表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
21/29

鈴蘭の白は、もう庭の奥でほどけていた

 鈴蘭の白は、もう庭の奥でほどけていた。


 夜の窓には初夏の湿りが薄く張りつき、硝子の向こうで葉が重たげに揺れていた。昼の熱は石壁の内側にまだ残り、床に触れる素足だけが、湯上がりの身体からすこしずつ温度を奪っていく。


 夫婦専用の湯殿で、いつもより長く身体を清めた。


 湯に沈めた腕を見ているあいだ、わたしは何度も、何でもないことだと自分に言い聞かせていた。疲れた夫を迎えるだけ。少しよい酒を出すだけ。王配殿下が好む葡萄酒を、たまたま取り寄せただけ。


 たまたま。


 その言葉は便利だった。なのに鏡の前に立つころには、もうほとんど効き目を失っていた。


 淡い青の夜着は、袖口に細い銀糸が刺してある。月明かりに触れると、水面のように光る色だった。いつもなら選ばない。少し幼く、少し頼りなく、それでいて肌の温度を隠しきれないような薄さがあった。


 肌着の紐を結び直す指が、二度、三度と迷う。


 胸元のリボンも、結んでは解いた。香水も変えた。鈴蘭のころにつけていた清い香りではなく、白い花の奥に果実の甘さが残るものにした。濃すぎないように手首へ一滴だけ置き、それでも不安になって、袖の内側でそっと拭った。


 テーブルには、銀の燭台と二つの杯。


 彼の好きなワインは、まだ封を切っていない。栓抜きもある。そこまで用意してあるのに、手に取る勇気だけがなかった。


 その横には、昼のうちに読み終えられなかった報告書が二通、伏せて置かれている。明日の朝までに裁決を返さなければならないものだ。端へ避けたはずなのに、紙の白さは妙に目立った。王国は、寝所の扉を閉めても消えてはくれない。


 呼びに来ただけ。待っていただけ。王統のことを話すだけ。


 そういう言葉を、胸の内へ順番に並べてみる。どれも硝子細工のように軽く、触れた先から細く欠けていった。


《生体周期照合》

▼受胎可能性は高水準です

▼身体負荷は許容範囲内

▼最終判断権はマスターにあります


 寝台脇の表示を見た瞬間、耳の奥まで熱が上った。


「あのね、レシュトル。そういう露骨な言い方は、やめてくれないかしら」


 湯上がりの喉はまだ少し湿っていて、抗議の声だけが妙に頼りなく響いた。


《説明精度を優先しています》

▼表現調整は可能です

▼ただし事実は変化しません


「……もっと嫌な言い方になったわ。あなたって……これだからAIは。ひとの気持ちなんてこれっぽっちもわかっていない」


 表示は消えない。消せばよかった。なのに消さないまま、わたしは夜着の袖口をまた整えていた。布の端をなぞる指だけが、落ち着かずに動く。


 事実は変化しない。


 その言葉が、針のように胸の内へ残る。


 王統の安定も、リュシアンの自由も、本来のメービスの願いも、再建途上にある王国の未来も、どれも嘘ではない。嘘ではないからこそ、そこへ逃げ込める。


 けれど、ほんとうは。


 扉の外で、遠い靴音がした。


 肩が強張る。燭台の火が揺れ、ワインの瓶に小さな光が走った。香水の甘さが急に濃く感じられて、わたしは思わず手首を握った。


 靴音は近づいてくる。


 夜の廊下を渡る重い音。急ぎすぎず、けれど疲れを隠しきれない歩幅。それだけで、彼だとわかった。


 扉が開いた。


 ヴォルフは、白い王配の儀礼服を着ていた。


 肩には金糸の飾りがあり、火の明かりを受けて鈍く光っている。昼間なら、彼をいっそう端正に見せたはずの礼服だった。けれど今は、襟元に夜気が沈み、袖口には紙粉の白さがついている。長い銀髪も、いつもよりわずかに乱れていた。


