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第4話「ナイショのおたまや」①

第四話「ナイショのおたまや」


§ おたまやへ


――シャッ、シャー。


――ショリ、ショリ。


 銀色のノコギリがすずしげに光っている。大きな氷からは、冷たいしずくがこぼれていた。


 氷屋のおじさんが、ランドセルくらいの小さなかたまりを切りだした。残った氷に、ぶあつい麻布をひっかける。足元では、できたばかりの氷のつぶが、ちいさな山をつくっていた。


 おじさんがいなくなったすきに、健二の両手が氷の山をすくう。ぺろりとひとなめしただけで、あっというまになくなってしまった。


 地面の氷たまりも、みるみるただのシミになってゆく。それほど地面はカラカラにかわいていた。


「毎度どうも。また明日来やす」


 おじさんが、健二の母ちゃんに声をかけていた。この町で電気冷蔵庫を持っているのは、阿部旅館と商店の人たちくらいだ。ほとんどの家は、こうやって氷を入れて冷やす、氷冷蔵庫をつかっていた。夏は毎日氷を入れないと冷たくならない。


 八月。


 今年の夏は、大変なことになっていた。雨がふらないまま梅雨が明けてしまったため、すでに水不足だ。玄関わきのホウセンカも、花をつけることなく下をむいていた。風がふくたびに、地面が砂ぼこりをあげている。


 おとなたちは取水制限や、ため水に頭をかかえる毎日だった。けれど子どもにしてみれば、楽しい夏休みのまっ最中だ。


 さっそくタンちゃんが、健二をむかえに来た。虫取りのアミをかかえている。それを見た健二が、にやりとした。


 ふたりの夏休みの自由研究は昆虫採集だ。クラスの男子の半分がそうかもしれない。だれもがめずらしい虫をさがすのに夢中だ。


 子どもたちにはみんな、自分たちだけの秘密の場所があった。健二たちのボケフージンのあみだ堂や、ションベン横丁もそうだ。ほかにも、まだある。特別な場所を見つけたら、仲間にだけおしえて、こっそり集合するのが、スリルがあっておもしろいのだった。


 まあ健二たちの場合、そのいくつかは、べべ子に見つかっているので、もう秘密ではない場所もあるのだけど。


 それを思いだして、健二があたりを見まわす。それから小声で言った。


「今日は新しい場所へ探検に行こう。きっと、見たこともない虫がいるはずさ」


「よしきた。新しい秘密の場所だね」


「秘密かあ。こんどのは、ちょっと違うかも」


「へっ、なんで」


「だって、そこは“おたまや”だから」


「おっおたま……や!? ムガッ」

 タンちゃんの口をふさぐ。


「声が大きいよ」


「だって、おたまやは行っちゃいけないんだよ」

 タンちゃんの汗が、冷や汗にかわりそうだ。


「だから、新しい場所なんじゃないか」

「そ、そうか……そうだね。まだ見つかってない新種の虫もいるかもね」


「そうさ、『サンジカブト』なんて名前がついちゃうかもよ」


「すごいや」

 タンちゃんもその気になってきた。


 ふたりは上野のお山をこえても、まだ歩いていた。やがて、大きな白クジラの像の前にでた。家ほどもあるクジラを見あげると、まっ青な空にジャンプしているみたいだ。


 おたまやへ行くには、このさきのひろい墓園を通らなければいけない。探検とはいっても、暗い墓園を歩けるほど、健二たちも度胸はない。太陽はまだ昼の位置にあった。


 行くなら今だ。


 白クジラに背中をむけて、ふたりは墓園に入って行った。入り口近くには、管理人さんの家がある。必ずほえる番犬が、健二をにらみつけた。


――ウーッ、ワンワン!


