鈴蘭の白は、もう庭の奥でほどけていた
鈴蘭の白は、もう庭の奥でほどけていた。
夜の窓には初夏の湿りが薄く張りつき、硝子の向こうで葉が重たげに揺れていた。昼の熱は石壁の内側にまだ残り、床に触れる素足だけが、湯上がりの身体からすこしずつ温度を奪っていく。
夫婦専用の湯殿で、いつもより長く身体を清めた。
湯に沈めた腕を見ているあいだ、わたしは何度も、何でもないことだと自分に言い聞かせていた。疲れた夫を迎えるだけ。少しよい酒を出すだけ。王配殿下が好む葡萄酒を、たまたま取り寄せただけ。
たまたま。
その言葉は便利だった。なのに鏡の前に立つころには、もうほとんど効き目を失っていた。
淡い青の夜着は、袖口に細い銀糸が刺してある。月明かりに触れると、水面のように光る色だった。いつもなら選ばない。少し幼く、少し頼りなく、それでいて肌の温度を隠しきれないような薄さがあった。
肌着の紐を結び直す指が、二度、三度と迷う。
胸元のリボンも、結んでは解いた。香水も変えた。鈴蘭のころにつけていた清い香りではなく、白い花の奥に果実の甘さが残るものにした。濃すぎないように手首へ一滴だけ置き、それでも不安になって、袖の内側でそっと拭った。
テーブルには、銀の燭台と二つの杯。
彼の好きなワインは、まだ封を切っていない。栓抜きもある。そこまで用意してあるのに、手に取る勇気だけがなかった。
その横には、昼のうちに読み終えられなかった報告書が二通、伏せて置かれている。明日の朝までに裁決を返さなければならないものだ。端へ避けたはずなのに、紙の白さは妙に目立った。王国は、寝所の扉を閉めても消えてはくれない。
呼びに来ただけ。待っていただけ。王統のことを話すだけ。
そういう言葉を、胸の内へ順番に並べてみる。どれも硝子細工のように軽く、触れた先から細く欠けていった。
《生体周期照合》
▼受胎可能性は高水準です
▼身体負荷は許容範囲内
▼最終判断権はマスターにあります
寝台脇の表示を見た瞬間、耳の奥まで熱が上った。
「あのね、レシュトル。そういう露骨な言い方は、やめてくれないかしら」
湯上がりの喉はまだ少し湿っていて、抗議の声だけが妙に頼りなく響いた。
《説明精度を優先しています》
▼表現調整は可能です
▼ただし事実は変化しません
「……もっと嫌な言い方になったわ。あなたって……これだからAIは。ひとの気持ちなんてこれっぽっちもわかっていない」
表示は消えない。消せばよかった。なのに消さないまま、わたしは夜着の袖口をまた整えていた。布の端をなぞる指だけが、落ち着かずに動く。
事実は変化しない。
その言葉が、針のように胸の内へ残る。
王統の安定も、リュシアンの自由も、本来のメービスの願いも、再建途上にある王国の未来も、どれも嘘ではない。嘘ではないからこそ、そこへ逃げ込める。
けれど、ほんとうは。
扉の外で、遠い靴音がした。
肩が強張る。燭台の火が揺れ、ワインの瓶に小さな光が走った。香水の甘さが急に濃く感じられて、わたしは思わず手首を握った。
靴音は近づいてくる。
夜の廊下を渡る重い音。急ぎすぎず、けれど疲れを隠しきれない歩幅。それだけで、彼だとわかった。
扉が開いた。
ヴォルフは、白い王配の儀礼服を着ていた。
肩には金糸の飾りがあり、火の明かりを受けて鈍く光っている。昼間なら、彼をいっそう端正に見せたはずの礼服だった。けれど今は、襟元に夜気が沈み、袖口には紙粉の白さがついている。長い銀髪も、いつもよりわずかに乱れていた。
疲れている。
その一語が、喉の奥に落ちた。
新設された銀翼騎士団の編成に、軍改革。古い将官たちとの折衝。武官の人事と予算の組み替え。軍総司令としての彼に、休む暇などほとんどなかった。
