第一話 アストリッドは困っていた
アストリッド・リーベン侯爵令嬢は困っていた。
困りごとは、一つではない。
父の書斎にある大机には、葬儀にかかった費用の明細、弔問客への返礼の一覧、領地から届いた報告書、王家へ提出する相続関係の書類が、それぞれ違う色の紐で束ねられている。机の右端には、親族から届いた手紙も積んであった。こちらは誰も申し合わせていないのに、すべて同じことが書かれている。
早く婿を決めなさい。
「こちらで、午前の分は終わりです」
家令のルイスが差し出した書類へ署名し、アストリッドはようやく顔を上げた。
「午前の分」
「はい」
「午後もあるのね」
「ございます」
正直な家令である。
父なら、ここで苦笑しただろう。母ならば、先に昼食を運ばせたはずだ。
二人とも、もういない。
十七日前、領地から王都へ戻る途中で街道脇の斜面が崩れ、侯爵夫妻を乗せた馬車は横倒しになった。御者は重傷を負ったものの助かったが、父と母は屋敷へ帰ってこなかった。
葬儀を終えたのは三日前である。
アストリッドは泣くより先に、棺へ入れる母のドレスを選んだ。父には儀礼用の上着を用意し、王都と領地の双方へ知らせを送り、何度も同じ弔意を受け取った。
父を亡くした人間には、父を亡くしたあとの仕事がある。母も同時に亡くした場合、仕事は二倍になるらしい。実際には二倍どころではなかったが、数えている暇がないので誰にも分からない。
侍女のエリアが新しい茶を机へ置く。
「お嬢様、先ほどのものは冷めてしまいましたので」
「飲もうとは思っていたのよ」
「存じております」
彼女の返事は迷いがない。飲もうと思っただけで一口も飲まなかったことも、当然知られている。
アストリッドは温かいうちにカップを持ち、半分ほど飲んだ。エリアはそれを見届けてから、冷えた茶を盆へ戻した。
「それで」
カップを置くと、机の隅にあった手紙の山がまた目に入った。
「この人たちには、いつまでに返事をすればいいの?」
「ご親族の皆様でしたら、すでに本日だけで四名がお返事を催促なさっています」
「三日前に葬儀が終わったばかりよ」
「皆様も承知しておいでです」
「承知した上で催促しているのね」
「はい」
やはり正直な家令だった。
この国では、女性が領地や財産を相続することは認められている。しかし爵位は継げない。
リーベン侯爵に息子はいない。一人娘のアストリッドが一定の期間内に婿を迎え、その夫が次の侯爵として認められれば、家名も爵位も領地もそのまま残る。婿を迎えられなければ侯爵位は廃され、領地の一部は王家へ返される決まりだった。ずいぶん不便な制度である。
だが、アストリッドが今から法務官を相手にその不便さを説いたところで、感心した法務官が侯爵位を渡してくれるわけではない。
家を残すには、婿を取らなくてはならないのだ。
結婚は喪が明けてからでも構わないが、誰を次の侯爵にするつもりなのかは早く決めろと、王家の紋章院からも遠回しに求められている。
遠回しではあるものの、封書には提出期限まで記されていた。期限を書く遠回しというのは、だいたい命令と同じである。
「お嬢様」
ルイスが、机の上へ三通の書状を並べた。
「ご親族の推挙と先方のご意向、年齢や立場、それから王家の承認を得られる可能性を考えますと、この三名がよろしいかと存じます」
「三人まで減ったのね」
「最初は十七名でした」
「いつの間に」
「昨日の午後から今朝にかけて、七名はご本人に婿入りの意思がないと分かりました。三名は借財が多く、二名はすでに親しくしている女性がおいでです」
「残った二人は?」
「お一人は六歳年下です。もうお一人は、リーベン家の領地を海辺へ移せないかとお尋ねになりました」
「移せると思う?」
「領地ですので」
「そうよね」
海辺が好きなら、自分が海辺へ行けばよい。
アストリッドは三通の書状へ目を落とした。
一人目は、パーシバル・トマレイン。二十六歳。トマレイン侯爵家の次男。
二人目は、トラヴィス・エンゲダー。二十三歳。エンゲダー公爵家の三男。
三人目は、ウィルフレッド・オイゴット。二十二歳。オイゴット伯爵家の三男。
添えられた略歴だけを比べれば、パーシバルは申し分がない。父親の仕事を手伝い、領地や商会との取引にも関わっている。
トラヴィスは何より家格が高く、公爵家との縁はリーベン家の今後にも役立つだろう。
ウィルフレッドについては、大学で文学を学んでいる、とあった。
侯爵家を継ぐ婿の経歴として、それがどの程度役立つのかはよく分からない。少なくとも詩の出来で小麦の収穫量が増えたという話を、アストリッドは聞いたことがなかった。
「この三人と、お会いになりますか」
「会わずに決めるわけにはいかないでしょう」
「では、お一人ずつ日を分けてお招きいたします」
「一日に三人では駄目なの?」
ルイスより先に、エリアが口を開いた。
「お疲れになります」
「話をするだけよ」
「昨日も、ご親族とお話をなさっただけでした」
昨日の夕食は、スープを三口で終えた。今日の朝食も、パンを半分残している。
アストリッドはエリアから目を逸らし、もう一度カップを取った。
「分かったわ。日を分けてちょうだい」
「承知いたしました」
ルイスが三通を重ね直したところへ、扉が控えめに叩かれた。
入ってきたのは、若い小間使いのサリーだった。手には昼食の献立を書いた紙を持っている。
「失礼いたします。料理長が、お嬢様のお昼は鶏のスープと白身魚のどちらがよろしいかと」
「どちらでもいいわ」
「そのお返事では持って帰ってくるなと言われました」
「そう」
屋敷の使用人たちは、主人を失っても仕事をする。そして新しい主人が食事を抜こうとすれば、料理長から小間使いまでが連携する。頼もしいが、逃げ道がない。
「では、スープにするわ」
「パンもおつけしますか」
「少しだけ」
「少しとは、一つですか、半分ですか」
「半分」
サリーは紙へ書き込み、満足そうに頭を下げた。その目が、ルイスの手にある三通へ向く。
「お婿様ですか」
「サリー」
エリアがたしなめたが、遅かった。
「候補よ。まだお婿様ではないわ」
「三人もいらっしゃるんですね」
「三人から一人を選ぶの」
「全員お断りすることはできないんですか」
それができれば困っていない。
もっともな疑問ほど、答えにくいことがある。
「この家を残すために、一人は選ばなくてはならないのよ」
「では、いい方だとよろしいですね」
「そうね」
サリーは用事を終えて出ていった。閉まった扉を見ながら、アストリッドは残りの茶を口にする。
――いい方だとよろしいですね。
親族たちは家格を見ろと言い、紋章院は期限を示し、法律家は条件を並べた。誰もそれほど簡単なことを言わなかった。
「ルイス」
「はい」
「三人に会う時、あなたも同席してくれる?」
「もちろんでございます」
「エリアも、あとで感想を聞かせて」
「かしこまりました」
侯爵家を任せられる男かどうかは、ルイスが見る。
その男と暮らしてアストリッドがどうなるかは、エリアが見る。
サリーには何を見てもらえばよいのか、今のところ分からない。だが、おそらく何かは見るだろう。先ほども昼食のパンを半分にするところまで、きちんと見張っていた。
アストリッドは三人の名を、順に紙へ書いた。
明日は、パーシバル・トマレイン。
最初の一人に会うまで、あと一日。
机の横には、午後の書類を抱えた補佐役がもう立っていた。




