第4話「ナイショのおたまや」①
第四話「ナイショのおたまや」
§ おたまやへ
――シャッ、シャー。
――ショリ、ショリ。
銀色のノコギリがすずしげに光っている。大きな氷からは、冷たいしずくがこぼれていた。
氷屋のおじさんが、ランドセルくらいの小さなかたまりを切りだした。残った氷に、ぶあつい麻布をひっかける。足元では、できたばかりの氷のつぶが、ちいさな山をつくっていた。
おじさんがいなくなったすきに、健二の両手が氷の山をすくう。ぺろりとひとなめしただけで、あっというまになくなってしまった。
地面の氷たまりも、みるみるただのシミになってゆく。それほど地面はカラカラにかわいていた。
「毎度どうも。また明日来やす」
おじさんが、健二の母ちゃんに声をかけていた。この町で電気冷蔵庫を持っているのは、阿部旅館と商店の人たちくらいだ。ほとんどの家は、こうやって氷を入れて冷やす、氷冷蔵庫をつかっていた。夏は毎日氷を入れないと冷たくならない。
八月。
今年の夏は、大変なことになっていた。雨がふらないまま梅雨が明けてしまったため、すでに水不足だ。玄関わきのホウセンカも、花をつけることなく下をむいていた。風がふくたびに、地面が砂ぼこりをあげている。
おとなたちは取水制限や、ため水に頭をかかえる毎日だった。けれど子どもにしてみれば、楽しい夏休みのまっ最中だ。
さっそくタンちゃんが、健二をむかえに来た。虫取りのアミをかかえている。それを見た健二が、にやりとした。
ふたりの夏休みの自由研究は昆虫採集だ。クラスの男子の半分がそうかもしれない。だれもがめずらしい虫をさがすのに夢中だ。
子どもたちにはみんな、自分たちだけの秘密の場所があった。健二たちのボケフージンのあみだ堂や、ションベン横丁もそうだ。ほかにも、まだある。特別な場所を見つけたら、仲間にだけおしえて、こっそり集合するのが、スリルがあっておもしろいのだった。
まあ健二たちの場合、そのいくつかは、べべ子に見つかっているので、もう秘密ではない場所もあるのだけど。
それを思いだして、健二があたりを見まわす。それから小声で言った。
「今日は新しい場所へ探検に行こう。きっと、見たこともない虫がいるはずさ」
「よしきた。新しい秘密の場所だね」
「秘密かあ。こんどのは、ちょっと違うかも」
「へっ、なんで」
「だって、そこは“おたまや”だから」
「おっおたま……や!? ムガッ」
タンちゃんの口をふさぐ。
「声が大きいよ」
「だって、おたまやは行っちゃいけないんだよ」
タンちゃんの汗が、冷や汗にかわりそうだ。
「だから、新しい場所なんじゃないか」
「そ、そうか……そうだね。まだ見つかってない新種の虫もいるかもね」
「そうさ、『サンジカブト』なんて名前がついちゃうかもよ」
「すごいや」
タンちゃんもその気になってきた。
ふたりは上野のお山をこえても、まだ歩いていた。やがて、大きな白クジラの像の前にでた。家ほどもあるクジラを見あげると、まっ青な空にジャンプしているみたいだ。
おたまやへ行くには、このさきのひろい墓園を通らなければいけない。探検とはいっても、暗い墓園を歩けるほど、健二たちも度胸はない。太陽はまだ昼の位置にあった。
行くなら今だ。
白クジラに背中をむけて、ふたりは墓園に入って行った。入り口近くには、管理人さんの家がある。必ずほえる番犬が、健二をにらみつけた。
――ウーッ、ワンワン!