「いそげ、園丁さんがくるぞ」


――ワン、ワワン。


 走りだすと、さらに番犬の声も大きくなる。ふたりはダッシュでかけぬけた。


 お盆が近いせいか、墓園にはたくさんの人たちが来ていた。こんなににぎやかな墓園なら、ちっともこわくない。ふたりはどんどん奥へと歩く。


 ふと、健二がそばにある松の木にかくれた。


「どうしたの。もしかして、こわくなったとか」

 タンちゃんがわざとらしく、大またで立ちふさがる。


「いつもさ、こういうときにかぎって、なぜかべべ子が登場するだろ。用心だよ」


「うん、うん。おしゃべりべべ子の七不思議だもんね」

 タンちゃんも近くの灯籠に身をひそめる。近くに足音はない。


 健二が松の木から顔をだした。

「足のない人は足音なんかたてないかもよ~。うらめしや~」


「健ちゃんだって、そのかっこう、あやしいぞお~」

 ふたりしてユウレイのまねだ。


「こんなまっ昼間からでるもんか。べべ子もいないし、早く行こう」


「あれれ。やっぱり健ちゃん、こわいんじゃないの」


「タンちゃんこそ」

 ちょっとはこわい。ふたりとも、いつのまにか早歩きになった。


 墓園の奥には、木がたくさんはえた場所がある。だれかが植えたのではなく、大昔からの森だった。そのなかにおたまやはある。


『おたまやには、絶対に行っちゃいけないよ』


 このあたりの子どもたちは、そう言われていた。子どもだけでなく、おとなだってここに来る人はいない。なぜなら、ふつうの人は、入ってはいけない場所だったから。


 おたまや(御霊屋)は、みんながそう呼んでいるだけで、ほんとうの名前はほかにある。『霊廟』、むずかしい漢字や意味は、健二たちにはまだわからない。知っているのは、江戸時代のえらい人たちのお墓があるってこと。いくつかの門があって、カギがかかっているといううわさだ。


 健二は鉄さくの前に立った。ここまでは、だれだって来ることができる。


 鉄さくのむこうは、夕方みたいな暗さだった。大きな木々にさえぎられて、太陽がほとんど地面にとどいていない。タンちゃんが健二のシャツをつかむ。


 鉄さくのよこの石塀がすこしくずれていた。


「よし、あそこからは入れる」

 健二が言った。そして石塀にのぼる。ここまで来れば簡単だった、そのまま地面にジャンプだ。


――ダン。


「着地成功!」


 とたんに地面のかげが動きだした。


――カアー、カアー。


――ギャー、カアー。


 森でやすんでいたカラスたちだ。急な侵入者に、いっせいになきはじめる。つぎつぎに飛んでいった。ものすごい数だ。


「うわあぁ」

 タンちゃんの大声で、さらにカラスがさわぐ。


「だいじょうぶだよ、タンちゃん。ここはカラスのお宿だったんだ。びっくりしてるだけだよ」


「でも、でも」

 タンちゃんは頭をかかえてしゃがんでいる。じつは健二も石塀にはりついていた。


 お宿をあらされたカラスは、まだ陽の高い墓園へ飛んでいった。お墓まいりの人たちが、めずらしそうに見あげているのが見える。まさか、ここを追いはらわれたなんて、だれも思っていないだろう。


「いなくなったよ。タンちゃんも早く」

「うん」

 さっきの健二とおなじように、タンちゃんも石塀をこえる。


「なんかさ、ちょっとすずしいね」

 タンちゃんが言った。


「あまり太陽があたってないからかな。暑かったし、ちょうどいいさ」

 健二が歩きだした。すぐさきに、もうひとつの鉄さくがある。都合よく、そんなに高くない。


「これなら、のぼれる」

 手をかけたとき、タンちゃんが健二のおしりを引っぱった。


「ちょっと待って」


「なんだよ、ここまで来て」


「違うよ、いちおうね」

 そう言って、タンちゃんが鉄さくのむこうにむかって手を合わせた。タンちゃんの家は神社だった。健二も鉄さくにかけていた手をはなして、タンちゃんにならった。


「さすがタンちゃん、神主さんの子どもは違うね。あれ、でもここはお墓か」


「だから、いちおうだもん」


「うん。これで安心だ。それに、ぼくたちの秘密の暗号みたいでかっこいい」


「そうだね」

 ふたりは同時に鉄さくを乗りこえた。


 足元には、小さな道ができていた。そのわきには、ツユクサやアザミが咲いている。かわいた町では元気のないヒルガオも、ここではつぼみをつけていた。深い森に守られた地面は、なんとなく湿っているようだ。


