第3話「勝て、ナガシマ」①
第三話「勝て、ナガシマ」
§ ベーゴマのおじさん
上野駅の大通りから、駅前商店街や大衆酒場をぬけると、健二の住んでいる長屋がある。そのななめ向かいがべべ子の阿部旅館。さらにまっすぐ行くと、地元の人たちの商店街がならんでいる。
やお屋に肉屋、花屋につけもの屋、母ちゃんたちが夕ごはんの献立を考えながらも、店の前では今日も立ち話が止まらない。
そのさきをまがった空き地のよこには、だがし屋があった。
板戸と引きガラス戸の上から、小さなひさしがぶらさがっている。店の前に置かれたサイダーの木箱にこしかけているのは、健二とタンちゃんだ。
ふたりはよく、ここで作戦会議をしている。
おわんの底がすけて見えるほどの、うすい汁を鉄板にながすと、香ばしいもんじゃ焼きのけむりが、ほこりっぽい路地にひろがった。
梅雨だというのに、ほとんど雨がふらないまま、六月も半ばを過ぎていた。
「ベーゴマ大会の準備だね」
健二が言った。
「そっか。だけど……」
タンちゃんがもんじゃ焼きをつつく。おとといもベーゴマをやっていて、健二の父ちゃんにどなられたばかりだった。
「こわかったね、健ちゃんの父ちゃん」
「あのあと、家でゲンコツ二発だもんな。でもだいじょうぶ、おとなに見つからない場所を見つけたんだ」
健二がわざと胸をはる。
おとなはベーゴマ勝負に反対だった。勝ったら負けた人のコマをとる、このルールが、かけごとのようだからだ。ほとんどの親や学校の先生も、ベーゴマ勝負を禁止していた。
それでも子どもたちが夢中になってしまうのは、強い相手に勝つ瞬間のためだ。そのときのうれしさといったら、おしっこをちびってしまうくらいなのに。
健二が鉄板の上ではがしを動かした。はがしとは、もんじゃ焼き専用の小さなヘラのことだ。ジュッジュッとけむりをあげて、数字の『3』のもんじゃ焼きができあがった。巨人軍の長島選手の背番号だ。
「長島はすごいぞ。きのうもホームラン打ったからね」
長島選手は、子どもたちのあこがれの人だ。
「あたらしいコマには、ナガシマって名前をつけるんだ。タケシのアカールに勝つには、もうナガシマしかないからね」
健二が3のもんじゃ焼きを口に入れる。
ベーゴマには、ひとつずつ違ったアルファベットや数字がマークされていた。アカールは『R』マーク、そこにタケシが赤ペンキをぬったものだ。今日、健二は長島選手の『3』マークをさがすつもりだった。
じつはタンちゃんもおなじだった。健二よりも早く3のコマを見つけようと、闘志まんまんだ。
サイダーの木箱から立ちあがって、ふたりはだがし屋の奥にむかった。店番のばあちゃんが、ねむそうな顔でむかえる。
「おや、もうもんじゃは終わったんかい。七輪の火はちゃんと、落としたんだろうね」
「だいじょうぶだよ、もうまっ白だもん」
こたえながら、ベーゴマがつめこんであるおかしの空きカンに手をのばす。健二とタンちゃんがベーゴマをまさぐった。もうここから勝負のはじまりだ。
さきに3を見つけたのはタンちゃんだった。おなじコマをつかんだはずの健二は、できそこないで、型から鉄のはみでたベーゴマをつかんでいた。
「おっ、パッチンだな。当たりだべ」
うしろからおとなの声がした。
びっくりした健二をよそに、そのおとなは健二の手のひらにのったベーゴマを見て、うなずいている。おもわず健二は手をグーにしてかくした。
「おじさん、だれ」
「おじさんはねえべ。まだ三十歳だよ」
「やっぱりおじさんだ」
タンちゃんもケラケラ言う。
見かけない人だった。このあたりのおとなや子どもはみんな顔見知りだ。男のくせに、やけに色白な顔を健二がながめる。
「あやしいもんじゃねえよ」
おじさんが作業着ふうのズボンに手をやる。水色のポケットからでてきたのはベーゴマだった。さっき健二がみつけたものとおなじく、ぶかっこうに鉄がはみでた失敗作だった。
「青森じゃ、こいつのことをパッチンって言うんだ。めずらしいだ、強いぞ」
あちこちに傷がついていた。かなり使いこんだベーゴマのようだ。おとななのにベーゴマを持ってるなんて、変わったおじさんだ。
