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完結後 青い花の執務室

 朝一番に、ヴィルが西の山間部から戻ったと聞いた。


 その報せは、扉を叩く音よりも早く、わたしの内側へ届いた気がした。羽根ペンを握っていた指が、ほんのわずかに止まる。インク壺の縁で朝の光が震え、羊皮紙の上に落ちていた小さな影が、水面のように淡く滲んだ。


 会いたい、と最初に思った。


 それからすぐに、まだ会ってはいけない、と自分で自分を押しとどめる。


 机の上には、北の麦畑の排水路改修案、春先に崩れた石橋の修繕見積り、旧街道沿いの診療所へ回す薬草費、冬越しに失敗した羊飼いの家への減税願いが積まれていた。どれも紙の形をしているけれど、そこには人の声がある。雨を含んだ土の匂いがある。夜明け前に火を熾す手の皸がある。


 領主になってから、紙は軽いものではなくなった。


 一枚ごとに、誰かの明日が挟まっている。


 だからわたしは、ただ会いたいというだけで椅子を蹴ることができない。できなくなった。できるはずがない。けれど、そうやって理屈で自分を縛るたび、胸の奥にいるまだ幼いわたしが、机の下で足をじたばたさせる。


 呼べばいいじゃない。


 顔だけ見ればいいじゃない。


 ほんの少し話すだけなら、誰も困らないでしょう。


 そう囁く声を聞かなかったことにして、わたしは羽根ペンの先を整えた。墨の匂いが鼻の奥へ薄く届く。窓辺には青い小花が活けてあり、朝の光を受けて、花弁の縁だけが硝子みたいに透けていた。


《《美鶴さぁ……》》


 茉凜の声が、白い剣の内側から転がるように響いた。


《《朝からすごい顔してるよねぇ》》


「どんな顔よ?」


《《会いたい。でも、仕事終わらない。むきーっ。って顔》》


「……そんなに単純な顔はしていないつもりだけれど」


《《うん。顔には出てないよ。出てないから、余計にわかったりするんだよねー》》


 それは褒めているのか、からかっているのか。たぶん両方だ。茉凜はいつもそういうところがある。軽い声で来て、逃げ場のないところに指先を置く。


 わたしは書類の一枚を引き寄せた。春の税率調整。村ごとの収穫量。川沿いの水害被害。文字はきちんと並んでいるのに、目が滑る。行間の白さに、昨日まで山道を視察していたはずの彼の姿が、勝手に滲んだ。


 雨に濡れた外套。


 泥の跳ねた長靴。


 馬から下りる時、少しだけ腰に手を添える癖。


 帰還の報告を先に済ませようとして、疲労を顔に出さない人。


 きっと、いつもの顔で来る。


 何もなかったように。


 そう思った瞬間、ペンを支える指の腹が冷たくなった。


「……茉凜」


《《なぁに》》


「もし、少しでも様子がおかしかったら、教えてちょうだい」


《《だんなさまのこと?》》


「そう。あの人ったら、いつもそういうの隠すでしょ」


《《おくさまのあなたなら、気づくでしょ》》


「気づくだけでは足りないのよ。あの人相手には、言い逃れのできない根拠が要るの」


《《ああ、そういうことね。ならば、まっかせなさい!》》


 その声は明るいのに、奥が静かだった。


 わたしはようやく一枚目の決裁印を押した。赤い封蝋に紋章を落とす。グロンダイルの黒鶴。わたしの名の重さを、わたしよりよく知っているような形をしている。


 爵位を得た。領主になった。

 

 そう、ミツル・グロンダイルは、もう誰かに連れられて進むだけではいられなくなった。


 けれど、廊下の奥から足音が近づいてきた瞬間、そんな覚悟はあっけなく呼吸の奥へ沈んだ。


 ヴィルだ。


 歩みは整っている。騎士の癖なのか、彼はどれほど疲れていても、歩く音を粗くしない。けれど扉の前、最後の一歩だけが浅かった。床板がほんの一度だけ鳴り、踏む力を逃がしたような音が残る。


 わたしはペンを置いた。ノックを待つつもりはなかった。


「入って」


 扉が静かに開く。


 朝の光が、彼の背後から差し込んだ。黒い外套の裾に、山道の乾いた泥が白く残っている。濡れた金の髪は手早く撫でつけられ、剣帯も胸元の留め具も乱れていない。目元にはいつもの鋭さがあり、部屋へ入るなり、窓、暖炉、書棚、わたしの机、その脇に立てかけたマウザーグレイルへと、視線が順に走った。