「別の世界みたいだ」

 タンちゃんが小さな声で言った。健二も、ひそひそ声になる。


「これが、おたまやだ。ここも、おサムライさんが通った道かもしれないんだからさ」


「じゃあ昔の虫もいるかもね」


「そしたら大発見だ」


「よし、サンジカブトを見つけるぞ」


「ぼくだって負けないさ」


 健二が虫とりアミをかかげる。カラスがいなくなった森では、セミの大合唱がはじまっていた。


§ 人じゃないもの


 三十分もしないうちに、タンちゃんの虫カゴには、二匹のチョウと三匹の葉虫が入っていた。どれも見たことのない模様をしている。新種発見にドキドキして、タンちゃんは大満足だ。健二はというと、

「0匹だ……」


 健二の声に、タンちゃんが近かよる。


「健ちゃんは大ものばかりねらうから、逃げられちゃうんだよ。さっきだって、きれいな虫が飛んでたのに」

タンちゃんが自分の虫カゴをほっぺたにあてた。健二がムッとする。


「つぎはぜったいにぼくの番だ」

 いつもの健二とタンちゃんが逆転してしまったみたいだった。


「よし、もっとさきに進もう」

 言いだしたのは健二だ。


「もうそのさきは、まずいんじゃないの」

 新種(?)を五匹も見つけたタンちゃんがしぶる。


「えらい人のお墓っていったってさ、そんなのどこにも見あたらないじゃない。きっと、ずっとさきにたててあるのさ。だからもうすこし入ったって、バチはあたらないと思うよ」