「いそげ、園丁さんがくるぞ」
――ワン、ワワン。
走りだすと、さらに番犬の声も大きくなる。ふたりはダッシュでかけぬけた。
お盆が近いせいか、墓園にはたくさんの人たちが来ていた。こんなににぎやかな墓園なら、ちっともこわくない。ふたりはどんどん奥へと歩く。
ふと、健二がそばにある松の木にかくれた。
「どうしたの。もしかして、こわくなったとか」
タンちゃんがわざとらしく、大またで立ちふさがる。
「いつもさ、こういうときにかぎって、なぜかべべ子が登場するだろ。用心だよ」
「うん、うん。おしゃべりべべ子の七不思議だもんね」
タンちゃんも近くの灯籠に身をひそめる。近くに足音はない。
健二が松の木から顔をだした。
「足のない人は足音なんかたてないかもよ~。うらめしや~」
「健ちゃんだって、そのかっこう、あやしいぞお~」
ふたりしてユウレイのまねだ。
「こんなまっ昼間からでるもんか。べべ子もいないし、早く行こう」
「あれれ。やっぱり健ちゃん、こわいんじゃないの」
「タンちゃんこそ」
ちょっとはこわい。ふたりとも、いつのまにか早歩きになった。
墓園の奥には、木がたくさんはえた場所がある。だれかが植えたのではなく、大昔からの森だった。そのなかにおたまやはある。
『おたまやには、絶対に行っちゃいけないよ』
このあたりの子どもたちは、そう言われていた。子どもだけでなく、おとなだってここに来る人はいない。なぜなら、ふつうの人は、入ってはいけない場所だったから。
おたまや(御霊屋)は、みんながそう呼んでいるだけで、ほんとうの名前はほかにある。『霊廟』、むずかしい漢字や意味は、健二たちにはまだわからない。知っているのは、江戸時代のえらい人たちのお墓があるってこと。いくつかの門があって、カギがかかっているといううわさだ。
健二は鉄さくの前に立った。ここまでは、だれだって来ることができる。
鉄さくのむこうは、夕方みたいな暗さだった。大きな木々にさえぎられて、太陽がほとんど地面にとどいていない。タンちゃんが健二のシャツをつかむ。
鉄さくのよこの石塀がすこしくずれていた。
「よし、あそこからは入れる」
健二が言った。そして石塀にのぼる。ここまで来れば簡単だった、そのまま地面にジャンプだ。
――ダン。
「着地成功!」
とたんに地面のかげが動きだした。
――カアー、カアー。
――ギャー、カアー。
森でやすんでいたカラスたちだ。急な侵入者に、いっせいになきはじめる。つぎつぎに飛んでいった。ものすごい数だ。
「うわあぁ」
タンちゃんの大声で、さらにカラスがさわぐ。
「だいじょうぶだよ、タンちゃん。ここはカラスのお宿だったんだ。びっくりしてるだけだよ」
「でも、でも」
タンちゃんは頭をかかえてしゃがんでいる。じつは健二も石塀にはりついていた。
お宿をあらされたカラスは、まだ陽の高い墓園へ飛んでいった。お墓まいりの人たちが、めずらしそうに見あげているのが見える。まさか、ここを追いはらわれたなんて、だれも思っていないだろう。
「いなくなったよ。タンちゃんも早く」
「うん」
さっきの健二とおなじように、タンちゃんも石塀をこえる。
「なんかさ、ちょっとすずしいね」
タンちゃんが言った。
「あまり太陽があたってないからかな。暑かったし、ちょうどいいさ」
健二が歩きだした。すぐさきに、もうひとつの鉄さくがある。都合よく、そんなに高くない。
「これなら、のぼれる」
手をかけたとき、タンちゃんが健二のおしりを引っぱった。
「ちょっと待って」
「なんだよ、ここまで来て」
「違うよ、いちおうね」
そう言って、タンちゃんが鉄さくのむこうにむかって手を合わせた。タンちゃんの家は神社だった。健二も鉄さくにかけていた手をはなして、タンちゃんにならった。
「さすがタンちゃん、神主さんの子どもは違うね。あれ、でもここはお墓か」
「だから、いちおうだもん」
「うん。これで安心だ。それに、ぼくたちの秘密の暗号みたいでかっこいい」
「そうだね」
ふたりは同時に鉄さくを乗りこえた。
足元には、小さな道ができていた。そのわきには、ツユクサやアザミが咲いている。かわいた町では元気のないヒルガオも、ここではつぼみをつけていた。深い森に守られた地面は、なんとなく湿っているようだ。
「別の世界みたいだ」