 いつも通り。


 あまりにも、いつも通りだった。


「戻ったぞ。……留守中、変わりはなかったか」


「ええ。書類の山が育ったくらい。おかえりなさい」


 言いたいことは、もっとあった。


 寒くなかったのか。山道は崩れていなかったのか。ちゃんと眠れたのか。食事は。傷は。無理は。


 そのどれもが喉元まで上がってきて、領主の顔をしたわたしに押し戻された。


 ヴィルの視線が、窓辺へ動いた。


「……花、替えたのか」


「昨日。あなたが発つ前のは、散ってしまったから」


「そうか。花がひとつ終わる程度には、長く空けたわけだ」


「数えていたの?」


「数えるともなしにな」


 会いたかったとは、この人も言わない。わたしも言わない。言わないまま、花がひとつ終わるだけの日数が、留守の長さとして二人の間に置かれた。


 わたしは机上の報告箱を指した。


「視察の報告は、そこへ。あとで目を通すわ」


「いや、ここで手短に済ませる。その方が早い」


「そう。じゃあ、お願い」


「西の林道は思ったより崩れが早い。路肩の土が水を含んで緩んでいる。春雨が続けば、荷馬車はひと月もたずに通せなくなるだろう。補強工事の手配を、と言いたいところだが」


「石積みでやるには、予算も職人の手も足りない。そういう顔ね」


「ああ。普通にやれば、手配だけで春が終わる。だから——」


「わたしの出番、ということかしら」


「そうしてもらえると助かるんだが……」


 助かる。


 その言葉の後ろに、別のものが残っていた。西の林道の危険。村の荷馬車。春雨。補強工事。会議。現場確認。彼の声はそれらを順に並べながら、当然のように自分もそこへ残ろうとしている。


 報告をしているのではない。


 まだ働けると、証明しようとしている。


 話しながら、彼は机の向かいへ歩み寄ってきていた。歩幅は大きい。けれど、右足から左足へ重心を渡す時、わずかに肩が沈む。わたしは、その外套へ目を落とした。乾いた泥の下に、まだ湿りが残っている。山道の冷えと、彼の体温と、雨の匂いが、布の奥で鈍く混じっていた。


 指先が、外套の留め具へ触れてから離れた。


 外さない。


 部屋へ入っても、外套を脱がない。


 それだけで、わたしの中の何かが冷えた。


《《気づいてるよね?》》


 茉凜が言った。


 その声は、さっきよりずっと低かった。


「……ええ」


 小さく答えると、ヴィルの眉が動く。


「また、マリンが何か言ってるのか」


「言ってるわ。あなたについてね」


「俺が何かしたか。小言を言われる覚えはないぞ」


「小言ではないの。今から確かめたいことがあるだけ」


 わたしは机の脇のマウザーグレイルへ指を伸ばした。白い鞘は朝の光の中で、氷のような艶を帯びていた。触れた瞬間、掌にひやりとした冷たさが返る。その奥で、茉凜の気配がすっと姿勢を正したように感じられた。