そしてそれは、わたしも同じだった。
クレイグ・アレムウェルがいなくなってから、王国再建の実務的な裁決は、わたしの手を通らなければ動かなかった。閣僚たちの視線、貴族院の探り合い、地方から届く嘆願。破れた国を縫い合わせるような日々は、針先を少し誤るだけで、また血を呼ぶ。
それなのに。
今夜のわたしは、淡い青の夜着を着て、香りまで変えて、彼の好きな酒を置いている。
急に、全部がひどく場違いに思えた。
「まだ起きていたのか」
外気の冷えを含んだ声だった。
「あなたの帰りが遅いのは、今に始まったことではありませんもの」
声を平らにしたつもりだった。なのに袖の内側で握った指は、すこし湿っている。
ヴォルフの視線が、テーブルへ落ちた。
杯が二つ。封の切られていないワイン。燭台の火。読みかけの報告書。そこから、わたしへ戻る。
「ほう、珍しい酒だな。待っていたのは、これを開けるためか」
声は、杯の縁へ落ちるみたいに低かった。視線を逸らし、封を切られていない瓶の首を見つめた。
「王配殿下がお気に召さなければ、明日の煮込みにでも使いますけれど?」
言ってから、自分でも少しひどいと思った。
ヴォルフはほんの短く黙り、それから口元をわずかに動かした。
「せっかく取り寄せた酒を、煮込みに使うのか。もったいない」
「きっと、葡萄酒にも別の人生があるでしょう」
窓の外で、葉が夜風に擦れた。薄い音が部屋へ届き、言い訳の余韻だけをそっとさらっていく。
「人生か。葡萄酒にもなかなか過酷な兵役があるもんだ」
「あなたの兵法の前では、ワインだって厨房へ逃げます」
「俺はまだ逃げてないぞ」
「そうかしら。逃げる前の顔をしているわよ」
言った瞬間、彼の目が少し細くなった。
疲れの奥に、いつもの光が戻る。からかいの前触れ。見抜いたうえで、あえて外した言葉を選ぶときの目。
ああ、まただ。
そう思うのに、喉の力が抜けてしまう。
「その色は、初めて見る」
彼の視線が、夜着の袖口から肩へ移った。
肌に触れていた布が、急に頼りなくなる。
「似合いませんか?」
「似合っている」
あまりにまっすぐ言われて、息が喉で止まった。胸の奥で、何かが小さく跳ねる。
「……そ、それ以上、言わなくて結構です」
「聞いたのはそっちだろうに」
「社交辞令というものを期待しただけです」
「社交辞令でよければ、明日の貴族院で山ほど聞けるぞ」
声の端に、笑いが残っていた。燭台の火が揺れ、彼の瞳の奥にも、少しだけ明るさが戻る。
それが悔しい。彼は疲れているくせに、こういうときだけ、妙に息を吹き返す。わたしのほうが先に逃げ場を失ってしまう。
「軍総司令閣下は、ずいぶんお元気そうで何よりですわ」
「元気なら、こんな格好で帰っては来ないさ」
彼は礼服の肩飾りに手をかけた。金具を外そうとして、指が一度滑る。ほんの小さな動きだった。その疲労の濃さに足が動いて、わたしは反射のように近づいていた。
「じっとしていて」
香水の甘さが、自分の動きに合わせて揺れた。
ヴォルフが動きを止める。
近づくと、彼の服には外の風と革と紙の匂いが残っていた。わたしの香りとはまるで違う。昼の任務の匂い。王宮の廊下と執務室と、鎧を脱いだあとの疲れの匂い。
金具に指をかける。硬い。細工は美しいのに、扱う者への優しさはない。爪の先に冷たい抵抗が返ってきた。
「銀翼騎士団の編成のほうはどう? 聞いたわよ。レオンに特別小隊を任せるとか? 大丈夫かしら」
言いかけた瞬間、ヴォルフの声が落ちた。
「お前な。今夜、そんな話をするのか」