 疲れている。


 その一語が、喉の奥に落ちた。


 新設された銀翼騎士団の編成に、軍改革。古い将官たちとの折衝。武官の人事と予算の組み替え。軍総司令としての彼に、休む暇などほとんどなかった。


 そしてそれは、わたしも同じだった。


 クレイグ・アレムウェルがいなくなってから、王国再建の実務的な裁決は、わたしの手を通らなければ動かなかった。閣僚たちの視線、貴族院の探り合い、地方から届く嘆願。破れた国を縫い合わせるような日々は、針先を少し誤るだけで、また血を呼ぶ。


 それなのに。


 今夜のわたしは、淡い青の夜着を着て、香りまで変えて、彼の好きな酒を置いている。


 急に、全部がひどく場違いに思えた。


「まだ起きていたのか」


 外気の冷えを含んだ声だった。


「あなたの帰りが遅いのは、今に始まったことではありませんもの」


 声を平らにしたつもりだった。なのに袖の内側で握った指は、すこし湿っている。


 ヴォルフの視線が、テーブルへ落ちた。


 杯が二つ。封の切られていないワイン。燭台の火。読みかけの報告書。そこから、わたしへ戻る。


「ほう、珍しい酒だな。待っていたのは、これを開けるためか」


 声は、杯の縁へ落ちるみたいに低かった。視線を逸らし、封を切られていない瓶の首を見つめた。


「王配殿下がお気に召さなければ、明日の煮込みにでも使いますけれど?」


 言ってから、自分でも少しひどいと思った。


 ヴォルフはほんの短く黙り、それから口元をわずかに動かした。


「せっかく取り寄せた酒を、煮込みに使うのか。もったいない」


「きっと、葡萄酒にも別の人生があるでしょう」


 窓の外で、葉が夜風に擦れた。薄い音が部屋へ届き、言い訳の余韻だけをそっとさらっていく。


「人生か。葡萄酒にもなかなか過酷な兵役があるもんだ」


「あなたの兵法の前では、ワインだって厨房へ逃げます」


「俺はまだ逃げてないぞ」


「そうかしら。逃げる前の顔をしているわよ」


 言った瞬間、彼の目が少し細くなった。


 疲れの奥に、いつもの光が戻る。からかいの前触れ。見抜いたうえで、あえて外した言葉を選ぶときの目。


 ああ、まただ。


 そう思うのに、喉の力が抜けてしまう。


「その色は、初めて見る」


 彼の視線が、夜着の袖口から肩へ移った。


 肌に触れていた布が、急に頼りなくなる。


「似合いませんか?」


「似合っている」


 あまりにまっすぐ言われて、息が喉で止まった。胸の奥で、何かが小さく跳ねる。


「……そ、それ以上、言わなくて結構です」


「聞いたのはそっちだろうに」


「社交辞令というものを期待しただけです」