《《近くで深く視るから、手はそのまま添えててね。——じゃあ、はじめるよ》》


 言葉より早く、視界の端に淡い表示が浮かんだ。


《精霊子共鳴走査》


▼対象 ヴィル・ブルフォード・グロンダイル


▼体表温 平常域より上昇


▼頸部 耳介 掌部に熱偏位


▼呼吸間隔 微細な乱れ


▼精霊子反応 疲労性の揺らぎ


▼筋負荷 右肩から腰背部に偏り


▼推奨 即時休息 補水 加温 報告業務の延期


《熱分布表示》


▼額部 高温域


▼頬部 左右差あり


▼指先 冷却傾向


▼外套内側 湿り残り


《《以上! あとは妻の仕事だよ》》


 茉凜の声が、そこでふっと後ろへ下がった。


 まるで部屋の扉を閉めるように。


 わたしは表示を消した。透明な文字が朝の光の中へほどける。領地図、羊皮紙、インク壺、青い花。見慣れた執務室の景色が戻る。


 けれどもう、戻れない。


「ヴィル」


「なんだ」


「西林道の件は、領主として受け取ります。補強は精霊魔術の応用を前提に、まず調査を回すわ。足りない資料は、あなたが目を覚ましてから書き足してちょうだい」


「目を覚ましてから、とはどういう意味だ。今説明した方が早い」


「早くありません」


 自分の声が、思ったより低く出た。


「今のあなたの説明は、報告ではなくて、無理を続けるための口実になっている」


 ヴィルが黙った。


 彼の沈黙は、怒りではなかった。困惑でもない。どう逃げるか考えている沈黙だ。


「……お前こそ、執務で手一杯だろう。これ以上抱え込むな」


「その言葉、そっくりそのままお返しします」


「ミツル」


「わたしには白銀の翼がある。現場を見れば、補強の目処は立てられる。それは、あなたでなくてもできる仕事よ。でも、あなたの熱は、あなたが休む以外に下げようがないの」


 わたしは机の向こうから出て、彼の正面へ回った。椅子の脚が床を小さく擦る。青い花の影が羊皮紙の上で揺れた。


「案件は受けます。今日中に執務官へ回して、事前調査に人員を出す。必要なら午後に会議も入れるわ。ただし、あなたは出席停止」


「補佐役を外す気か」


「体調不良の補佐役は、会議に出せません。これは領主としての命令です」


「誰が体調不良だと言った」


「あなたよ」


 即答した声が、自分で思ったより冷たかった。


 ヴィルの目が細くなる。


「お前な。亭主を顎で使うようになったもんだ」


「侮らないことね。さっきの茉凜の走査に、全部出ているのよ。体表温の上昇。呼吸の乱れ。右肩から腰にかけての筋負荷。隠したって無駄」


「くっ……」


 彼はそれで止まった。


 ここで退くわけにはいかない。


「さあ、外套を脱いで。椅子に座って」


「命令か」


「まずは領主として。そのあとは、妻としてのお願いになるけれど」


 言ってから、頬の熱に気づいた。


 けれど取り消さない。


 ヴィルは、わずかに目を見開いた。その顔が珍しくて、こちらの喉まで跳ねる。彼は言葉を探すように口を開きかけ、結局、短く息を吐いた。


「……厄介な領主になったものだ」


「あなたがそうしたのよ」


「俺の責任か」


「ええ。後見人として、補佐官として、わたしのお婿さんとして」


「最後のは余計だろう」


「余計ではないわ。いちばん大事なところかもしれない」


 ヴィルは眉間を押さえた。


 わたしは、その指先を見ながら、息を整えた。


差し替え版の該当ブロックです。直前の「ヴィルは眉間を押さえた。」から、直後の「そのことを思うと——」へそのまま接続します。


 わたしは王家の血を引いている。けれど、王女ではない。そう呼ばれてしまえば、わたしの生はまた王家の都合に絡め取られる。母の名も、父の名も、わたしの願いも、ぜんぶ血筋の問題へ戻されてしまう。


 だから、お祖父さまは道筋を作ってくれた。


 父の罪は、冤罪だった。


 それを王家が認めることは、ただ父の名誉を返すだけでは済まない。王家が一度、罪人として葬った名を、自らの手で掘り起こすということだ。


 グロンダイルの名を貶めたまま、わたしに褒賞を与えることなどできない。けれど、王家の血を引くわたしを王宮へ戻せば、今度はわたしの婚姻も、名も、すべて王家の問題になってしまう。


 だから、グロンダイル家に爵位が与えられた。


 罪を濯がれた父の名を、王国に仕えた忠臣の家名として戻すために。王家の血を引くわたしを、王女ではなく、一人の貴族家当主として立たせるために。


 与えられた領地は、北方国境地帯。隣接するシャイヴァルドに睨みを利かせる、辺境伯の地位。それがいまのわたしだ。


 理由なら、いくらでも並ぶ。王都の貴族たちから距離を置けること。救世の英雄と呼ばれるわたしとヴィルが国境に在る、というだけで生まれる抑止。ふたりだけで一一軍に値する戦力。辺境伯の裁量は広く、実のところ侯爵や公爵にも引けを取らない。有事には、王都の銀翼騎士団さえわたしの裁量で動かせる。ローベルト将軍も、その時はわたしの指揮下に入る。それだけの権限が、この家には与えられている。