金具が外れた。小さな音を立てて、金糸の飾りが彼の肩から沈む。
「してはいけないの?」
「してもいいが、俺は寝ちまうぞ」
「あら、執務中にも居眠りしているのでしょう?」
「見たのかよ」
「見なくてもわかります。あなたの書類の後半は、字が斜めに戦死していますもの」
「まいったな」
ヴォルフの息が、笑いに変わった。
その音が近かった。
近すぎた。
金具から手を離そうとしたとき、夜着の肩口へ髪が一筋落ちた。湯の名残を含んだ髪は、肌に触れて少し冷たい。直そうとしたより早く、ヴォルフの手が上がった。
指の背が、髪をすくう。
そのまま、布越しに肩へ触れた。
短い接触だった。
身体は、わたしの言い訳を待ってはくれなかった。肩から背筋へ、細い熱が落ちていく。呼吸が浅くなり、布の下で肌だけが先に彼を覚えてしまう。
ヴォルフの手が止まった。
灯の届かないところで、彼の目だけがこちらを見ていた。
「また震えている」
夜着の薄い布まで響くような声だった。
唇を開きかけた。
怖いのか、と彼は言わなかった。
かわりに、声を落とす。
「今度は、どっちだ?」
以前の夜が、音もなく蘇った。
暖炉の火。袖を摘んだ指。嬉しいから、と苦しい言い訳をしたわたし。武者震いだと逃げた彼。兵法という名の照れ隠し。どれも、まだ部屋のどこかに置き忘れてあるみたいだった。
あのときより、今夜の距離は近い。
肩へ残る彼の指の重みを感じながら、どうにか口元を持ち上げた。
「武者震い、でしょうね」
夜の空気が頬の横を通り過ぎた。熱を帯びたように、遅く。
「戦の前か」
「ええ。ある意味では、だけど」
言ったあとで、自分の言葉がどこへ落ちたのか気づいた。
ヴォルフの目が、わずかに変わる。
からかいの色が、そこで一度消えた。
「なら、兵法としては退くべき局面だな」
肩にあった手が、離れかける。
その瞬間、みぞおちが痛いほど縮んだ。袖を掴む手に、力が入りそうになる。
違う。
そう言いたいのに、言葉にならない。
怖くないわけではない。けれど怖いからやめたいのではない。嬉しいだけでもない。感動でも、仕返しでも、王統のためだけでもない。
ほしい。
その言葉は、喉の奥に置かれたまま、重く、声にならなかった。舌の先まで来て、そこで息に溶けた。
だからわたしは、彼の袖ではなく、手首に触れた。
強く握ったわけではない。逃げる手を両手で包むように、ただ止めた。革の匂いと、彼の体温が近い。
彼の皮膚の下で、脈が一度だけ確かに打った。
「こういうとき、退くのがあなたの兵法なの?」
自分でも驚くほど、声が小さかった。
「無謀な攻めはしない主義でな」
「そういうところが、ほんとうに腹立たしいのだけど」
「褒め言葉として受け取ろう」
「褒めていません」
言い返しているのに、わたしの手は彼を放していなかった。
ヴォルフも、振りほどかなかった。
互いに逃げるための言葉を並べながら、身体だけが同じ場所に残っている。その半端さが、今夜はひどく苦しかった。
彼の視線が、わたしの手元へ落ちる。
わたしの指。彼の手首。青い夜着の袖。そこに落ちる燭台の明かり。
「前、俺が寝ている隙に仕掛けて、逃げただろう」
不意に、彼が言った。
息が止まった。
執務室のソファ。乾いたインクの匂い。眠っているはずの彼の頬に触れた唇。勝ち逃げか、と掠れた声。
思い出しただけで、耳まで熱くなる。
「あれは、その……仕返しよ」
「ふーん、なら今夜は?」
「……迎撃戦?」
ヴォルフの目が、わたしの夜着へ落ちた。
「その格好でか。ずいぶんと軽装なことだ」
「湯浴みのあとですもの。当然でしょう?」
「香りも変えたな」
