言葉にできない幸福まで分かってくれる人がいて、その人も同じように幸福でいてくれる
彼の胸に頬を寄せたまま、わたしは言葉を失っていた。開けた窓から、夜の風が薄いカーテンを揺らしている。遠くで車の走る音がして、また静かになった。何か言わなければと思うのに、息を吸うだけで精いっぱいだった。彼のシャツをつまんだ指にも、うまく力が入らなかった。
「どうした?」
髪に触れる声が近い。
わたしは首を振った。何でもないと言いたかったのに、それさえ声にならない。
「泣いてるのか?」
もう一度、首を振る。
彼の手が背中をゆっくり撫でた。急かすでもなく、答えを求めるでもなく、そこにいることを確かめるような手だった。
「……言葉にならないか。わかってる」
まだ名前もつけていないものへ、まっすぐ触れられたような気がした。
「それくらい、幸せってことなんだろう?」
なんてことを言うのだろう。
顔が熱くなった。違うと言えばいいだけなのに、口を開けば、もっと恥ずかしいものまでこぼれてしまいそうだった。彼のシャツをつかむ指に、少しだけ力を込める。
「図星か」
笑いを含んだ声が、耳のすぐ上から落ちてくる。
もう、ほんとうに嫌だった。こんなときまで、わたしがいちばん隠しておきたいものを見つけてしまう。抗議する代わりに胸元へ額を押しつけると、彼の腕がわずかに緩んだ。
「すまん。調子に乗りすぎた」
反射的に、背中へ腕を回していた。
「……離れないで」
やっと出た声は、自分でも驚くほど小さかった。
「そうか……」
彼は笑わなかった。ただ、さっきより少しだけ深く、わたしを抱き直した。
「俺も幸せだよ」
その言葉を聞いた途端、こらえていたものが目の奥まで込み上げた。泣きたいわけではなかった。悲しいことなど、何もない。ただ、こんなふうに抱きしめられたまま、同じ気持ちだと言ってもらえる日が来るとは思っていなかった。
「……ずるい」
「何がだ?」
「わかってるくせに」
答える代わりに、彼の指が髪を梳いた。窓から入る風は少し冷たかったけれど、頬を寄せたところだけは、いつまでも温かかった。