 書類にすれば、どれも立派な理由だ。


 けれど、それらはあくまで表向きにすぎない。


 ほんとうの理由は、ひとつだけ。わたしが、わたしの名で、この人を迎えられるように。


 そうでなければ、ヴィルはわたしの隣に立てなかった。


 護衛騎士としてではなく、父への義理でもなく、グロンダイル家へ婿入りした、わたしの夫として。


 そのことを思うと、いまでも喉の奥が細く軋む。幸福の形をしているのに、その土台には父の冤罪と、母の孤独と、王家が長く認めなかった過ちが眠っている。


 だからこそ、最後のひと言は余計ではない。


 むしろ、いちばん重い。


 ヴィルは、わたしを守るためにグロンダイルになったのではない。


 わたしがグロンダイルとして立つために、彼はその名へ入ってくれたのだ。


 指先が額に触れた瞬間、ほんの少しだけ表情が歪む。隠すのが早すぎて、きっと本人は気づかれていないと思っている。けれど、わたしは見ていた。


 見えてしまった。彼の強さだけを見上げていた頃には、見逃していたものが。


 わたしは彼の手首へ指を伸ばした。


「手袋を外して」


「必要ない」


「あるの。これも妻の仕事のうちよ」


 彼は黙って手を差し出した。


 その素直さが、かえって痛い。


 革手袋の留め具は、雨と汗で固くなっていた。金具を外すとき、彼の指が一度だけ動く。無意識に引こうとしたのだろう。けれど逃がさない。わたしはそっと手袋を抜いた。


 掌は熱いのに、指先だけが冷えていた。


 わたしはその手を両手で包んだ。


 昔なら、きっとこんなふうには触れられなかった。触れる理由を探して、触れてしまったあとで言い訳を考えて、何でもない顔をしていた。今も、平気なわけではない。指の骨ばったかたちも、古傷の白い筋も、掌の熱も、ぜんぶ意識してしまう。


 それでも、離さなかった。


「やっぱり、熱が上がっているわ」


「この程度、ちょいと素振りでもして汗をかけば抜ける」


「ほーら出た。いつもそうやって平気なふりして逃げるんだから」


「逃げてなどいない。それに、何ともないったら何ともない」


「そうかしら。何でもないのなら、どうして外套を脱がないのでしょうね? 部屋は暖かいのに」


 ヴィルは答えなかった。答えられない時の顔をしていた。


 わたしは彼の手を離し、外套の留め具へ手を伸ばした。


 ヴィルは一瞬だけ身を引きかけたが、すぐに諦めたように肩の力を抜く。留め具を外すと、外套がずしりと重みを持って腕に落ちた。布には雨の湿りが残り、山道の冷えと彼の体温が混じっている。


 こんなに重いものを着たまま、平然と立っていたのだ。


 腕に受けた重みが、そのまま喉につかえた。


「あなたが返そうとするものも、隠したり誤魔化そうとするものも、仕事に変えてしまうものも、今日はわたしがぜんぶ預かります」


 声の底が、震えた。


 重い言葉だと思った。成人したばかりのわたしが、四十年以上を戦ってきたこの人へ言うには、不釣り合いかもしれない。それでも、外套の重さを腕に抱えたまま、言わずにはいられなかった。


「わたしの前でまで、役目にしなくていいの。だから、少しだけ眠ってくださらない?」


 ヴィルの瞳が、わずかに揺れた。


 朝の光の中で、その色が深く見える。海の底ではなく、焼けた鉄でもなく、ただ長い時間を沈めた色だった。


「……横へ置けるほど、軽いものじゃないぞ」


「存じています。軽いものなら、預かるとは言いません」


 息を吸う。


 青い花の匂いがした。紙と墨と、雨に濡れた革の匂いも混じる。彼が帰ってきたのだと、遅れて身体が知る。


「少しだけでいいの。眠ってちょうだい。目を覚ましたら、続きを一緒に考えましょう」


 ヴィルはしばらくわたしを見ていた。


 それから、負けを認めるように目を伏せる。


「まったく……泣きそうな顔で、ずいぶんと無茶を言う」


「あら、そんなふうに見えるかしら?」


「そういうふうに見える」


「いいえ。熱を出している人の見立ては信用いたしません」


「便利な言い分だな」


「ええ。今日は存分に使わせてもらいます」


 わたしは彼の手を離し、外套の留め具へ手を伸ばした。


 ヴィルは一瞬だけ身を引きかけたが、すぐに諦めたように肩の力を抜く。留め具を外すと、外套がずしりと重みを持って腕に落ちた。布には雨の湿りが残り、山道の冷えと彼の体温が混じっている。