「あなた、疲れているわりに余計なことへ気づきすぎではないの?」
「気づくなというには、いささか手が込んでいる。戦術上の観点から言えばな」
見抜かれている。
それなのに、暴かれてはいない。
彼は逃げ道を塞がない。塞がないまま、わたしが自分で立っている場所に気づくまで待っている。
それが、いちばんずるい。
「だって……王統のことも、そろそろ真剣に考えなければならないでしょう?」
ついに、わたしはそこへ逃げた。王統という、いちばん正しくて、いちばん安全な言葉へ。
言った瞬間、部屋の空気が一段冷えた気がした。
ヴォルフの視線が、わたしへ戻る。
「その話なら、明日の執務室で聞く」
拒まれたのではない。そうわかるのに、胸がひどく痛んだ。
「……国のことも」
「だから執務室で聞く」
「リュシアンのこともあるわ」
「それもだ」
「本来のメービスの願いだって」
「それも、嘘じゃないんだろう」
彼の言葉は鋭くない。なのに、どこにも逃げられなかった。刃ではなく、灯を向けられているみたいだった。
燭台の火が小さく揺れ、ワインの瓶の影がテーブルの上で長く伸びる。封を切られていない栓だけが、今夜の言い訳みたいに黙っていた。
「じゃあ、どんな話なら聞いてくれるの?」
言ってから、目を伏せた。
声が揺れたからだ。
ヴォルフはすぐには答えなかった。彼の手首を包むわたしの指の下で、脈だけが静かに打っている。
沈黙が、ひどく長く感じられた。
問い返しておきながら、答えを聞くのが怖かった。彼が何を待っているのか、ほんとうはわかっていた。わかっているから、腹立たしかった。
わたしが言えないものを、彼だけが静かに見ている。
「あなた、わたしに何を言わせたいの?」
責めるように聞こえたかもしれない。
けれど、声の奥は震えていた。
ヴォルフの目が、わずかに伏せられる。
「言わせたいわけじゃない」
低い声だった。
「だったら……」
言いかけた言葉は、そこで細く途切れた。
彼の手が、わたしの手の中で向きを変える。今度は逃げるためではなく、わたしの指へ触れるために。
「そうじゃなくて……俺に、俺の方から言わせてくれ」
胸の奥が、ひどく静かになった。
「俺は、お前が欲しい」
世界が、一瞬だけ止まった。
窓の外の葉擦れも、燭台の火の音も、遠い廊下の気配も、すべて水の底へ沈んだようだった。
欲しい。
その言葉を、彼が言った。
わたしではなく、彼が。
代わりに言われたのではない。奪われたのでもない。彼自身の声で、彼自身の欲として、差し出された。
嬉しいのに、悔しい。恥ずかしいのに、どこかで安堵している。逃げ道を失ったのではなく、ようやく逃げなくてもいい場所に立たされたようで、足元が頼りなくなる。
「……あいかわらず、ずるいのね」
やっと出た声は、思っていたより幼かった。
「自覚は、その……しているつもりだ」
ひどく近い返事だった。
「でも、わたしに言わせるつもりだったのでしょう?」
「半分はな」
「もう半分は?」
ヴォルフは、わたしの指を見た。
それから、顔を上げる。
「もちろん、俺から言いたかったさ。だが、もうひと踏み込みが、どうにもうまくは……すまんな」
その言葉に、目の奥が熱くなった。
泣きたくない。泣くような場面ではない。そう思うのに、呼吸がうまく入ってこない。目の奥に集まった熱を、瞬きで押し戻した。
ヴォルフの指が、わたしの手を握った。
強くはない。逃げようと思えば、まだ逃げられる。その余地ごと包むような触れ方だった。
「ワイン、どうしようかしら?」
わたしは、なぜかそんなことを言った。
言ったあと、自分でも可笑しくなる。ここまで来て、まだ杯へ逃げようとしている。