「社交辞令でよければ、明日の貴族院で山ほど聞けるぞ」


 声の端に、笑いが残っていた。燭台の火が揺れ、彼の瞳の奥にも、少しだけ明るさが戻る。


 それが悔しい。彼は疲れているくせに、こういうときだけ、妙に息を吹き返す。わたしのほうが先に逃げ場を失ってしまう。


「軍総司令閣下は、ずいぶんお元気そうで何よりですわ」


「元気なら、こんな格好で帰っては来ないさ」


 彼は礼服の肩飾りに手をかけた。金具を外そうとして、指が一度滑る。ほんの小さな動きだった。その疲労の濃さに足が動いて、わたしは反射のように近づいていた。


「じっとしていて」


 香水の甘さが、自分の動きに合わせて揺れた。


 ヴォルフが動きを止める。


 近づくと、彼の服には外の風と革と紙の匂いが残っていた。わたしの香りとはまるで違う。昼の任務の匂い。王宮の廊下と執務室と、鎧を脱いだあとの疲れの匂い。


 金具に指をかける。硬い。細工は美しいのに、扱う者への優しさはない。爪の先に冷たい抵抗が返ってきた。


「銀翼騎士団の編成のほうはどう? 聞いたわよ。レオンに特別小隊を任せるとか? 大丈夫かしら」


 言いかけた瞬間、ヴォルフの声が落ちた。


「お前な。今夜、そんな話をするのか」


 金具が外れた。小さな音を立てて、金糸の飾りが彼の肩から沈む。


「してはいけないの?」


「してもいいが、俺は寝ちまうぞ」


「あら、執務中にも居眠りしているのでしょう?」


「見たのかよ」


「見なくてもわかります。あなたの書類の後半は、字が斜めに戦死していますもの」


「まいったな」


 ヴォルフの息が、笑いに変わった。


 その音が近かった。


 近すぎた。


 金具から手を離そうとしたとき、夜着の肩口へ髪が一筋落ちた。湯の名残を含んだ髪は、肌に触れて少し冷たい。直そうとしたより早く、ヴォルフの手が上がった。


 指の背が、髪をすくう。


 そのまま、布越しに肩へ触れた。


 短い接触だった。


 身体は、わたしの言い訳を待ってはくれなかった。肩から背筋へ、細い熱が落ちていく。呼吸が浅くなり、布の下で肌だけが先に彼を覚えてしまう。


 ヴォルフの手が止まった。


 灯の届かないところで、彼の目だけがこちらを見ていた。


「また震えている」


 夜着の薄い布まで響くような声だった。


 唇を開きかけた。


 怖いのか、と彼は言わなかった。


 かわりに、声を落とす。


「今度は、どっちだ?」


 以前の夜が、音もなく蘇った。


 暖炉の火。袖を摘んだ指。嬉しいから、と苦しい言い訳をしたわたし。武者震いだと逃げた彼。兵法という名の照れ隠し。どれも、まだ部屋のどこかに置き忘れてあるみたいだった。