 こんなに重いものを着たまま、平然と立っていたのだ。


 腕に受けた重みが、そのまま喉につかえた。


「さあ、座って」


 今度は、彼も逆らわなかった。


 窓辺の長椅子へ向かう。執務室の奥に置かれたそれは、もともとは長時間の決裁で倒れないよう、わたしのために用意されたものだった。けれど実際には、視察帰りのヴィルや、深夜まで付き合った執務官たちが先に使うことのほうが多い。


 ヴィルが腰を下ろすと、長椅子が低く軋んだ。


 大きな身体がそこに収まるだけで、部屋の空気が変わる。執務室なのに、どこか家の匂いに近づく。剣帯の金具が小さく鳴り、彼はまだ立ち上がれるような姿勢を保とうとした。


「剣帯も外して」


「そこまでか」


「もちろんよ」


「刺客が来たらどうするんだ」


「ここは当主の執務室よ。それに、茉凜が屋敷の全周に精霊子走査スキャンを張ってくれているもの。ご心配なく」


「だがな……」


 ヴィルはわたしを見た。


 その視線に、昔の癖があった。


 お前を前に出すわけにはいかない、という癖。


 守るために、自分を後ろへ数えない癖。


 わたしは首を横に振った。


「ほら、そんな顔をしないで。わたしはもう成人したんだし、領主になったんだし、それから……あなたの妻なのよ?」


「わかっている」


「わかってるって顔じゃない。護衛騎士気分が抜けてないんだから」


「……厳しいな。昔とは立場が逆さまだ」


「ええ。聞き分けのない夫には、このくらい強くいかないとね」


 少し笑うと、ヴィルも苦く笑った。


「まったく、お前には降参だ」


 その笑いに、ようやく疲れが滲む。肩の線が緩み、背が長椅子へ沈んだ。


 わたしは剣帯を受け取り、外套と一緒に椅子の背へ掛けた。報告書の束も、彼の手元から抜き取る。


「おい」


「これも預かります」


「まだ説明していない項目がある。橋脚の——」


「だめ。目が覚めてから聞くわ」


「忘れても知らんぞ」


「あなたが忘れるようなら、よほどの熱ね。ますます放っておけなくなるわ」


「……言うようになった」


「あなたがそうしたのよ」


 二度目のその言葉に、彼はもう返してこなかった。


 わたしは茶器を取った。呼び鈴へ伸ばしかけた手を、途中で止める。誰かを呼べば、彼はきっと姿勢を正す。外套を取り返し、報告を続けようとする。


 だから、自分で湯を注いだ。


 白い陶器に、薄い湯気が立つ。乾燥させた甘橙の皮と、蜂蜜を少し。山から戻った身体には、薬草を強くするより、まず温かいもののほうがいい。


 杯を差し出すと、ヴィルはそれを見つめた。


「甘ったるそうだ」


「ええ。甘いわよ」


「俺は病人扱いか」


「『病人じゃない』なんて言い張る人のためのお茶よ。拒否権はありません」


「ひどい妻だ」


「ひどい夫への意趣返しです。さあ、飲んでくださいな」


 ヴィルは諦めたように受け取った。


 その手にまだ熱がある。杯の白さに、古傷のある指がよく映えた。彼が一口飲むのを見届けてから、わたしはようやく息を吐いた。


 思っていたより、長く息を止めていたらしい。


「そんな顔をするなって」


「どんな顔だっていうの? 言ってちょうだい」


「俺が、いなくなっちまうんじゃないかって。そんな顔だ」


 胸の奥が、一瞬で冷えた。


 顔を伏せる前に、ヴィルの手が伸びる。大きな手が、わたしの頬へ触れた。手のひらは熱い。指先はまだ少し冷たい。その温度差に、なぜか喉が詰まった。


「……違うわよ」


「違わん。なら、なぜ泣きそうになる」


「だから、違うって言ったでしょう」


「こちらこそ、その言い分は採用できんな」


 わたしは睨むつもりで顔を上げた。


 けれど、視界がほんの少し滲んでいた。


 ヴィルの眉間に、困ったような皺が寄る。熱のせいで赤い目元が、それでもわたしだけを見ている。


 それがずるかった。


「……あなたって、すぐ無理をするから。疲れていても言わないから。少しも顔に出さないから。だから……」


 声が、思ったより小さく落ちた。


「無事に帰ってきてくれて、わたしがどれだけ嬉しいか、わかってるくせに。なのに、あなたったら、仕事だ責任だってしまい込んでしまうでしょう? ……今はそれだけはやめてほしいの。疲れたって言っていいの。愚痴だって聞くわ。わたしもそうするから。夫婦って、そういうものでしょう?」