ヴォルフの口元が緩んだ。
「飲まん」
「せっかく取り寄せたのに。あなたの好きな、モンヴェール産なのよ」
「酔いのせいにするのは、やめておきたい」
頬が熱くなった。
「では、兵法のせいにも?」
「それも今夜は使わん」
「からかいも?」
「たぶんな」
「たぶん?」
「全部やめたら、俺じゃなくなるだろう」
「それもそうね。雷光さまはまっすぐと見せかけて、いつも変則だし。予測がつかないもの。ふふ……」
思わず、笑ってしまった。
小さな笑いだった。涙になりかけたものが、喉の奥でほどけて、息を楽にする。
「ははは」
彼も笑った。長くは続かなかった。
その沈黙の中で、わたしは彼の手を放さず、もう一歩近づいた。白い礼服の金糸が頬の近くで揺れる。彼の肩からは、外の冷えと疲労の匂いがしていた。その奥に、彼自身の体温がある。
「今夜は――」
言葉を選ぶのが怖かった。選んだ瞬間、また別の言い訳になってしまいそうだった。
けれど、もう王統へは逃げなかった。リュシアンの名も出さなかった。メービスの願いも、亡き宰相の不在も、いまだけは部屋の外へ置いた。
「わたしも、逃げるつもりはないわ」
それが精いっぱいだった。
ヴォルフの目が揺れた。
彼は答えず、先ほど触れたわたしの肩へ、もう一度手を戻した。
今度は髪を直すためではなかった。
退くためでも、確かめるためだけでもない。布越しの温度を、そこにあるものとして受け取るように、彼の掌が重なる。
怖くないわけではない。
でも、怖いからやめたいのではなかった。
わたしは彼の礼服の飾り紐へ指をかける。金糸は硬く、軍装の名残のように整いすぎていた。外そうとすると、指が震える。
ヴォルフが黙って見ている。
「あまり、じろじろ見ないで」
声が掠れた。
「無理な相談だ」
「そこは、少し努力して」
「さっき、逃げるなと言われたからな」
「こういうところで律儀にならないで」
彼の息が、近くでほどけた。
その笑いに救われる。指の震えが完全には止まらないまま、それでも金具を外すことができた。
礼服の肩が、彼の身体から沈む。
白い布の奥に、昼を戦い抜いた身体の重みがある。王配でも、軍総司令でも、戦場の騎士でもなく、わたしの前で疲れ、迷い、それでも逃げない男として――初めて、夫という近さで、その身体を見た。
彼の手が、わたしの頬へ触れた。
指の節は硬い。剣を握る手だった。触れ方だけは慎重で、わたしが選ぶ余地を消さなかった。
「メービス」
名前を呼ばれただけで、胸がほどけそうになった。
「……はい」
「嫌なら、嫌だと言え」
彼らしいと思った。
ここまで来ても、最後にそう言う。
腹立たしくて、優しくて、どうしようもなくこの人なのだと思う。
「嫌なら、こんなふうに待ってたりしないわ」
言い終えてから、顔を伏せた。
それは、ほとんど告白だった。
ヴォルフの親指が、頬の端をかすめる。涙は出ていない。けれど、出ていない涙の場所を知っているような触れ方だった。
「そうか」
ただそれだけを、彼は言った。
その短さが、深く落ちた。
彼の手に、自分の頬を預ける。香水の甘さよりも、彼の袖に残る外気の匂いのほうが近かった。燭台の火が揺れ、青い夜着の肩に影が落ちる。
テーブルの上で、ワインはまだ封を切られないまま。
二つの杯も、空のまま。
けれど、もうそれでよかった。
酔いも、兵法も、仕返しも、義務も、今夜は必要なかった。
ヴォルフがわたしの手を取り、指に唇を触れさせた。
短い接触だった。
それなのに、以前わたしが眠る彼の頬へ残したくちづけより、ずっと深く身体の奥へ届いた。
「勝ち逃げは、もうできないな」
彼が言った。