タンちゃんが健二の背中をつつく。健二は手をひらいて、にぎっていたパッチンと呼ばれるベーゴマを見た。
「ナガシマの3じゃないけど、これでアカールに勝てるかな」
「ライバルはアカールって言うのが。どんなコマだ」
おじさんが機嫌よく聞いてくる。おかしなはなしかたはたぶん、北国の方言だ。
ちょっとおもしろくなって、健二とタンちゃんは、アカール伝説をはなしはじめた。
Rマークで赤いペンキがぬってあるからアカール。コマの底はケットンになっていて、するどい回転は相手のコマをはじき飛ばしても、まだいきおいをうしなわないこと。健二とタンちゃんは、ふたりあわせてもう二十個以上も、タケシにベーゴマをとられていること。
はなしているうちに、だんだん健二たちも興奮してくる。おじさんはうでを組んで、うなずきながら聞いていた。やがて重大発表をするように、ゆっくりとはなしはじめる。
「おめらが言っているケットンっていうのは、コマのケツ(底)をけずってとんがらせたものだべ。たぶん、もっと強くするのに、へりにもナイフでギザギザをつけてるかもな」
「ぼくたちだって止まったアカールを見たことないのに、すごいや」
健二が声をだす。
負け知らずのアカールは、勝つとすぐにタケシが引きあげてしまうので、だれも細工を見たことがなかったのだ。健二は、この変わったおじさんを信じることにした。
「このパッチンベーゴマをぼくのナガシマにしよう」
「よし、きた!」
おじさんの大声に、だがし屋のばあちゃんがじろりとこっちを見る。あわてておじさんは、自分のベーゴマをばあちゃんにむけた。
「こ、これはオレんだ。あちこち傷だらけだし、こっからぬすんだんじゃない」
ばあちゃんが立ちあがる。
「おいぼうずたち、オレはさきに外で待ってるな。打倒アカールの秘策をおしえてやるべ」
変なあわてぶりで、おじさんは行ってしまった。健二とタンちゃんは大わらいだ。
ばあちゃんにお金をはらうと、健二はさっきのパッチン、タンちゃんは3のベーゴマをポケットにしまった。
ふたりがだがし屋の外にでると、おじさんはとなりの空き地にいた。ころがっていたバケツをひっくり返して、さっきのベーゴマをだす。
「よく見てろよ」
そう言いながら、こんどは上着のポケットからヒモをだした。見るなり健二が言う。
「すごいぞ、黒ヒモだ」
健二たちのヒモは、だがし屋で売っている、ふつうの白いヒモだ。おじさんがあきれる。
「おめら、バカか。これだって、もとは白ヒモだったんだ。長年のオレの練習の汗と手あかで黒くなったんだ」
そう言ってヒモを口にくわえる。しめらせたほうがきつく、きれいにコマに巻けるのだ。そうすれば、回転もはやくなるのだと、おしえてくれた。
「汗と手あかと、ツバだ……」
健二がぐんにゃりした顔で言う。かまわずにおじさんは、ベーゴマを投げるかまえだ。
「左ききか」
こんどはタンちゃんの声だ。ケラケラわらっておじさんが右手を見せる。指が一本なかった。
「ベーゴマだけは左投げだ。右手は小指がないからな、ヒモがかけられねえんだ」
そうだ。ベーゴマのヒモのさきは、小指にからませておく。そうしないとコマを投げたとき、いっしょにヒモまで飛んで、コマにからまってしまう。健二たちは、急にしんとなってしまった。それを察したおじさんが言う。
「心配すんなって。仕事でな、機械に巻きこんじまって一本なくなっただけだ。これでも、うでのいいシャーリング職人よぉ」
「うでがいいなら、指、はさむもんか」
健二が言う。
「違いない。ぼうず、頭いいな」
三人でわらって、やっとさっきのつづきになった。
おじさんの投げたベーゴマのいきおいといったら、今までに見たことのないはやさだった。はみでたパッチンなんか見えないくらいだ。
「あのパッチンが、敵のバランスをくずしてはじき飛ばすんだ。パッチンがなくても、ケットン相手なら、底をけずって重心を低くする。ふところにもぐりこむのがいちばんだ。どちらもへりのギザギザを、わすれんなよ」
おじさんはひとりごとのように言った。これが打倒アカールの秘策なのだろう。