 言葉を継ぐたび、声の内側が薄く剥がれていくようだった。


 それでも止めない。


「わたしが言っているのは、そういうことよ。ヴィル」


 彼の名を呼ぶ。


 夫としての名でも、補佐官としての名でも、婿入りした家名でもない。ただ、ずっとわたしの前に立ってきた、その人の名を。


 ヴィルは黙っていた。


 長い沈黙だった。


 窓の外で風が動き、青い花が揺れる。花瓶の水面に光が震え、机の上に置かれた決裁印の影がわずかに伸びた。


 やがて、ヴィルは深く息を吐いた。


「……俺には、受け取り方がわからん」


 その声は低く、ひどく正直だった。


 わたしは瞬きをした。


「何を?」


「そういうものをだ。労いも、心配も。……返し方なら、いくらでも知っているんだがな」


 不器用な言い方だった。


 けれど、その不器用さが指先まで届いた。


 この人は、感謝も心配も、愛しさも、すぐ形のある仕事へ変えてしまう。剣を持つ。馬に乗る。先を歩く。夜を見張る。自分の疲れには名を与えず、誰かの安全だけを数える。


 受け取るということを、たぶんずっと後回しにしてきた。


 ——父さまにも、わたしにも……。


 だから、わたしは彼の手に自分の手を重ねた。


「では、練習しましょう」


「何の?」


「受け取る練習です」


「お前からそんなものを教わる日が来るとはな」


「初めてではないでしょう。六年もの間、わたしの王配だったくせに」


「……あれはヴォルフだ。お前だって、メービスだったろうが」


「器は違えど、魂は同じよ。器に引っ張られていたことは、否めないけれど」


「……そうだったな。あの頃の俺は、年甲斐もなく青かった気がする」


 その言い方が、少しだけ弱い。


 弱いのに、逃げていない。


 あの身体ではできたことが、この身体では難しい。玉座の六年より、戦場の癖のほうが骨身の深いところに刻まれている。なら、わたしが覚え直させればいい。


 だからわたしは、笑えた。


「まずは、お茶を全部飲むところからね」


「そこからか」


「次に、目を閉じる」


「眠れと言っているだけじゃないか」


「違うわ。これも受け取る練習よ」


 ヴィルは呆れたようにこちらを見た。


 けれど、茶を飲んだ。


 喉が動く。湯気が彼の睫毛を曇らせる。杯が空になるまで見届けると、わたしはそれを受け取って机へ置いた。


「次」


「命令口調か。ちょっと怖いぞ」


「お願い口調にすると、あなた逃げるでしょう」


「……否定しづらい」


「では、目を閉じて」


 ヴィルはしばらく抵抗するようにこちらを見ていた。


 けれど、やがて目を閉じた。


 その瞬間、彼の顔から警戒の薄皮が一枚落ちる。目を閉じたヴィルは、少し若く見えた。長い戦いの年数を背負いながら、それでも疲れを隠しきれない一人の男に見えた。


 わたしは毛布を取った。


 暖炉の傍で温めておいた薄手の毛布。領地の織物工房から献上されたもので、藍に近い深い青の糸で、黒鶴の小さな紋が織り込まれている。


 彼の肩へ掛けると、ヴィルが片目を開けた。


「そこまでする必要はないだろ」


「受け取る練習の途中よ」


「便利な言葉だな」


「ええ。今は便利に使うの。どんな手だって使う所存ですから逆らっても無駄よ」


 毛布を整えるために近づくと、間近からじっと見られていた。


「よく見りゃ、目の下に隈が出てるじゃないか」


「あら……隠したつもりだったのに」


「ふ、俺の目は誤魔化せん」


 こちらの不調を見抜く速さだけは、騎士のころから衰えない。言い返す代わりに毛布の端を引くと、彼はまた目を閉じた。


 その距離で、彼の熱が伝わった。頬のすぐ近くに、雨に濡れた髪の匂いがある。革と金属と、甘橙の茶の香りが混じる。懐かしい匂いになってしまったものばかりだった。


 わたしは彼の肩口に手を置いた。


 そこで、少しだけ迷った。


 抱きしめたい。


 そう思った瞬間、胸の奥で幼いわたしが顔を出した。


 帰ってきたことを確かめたい。ここにいることを、体温で知りたい。領主でも、巫女でも、黒髪のグロンダイルでもなく、ただわたしとして。