息を吸い、笑った。
「勝つつもりは、もうありません」
「負けるつもりか?」
「あなたこそ」
言い返す声が、わずかに揺れた。
ヴォルフはわたしを見つめたまま、逃げなかった。
「もっとも、部屋に戻った時点で、もう負けていたのかもしれんな」
胸の奥で、何かが崩れた。
崩れても、怖くなかった。
彼の腕が、わたしの背へ回る。急がない。引き寄せるというより、わたしが近づく場所を開けるような仕草だった。
だから、わたしは自分からそこへ行った。
白い礼服の胸に額を寄せると、彼の鼓動が布越しに聞こえた。思っていたより速い。落ち着いて見えたのは、見せていただけなのだとわかった。
そのことが、ひどくいとおしかった。
「ヴォルフ」
名前を呼ぶと、彼の腕に力が入った。
「なんだ?」
髪に触れる声が、夜の奥で響く。
「明日は使わないわね」
「何を?」
「ワインよ。煮込み用に」
彼は遅れて笑った。
その笑いが、わたしの髪に落ちる。
「なら、いつか飲もう」
「今夜ではなく?」
「今夜ではなくだ」
彼の手が、青い夜着の背に触れている。
掌の下で布があたたまり、呼吸がまた細くなる。けれど今度は隠さなかった。隠せないのではなく、隠さないでいた。
ヴォルフはそれに気づいている。
気づいて、何も言わなかった。
彼の指が、髪の中へ沈む。湯上がりの香りをたどるように。わたしは目を閉じた。
窓の外で、初夏の葉がまた揺れた。
鈴蘭の白い季節はもう過ぎていた。けれど、あの花の香りがどこか遠くに残っている気がする。春の終わりに差し出された約束が、今夜、別の温度を帯びて息づきはじめている。
わたしたちは、少しずつ夫婦になるのだと彼は言った。
その少しずつの果てに、今夜がある。
彼の手が、わたしの肩を包む。
わたしはその手に、自分の指を重ねた。
逃げない。
もう、逃げない。
その言葉を声にしないまま、彼の胸から顔を上げた。
ヴォルフの瞳が、すぐ近くにあった。青灰の色は夜に深く沈み、それでもわたしだけを映している。
女王ではなく。
巫女でもなく。
誰かの願いを背負う器でもなく。
ただ、メービスとして。
彼の唇が近づく。
わたしは目を閉じなかった。最後の一瞬まで、彼が逃げないのを見ていたかった。
触れる直前、彼が囁いた。
「今夜は、俺の妻でいてくれ」
胸の奥が震えた。
「……あなたも、わたしの夫でいて」
答えた声は、もう逃げていなかった。
次の瞬間、くちづけが落ちた。
それは奪うものではなかった。
待って、確かめて、何度も退きかけて、それでもようやく辿り着いたものだった。
ワインはまだ、封を切られないままテーブルに置かれている。燭台の火は揺れ、青い夜着の裾が床の上で波を作っている。
遠い廊下の気配も、王国の重みも、明日の書類も、すべて扉の向こうにあった。
今夜だけは。
彼の腕の中で、そう思った。
今夜だけは、世界が遠い。
それでも、世界が消えたわけではなかった。
彼の背に回した手の下には、昼の疲労で固くなった筋肉があった。わたしの肩に触れる彼の掌にも、剣だこと紙の乾きが残っている。どれほど互いを求めても、明日の朝にはまた、彼は軍議へ、わたしは執務室へ戻る。
その現実が、今夜を冷ますのではなかった。
むしろ、その重さを知っているからこそ、この短い夜が深くなっていく。
ヴォルフがわたしの額へ口づけた。
息が頬にかかる。外気と革と、汗の匂い。昼の彼を連れてきたままの匂いだった。
「無理するな」
「それを言ったら、あなたのほうでしょうに」
彼の胸元で息を吐いた。礼服の布が頬に触れ、金糸の刺繍が肌へ当たる。
「今夜くらいは、言わせろ」