 あのときより、今夜の距離は近い。


 肩へ残る彼の指の重みを感じながら、どうにか口元を持ち上げた。


「武者震い、でしょうね」


 夜の空気が頬の横を通り過ぎた。熱を帯びたように、遅く。


「戦の前か」


「ええ。ある意味では、だけど」


 言ったあとで、自分の言葉がどこへ落ちたのか気づいた。


 ヴォルフの目が、わずかに変わる。


 からかいの色が、そこで一度消えた。


「なら、兵法としては退くべき局面だな」


 肩にあった手が、離れかける。


 その瞬間、みぞおちが痛いほど縮んだ。袖を掴む手に、力が入りそうになる。


 違う。


 そう言いたいのに、言葉にならない。


 怖くないわけではない。けれど怖いからやめたいのではない。嬉しいだけでもない。感動でも、仕返しでも、王統のためだけでもない。


 ほしい。


 その言葉は、喉の奥に置かれたまま、重く、声にならなかった。舌の先まで来て、そこで息に溶けた。


 だからわたしは、彼の袖ではなく、手首に触れた。


 強く握ったわけではない。逃げる手を両手で包むように、ただ止めた。革の匂いと、彼の体温が近い。


 彼の皮膚の下で、脈が一度だけ確かに打った。


「こういうとき、退くのがあなたの兵法なの?」


 自分でも驚くほど、声が小さかった。


「無謀な攻めはしない主義でな」


「そういうところが、ほんとうに腹立たしいのだけど」


「褒め言葉として受け取ろう」


「褒めていません」


 言い返しているのに、わたしの手は彼を放していなかった。


 ヴォルフも、振りほどかなかった。


 互いに逃げるための言葉を並べながら、身体だけが同じ場所に残っている。その半端さが、今夜はひどく苦しかった。


 彼の視線が、わたしの手元へ落ちる。


 わたしの指。彼の手首。青い夜着の袖。そこに落ちる燭台の明かり。


「前、俺が寝ている隙に仕掛けて、逃げただろう」


 不意に、彼が言った。


 息が止まった。


 執務室のソファ。乾いたインクの匂い。眠っているはずの彼の頬に触れた唇。勝ち逃げか、と掠れた声。


 思い出しただけで、耳まで熱くなる。


「あれは、その……仕返しよ」


「ふーん、なら今夜は?」


「……迎撃戦?」


 ヴォルフの目が、わたしの夜着へ落ちた。


「その格好でか。ずいぶんと軽装なことだ」


「湯浴みのあとですもの。当然でしょう?」


「香りも変えたな」


「あなた、疲れているわりに余計なことへ気づきすぎではないの?」


「気づくなというには、いささか手が込んでいる。戦術上の観点から言えばな」


 見抜かれている。


 それなのに、暴かれてはいない。


 彼は逃げ道を塞がない。塞がないまま、わたしが自分で立っている場所に気づくまで待っている。


 それが、いちばんずるい。


「だって……王統のことも、そろそろ真剣に考えなければならないでしょう?」


 ついに、わたしはそこへ逃げた。王統という、いちばん正しくて、いちばん安全な言葉へ。


 言った瞬間、部屋の空気が一段冷えた気がした。


 ヴォルフの視線が、わたしへ戻る。


「その話なら、明日の執務室で聞く」


 拒まれたのではない。そうわかるのに、胸がひどく痛んだ。


「……国のことも」


「だから執務室で聞く」


「リュシアンのこともあるわ」


「それもだ」


「本来のメービスの願いだって」


「それも、嘘じゃないんだろう」


 彼の言葉は鋭くない。なのに、どこにも逃げられなかった。刃ではなく、灯を向けられているみたいだった。


 燭台の火が小さく揺れ、ワインの瓶の影がテーブルの上で長く伸びる。封を切られていない栓だけが、今夜の言い訳みたいに黙っていた。


「じゃあ、どんな話なら聞いてくれるの?」


 言ってから、目を伏せた。


 声が揺れたからだ。


 ヴォルフはすぐには答えなかった。彼の手首を包むわたしの指の下で、脈だけが静かに打っている。


 沈黙が、ひどく長く感じられた。


 問い返しておきながら、答えを聞くのが怖かった。彼が何を待っているのか、ほんとうはわかっていた。わかっているから、腹立たしかった。


 わたしが言えないものを、彼だけが静かに見ている。


「あなた、わたしに何を言わせたいの?」


 責めるように聞こえたかもしれない。


 けれど、声の奥は震えていた。


 ヴォルフの目が、わずかに伏せられる。