タンちゃんが小さな声で言った。健二も、ひそひそ声になる。
「これが、おたまやだ。ここも、おサムライさんが通った道かもしれないんだからさ」
「じゃあ昔の虫もいるかもね」
「そしたら大発見だ」
「よし、サンジカブトを見つけるぞ」
「ぼくだって負けないさ」
健二が虫とりアミをかかげる。カラスがいなくなった森では、セミの大合唱がはじまっていた。
§ 人じゃないもの
三十分もしないうちに、タンちゃんの虫カゴには、二匹のチョウと三匹の葉虫が入っていた。どれも見たことのない模様をしている。新種発見にドキドキして、タンちゃんは大満足だ。健二はというと、
「0匹だ……」
健二の声に、タンちゃんが近かよる。
「健ちゃんは大ものばかりねらうから、逃げられちゃうんだよ。さっきだって、きれいな虫が飛んでたのに」
タンちゃんが自分の虫カゴをほっぺたにあてた。健二がムッとする。
「つぎはぜったいにぼくの番だ」
いつもの健二とタンちゃんが逆転してしまったみたいだった。
「よし、もっとさきに進もう」
言いだしたのは健二だ。
「もうそのさきは、まずいんじゃないの」
新種(?)を五匹も見つけたタンちゃんがしぶる。
「えらい人のお墓っていったってさ、そんなのどこにも見あたらないじゃない。きっと、ずっとさきにたててあるのさ。だからもうすこし入ったって、バチはあたらないと思うよ」
「けど……」
「わかった。タンちゃん、こわいんだ」
「そんなんじゃないよ」
「じゃあ行こうよ」
健二がむこうの木塀を指さす。タンちゃんは行ってみたい気持ちと、行きたくない気持ちが半分半分のようだった。
「やっぱりな」
「違うよ」
さっきまで小声だったこともわすれて、おもわずふたりとも大声だ。そのときだった。
――ガサッ。
「なに!?」
音はさっきの木塀の方向から聞こえた。あっちの草がゆれている。
「だれかいる」
おたがいのうでをにぎり合う。
「どうしよう。見つかっちゃった」
タンちゃんが健二を見あげる。まゆげはハの字になっていた。
「だいじょうぶ。園丁さんなら、もうとっくにどなられてるさ。きっと違うものだよ」
「それって、まさか、ユウレ……」
「それ以上言うな。そんなはずない」
タンちゃんの口をふさぐ。
「よし、いっしょに行ってみよう。たしかめるんだ」
「ぼ、ぼくも?」
「あたりまえさ。タンちゃんとぼくは、いつもいっしょだもんな」
「うわぁぁ」
タンちゃんの手を引っぱる。木塀のはじは、背の高い草がしげっていた。それをしずかにかきわけながら進む。
――ガササッ。
「うわあ!」
「……っ」
また草が動いた。
こんどはすぐ目の前だ。タンちゃんが健二の背中に飛びつく。その足元を、一匹のうずらが走りぬけて行った。
「えっ」
「うそっ」
健二がふきだす。タンちゃんはすわりこんでしまった。なさけない声をだしている。
「う、うずらぁー?」
「ほらね。やっぱり、ユウレイなんていないんだから」
「うん。ああ、ほっとした」
タンちゃんが健二にわらいかけたときだ。その顔が急にまっ青になった。
「どうした、タンちゃん」
「けけっ、健ちゃん、うっうしろ」
「もう、うずらはいないよ」
「ちがっ、健ちゃんのうしろに人かげが……」
「えっ!?」
健二がふり返る。
背の高い人が立っていた。
「うわあああああ!」
こんどは健二も大あわてだ。すわりこんでいたタンちゃんに飛びついた。同時にタンちゃんの悲鳴。
しずかだったおたまやが、またさわがしくなった。
「うわっ、うわっ」
ふたりは立つことができない。ふたつのおまんじゅうのように小さくなって、だき合っていた。
あっというまだったのか、ずい分時間がたったのか、もうよくわからなくなっていた。けれど、いつまでたっても、なにもおこらない。
「もう行ったのかな」
「人間のおとななら、なにか言うよね。やっぱり、あれは」
「言っちゃだめだって、言ったろ」
健二はぎゅっと目をつぶった、それからゆっくりと開く。そして立ちあがった。
「け、健ちゃん」
タンちゃんが泣きそうだ。健二だって足のふるえが止まらない。だけど、ありったけの勇気をふりしぼって、さっき自分が立っていたほうに顔をむけた。
「うわっ」
やっぱり草のあいだに、だれかいる。健二はまたしゃがんだ。
「でも待てよ。さっきとぜんぜん変わってないぞ」