「明日の朝も言いそうだわ」
「確実に言う」
笑ったら、喉の奥に詰まっていたものがほどけた。
彼の腕の中にいるのに、わたしたちはまだ仕事の話をしている。眠りの心配をして、明日の朝を数えて、互いの疲れを責めるように気遣っている。
それが妙におかしかった。
甘いだけの夜になれない。その不器用さごと、わたしたちなのだと思う。
ヴォルフの手が、わたしの髪を撫でた。
今度は兵法とも、仕返しとも言わなかった。
ただ、そばにいる。
その沈黙のほうが、言葉よりずっと確かだった。
夜は、すこしずつ深くなっていった。
ワインは結局、封を切られなかった。
燭台の火が一度短く揺れ、部屋の隅に置かれた報告書の白さが、影のなかへ沈んでいく。残しておいた義務の輪郭が、ひと晩だけ遠ざかる。
わたしは彼の手を取った。
逃げ道を残すような触れ方ではなく。
けれど、縛るためでもなく。
ただ、これから先へ進むために。
ヴォルフは、わたしの指を握り返した。
夜の中で、その温度だけが、やわらかく確かだった。
◇
明け方の薄青い光が、窓硝子の端から滲んできた。
眠ったのか、眠らなかったのか、よくわからない。身体には湯の名残とは違う気だるさがあり、それなのに胸の内は不思議なほど凪いでいた。
隣でヴォルフが身じろぎした。
いつもなら気配だけで起き上がる人なのに、今朝は寝息が深い。銀の髪が枕に乱れ、外した礼服の白が椅子の背で垂れている。
王配殿下の儀礼服は、夜を越してもなお几帳面に見える。
それが、少し可笑しかった。
寝台の端に腰かけ、青い夜着の袖を直した。布の皺はもう、昨夜の緊張だけではなかった。指で伸ばしても完全には戻らない。その頼りない跡を見て、頬が熱くなる。
すぐに、視線をそらした。
テーブルの上では、ワインがまだ封を切られずに立っている。二つの杯も空のままだ。報告書は、昨夜と同じように伏せられていた。
世界は待っていてくれた。
許してくれたわけではない。
扉の向こうでは、もう朝番の足音が遠くに聞こえはじめている。厨房からは火を起こす匂いが流れ、王宮はいつものように目を覚ます準備をしていた。
わたしも、戻らなければならない。
女王へ。巫女へ。王国の裁決を担う者へ。
その前に、もう少しだけ、妻でいたかった。
背後で、声が落ちた。
「起きたのか」
寝起きの掠れを含んだ声だった。
「あなたこそ。早いわね」
振り向くと、ヴォルフは片肘をついてこちらを見ていた。眠気が残っているのに、その目だけはもうわたしを探している。
「眠れたか?」
「少しはね」
「少し、か」
「あなたは?」
「……少しは」
同じ言葉で返されたので、思わず笑ってしまった。
笑ったとたん、身体のどこかがふわりと痛む。昨夜のことを思い出したわけではない。思い出したというより、まだ身体の奥に残っていて、朝の光でそっと輪郭を持ったのだ。
ヴォルフはそれに気づいたようだった。
言わないまま、起き上がり、乱れた髪を手ぐしで後ろへ流した。背中に朝の光がかかり、そこに戦場の男ではない夫の輪郭があった。
「今日の軍議は?」
「二刻後だ。一日予定で埋まってる」
「休めないの?」
「お前は休めるのか?」
「……報告書が一ダースほどあるわ。今日くらい寝床に籠もっていたいのは本音だけれど、現実は律儀に扉の外で待っているもの」
「ならば、俺も休めんな」
「そういう張り合い方はしないでくれない?」
彼は笑った。
その笑いは、昨夜の名残を含みながら、もう朝の音になっていた。
わたしたちは結局、こうなのだと思う。
