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年も押し詰まった冬の午後

 年も押し詰まった冬の午後。


 離宮の休日は、深い森が雪明かりを含む真夜中の呼吸のよう――静かで、ゆったりと、冴え冴えとした空気が胸の奥にまで満ちていった。


 葉をほとんど落とした楓は鈍い銀光を帯び、樹皮は薄氷のようにわずかに軋んだ。葉を失った蔦の隙間から射す低い陽が、白く息づく噴水に、ごく細い七色――とくに薄緑が濃い――の弧をかける。そのわずかな彩りが、長い戦いで尖っていた感覚のふちを、静かに、しかし確かに円く削ってゆくのが分かった。


 王都の外れに佇むこの離宮は、喧騒という時流をひとしずくも引き入れぬ静寂の器だった。


 敷地の果てに抱かれた小さな湖は薄氷をまとい、日差しを受けて微かに銀を返す。はしばみ色の枝先からはらりと紅葉が一枚こぼれ落ち、氷膜の上を静かに滑ってゆく。その映り影が淡い波紋を描き、やがて何事もなかったように鏡面へと還るさまは、わたしの内側をそのまま映したようだった。


 市場では露店の菓子職人が冬蜜と香辛料で菓子を焼き、教会の鐘楼には新年を告げる飾り縄が掛かり始めたと聞く。それでもここ離宮の庭だけは、時間の歩幅を半分にしたかのようにゆるやかで、凍てつく雲間からこぼれる陽が芝を一筆撫でるたび、かすかな甘い土の匂いが立ち上った。


 湖面を渡る冷えが頬をかすめ、胸に落ちる気配はいっそう深まってゆく。ひと呼吸ごとに、過ぎた一年の喧騒や痛みが、澄んだ氷片のように光を帯びながら、底へ底へと沈んでゆくのが分かるのだ。


 リュシアンと過ごす読書のひとときは、そんな静けさをやさしく満たす温もりだった。


 窓辺の淡紅色のソファに肩を並べ、二人で厚い学術書をめくるたび、窓から落ちる洩れ陽がページの縁で金色の埃をきらめかせる。やがて、小さな肩がことりとわたしの腕にもたれ、子猫が寄り添うような重みと体温が伝わると、胸の奥の張り詰めた糸がふわりと解けていった。


――この子にとって、わたしは“女王陛下”ではなく、ただの“おかあさん”。ただし、“もう一人の”、だけどね。それにしても、ふたりも母親がいるなんて、なんて贅沢なんだろう。ああ、贅沢なのはわたしもか。生まれてくる子と、この子と、二人も子供がいることになっちゃうんだから。


 その事実を抱きしめられることが、どれほど尊く、救いであるかを思い知らされる。


 今日、リュシアンが選んだのは、十一歳の少年には少し背伸びした一冊だった。


『周縁伝承と文明残響 ―― 辺境民族の神話構造にみる古代一元支配体制の痕跡』

アルヴィス・エリアン著/中央大学附属フィールド人類学研究所 編纂


 難解な題名に眉をひそめる文官もいるだろう。けれど本を開くリュシアンの灰青の瞳は、澄んだ湖面に星を落とすような好奇心で輝いている。


 リュシアンは、辺境の民が細やかに守り継いできた言い伝えや祭儀に、ひときわ深い関心を寄せていた。


――「世界中を旅して、まだ誰の言葉にも載らない物語や祈りに触れてみたいんです」


 そう語るたび、彼の灰青の瞳は灯を宿した水晶のようにきらめき、わたしの胸に温かな期待を灯してくれる。けれど同時に、その横顔にわたしの記憶にはないはずのギルクの影が重なり、きゅっと甘く締めつける痛みも呼び覚ますのだった。