健二のまるまった背中が、すこし上をむいた。もういちど立ちあがる。そして、手前の草をかきわけた。そこで見たものに、健二は全身のちからがぬけてしまった。
「あははは」
大きな声でわらう。おまんじゅうになっていたタンちゃんが、心配そうに顔をあげた。健二は大きな灯籠と肩をくんでみせた。
「うずらのつぎは、灯籠だ」
いっきにタンちゃんも息をはく。
灯籠とは、よくお寺や神社にあるもので、石などでできた昔ながらの照明具だ。さっきの墓園にもいくつかあった。
たしかに、形は笠をかぶった人に見えるような、見えないような……。けれど、これはちょうどおとなくらいの高さだった。草ごしに人かげに見えたのも、わかる気がする。
「もうタンちゃんは、びっくりさせるんだから」
「健ちゃんだって、驚いてたくせに」
「うん。すごくこわかった」
「ほくも」
またにぎやかになった。でもこんどは、ふたりのなかなおりのわらい声だ。
「さっきはごめん。やっぱりもう帰ろう。またこわい思いをするのは、ごめんだからね」
「うん」
健二が灯籠に手をついた。ごつごつした石の感触はなく、なめらかな手ざわり。きっと古くからここにあって、雨や風で石がまるまったのだ。
「いちおう……ね」
健二は手を合わせた。すると灯籠のロウソク置き場に、光るものがある。目をこらしてみると、緑や青、赤色にも見える。健二は灯籠のなかに手を入れた。
でてきたのは、虹色の虫だった。
「タマムシだっ」
言ったのはタンちゃん。
「でも死んでる」
すぐに健二が言った。タンちゃんがおおげさにずっこける。
「なんだあ、残念。タマムシなんて、めったに見つけられないお宝だもんね。自慢の標本になるところだったのに」
それを聞いてひらめいた。
「どうせ標本にするんだ。これもほかの虫と混ぜちゃえばいい」
「なるほど、そうだね」
「よし、一匹捕獲成功だ」
健二は空っぽの虫カゴに、死んだタマムシを入れた。
ふたりがおたまやからでて来たとき、太陽はすでにかたむいていた。お墓まいりの人もほとんどいなくなって、かわりにカラスが墓石にとまりはじめている。ふたりは墓園を走った。
――ワン、ワン。
番犬の声に飛びあがる。来たときには、なんともなかったのに、こんどは心臓がばくはつするほど、びっくりした。きっといろんなことがあったからだ。そんなおたがいを見て、またふたりは大わらいだ。
墓園の外は、すっかり夕ぐれの風景に変わっていた。白クジラがオレンジ色になっている。その下を、タンちゃんが手をふって帰って行った。
ひとりになった健二は、もういちどおたまやの方角をふり返ってみた。黒い森の上で、カラスが群れをつくっている。妖怪マンガのようで、また足がふるえた。
夜だ。
健二は玄関にいた。げた箱の下から、お菓子の箱を引っぱりだす。フタを開けると、ナフタリンのにおいがひろがった。そこには、これまでつかまえた虫が入っている。
ナフタリンは、たんすに入れる白くてかたい薬だ。防虫、殺虫のためにつかうものだけど、昆虫採集のために、特別に母ちゃんから一個もらっていた。
健二は虫カゴからタマムシをだした。見れば見るほどきれいな色だ。灯籠のなかにあったせいで、ほかの虫にもかじられていない。
「これはもう死んじゃってるから、ナフタリンに入れなくてもいいかな」
健二が言うと、そこへ慎一兄ちゃんがやって来た。
「いや、入れておいたほうがいいぞ。見えなくても、死んだ虫には小さな虫がついているかもしれない。そいつをやっつけないと、ボロボロになるよ」
「そうなの?」
「この羽、きれいだよな。知ってるか? ずーっと昔のタマムシの羽が、今ものこってること」
「うそっ」
「ほんとうさ。玉虫の厨子って言ってね、一三〇〇年前のものだってさ」
「それって、おサムライさんの時代のこと?」
「もっと昔だよ。図書館に写真があったからね、間違いないさ。古すぎて、色は変わっちゃってたけど。だから、このタマムシの羽だって、運がよければ、このさきなん百年かは、きれいなままのこるかもな」
「すごいや。それなら標本にしたあとは、ぼくの宝ものにしよう。それに、もしかしたら、これだってずっと昔のタマムシかもしれないよね」
「このあたりは観光客だらけだからな。昔からずっと見つからないまま、なんてのは無いよ」
「あっ……そうか」
だれも来ない場所で見つけたとしたら?