「いけね、もうこんな時間だ。親方におこられちまう。じゃあな、ぼうずたち」
またあわてて空き地から走って行ってしまった。
「名前、聞いてなかったね」
「うん。だけどこのあたりに住んでるんだ、またすぐに会えるよ」
健二が返事をしたときだった。
「住んでないわよ」
空き地に入って来たのはべべ子だ。健二たちが顔を見合わせる。べべ子は物知り顔で、ふたりの前に立った。
「あの人、うちの旅館に先週から泊まっているわ。名前は佐藤さん」
こんどばかりは、健二もべべ子の情報をだまって聞くことにした。
佐藤さんは青森からの出かせぎ希望者で、近くの金子シャーリングで働いている人だった。シャーリングとは、鉄板や合板を切ったり溶接することだ。
金子シャーリングは長屋三軒分ほどの、小さな町工場だった。住みこみの職人をさがしているが、親方の金子さんは近所でもきびしい人で有名だ。だから佐藤さんも、すぐにはやとわずに、うで前を見てから判断すると言ったそうだ。もし仕事がへたくそなら、青森へ追い返される。
健二は佐藤さんが小指を機械にはさんでしまったことを思いだして、ちょっと心配になった。まだはなしたりないべべ子がつづける。
「あの人には近づかないほうがいいわよ。町中のおとなが言ってるわ」
「なんだよ、それ」
つかみかかりそうになった健二を、タンちゃんが頭つきで止める。
「あの小指、やくざあがりか、チンピラだろうって」
「証拠があるのかよ」
「あるわ。裏通りの民謡酒場で毎晩お酒のんでて、いつも大きな声でケンカしてるんですって。酒場のおばさんが迷惑してるって、うちのお母さんにこぼしてたもの。早く町からでて行ってほしいって」
またべべ子お得意の、おとなのまねだ。
だけど、このうわさは健二も聞いたことがある。まさか、それがあのおじさんだとは知らなかった。
「それに、おとなのくせにベーゴマを持ってるなんて変よ。お父さんに聞いたことがあるわ、悪いおとなはベーゴマ勝負に、たくさんのお金をかけるんだから」
これでべべ子は言いたいことを、さいごまで言いきったようだ。おかっぱの髪を耳にかけるしぐさのあと、満足そうに空き地からでて行く。
健二がべべ子の背中にむかってさけんだ。
「今日のこと、また父ちゃんたちにつげぐちするんじゃないぞ。もししたら、このあいだのお寺のこと、ばらすからな」
べべ子があっかんべーをする。タンちゃんがおしりをたたいて見せた。
べべ子のすがたが見えなくなると、健二がにやりとわらう。タンちゃんも手のひらをひらひらさせて、顔をつきだした。ふたりはポケットから買ったばかりのベーゴマをだして、声をそろえた。
「よし」
「これは見つかってないね」
さっそくふたりはベーゴマの細工にとりかかった。
§ ションベン横丁で
学校から帰った健二は、ランドセルをほおりなげると玄関を飛びだした。ズボンのポケットには、ギザギザ細工が完成した『ナガシマ』が入っている。
学校の近くに住んでいるタンちゃんは、もう健二の家の前で待っていた。
しばらく歩いたふたりが立ち止まって、あたりを見まわす。だれも見ていないのを確認すると、健二がまだ花のさいていない朝顔のすだれをめくった。
すだれの裏からは、人がひとり通れるかどうかのせまい路地がはじまっていた。両側にはトタンの長屋のカベが、空をほそく切りぬいている。
子どもたちはこの路地のことを、ションベン横丁と呼んでいて、あまり近よらない。たしかに、すこしすっぱいにおいがしていた。
そのわけはかんたんだ。ここをぬけると裏通りだった。小さなスナックや民謡酒場など、お酒のみ屋があつまっている場所だ。どの店もせまくて、トイレもろくにない。よっぱらったおとなたちは、よくここで用をたしていた。
だから健二たちはなるべく塀に近よらないように、からだをななめにして歩いた。
そんな路地をぬけると、すぐにポンプ式の井戸がある。タンちゃんが鉄のポンプを上下に動かすと水がでた。健二は鼻をあらうように水をのんだ。つづいて健二がポンプ係をすると、タンちゃんも顔に水をかけた。
