない。
だって、もうほとんど唇のすぐそこまで来ているのだから。