「母上、この箇所なのですが……」


 細い指先が示した先には、古びた羊皮紙に転写された一節があった。


『空を翔ける鉄の鳥はいかづちを吐き、山々を砕いた。されど鳥を操りし民は星の運行を読むこと能わず、大地の声を聞くことなく、やがて自らの炎に焼かれて滅びた』


「これは、いったいどういう意味なのでしょう?」


 と、淡い焦げ蜜色の髪を揺らしながら問いかける。


 わたしはページに視線を滑らせ、言葉を撫でるように選んだ。


「――そうね。おそらくは“強い力”を授かった者たちが、その大きさに酔い、自然と共に生きる約束を見失ってしまった、という戒めなのでしょうね」


 こてん、と小鳥のように首を傾げるリュシアン。冬陽をすくった髪が、水面に金砂を散らすように揺れた。


「力を持つこと自体が、悪いことなのですか?」


 そのまっすぐな問いに、わたしはふっと微笑んだ。


「いいえ、力そのものが罪ではないわ。それはまるで灯火のよう。灯心を整えれば夜を照らすけれど、油を零せば家を焼いてしまう。人は時に、“出来る”という事実だけで“してよい”と思い込んでしまうの。――ほんとうは、『出来ること』と『為してよいこと』は、同じではないのにね……」


 ページの文字を追いながら、わたしの胸裏には、誰も知らぬ歴史の残響がそっと息づいている。


 この“おとぎ話”めいた伝承の奥底には、確かに――誰かが隠し、誰もが忘れかけた、世界の真実が脈打っているのだと。


 けれど、胸の奥には、まだ夜明けを待つ霧のような疑問が幾重にもたなびいていた。


 はるかな昔に栄華を誇ったという古代超文明。


 そこに築かれた“理想的な人類による理想的な社会”、そして世界を一元的に導くために編まれた統一管理機構とシステム・バルファ。


 社会の構成員を“製造”するプラント。


 IVGシステムによる慣性制御で空を翔ける、ライドムーバー。


 世界中に張り巡らされていたという、地下の情報・物流ネットワーク回廊――チューブ。


 さらに、わたしの手に在る白き刃マウザーグレイル。


 そして、精霊子を感じ取り、自然と調和した暮らしを営んでいたという“精霊族”。


 それらはみな、確かに“ここ”に残響を響かせているはずなのに、記録にも伝承にも影すら映らない。


 残されなかったのではなく、誰かが残させなかった――そうとしか思えない。


 魔術大学の大図書館で読み漁った書架、禁書庫の奥で埃を被っていた古文書、錆びた遺物。


 どれも肝心な核心だけが、裂帛のごとく抜き取られていた。唯一の手がかりは、ロスコーの記憶の断片を封じた黒い小片だけ――。


 精霊族と統一管理社会との争いは、どんな結末を迎えたのか。文明はなぜ崩壊し、ゆるやかな衰退へと向かったのか。デルワーズはその渦中でどう関わり、どんな選択をなし得たのか。システム・バルファを司るコア、ラオロ・バルガスはいま何処に潜むのか。虚無のゆりかごと、“ミツル”の身に浮かんだ“不具なる紋様”はどう結びつくのか。『シグマ-16(Σ-16)型・次元間深層探索プローブ』を創ったのは誰で、何ゆえ世界へ針穴を穿ち、魔獣や魔族といった尖兵を送り込むのか。


 そして、なぜ彼らはデルワーズを、そこまで憎むのか。


 答えを知るはずのAIレシュトルは、尋ねるたびに「創造主が設定した禁則事項」とだけ告げ、沈黙の壁を築く。


 霧は晴れず、わたしの視界はいつも半分が影だった。何もかもが開示されていたなら、もっと的確に道を選び、未来を守れるはずなのに――。


 それでも。


 わたしは、途切れ途切れに射しこむわずかな光を一粒ずつ掬い取り、仄かな推測という糸で慎ましく織り合わせるしかない。胸の奥で健やかに脈を刻む小さな命と、愛しい人々の笑顔を守り抜くために。


――それが、いまのわたしに託された役目なのだから。


 窓の外では、かえでの残り葉が、低く射す冬陽を淡く透かし、薄紅と琥珀が溶け合った光をまとって揺れていた。


 その柔らかなきらめきは、リュシアンの母譲りの淡い焦げ蜜色の髪にも降り注ぎ、一筋ごとに温かな光を置いてゆく。透けた陽光に染められた髪は、微細な琥珀の糸を織り込んだかのように、額のあたりで静かに輝いていた。