ふとい蛇口にくくられた手ぬぐいが、水をだすたびにふくらんでいる。そこで健二は、ベーゴマのヒモをぬらした。佐藤さんのやっていたツバのかわりだ。
ここは小さな袋小路だった。大通りからつづく路地のほかには、うしろのションベン横丁しかない。酒場街なので、昼間はだれも来ない場所だ。おまけに、お店の人たちは夜おそくまで起きているため、陽のあるうちはまだねむっている。どの窓もきっちりとカーテンを閉じていて、物音ひとつしない。
ここが健二の見つけた、おとなに見つからない場所だった。
さっそくふたりは、きのうのベーゴマをためしてみることにした。井戸の近くにあった洗面器をちょっと拝借して、健二が持ってきた合成のビニール布をかぶせる。動かないように麻ヒモでくくったら、ベーゴマの床のできあがりだ。
健二がナガシマにヒモを巻きつける。しめったヒモは、いつもよりもきつく巻くことができた。巻きのこったヒモを、右手の小指にからめる。床までの距離にあわせて、ヒモの長さを手のなかで調整した。
いよいよ初まわしだ。おもいっきり手首を返してナガシマを投げた。きつく巻かれたヒモが、ナガシマにものすごい回転をつける。
「すごいや」
タンちゃんも手を止めて、ナガシマを目で追った。
「よし」
健二が言った瞬間だ。
いきおいのついたナガシマは、床を通りこして地面に落下した。
どうやら形がいびつなナガシマは、コントロールがむずかしいうえに、いきおいがつけばつくほど、投げるときの手首にちからがいるようだった。
「床にのっかんなきゃ、対決もできないぞぉ」
タンちゃんがわらう。そのタンちゃんといえば、さっきからコンクリート道路にベーゴマをこすりつけていた。
そう、きのうおしえてもらった打倒アカール秘策のその②のまっ最中だ。ケットン(底をとがらせたベーゴマ)に勝つため、底をけずってコマの高さを低くしているのだ。
「こんなもんかな」
職人のようにベーゴマの底の砂をふき飛ばす。こんどはタンちゃんの番だ。タンちゃんは佐藤さんのまねをして、ヒモをペロリとなめた。
ところが、ためし投げどころか、うまくヒモが巻きついてくれない。底をまるめてしまったタンちゃんのコマは、巻いてもすぐにほどけてしまうらしい。それを見ていた健二が、さっきのお返しだ。
「ヒモも巻けないなら、対決できないからね」
ふたりは顔をつき合わせてわらった。
「猛特訓だ」
健二が言ったときだ。
「なんかくさくない?」
タンちゃんが鼻をこする。健二も気づいてむきを変えると、前の民謡酒場からけむりがでていた。
「火事だっ」
そう言うタンちゃんの口を健二がふさぐ。
『どうして。早くしないと』
タンちゃんが声をころす。健二がタンちゃんを井戸のかげに引っぱりこんだ。
「だって、ぼくたちがここにいたことが知れたら、またゲンコツものじゃないか」
小声で言う。
なぜここにいたかと聞かれたら、ベーゴマのことがばれてしまうだろう。うそがつきとおせるほど、父ちゃんたちだってあまくはない。
「じゃあどうするのさ」
タンちゃんの言うとおりだ。ここの民謡酒場のおばさんはひとり暮らしだ。そして耳が遠いことは、町内の人間ならだれもが知っていることだった。
「早く起こさないと」
そうはなしているあいだにも、けむりが大きくなってゆく。
「ああ、もう。だれか気づいてよ」
健二もイライラしはじめる。どの家のカーテンも、開く気配がない。
たまらずに健二が、おばさんの寝ている二階の窓に小石を投げた。けれど、小さな音をだすだけだった。
タンちゃんが洗面器からビニール布をはぎとった。井戸のポンプをおもいっきり動かして、洗面器に水をくみはじめる。足がガクガクしていた。
「早く起きてよ。死んじゃうよ」
白かったけむりの色が、変な色に変わってきた。
健二はぎゅっと目をつぶった。父ちゃんのおこった顔とゲンコツが見える。ベーゴマも、とりあげられた。やっぱりいやだ。
目を開けた健二は、おもいっきり歯をかんだ。そのまま、かれ木がささった植木ばちにつかみかかる。タンちゃんがおどろいたのと同時に、健二はけむりのでている窓に投げこんだ。
――ガッシャーーン!