「けど……」


「わかった。タンちゃん、こわいんだ」

「そんなんじゃないよ」

「じゃあ行こうよ」

 健二がむこうの木塀を指さす。タンちゃんは行ってみたい気持ちと、行きたくない気持ちが半分半分のようだった。


「やっぱりな」

「違うよ」

 さっきまで小声だったこともわすれて、おもわずふたりとも大声だ。そのときだった。


――ガサッ。


「なに!?」


 音はさっきの木塀の方向から聞こえた。あっちの草がゆれている。


「だれかいる」

 おたがいのうでをにぎり合う。


「どうしよう。見つかっちゃった」

 タンちゃんが健二を見あげる。まゆげはハの字になっていた。


「だいじょうぶ。園丁さんなら、もうとっくにどなられてるさ。きっと違うものだよ」

「それって、まさか、ユウレ……」

「それ以上言うな。そんなはずない」

 タンちゃんの口をふさぐ。


「よし、いっしょに行ってみよう。たしかめるんだ」

「ぼ、ぼくも?」

「あたりまえさ。タンちゃんとぼくは、いつもいっしょだもんな」

「うわぁぁ」

 タンちゃんの手を引っぱる。木塀のはじは、背の高い草がしげっていた。それをしずかにかきわけながら進む。


――ガササッ。


「うわあ!」

「……っ」

 また草が動いた。


 こんどはすぐ目の前だ。タンちゃんが健二の背中に飛びつく。その足元を、一匹のうずらが走りぬけて行った。


「えっ」

「うそっ」

 健二がふきだす。タンちゃんはすわりこんでしまった。なさけない声をだしている。


「う、うずらぁー?」

「ほらね。やっぱり、ユウレイなんていないんだから」

「うん。ああ、ほっとした」


 タンちゃんが健二にわらいかけたときだ。その顔が急にまっ青になった。


「どうした、タンちゃん」

「けけっ、健ちゃん、うっうしろ」

「もう、うずらはいないよ」

「ちがっ、健ちゃんのうしろに人かげが……」

「えっ!?」

 健二がふり返る。


 背の高い人が立っていた。


「うわあああああ!」


 こんどは健二も大あわてだ。すわりこんでいたタンちゃんに飛びついた。同時にタンちゃんの悲鳴。

 しずかだったおたまやが、またさわがしくなった。


「うわっ、うわっ」


 ふたりは立つことができない。ふたつのおまんじゅうのように小さくなって、だき合っていた。

 あっというまだったのか、ずい分時間がたったのか、もうよくわからなくなっていた。けれど、いつまでたっても、なにもおこらない。


「もう行ったのかな」

「人間のおとななら、なにか言うよね。やっぱり、あれは」

「言っちゃだめだって、言ったろ」

 健二はぎゅっと目をつぶった、それからゆっくりと開く。そして立ちあがった。


「け、健ちゃん」


 タンちゃんが泣きそうだ。健二だって足のふるえが止まらない。だけど、ありったけの勇気をふりしぼって、さっき自分が立っていたほうに顔をむけた。


「うわっ」

 やっぱり草のあいだに、だれかいる。健二はまたしゃがんだ。


「でも待てよ。さっきとぜんぜん変わってないぞ」

 健二のまるまった背中が、すこし上をむいた。もういちど立ちあがる。そして、手前の草をかきわけた。そこで見たものに、健二は全身のちからがぬけてしまった。


「あははは」


 大きな声でわらう。おまんじゅうになっていたタンちゃんが、心配そうに顔をあげた。健二は大きな灯籠と肩をくんでみせた。


「うずらのつぎは、灯籠だ」

 いっきにタンちゃんも息をはく。


 灯籠とは、よくお寺や神社にあるもので、石などでできた昔ながらの照明具だ。さっきの墓園にもいくつかあった。


 たしかに、形は笠をかぶった人に見えるような、見えないような……。けれど、これはちょうどおとなくらいの高さだった。草ごしに人かげに見えたのも、わかる気がする。


「もうタンちゃんは、びっくりさせるんだから」

「健ちゃんだって、驚いてたくせに」

「うん。すごくこわかった」

「ほくも」

 またにぎやかになった。でもこんどは、ふたりのなかなおりのわらい声だ。


「さっきはごめん。やっぱりもう帰ろう。またこわい思いをするのは、ごめんだからね」

「うん」


 健二が灯籠に手をついた。ごつごつした石の感触はなく、なめらかな手ざわり。きっと古くからここにあって、雨や風で石がまるまったのだ。


「いちおう……ね」


 健二は手を合わせた。すると灯籠のロウソク置き場に、光るものがある。目をこらしてみると、緑や青、赤色にも見える。健二は灯籠のなかに手を入れた。


 でてきたのは、虹色の虫だった。


「タマムシだっ」

 言ったのはタンちゃん。


「でも死んでる」

 すぐに健二が言った。タンちゃんがおおげさにずっこける。


「なんだあ、残念。タマムシなんて、めったに見つけられないお宝だもんね。自慢の標本になるところだったのに」

 それを聞いてひらめいた。


「どうせ標本にするんだ。これもほかの虫と混ぜちゃえばいい」

「なるほど、そうだね」

「よし、一匹捕獲成功だ」

 健二は空っぽの虫カゴに、死んだタマムシを入れた。


 ふたりがおたまやからでて来たとき、太陽はすでにかたむいていた。お墓まいりの人もほとんどいなくなって、かわりにカラスが墓石にとまりはじめている。ふたりは墓園を走った。


――ワン、ワン。


 番犬の声に飛びあがる。来たときには、なんともなかったのに、こんどは心臓がばくはつするほど、びっくりした。きっといろんなことがあったからだ。そんなおたがいを見て、またふたりは大わらいだ。


 墓園の外は、すっかり夕ぐれの風景に変わっていた。白クジラがオレンジ色になっている。その下を、タンちゃんが手をふって帰って行った。


 ひとりになった健二は、もういちどおたまやの方角をふり返ってみた。黒い森の上で、カラスが群れをつくっている。妖怪マンガのようで、また足がふるえた。


 夜だ。


 健二は玄関にいた。げた箱の下から、お菓子の箱を引っぱりだす。フタを開けると、ナフタリンのにおいがひろがった。そこには、これまでつかまえた虫が入っている。


 ナフタリンは、たんすに入れる白くてかたい薬だ。防虫、殺虫のためにつかうものだけど、昆虫採集のために、特別に母ちゃんから一個もらっていた。


 健二は虫カゴからタマムシをだした。見れば見るほどきれいな色だ。灯籠のなかにあったせいで、ほかの虫にもかじられていない。


「これはもう死んじゃってるから、ナフタリンに入れなくてもいいかな」

 健二が言うと、そこへ慎一兄ちゃんがやって来た。


「いや、入れておいたほうがいいぞ。見えなくても、死んだ虫には小さな虫がついているかもしれない。そいつをやっつけないと、ボロボロになるよ」


「そうなの?」


「この羽、きれいだよな。知ってるか? ずーっと昔のタマムシの羽が、今ものこってること」


「うそっ」


「ほんとうさ。玉虫の厨子って言ってね、一三〇〇年前のものだってさ」


「それって、おサムライさんの時代のこと?」


「もっと昔だよ。図書館に写真があったからね、間違いないさ。古すぎて、色は変わっちゃってたけど。だから、このタマムシの羽だって、運がよければ、このさきなん百年かは、きれいなままのこるかもな」


「すごいや。それなら標本にしたあとは、ぼくの宝ものにしよう。それに、もしかしたら、これだってずっと昔のタマムシかもしれないよね」


「このあたりは観光客だらけだからな。昔からずっと見つからないまま、なんてのは無いよ」


「あっ……そうか」


 だれも来ない場所で見つけたとしたら?