 ページを閉じたリュシアンは、小さく息を零し、わたしの腕へこてんと額を預けてきた。


 その重さは羽のように軽やかで、それでいて、胸の奥を甘く満たしてくれる確かな温度だった。


「……ぼくも、いつか世界中を旅して、こういう“忘れられたもの”を探したい」


 頬を寄せたまま囁く声は、冬の陽だまりのようにあたたかで、少しだけ揺れていた。


「忘れられたもの、って?」


「はい。誰も気づかないまま残っているもの……神話とか、古い言い伝えとか。昔の人たちが大切な想いを託した“ことば”です。そういうものを見つけて、ちゃんと伝えられる人になりたい。――ぼくも、母上のように何かが“できる”人になりたいんです」


 その言葉に、わたしはそっと目を細めた。


 この子の瞳――澄んだ灰青の瞳は、あまりにも多くを映しとる。


 わたしが口にしなかった痛みや、語りつくせなかった願いさえ、深い湖面のように吸い込み、静かに抱え込んでしまうのだ。それはまるで、記録から消し去られた古代の人々の声や祈りを、静かに拾い上げて胸にしまうように。


 まだ十一歳。


 なのに、胸の奥には、“選ばれてしまった者”の孤独が、そっと芽を潜めている。その愛おしさと、かすかな切なさが絡まり合い、胸の底で淡く痛んだ。


「リュシアン――」


 そっと名前を呼び、わたしは指先で彼の頬を包んだ。


 まだ柔らかな肌の下で鼓動がかすかに脈打ち、温もりは初冬の日差しよりも穏やかだった。


 彼は瞬きをひとつ置き、真珠色のまつげを震わせながら、まっすぐにこちらを見返す。そこに映るのは、あどけない好奇心と、大人びた決意が同居する、不思議に澄んだ光だった。