夫婦になったからといって、仕事が減るわけではない。愛されたからといって、王国の重みが軽くなるわけでもない。正午には公印を押し、夕刻には臣下の前で背筋を伸ばす。昨夜の温度を抱えた身体で、それでも今日の扉を開けなければならない。
それでも、何かは変わっていた。
手を伸ばせば届く場所に、彼がいる。
そのことを、もう言い訳にしなくていい。
ヴォルフが椅子に掛けていた礼服を取ろうとしたので、わたしは立ち上がった。
「じっとしていて」
昨夜と同じ言葉だった。
けれど、響きは違っていた。昨夜よりも、少しだけ自然に口から出た。
彼もそれに気づいたのか、肩越しにわたしを見た。
礼服の襟を整え、金糸の飾りを留め直す。朝の光に当たると、刺繍は昨夜より淡く見える。金具に触れるたび、彼の体温が近くにあった。
昨夜ほど震えなかった。
まったく震えないわけでもなかった。
「まだ震えている」
彼が言った。
金具を留めながら、目を上げなかった。
「朝ですもの。冷えたのでしょう」
「そういうことにしておく」
「今日は素直ね」
「寝不足だからな」
「わたしのせい?」
言ってしまってから、耳が熱くなった。
ヴォルフの手が、わたしの指へそっと重なる。金具の上で、二人の指が止まった。
「ああ、俺のせいだ」
それ以上は言わなかった。
言われなくても、わかった。
金具から指を離し、息を吐いた。朝の冷えた空気が肺へ入る。身体の奥に残るものは、少しずつ穏やかな熱へ変わっていく。
「ワインはどうする?」
ヴォルフがテーブルを見た。
「セラーへ戻しておくわ。厨房へは逃がしません」
「そうか。ならいい。せっかくお前が用意してくれた品だ。逃したくはない」
「わかってる。いつか飲みましょう。きちんと休める夜に」
「難しい条件だな」
「では、あなたが作って」
「俺がか?」
「軍総司令閣下でしょう。休みくらい編成しなさい」
彼は真面目な顔で考えるふりをした。
「そいつは最大の難問だな」
「でしょうね。真面目なステファンに叱られそうだし」
「違いない。あいつときたら融通が利かなすぎるの困る」
笑いが小さく重なった。
その音は甘くもあり、疲れてもいた。けれど、その疲れごと暮らしていくのだと思った。
寝所の扉の向こうで、朝の気配がさらに濃くなる。
ヴォルフは礼服の袖を通し、わたしは夜着の上からショールをかけた。侍女を呼ぶ前の、短い隙間。誰にも見られない朝の影の中で、彼がわたしの手を取った。
唇ではなく、指へ。
短いくちづけだった。
「無理をするな」
予想どおりの言葉だったので、目を細めた。
「あなたこそ」
「ああ」
「返事だけでは信用しません」
「なら、せいぜい見張っていることだ」
「それは王配殿下のほうが得意でしょう。昔っから」
「たしかに」
彼が笑った。
その顔を見ていたら、昨夜の「俺は、お前が欲しい」という声が、朝の中でもう一度落ちてきた。
けれど、わたしはその言葉を口にしなかった。
代わりに、彼の手を握り返す。
強くはない。
離れなければならない朝に、離れることを前提にした握り方だった。
そこに温度は残った。
わたしたちは扉へ向かった。
外へ出れば、また女王と王配になる。軍総司令と、王国再建の裁決者になる。言葉は整えられ、視線は制御され、互いの疲労さえ公的な顔の下に隠すことになる。
それでも、昨夜のことは消えない。
甘い夢ではなく、生活の中へ置かれた小さな決断として。
扉の前で一度だけ、彼を見た。
ヴォルフもわたしを見ていた。
からかいも、兵法もない。
ただ朝の光の中で、互いの寝不足を見つけて、困ったように笑った。
それで十分だった。
扉が開く。
王宮の朝が、わたしたちを迎えに来る。
わたしは背筋を伸ばした。
その隣に、ヴォルフが立った。