「言わせたいわけじゃない」


 低い声だった。


「だったら……」


 言いかけた言葉は、そこで細く途切れた。


 彼の手が、わたしの手の中で向きを変える。今度は逃げるためではなく、わたしの指へ触れるために。


「そうじゃなくて……俺に、俺の方から言わせてくれ」


 胸の奥が、ひどく静かになった。


「俺は、お前が欲しい」


 世界が、一瞬だけ止まった。


 窓の外の葉擦れも、燭台の火の音も、遠い廊下の気配も、すべて水の底へ沈んだようだった。


 欲しい。


 その言葉を、彼が言った。


 わたしではなく、彼が。


 代わりに言われたのではない。奪われたのでもない。彼自身の声で、彼自身の欲として、差し出された。


 嬉しいのに、悔しい。恥ずかしいのに、どこかで安堵している。逃げ道を失ったのではなく、ようやく逃げなくてもいい場所に立たされたようで、足元が頼りなくなる。


「……あいかわらず、ずるいのね」


 やっと出た声は、思っていたより幼かった。


「自覚は、その……しているつもりだ」


 ひどく近い返事だった。


「でも、わたしに言わせるつもりだったのでしょう?」


「半分はな」


「もう半分は?」


 ヴォルフは、わたしの指を見た。


 それから、顔を上げる。


「もちろん、俺から言いたかったさ。だが、もうひと踏み込みが、どうにもうまくは……すまんな」


 その言葉に、目の奥が熱くなった。


 泣きたくない。泣くような場面ではない。そう思うのに、呼吸がうまく入ってこない。目の奥に集まった熱を、瞬きで押し戻した。


 ヴォルフの指が、わたしの手を握った。


 強くはない。逃げようと思えば、まだ逃げられる。その余地ごと包むような触れ方だった。


「ワイン、どうしようかしら?」


 わたしは、なぜかそんなことを言った。


 言ったあと、自分でも可笑しくなる。ここまで来て、まだ杯へ逃げようとしている。


 ヴォルフの口元が緩んだ。


「飲まん」


「せっかく取り寄せたのに。あなたの好きな、モンヴェール産なのよ」


「酔いのせいにするのは、やめておきたい」


 頬が熱くなった。


「では、兵法のせいにも?」


「それも今夜は使わん」


「からかいも?」


「たぶんな」


「たぶん?」


「全部やめたら、俺じゃなくなるだろう」


「それもそうね。雷光さまはまっすぐと見せかけて、いつも変則だし。予測がつかないもの。ふふ……」


 思わず、笑ってしまった。


 小さな笑いだった。涙になりかけたものが、喉の奥でほどけて、息を楽にする。


「ははは」


 彼も笑った。長くは続かなかった。


 その沈黙の中で、わたしは彼の手を放さず、もう一歩近づいた。白い礼服の金糸が頬の近くで揺れる。彼の肩からは、外の冷えと疲労の匂いがしていた。その奥に、彼自身の体温がある。


「今夜は――」


 言葉を選ぶのが怖かった。選んだ瞬間、また別の言い訳になってしまいそうだった。


 けれど、もう王統へは逃げなかった。リュシアンの名も出さなかった。メービスの願いも、亡き宰相の不在も、いまだけは部屋の外へ置いた。


「わたしも、逃げるつもりはないわ」


 それが精いっぱいだった。


 ヴォルフの目が揺れた。


 彼は答えず、先ほど触れたわたしの肩へ、もう一度手を戻した。


 今度は髪を直すためではなかった。


 退くためでも、確かめるためだけでもない。布越しの温度を、そこにあるものとして受け取るように、彼の掌が重なる。


 怖くないわけではない。


 でも、怖いからやめたいのではなかった。


 わたしは彼の礼服の飾り紐へ指をかける。金糸は硬く、軍装の名残のように整いすぎていた。外そうとすると、指が震える。


 ヴォルフが黙って見ている。


「あまり、じろじろ見ないで」


 声が掠れた。


「無理な相談だ」


「そこは、少し努力して」


「さっき、逃げるなと言われたからな」


「こういうところで律儀にならないで」


 彼の息が、近くでほどけた。


 その笑いに救われる。指の震えが完全には止まらないまま、それでも金具を外すことができた。


 礼服の肩が、彼の身体から沈む。


 白い布の奥に、昼を戦い抜いた身体の重みがある。王配でも、軍総司令でも、戦場の騎士でもなく、わたしの前で疲れ、迷い、それでも逃げない男として――初めて、夫という近さで、その身体を見た。