「あなたは、もうすでに“できる人”よ」


 ゆっくりと言葉を紡ぎながら、指でそっと髪を撫でる。


 ふわりと揺れた前髪の向こうで、その瞳がきらりと揺れていた。


「何か特別なことをしなくても、誰かの心に触れて、ちゃんと考えて、優しくあろうとする。そのまっすぐなまなざしだけで、世界は少しずつ変わっていくのよ」


 胸の奥で、赤子の胎動にも似た小さなときめきが、そっと花びらを開く感覚があった。


「……そんなことでいいんですか? ほんとうに、そう思われますか?」


 ためらいを含んだ囁き。


 長い睫毛の影が頬をかすめ、僅かな不安がその表情を曇らせる。


「ええ、ほんとうよ」


 わたしは迷わず頷き、かけられた不安の影を払うように、額に口づける代わりに人差し指で軽く触れる。


 子どもの頃、メイレア母様がよくそうしてくれた仕草を、わたしは無意識に写し取っていた。


「だって、わたしがそうだったもの」


 胸裏に、薄氷のように静かな回想が降りてくる。


 深い闇に沈みかけていたころ――茉凛の、お日様みたいな笑みが迷いなく差し込み、冷え切った指先に触れてくれた。


 暖かい掌は凍えた手を包み、心の温度まで引き上げてくれたのだった。


 泥の上で膝を折り、うつむいた日には、ヴィルの大きく、ごつごつとした掌が迷わず伸びてきた。


 がっしりと掴まれた腕に込められた力強さと、掌から伝わる体温。あの一瞬の温もりが、わたしに「立ち上がる」という行為そのものを思い出させてくれた。


 そして、リュシアン。


 この小さな背中と向き合いながら、わたしは決定的に変わった。


 流転する世界線に立たされていると知りつつも、この子の未来を守りたい。そう願った瞬間に、わたしの存在は“迷い子”から“母”へと輪郭を得たのだ。


 だから、どんなに辛くても頑張れた。


 異邦の記憶と、この世界で流れる時間とが軋み合い、ときに胸を裂いても、光をくれた人々がいた。


 あの日の笑みと、あの掌と、そして今ここで寄せ掛かる小さな温もりがある限り、わたしは何度でも立ち上がれる。


 窓辺の冬陽は、まるでその誓いを確かめるかのように、再びリュシアンの髪に淡い光を置いていった。


 優しさの記憶は、夜明け前の灯火のように、何度でもわたしを照らし返す。


 だからこそ、わたしは確信をもって微笑むことができる。


「誰かの優しさひとつで、人は――何度でも立ち上がれるのよ」


 ことり、と彼の睫毛が揺れた。


 頬に差したうす紅が、炉の火よりあたたかく見えた。


「……ありがとうございます」


 か細い声は真綿のように柔らかく、けれど確かにわたしの内側へ届いた。


 小鳥のさえずりより淡いその一語が、静かな離宮の空気をわずかに震わせ、胸の奥にあたたかな火をともしてくれたのだ。


 外では、木の茂みを撫でた風がひそやかに鳴り、はらり、と葉がひとひら落ちてゆく。


 朱を帯びたその葉は、宙を漂うあいだだけ短い舞踏を披露し、やがて芝の上に静かに身を横たえる。季節が、時計の長針をそっと押すように、ゆっくりと、けれど確かな足取りで次の扉を叩いている。


 深まりゆく気配を感じ取りながら、わたしはページの上に視線を落としたまま、しばし物思いに沈んだ。


 この子が――リュシアンが――胸に抱いた小さな灯火を、決して吹き消させはしない。


 世界のすべてを懸けても、わたしはその夢を守り抜こう。


 静かな誓いが、波紋のように心の奥底へ染み入り、腹部で脈打つ別の鼓動とそっと重なる。


 ふいに、隣から微かな寝息が洩れた。


 顔を上げると、リュシアンの瞼はいつのまにか閉じられ、長い睫毛が頬に柔らかな影を落としている。本の上に伏せた額は、真面目な印字ではなく眠りの国の入口に触れているらしく、ページの余白に落ちる吐息が紙をかすかに震わせていた。


 そっと立ち上がり、近くのチェアの背に掛けていた薄い毛布を取る。


 織り込まれた金糸が午後の陽を受けてかすかに輝き、淡い蜂蜜色の光が部屋に滲んだ。


 わたしはその布を、雛鳥を包む羽のようにゆっくりと彼の背へ掛け、指先で襟元を軽く整えてやる。


 温もりに触れたリュシアンは、小さく身じろぎし、再び穏やかな呼吸へと落ち着いた。


 ちょうどそのとき、扉口に淡い影が差す。


 ふり返ると、ヴォルフが片手をかまちに添えたまま立っていた。普段よりも柔らかな印象で、けれど瞳だけはいつもと変わらず鋭い光を宿している。


 視線がわたしとリュシアンを順にたどり、最後に唇の端がほんの少し持ち上がった。声を出さずに微笑んだ、その仕草がやけに優しく見える。


「……寝たか?」


 唇の動きだけを読むような無声の問いかけ。


 わたしは頷き、人差し指を唇に当ててみせた。


 ヴォルフは理解の印にまぶたを落とし、革靴の音すら立てぬように足を引く。わたしは毛布を最後まで整えたのち、机上の魔導ランプの出力を少しだけ下げ、部屋の光量を落とした。