 あやうく言いそうになった。健二は口をつぐんだ。


§ 白いおじいさん


 つぎの日、健二はめずらしく家にいた。


 朝のラジオ体操に行っただけで、外にでていない。ふてくされ顔の健二のよこを、こちらは楽しそうな顔をした母ちゃんが通りすぎる。親せきのおばさんたちと芝居を見に行くとかで、今日は久しぶりのよそゆきだ。声まで違う。


「留守番たのんだよ。たまに家にいるんだから、宿題かたづけちまいなね」

 声はよそゆきでも、中身はいつもの母ちゃんだ。健二は右手をひらひらさせた。


「そうだ、氷屋さんが来たら、入れてもらってね。じゃ、いってきます」


 母ちゃんがでかける。父ちゃんは仕事、兄ちゃんは中学の部活だ。だれもいないと、四畳半の茶の間も広く感じる。


 健二は寝ころがった。


 シャツの汗が背中とたたみにくっついて、気持ち悪い。暑い風が縁側から玄関へとぬけていった。このあたりで玄関を閉めきっている家はいない。でないと、家のなかが蒸し風呂のようになってしまうからだ。まあ本物のお風呂だって、ほとんどの家には無いし、もっぱら銭湯がよいだけど。


 寝ころんだ健二の鼻さきを、またほこりっぽい風がくすぐった。風でめくれた宿題帳はまっ白だ。やらなきゃ、と思うほどあくびがでるのが不思議だった。


 いつも遊んでいるタンちゃんは、今日からおばあちゃん家だ。母ちゃんがでかけてから三十分もたっていないのに、もうたいくつだ。


「ごめんください」


 声が聞こえたのは、そんなときだった。


 氷屋さんにしては時間が早すぎる。それに、こんな上品な声のはずがない。


「ごめんください、こんにちは」

 考えていると、もういちど聞こえた。暑い時間なのに、すずしげな声。すいよせられるように、健二は起きあがった。


 玄関に立っていたのは、藍色の作務衣を着たおじいさんだった。髪の毛とひげがまっ白なのに、背筋をぴんとのばして立っている。健二を見るとにっこりとわらった。


「これはぼっちゃん、ごめんくださいな」


「ぼっぼっちゃ……?」


 健二の口がぽっかりと開いたまま停止した。おかまいなしにおじいさんが頭をさげるので、健二もつられておじぎをする。あわてて声をだした。


「あの、母ちゃん今でかけてて、ぼく留守番なんだ。だから、ご用うかがいなら、だれもいないよ」

 いっきにしゃべって息をすう。それでもおじいさんは、にこにこしていた。だんだんとあやしい老人にも見えてくる。早く帰ってもらったほうがよさそうだ。


「あの、だからだれもいないんだけど」


「ああ、すみません。わたくしは物売りではありませんから、ご安心ください。少々おたずねしたいことがありまして、ご近所をまわっている者です」


「なんだ。それを早く言ってよ」

「すみません」

 またにっこりと言う。健二は調子がくるってしまった。せっかちな下町のテンポに合わない。


「それで、なにをおたずねられたりれ……あれ?」


「ほほほ」

 おじいさんがわらう。健二は顔が熱くなった。


「だから、なにを知りたいの」


「いや失礼しました。じつはきのう、たいせつなものをなくしてしまいました。旅の途中でしたが、それを見つけないことには、ここを発つこともできません。きれいな細工のついたかんざしなのですが、おこころあたりはありませんか」


「かんざしなら、上野公園の露店でたくさん売ってるけど。おじいさんの探し物かは、わからないよ」


「残念ながら違うようですね。探しているかんざしは、とても古いものなので、お店で売られてはいないでしょう。ぶしつけなお願いでもうしわけありませんが、もしどこかに落ちていたら、わたくしに知らせてはいただけないでしょうか」