 けれど、それをしていいのか、まだ一拍だけ迷う。


 ヴィルが目を閉じたまま言った。


「来ないのか?」


 息が止まる。


「……何が?」


「練習の続きだろう。俺はいつでも来いだ」


 目を閉じたまま、彼は少しだけ笑っていた。


 わたしは、負けたと思った。


 たぶん、さっきの彼もこんな気持ちだったのだろう。


 ゆっくり身を寄せる。


 彼の胸に額を預けると、熱がはっきり伝わった。鼓動は少し速い。呼吸は深くしようとしているのに、まだ喉の奥で引っかかっている。


 大きな腕が、迷ったあとでわたしの背に回った。


 強くはない。


 ただ落ちないように支える手だった。


 その手つきに、目の奥が熱くなる。こんな時でさえ、彼は受け取るより先に支えようとする。


 わたしは毛布の端を掴み、彼ごと包むように引き寄せた。


「ヴィル?」


「なんだ」


「少し休んでからにして」


「……難しい注文だな」


「練習よ」


「またそれか」


「ええ」


 笑ったつもりなのに、声が震えた。


 ヴィルの腕が、今度はもう少しだけしっかり回る。


 抱きしめられたというより、許されたような感覚だった。こちらが受け取るつもりだったのに、結局また受け取らされている。そう思うと、少し悔しい。けれど、あたたかかった。


《《はいはい。美鶴、没収はいいけど、ヴィルごと『ガバーッ』って持っていかないの》》


 茉凜の声が、内側でひょいと戻ってきた。


 わたしは顔を上げる前に、耳まで熱くなるのが分かった。


「持ってかないわよ」


「何をだ」


「何でもない」


《《外套、剣帯、報告書、本人。ぜんぶ預かるって言ったじゃん》》


「茉凜」


《《はーい、撤退しまーす》》


 あっけらかんとした声が遠ざかる。


 ヴィルは目を閉じたまま、低く笑った。


「相変わらず、楽しそうだな」


「あなたが休まないから、茉凜にまでからかわれるのよ」


「俺のせいか」


「そうです」


「言い切ったな」


「そりゃあ、領主ですから」


 そう言うと、彼はまた笑った。


 その笑いは、今度こそ少し深かった。熱に掠れた声で、それでもちゃんとここにある笑いだった。


 わたしは彼の肩に額を戻した。


 執務室の机には、まだ書類が積まれている。北の麦畑も、石橋も、診療所も、わたしを待っている。青い花は窓辺で揺れ、インクは乾く。領主の一日は、まだ終わらない。


 けれど今だけは、決裁印より先に、この人の呼吸を数えることにした。


 ひとつ。


 ふたつ。


 少しずつ、呼吸が深くなる。


 ヴィルの手が背中で緩み、けれど離れない。眠りの縁に沈みかけても、まだ支えようとしている。その不器用さに、胸があたたかく痛んだ。


「……ミツル」


「はい」


「報告書は、あとで返せよ」


「内容を確認してからね」


「外套は」


「乾かして返すわ」


「剣帯は」


「寝ている間は返しません」


「俺は捕虜扱いか」


「あなたは療養中の領主補佐で、それからわたしの夫だから。それ以外の理由が要るのかしら?」


 返事はなかった。


 かわりに、髪に触れる息が深くなる。


 眠ったのだと気づいた瞬間、肩の力が抜けた。わたしは動かないように、そっと目を閉じる。


 青い花の匂いがした。


 紙の匂いも、雨の匂いも、彼の熱も、全部この部屋にある。


 わたしは今日、その全部を預かると言った。


 重いものだと分かっている。


 それでも、少しだけなら。


 眠るまでなら。


 この人がもう一度目を開けて、いつもの困ったような顔でわたしの名を呼ぶまでなら。


 わたしは抱えていられると思った。


 机の上で、決裁待ちの羊皮紙が朝の光を浴びている。


 その一枚目に押すべき印は、まだ少し先でいい。


 今はただ、腕の中にある熱が下がっていくのを、待っていた。

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