 彼の手が、わたしの頬へ触れた。


 指の節は硬い。剣を握る手だった。触れ方だけは慎重で、わたしが選ぶ余地を消さなかった。


「メービス」


 名前を呼ばれただけで、胸がほどけそうになった。


「……はい」


「嫌なら、嫌だと言え」


 彼らしいと思った。


 ここまで来ても、最後にそう言う。


 腹立たしくて、優しくて、どうしようもなくこの人なのだと思う。


「嫌なら、こんなふうに待ってたりしないわ」


 言い終えてから、顔を伏せた。


 それは、ほとんど告白だった。


 ヴォルフの親指が、頬の端をかすめる。涙は出ていない。けれど、出ていない涙の場所を知っているような触れ方だった。


「そうか」


 ただそれだけを、彼は言った。


 その短さが、深く落ちた。


 彼の手に、自分の頬を預ける。香水の甘さよりも、彼の袖に残る外気の匂いのほうが近かった。燭台の火が揺れ、青い夜着の肩に影が落ちる。


 テーブルの上で、ワインはまだ封を切られないまま。


 二つの杯も、空のまま。


 けれど、もうそれでよかった。


 酔いも、兵法も、仕返しも、義務も、今夜は必要なかった。


 ヴォルフがわたしの手を取り、指に唇を触れさせた。


 短い接触だった。


 それなのに、以前わたしが眠る彼の頬へ残したくちづけより、ずっと深く身体の奥へ届いた。


「勝ち逃げは、もうできないな」


 彼が言った。


 息を吸い、笑った。


「勝つつもりは、もうありません」


「負けるつもりか?」


「あなたこそ」


 言い返す声が、わずかに揺れた。


 ヴォルフはわたしを見つめたまま、逃げなかった。


「もっとも、部屋に戻った時点で、もう負けていたのかもしれんな」


 胸の奥で、何かが崩れた。


 崩れても、怖くなかった。


 彼の腕が、わたしの背へ回る。急がない。引き寄せるというより、わたしが近づく場所を開けるような仕草だった。


 だから、わたしは自分からそこへ行った。


 白い礼服の胸に額を寄せると、彼の鼓動が布越しに聞こえた。思っていたより速い。落ち着いて見えたのは、見せていただけなのだとわかった。


 そのことが、ひどくいとおしかった。


「ヴォルフ」


 名前を呼ぶと、彼の腕に力が入った。


「なんだ?」


 髪に触れる声が、夜の奥で響く。


「明日は使わないわね」


「何を?」


「ワインよ。煮込み用に」


 彼は遅れて笑った。


 その笑いが、わたしの髪に落ちる。


「なら、いつか飲もう」


「今夜ではなく?」


「今夜ではなくだ」


 彼の手が、青い夜着の背に触れている。


 掌の下で布があたたまり、呼吸がまた細くなる。けれど今度は隠さなかった。隠せないのではなく、隠さないでいた。


 ヴォルフはそれに気づいている。


 気づいて、何も言わなかった。


 彼の指が、髪の中へ沈む。湯上がりの香りをたどるように。わたしは目を閉じた。


 窓の外で、初夏の葉がまた揺れた。


 鈴蘭の白い季節はもう過ぎていた。けれど、あの花の香りがどこか遠くに残っている気がする。春の終わりに差し出された約束が、今夜、別の温度を帯びて息づきはじめている。


 わたしたちは、少しずつ夫婦になるのだと彼は言った。


 その少しずつの果てに、今夜がある。


 彼の手が、わたしの肩を包む。


 わたしはその手に、自分の指を重ねた。


 逃げない。


 もう、逃げない。


 その言葉を声にしないまま、彼の胸から顔を上げた。


 ヴォルフの瞳が、すぐ近くにあった。青灰の色は夜に深く沈み、それでもわたしだけを映している。


 女王ではなく。


 巫女でもなく。


 誰かの願いを背負う器でもなく。


 ただ、メービスとして。


 彼の唇が近づく。


 わたしは目を閉じなかった。最後の一瞬まで、彼が逃げないのを見ていたかった。


 触れる直前、彼が囁いた。


「今夜は、俺の妻でいてくれ」


 胸の奥が震えた。


「……あなたも、わたしの夫でいて」


 答えた声は、もう逃げていなかった。


 次の瞬間、くちづけが落ちた。


 それは奪うものではなかった。


 待って、確かめて、何度も退きかけて、それでもようやく辿り着いたものだった。


 ワインはまだ、封を切られないままテーブルに置かれている。燭台の火は揺れ、青い夜着の裾が床の上で波を作っている。


 遠い廊下の気配も、王国の重みも、明日の書類も、すべて扉の向こうにあった。


 今夜だけは。


 彼の腕の中で、そう思った。


 今夜だけは、世界が遠い。


 それでも、世界が消えたわけではなかった。


 彼の背に回した手の下には、昼の疲労で固くなった筋肉があった。わたしの肩に触れる彼の掌にも、剣だこと紙の乾きが残っている。どれほど互いを求めても、明日の朝にはまた、彼は軍議へ、わたしは執務室へ戻る。