あやうく言いそうになった。健二は口をつぐんだ。
§ 白いおじいさん
つぎの日、健二はめずらしく家にいた。
朝のラジオ体操に行っただけで、外にでていない。ふてくされ顔の健二のよこを、こちらは楽しそうな顔をした母ちゃんが通りすぎる。親せきのおばさんたちと芝居を見に行くとかで、今日は久しぶりのよそゆきだ。声まで違う。
「留守番たのんだよ。たまに家にいるんだから、宿題かたづけちまいなね」
声はよそゆきでも、中身はいつもの母ちゃんだ。健二は右手をひらひらさせた。
「そうだ、氷屋さんが来たら、入れてもらってね。じゃ、いってきます」
母ちゃんがでかける。父ちゃんは仕事、兄ちゃんは中学の部活だ。だれもいないと、四畳半の茶の間も広く感じる。
健二は寝ころがった。
シャツの汗が背中とたたみにくっついて、気持ち悪い。暑い風が縁側から玄関へとぬけていった。このあたりで玄関を閉めきっている家はいない。でないと、家のなかが蒸し風呂のようになってしまうからだ。まあ本物のお風呂だって、ほとんどの家には無いし、もっぱら銭湯がよいだけど。
寝ころんだ健二の鼻さきを、またほこりっぽい風がくすぐった。風でめくれた宿題帳はまっ白だ。やらなきゃ、と思うほどあくびがでるのが不思議だった。
いつも遊んでいるタンちゃんは、今日からおばあちゃん家だ。母ちゃんがでかけてから三十分もたっていないのに、もうたいくつだ。
「ごめんください」
声が聞こえたのは、そんなときだった。
氷屋さんにしては時間が早すぎる。それに、こんな上品な声のはずがない。
「ごめんください、こんにちは」
考えていると、もういちど聞こえた。暑い時間なのに、すずしげな声。すいよせられるように、健二は起きあがった。
玄関に立っていたのは、藍色の作務衣を着たおじいさんだった。髪の毛とひげがまっ白なのに、背筋をぴんとのばして立っている。健二を見るとにっこりとわらった。
「これはぼっちゃん、ごめんくださいな」
「ぼっぼっちゃ……?」
健二の口がぽっかりと開いたまま停止した。おかまいなしにおじいさんが頭をさげるので、健二もつられておじぎをする。あわてて声をだした。
「あの、母ちゃん今でかけてて、ぼく留守番なんだ。だから、ご用うかがいなら、だれもいないよ」
いっきにしゃべって息をすう。それでもおじいさんは、にこにこしていた。だんだんとあやしい老人にも見えてくる。早く帰ってもらったほうがよさそうだ。
「あの、だからだれもいないんだけど」
「ああ、すみません。わたくしは物売りではありませんから、ご安心ください。少々おたずねしたいことがありまして、ご近所をまわっている者です」
「なんだ。それを早く言ってよ」
「すみません」
またにっこりと言う。健二は調子がくるってしまった。せっかちな下町のテンポに合わない。
「それで、なにをおたずねられたりれ……あれ?」
「ほほほ」
おじいさんがわらう。健二は顔が熱くなった。
「だから、なにを知りたいの」
「いや失礼しました。じつはきのう、たいせつなものをなくしてしまいました。旅の途中でしたが、それを見つけないことには、ここを発つこともできません。きれいな細工のついたかんざしなのですが、おこころあたりはありませんか」
「かんざしなら、上野公園の露店でたくさん売ってるけど。おじいさんの探し物かは、わからないよ」
「残念ながら違うようですね。探しているかんざしは、とても古いものなので、お店で売られてはいないでしょう。ぶしつけなお願いでもうしわけありませんが、もしどこかに落ちていたら、わたくしに知らせてはいただけないでしょうか」
「べつにいいけど。上野は広いよ、あきらめたほうがいいと思うけどな」
「わたくしの不注意でなくしてしまいました。死んでも見つけないといけません」
「死? だめだよ、そんなこと言っちゃあ。ぼくの父ちゃんにしかられるよ。わかった、どんなかんざしなのか、おしえて」
