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呼ばれた名

 呼ばれた名が、胸の奥で小さくほどけた。


「ミツル……」


 その声音は、あまりにも古く、あまりにも近かった。夜気の冷たさが頬へ触れた瞬間、喉の奥に沈めていたものだけが先に震え、わたしは反射のように顔を上げていた。


「やめて。その名前で呼ぶのは禁止って決めたじゃない」


 ヴィルはすぐに詫びる顔をした。けれど、視線だけは逃げなかった。灰青の瞳の奥に、言葉にしきれない熱が残っている。それがこちらの胸の薄いところへ触れてきて、息の置き場が少しだけわからなくなる。


「すまんが、無理だ。今は、今だけはそう呼ばせてくれ。たとえ仮初の体でも、メービスとヴォルフの幸せを代行するためだとしても、今だけは……」


 その言い方が、ずるかった。


 責めるには切実すぎて、許すには近すぎる。わたしは息を逃がし、指先で衣の縁をつまんだ。冷えた布が、汗ばんだ指に少しだけ張りつく。


「じゃあ、ぎゅーってしてくださいな」


 ヴィルの肩が、目に見えて強張った。


「お、おう。もちろんそのつもりだ。では――」


 伸びてきた腕の気配が、思っていたよりずっと真剣だった。抱きしめるというより、逃したくないものをどう扱えばいいのかわからない手つきで、こちらへ近づいてくる。その熱に触れる前に、わたしは思わず手のひらを上げた。


「待て!」


 ヴィルの動きが止まる。眉間へ困惑が寄り、抱きしめる寸前の腕だけが、行き場を失ったまま宙に残った。


「要求しておいて、なんだよ?」


 近づいた体温に、胸の奥が少しだけ騒ぐ。けれど、その熱のまま受け取ったら、きっとこちらまで息ができなくなる。だからわたしは、なるべく冷静な顔を作った。たぶん、あまり成功していなかった。


「目が血走ってる」


「なっ!?」


「鼻息荒い」


「うっ」


 低く詰まった声が、喉の奥で潰れる。あまりに正直な反応で、こちらの頬まで熱くなりそうだった。夜の冷えがあるのに、耳の先だけが勝手に温度を持つ。


「つまり、がっつかないで。わんちゃんじゃあるまいし」


「俺は犬か?」


 むっとした声なのに、傷ついたというより、言い返す場所を探しているだけの顔だった。大きな手が所在なげに落ち、指先が自分の袖口を掴む。その仕草が妙に不器用で、わたしは危うく笑いそうになる。


「そうね。愛情が深すぎて、タックルしてくる大型犬みたいな。なので躾がひつようですね」


「相変わらず手厳しいな。では、大きい犬がそうするように、優しく包み込もう」


 そこでようやく、彼の腕がゆっくりと近づいた。


 今度は急がなかった。肩口から背へ、熱が静かに広がっていく。包まれるというより、逃げ場を塞がれないように守られている感じがした。布越しの体温と、胸の奥に残っていた名の痛みが、同じ場所で少しずつほどけていく。


「はい。よし」


 そう言ってしまってから、自分の声がずいぶん幼く聞こえた。


 ヴィルは何も言わなかった。ただ、わたしの背に回した手に、ほんの少しだけ力を足した。夜気の冷たさはまだそこにあったのに、その腕の内側だけ、ひどく静かで、あたたかかった。

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