 その現実が、今夜を冷ますのではなかった。


 むしろ、その重さを知っているからこそ、この短い夜が深くなっていく。


 ヴォルフがわたしの額へ口づけた。


 息が頬にかかる。外気と革と、汗の匂い。昼の彼を連れてきたままの匂いだった。


「無理するな」


「それを言ったら、あなたのほうでしょうに」


 彼の胸元で息を吐いた。礼服の布が頬に触れ、金糸の刺繍が肌へ当たる。


「今夜くらいは、言わせろ」


「明日の朝も言いそうだわ」


「確実に言う」


 笑ったら、喉の奥に詰まっていたものがほどけた。


 彼の腕の中にいるのに、わたしたちはまだ仕事の話をしている。眠りの心配をして、明日の朝を数えて、互いの疲れを責めるように気遣っている。


 それが妙におかしかった。


 甘いだけの夜になれない。その不器用さごと、わたしたちなのだと思う。


 ヴォルフの手が、わたしの髪を撫でた。


 今度は兵法とも、仕返しとも言わなかった。


 ただ、そばにいる。


 その沈黙のほうが、言葉よりずっと確かだった。


 夜は、すこしずつ深くなっていった。


 ワインは結局、封を切られなかった。


 燭台の火が一度短く揺れ、部屋の隅に置かれた報告書の白さが、影のなかへ沈んでいく。残しておいた義務の輪郭が、ひと晩だけ遠ざかる。


 わたしは彼の手を取った。


 逃げ道を残すような触れ方ではなく。


 けれど、縛るためでもなく。


 ただ、これから先へ進むために。


 ヴォルフは、わたしの指を握り返した。


 夜の中で、その温度だけが、やわらかく確かだった。


 ◇


 明け方の薄青い光が、窓硝子の端から滲んできた。


 眠ったのか、眠らなかったのか、よくわからない。身体には湯の名残とは違う気だるさがあり、それなのに胸の内は不思議なほど凪いでいた。


 隣でヴォルフが身じろぎした。


 いつもなら気配だけで起き上がる人なのに、今朝は寝息が深い。銀の髪が枕に乱れ、外した礼服の白が椅子の背で垂れている。


 王配殿下の儀礼服は、夜を越してもなお几帳面に見える。


 それが、少し可笑しかった。


 寝台の端に腰かけ、青い夜着の袖を直した。布の皺はもう、昨夜の緊張だけではなかった。指で伸ばしても完全には戻らない。その頼りない跡を見て、頬が熱くなる。


 すぐに、視線をそらした。


 テーブルの上では、ワインがまだ封を切られずに立っている。二つの杯も空のままだ。報告書は、昨夜と同じように伏せられていた。


 世界は待っていてくれた。


 許してくれたわけではない。


 扉の向こうでは、もう朝番の足音が遠くに聞こえはじめている。厨房からは火を起こす匂いが流れ、王宮はいつものように目を覚ます準備をしていた。


 わたしも、戻らなければならない。


 女王へ。巫女へ。王国の裁決を担う者へ。


 その前に、もう少しだけ、妻でいたかった。


 背後で、声が落ちた。


「起きたのか」


 寝起きの掠れを含んだ声だった。


「あなたこそ。早いわね」


 振り向くと、ヴォルフは片肘をついてこちらを見ていた。眠気が残っているのに、その目だけはもうわたしを探している。


「眠れたか?」


「少しはね」


「少し、か」


「あなたは?」


「……少しは」


 同じ言葉で返されたので、思わず笑ってしまった。


 笑ったとたん、身体のどこかがふわりと痛む。昨夜のことを思い出したわけではない。思い出したというより、まだ身体の奥に残っていて、朝の光でそっと輪郭を持ったのだ。


 ヴォルフはそれに気づいたようだった。


 言わないまま、起き上がり、乱れた髪を手ぐしで後ろへ流した。背中に朝の光がかかり、そこに戦場の男ではない夫の輪郭があった。


「今日の軍議は?」


「二刻後だ。一日予定で埋まってる」


「休めないの?」


「お前は休めるのか?」


「……報告書が一ダースほどあるわ。今日くらい寝床に籠もっていたいのは本音だけれど、現実は律儀に扉の外で待っているもの」


「ならば、俺も休めんな」


「そういう張り合い方はしないでくれない?」


 彼は笑った。


 その笑いは、昨夜の名残を含みながら、もう朝の音になっていた。


 わたしたちは結局、こうなのだと思う。


 夫婦になったからといって、仕事が減るわけではない。愛されたからといって、王国の重みが軽くなるわけでもない。正午には公印を押し、夕刻には臣下の前で背筋を伸ばす。昨夜の温度を抱えた身体で、それでも今日の扉を開けなければならない。