「ぼっちゃんはやさしいのですね、ありがとうございます。銀色のかんざしです。きれいな細工石がはめこんでありますので、たぶん、すぐおわかりになると思います」
「きれいな? どんな色なの」
「五色がまざり合ったような……そうですね、たとえるなら、タマムシのような色でございます」
「タマムシ!?」
ドキリとした。いっしゅん、げた箱の下のナフタリン箱に目をやる。つられて、おじいさんもげた箱を見る。そして、それきりこっちをむかなかった。
健二は冷や汗がでてきた。なにも関係ないはずなのに、きのうのおたまやのことまで、見すかされそうな気がして心配になってくる。それくらい、おじいさんの目は、遠くを見ているような感じがしたから。
「ぼっちゃん」
「はいっ」
学校でだって、こんなにはっきりと返事したことはない。おもわず直立してしまった。
「これ、げた箱ではありませんね」
「……っえ?」
おじいさんがげた箱の前でしゃがんだ。大きくうなずいている。
「見ず知らずの、この年寄りを心配してくださったぼっちゃんに、お礼をさせてください」
そう言いのこして、おじいさんは阿部旅館へ入っていった。すぐに杉の道具箱をかかえてもどって来る。べべ子のところに宿をとっているようだ。
おじいさんが道具やビンをならべた。ロウや油のにおいが、玄関中にひろがる。しわしわの指が小気味よく動いて、げた箱をみがいていた。さっきののんびりとしたテンポとは、ぜんぜん違う。
そしてあっというまに、黒くくすんだげた箱……と思っていたが、それがきれいな引き違いだんすに変身したのだ。四すみについていた黒い金具からも、細工模様があらわれたから、おどろいた。おじいさんが言った。
「これは古い帳場だんすでしてね、こんなにずっとつかっておられるお宅があったとは、うれしいものです」
「ほくが生まれる前から、ずっとげた箱だよ」
おまけに内側は、父ちゃんが棚板をうちつけている。
「かざりものじゃありませんから。こうやって手を入れてつかってあげたほうが、古い家具もよろこびます」
「そっか」
健二もうれしい気持ちになった。
「長居をしてしまいました。わたくしはこれにて失礼します」
「だいじなもの、見つかるといいね」
「ありがとうございます。それでは」
おじいさんがていねいに頭をさげる。こんどは健二も同時にあいさつできた。
おじいさんのうしろすがたは、とてもさみしそうだった。その逆に、げた箱はとてもほこらし気に立っていた。
夕方。
母ちゃんは帰ってくるなり大声だ。
「健二、宿題はすんだのかい。氷屋さんは来たの? 今日も夕ごはんは早いからね」
つぎからつぎへと話が変わる。昼間のゆったりとした時間から、いつもの下町のテンポにもどった。
夕ごはんは今日も母ちゃんと兄ちゃんと健二の三人だ。夏休みも父ちゃんの国鉄の仕事は大変みたいだった。
「おかわり」
兄ちゃんが大きなどんぶりをだす。柔道部に入ってから、大めしぐらいになった。このときばかりは、はしを置く。
「そういえばさ、玄関のげた箱どうしたの」
「ああ、わたしもびっくりしちまったよ」
母ちゃんは健二から聞いた話を、兄ちゃんに言いはじめた。いつもならここで健二もはなしだすところだけど、あのときの気分が台無しになりそうな気がしてやめた。だって、さっき健二が報告するなり、母ちゃんが言ったのだ。
『古道具の修理屋なんてめずらしいね。あの箱は、群馬のばあさんの納屋にほったらかしだったのを、父ちゃんがもらったのよ。あんなに立派なものだったなんてねぇ、おどろいた。それもお代はサービスなんて、イキじゃないか』
『違うよ。修理屋さんじゃないってば』
『またたのみたいねぇ。もちろん、こんどはちゃんとお代ははらうさ。まったく商売上手だよ』
『違うって』
健二の話なんか聞いてもらえない。だからもう、この話はしたくなかった。健二はばりりとたくあんをかんだ。