 再び扉を抜けるとき、ヴォルフが控えめな距離で待っていた。廊下へ出るやいなや、彼は小声で囁く。


「――珍しく、よく笑っていたな。ここしばらくの疲れが、少しは取れたか?」


 彼の足取りは音ひとつ立てず、けれど武人特有の重心の安定が失われることはない。


 わたしは揺れる蝋燭の光の中で彼の横顔を盗み見て、小さく微笑んだ。


「ええ。あなたのおかげでもあるわ」


 応えると、ヴォルフは眉尻をわずかに持ち上げる。


「俺は何も。あいつ……いや、リュシアンが、うまく癒やしてくれたんだろう」


 謙遜めいた言葉とは裏腹に、その声音には確かな安堵がにじんでいた。


 胸を撫で下ろすようなその響きだけで、わたしの心にもほの温かい灯が宿るのを覚える。


「そういうあなたも、癒やされてるんじゃないの?」


 つつくように言うと、ヴォルフは肩をひとつすくめた。


「まぁな。育てがいのある弟子を見ていると、胸が弾む」


 その横顔には、戦場では決して見せない柔らかな光が灯っていた。


 わたしはくすりと笑い、唇に指を当ててから問いかける。


「それって、父親みたいな気持ちで?」


「表向き俺の息子なわけだし、当然だろう」


 言い切る口調に迷いはない。


 けれど“当然”という言葉がわたしの胸に軽く刺さり、思わず「うーん……」と唸ってしまう。


「なんだ?」


「そのあなたの当然が、心配なのよ。生まれてくる子どもが男の子だったら、どうしようって」


「男なら生まれた瞬間に剣に触れさせるだろう」


 予想通りの即答に、わたしは額に手を当てる。


「ほらきた……」


「立てるようになったら小さいおもちゃでいい、剣を持たせる」


「これだ……」


「なにがおかしい?」


 真剣そのものの眼差し。


 一方のわたしは深い嘆息をこぼす。


「リュシアンは分別がつくようになってから剣に触れているから、まだいいわ。でもね、赤ん坊の時から剣を持たせるとかどういうつもり?」


「どういうって、そういうつもりだ」


「頭が痛い……あなたみたいな“剣バカ”になったらどうするの?」


 半ば本気、半ば揶揄の声に、ヴォルフは肩を揺らし、


「またその話か。それはまた後だ。うるさくするとリュシアンが起きちまうぞ」


 と、穏やかな制止を差し挟んだ。


「しまった……」


 思わず口元を押さえ、声量を絞る。


 ふと振り向き、開け放したままの書斎の扉へ目をやる。もう一度、毛布のふくらみを確かめたくて。


 わたしは歩を返し、扉の隙間からそっと覗き込む。


 ほの暗い室内では、リュシアンが机に頬を預けたまま、規則正しい寝息を立てていた。毛布に織り込まれた金糸が燭光を受けて柔らかく瞬き、まるで群青の天幕に浮かぶ星座のようだった。