 それでも、何かは変わっていた。


 手を伸ばせば届く場所に、彼がいる。


 そのことを、もう言い訳にしなくていい。


 ヴォルフが椅子に掛けていた礼服を取ろうとしたので、わたしは立ち上がった。


「じっとしていて」


 昨夜と同じ言葉だった。


 けれど、響きは違っていた。昨夜よりも、少しだけ自然に口から出た。


 彼もそれに気づいたのか、肩越しにわたしを見た。


 礼服の襟を整え、金糸の飾りを留め直す。朝の光に当たると、刺繍は昨夜より淡く見える。金具に触れるたび、彼の体温が近くにあった。


 昨夜ほど震えなかった。


 まったく震えないわけでもなかった。


「まだ震えている」


 彼が言った。


 金具を留めながら、目を上げなかった。


「朝ですもの。冷えたのでしょう」


「そういうことにしておく」


「今日は素直ね」


「寝不足だからな」


「わたしのせい?」


 言ってしまってから、耳が熱くなった。


 ヴォルフの手が、わたしの指へそっと重なる。金具の上で、二人の指が止まった。


「ああ、俺のせいだ」


 それ以上は言わなかった。


 言われなくても、わかった。


 金具から指を離し、息を吐いた。朝の冷えた空気が肺へ入る。身体の奥に残るものは、少しずつ穏やかな熱へ変わっていく。


「ワインはどうする?」


 ヴォルフがテーブルを見た。


「セラーへ戻しておくわ。厨房へは逃がしません」


「そうか。ならいい。せっかくお前が用意してくれた品だ。逃したくはない」


「わかってる。いつか飲みましょう。きちんと休める夜に」


「難しい条件だな」


「では、あなたが作って」


「俺がか?」


「軍総司令閣下でしょう。休みくらい編成しなさい」


 彼は真面目な顔で考えるふりをした。


「そいつは最大の難問だな」


「でしょうね。真面目なステファンに叱られそうだし」


「違いない。あいつときたら融通が利かなすぎるの困る」


 笑いが小さく重なった。


 その音は甘くもあり、疲れてもいた。けれど、その疲れごと暮らしていくのだと思った。


 寝所の扉の向こうで、朝の気配がさらに濃くなる。


 ヴォルフは礼服の袖を通し、わたしは夜着の上からショールをかけた。侍女を呼ぶ前の、短い隙間。誰にも見られない朝の影の中で、彼がわたしの手を取った。


 唇ではなく、指へ。


 短いくちづけだった。


「無理をするな」


 予想どおりの言葉だったので、目を細めた。


「あなたこそ」


「ああ」


「返事だけでは信用しません」


「なら、せいぜい見張っていることだ」


「それは王配殿下のほうが得意でしょう。昔っから」


「たしかに」


 彼が笑った。


 その顔を見ていたら、昨夜の「俺は、お前が欲しい」という声が、朝の中でもう一度落ちてきた。


 けれど、わたしはその言葉を口にしなかった。


 代わりに、彼の手を握り返す。


 強くはない。


 離れなければならない朝に、離れることを前提にした握り方だった。


 そこに温度は残った。


 わたしたちは扉へ向かった。


 外へ出れば、また女王と王配になる。軍総司令と、王国再建の裁決者になる。言葉は整えられ、視線は制御され、互いの疲労さえ公的な顔の下に隠すことになる。


 それでも、昨夜のことは消えない。


 甘い夢ではなく、生活の中へ置かれた小さな決断として。


 扉の前で一度だけ、彼を見た。


 ヴォルフもわたしを見ていた。


 からかいも、兵法もない。


 ただ朝の光の中で、互いの寝不足を見つけて、困ったように笑った。


 それで十分だった。


 扉が開く。


 王宮の朝が、わたしたちを迎えに来る。


 わたしは背筋を伸ばした。


 その隣に、ヴォルフが立った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