「べつにいいけど。上野は広いよ、あきらめたほうがいいと思うけどな」


「わたくしの不注意でなくしてしまいました。死んでも見つけないといけません」


「死? だめだよ、そんなこと言っちゃあ。ぼくの父ちゃんにしかられるよ。わかった、どんなかんざしなのか、おしえて」


「ぼっちゃんはやさしいのですね、ありがとうございます。銀色のかんざしです。きれいな細工石がはめこんでありますので、たぶん、すぐおわかりになると思います」


「きれいな? どんな色なの」

「五色がまざり合ったような……そうですね、たとえるなら、タマムシのような色でございます」


「タマムシ!?」

 ドキリとした。いっしゅん、げた箱の下のナフタリン箱に目をやる。つられて、おじいさんもげた箱を見る。そして、それきりこっちをむかなかった。


 健二は冷や汗がでてきた。なにも関係ないはずなのに、きのうのおたまやのことまで、見すかされそうな気がして心配になってくる。それくらい、おじいさんの目は、遠くを見ているような感じがしたから。


「ぼっちゃん」

「はいっ」

 学校でだって、こんなにはっきりと返事したことはない。おもわず直立してしまった。


「これ、げた箱ではありませんね」


「……っえ?」


 おじいさんがげた箱の前でしゃがんだ。大きくうなずいている。


「見ず知らずの、この年寄りを心配してくださったぼっちゃんに、お礼をさせてください」

 そう言いのこして、おじいさんは阿部旅館へ入っていった。すぐに杉の道具箱をかかえてもどって来る。べべ子のところに宿をとっているようだ。


 おじいさんが道具やビンをならべた。ロウや油のにおいが、玄関中にひろがる。しわしわの指が小気味よく動いて、げた箱をみがいていた。さっきののんびりとしたテンポとは、ぜんぜん違う。


 そしてあっというまに、黒くくすんだげた箱……と思っていたが、それがきれいな引き違いだんすに変身したのだ。四すみについていた黒い金具からも、細工模様があらわれたから、おどろいた。おじいさんが言った。


「これは古い帳場だんすでしてね、こんなにずっとつかっておられるお宅があったとは、うれしいものです」

「ほくが生まれる前から、ずっとげた箱だよ」

 おまけに内側は、父ちゃんが棚板をうちつけている。


「かざりものじゃありませんから。こうやって手を入れてつかってあげたほうが、古い家具もよろこびます」

「そっか」

 健二もうれしい気持ちになった。


「長居をしてしまいました。わたくしはこれにて失礼します」

「だいじなもの、見つかるといいね」

「ありがとうございます。それでは」

 おじいさんがていねいに頭をさげる。こんどは健二も同時にあいさつできた。


 おじいさんのうしろすがたは、とてもさみしそうだった。その逆に、げた箱はとてもほこらし気に立っていた。


 夕方。


 母ちゃんは帰ってくるなり大声だ。

「健二、宿題はすんだのかい。氷屋さんは来たの? 今日も夕ごはんは早いからね」


 つぎからつぎへと話が変わる。昼間のゆったりとした時間から、いつもの下町のテンポにもどった。


 夕ごはんは今日も母ちゃんと兄ちゃんと健二の三人だ。夏休みも父ちゃんの国鉄の仕事は大変みたいだった。


「おかわり」

 兄ちゃんが大きなどんぶりをだす。柔道部に入ってから、大めしぐらいになった。このときばかりは、はしを置く。


「そういえばさ、玄関のげた箱どうしたの」


「ああ、わたしもびっくりしちまったよ」


 母ちゃんは健二から聞いた話を、兄ちゃんに言いはじめた。いつもならここで健二もはなしだすところだけど、あのときの気分が台無しになりそうな気がしてやめた。だって、さっき健二が報告するなり、母ちゃんが言ったのだ。


『古道具の修理屋なんてめずらしいね。あの箱は、群馬のばあさんの納屋にほったらかしだったのを、父ちゃんがもらったのよ。あんなに立派なものだったなんてねぇ、おどろいた。それもお代はサービスなんて、イキじゃないか』


『違うよ。修理屋さんじゃないってば』


『またたのみたいねぇ。もちろん、こんどはちゃんとお代ははらうさ。まったく商売上手だよ』


『違うって』

 健二の話なんか聞いてもらえない。だからもう、この話はしたくなかった。健二はばりりとたくあんをかんだ。

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