 寝息とともに上下する肩先を見つめるうち、胸の奥に静かな波紋が広がっていく。


 わたしは扉をそっと閉じ、手に残る木肌のひんやりした感触をしばし噛みしめた。


 ――守り抜く。


 約束のように胸に置いたその言葉が、今しがた掛けた毛布の温度と溶け合い、静かにわたしの血潮へ染み込んでいく。


 わたしたちは呼吸まで揃えるように歩調を落とし、半円形の穹窿きゅうりゅうを潜り抜ける。


 高い天井から連なる真鍮の燭台が、小さな炎を翻らせながら冬の空気を揺らし、固まりかけた蝋の匂いに松脂の甘い残り香が重なる。


 石壁には淡い光が帯となって流れ、両脇に掛けられたタペストリーの織り糸が、わずかな気流でひそやかに震えていた。


 ヴォルフは隣で肩をすぼめ、ちらりとわたしの横顔を盗み見て囁く。


「……剣を握れば体幹が鍛わる。転びにくい、丈夫な子になるさ」


 吹き出しそうになりながら、わたしは胸の前で指を立てる。


「しーっ……。ここは音がよく響くのよ。石壁が息を弾き返すから」


「分かってる」


 それでも得意げな声音は変わらず、半ば呆れ、半ば愛おしい気持ちが頬の奥でゆるやかに膨らんだ。


 書斎を離れ、長い回廊を折れる頃には、午後の陽はすっかり青みを帯び、窓の向こうに薄い月が浮かんでいた。


 その淡い光に目を細め、わたしは試すように問いかける。


「それじゃあ――もし女の子だったら?」


 すると、ヴォルフはふと足を止め、深く息を潜めた。


「護身の型くらいは教えよう。だが……」


 言いよどむ口元に、苦笑とも照れともつかない色が浮かぶ。


「お前がきっと、誰より甘やかすだろう? そうなれば俺の出る幕は無さそうで、少し怖い」


「心外ね」


 わざと眉をつり上げると、彼は肩を震わせて笑いを堪え、視線を壁の燭影に逃がす。


「今からぬいぐるみやら絵本やら山ほど買い込んでいるくせに、“心外”とは――信じ難い」


 わたしは楽しげに揺れる燭台の炎を見つめ返し、言葉を継いだ。


「ぬいぐるみだけじゃないわ。手のひらに収まるくらいの木の積み木も必要よ。創造力を育むためにも、ね?」


 柔らかく返すと、彼は目を細め、微かな光彩を瞳に落とした。


「……創造力、か。お前のそれが銀翼の連中をどれだけ振り回したか……みんなまだ覚えているぞ」


 たしかに、わたしは“いろいろ”やってしまった。


 騎士団食堂の油物を三割減らす栄養指導。衛生指導の一環では“鎧の消臭講習会”を強行。


 さらには「詩と戦術の関連性」なんて夜学まで開いた結果、筋骨隆々の騎士たちが剣を片手に抒情詩を暗唱するという珍妙な光景が広がった。おかげで顔馴染みの中隊長たちは、今も枕を涙で濡らしているらしい。


 ――……うん、振り回したと言われても仕方ないかもしれない。おほほほほ……。


 冷静さを装って返す。


「それは過去形? それとも現在進行形?」


「両方だ」


「言ってくれるわね。消臭計画だけは譲れないんだから」


 小さな舌戦を続けながらも歩調は乱れない。


 厚い靴底が石敷きをざらりと擦り、等間隔の小さな音になって廊下へ溶け、低い天井裏でやわらかな反響を返す。


 ふと足を止め、窓の外を仰ぐ彼の横顔を、薄い月の光が静かに照らしていた。


「……あいつの夢は、きっと叶うさ」


 彼は静かに言った。


「だが世界を歩くには、覚悟も必要だ。危険は否が応でも降り掛かってくるし、悲しみだって背負うことになる」


「その覚悟なら、わたしたちが教えられる。でしょ?」


「そういや、俺は“放浪の雷光”で、お前は“黒髪のグロンダイル”だったっけな」


 わたしは肩を並べ、窓ガラスに映る二つの影を確かめるように頷いた。


「――それが、親であり師であるわたしたちの役目よ。剣の握り方も、言葉の重さも、両方ね」


 ヴォルフは横顔をわずかにゆがめ、やがて小さく笑った。


 その横顔を見上げながら、わたしはさらに言い添える。


「……どちらか一方では、護りきれないでしょう? 世界というものは、とても複雑で——それでいて、壊れやすいものなのよ」


 言い添えた瞬間、腹部に短い張りを覚え、わたしはそっと手を当てた。


 まだ名も知らぬ小さな命が、青い光の底で静かに呼吸している。そんな予感が微かに伝わってくるようだった。


 ヴォルフの視線がそこへ落ち、声はさらに低くなる。


「……力だけでも、言葉だけでも駄目。お前の言うとおりだな。――なら、この子にも両方授けよう。剣のほうは、身体が育ってからでいい」


 囁きににじむ照れくささが可笑しくて、わたしはそっと笑みを返す。


「まあ、意外。ずいぶん譲歩するのね」


「生まれる前から怒らせたら、後が怖いからな。――お前が」


 肩越しの冗談めいた視線に、つい唇が緩む。


「心得ているなら、良いわ」


 その瞬間、回廊の奥から静かな時の鐘が一つ、深く打たれた。


 年の瀬へ向かう王都の空気に、薄い雪雲の匂いが混じり始めている。


 わたしは深く息を吸い、その冷たさと薔薇の残り香が溶け合う感覚を胸いっぱいに閉じ込めた。


「行きましょうか、ヴォルフ」


「……ああ。リュシアンの夢が、良い光で満ちるように」


 離宮の時計塔が、もう一度だけ時を告げた。


 わたしとヴォルフは目を合わせ、小さく笑って歩き出す。


 季節の扉の向こうに、遠い雪音の気配が潜んでいる。


 それでも、この足取りで進んでゆける。


 ――きっと。


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