すごい音といっしょに、ガラスの破片が飛びちった。健二の心臓も飛びだしそうだ。
またすぐに、あたりがしずかになった。
「だめだ、起きない」
「もしかして、もう……」
タンちゃんが泣きそうな声だ。
「バカ。耳が遠いだけだ」
そのとき、うしろの窓からカーテンの音がした。ふたりがあわてて窓の下にもぐる。
窓が開くのと同時の大声だった。
「うるせえな! しずかにしろやい。こっちはまだ寝てるんだ……っぞ!?」
焼き鳥屋のおやじ、ガンさんだ。真下のカベにへばりついている健二たちが、息を止める。
「おい、かかあ! 消防団に連絡だ。火事だっ! おばばはまだ、寝てるみてえだぞ」
走りながら言ってるようだった。もつれた足の音がドタバタと窓からはなれて行った。
健二とタンちゃんが大きく息をすう。そして、いそいでションベン横丁にかけこんだ。
走って出口の朝顔のすだれをめくる。同時にむこうからも人が入って来た。しこたま鼻をぶつけた健二は、ションベン横丁にしりもちだ。はずみでタンちゃんも将棋だおしになった。
「おっ、ぼうずたちか」
色白のベーゴマおじさん、佐藤さんだった。健二がぶつけた鼻をおさえて見あげる。
「ちょっと用たしだ。工場の便所より、ここがいちばんおちつくんだぁ」
佐藤さんが作業ズボンのチャックをおろした。
「ちょっと待って、ひっかかる」
「きったないなぁ」
健二たちはあわててすだれの外にでた。ほんとうに変なおとなだ。
――カンカン。
――カンカンカン。
火事を知らせる鐘がなりはじめた。きっとガンさんだ。
それを合図に、こん色の羽おりをひっかけた人たちが、それぞれの玄関からでて来た。このさきの消防団のつめ所にむかうのだろう。これでもう、だいじょうぶだ。
タンちゃんが健二の顔を見る。けれど、いつもの楽しそうな顔じゃなかった。
「どうして、あんなことしたの」
「しかたないよ。ぼくたちが見つかるわけにはいかない」
「でも。もし、なかのおばさんに植木ばちがあたっちゃったら」
「それより火事を知らせるほうが先だ」
健二もひかない。
「ぼくたちだって、悪ものになっちゃうよ」
タンちゃんがグローブ頭をぶんぶんとまわした。
「悪くなんかない。あれでガンさんが気づいたじゃないか」
「そうじゃないよ。ぼくが言いたいのは!」
タンちゃんが大声になった。健二の口もとんがる。
「言いたいのは、なにさ」
「う……、もういい」
タンちゃんが、おもいっきり背のびをした。両手をぐっとにぎって、健二の目を見る。
「もう。ぼく、知らない。健ちゃんがひとりで勝手にやったんだもん。ぼくは知らないよ」
「いいさ。あとでほめられるのだって、ぼくひとりだ。タンちゃんは勝手にすればいいさ」
「そうするもん。健ちゃんなんか知らない」
言うと、タンちゃんは走って行ってしまった。
行き違いに、むこうからなん人か走って来た。こんどは火事見物のやじうまだ。
一等賞はべべ子だった。べべ子はよこ目で健二を見ただけで、いそがしそうにすれ違って行った。
にぎやかだった町内も、夜にはいつものしずかな路地裏にもどった。
夕ごはんどきの松本家では、健二が魚の干物と格闘中だ。三人でちゃぶ台をかこんでいた。父ちゃんは今日も泊まりの仕事だ。母ちゃんが、慎一兄ちゃんのおかわりをよそっている手を止めた。
「このからっ梅雨に、火の見の半鐘がなりだすんだからね、びっくりしたねぇ」
「どこが燃えたの」
中学生になって帰りがおそくなった兄ちゃんは、のんきに言う。それよりも早くおかわりがほしそうな顔だ。
「燃えたなんて、ぶっそうなこと言うんじゃないよ。さいわいボヤですんでよかったんだから」
母ちゃんがごはんどんぶりを兄ちゃんの前におく。健二は干物をほじくりながら、心のなかでホッとした。
「じゃあ、民謡酒場のおばさんは無事だったんだね」
「おや健二、おまえよくその場所だって知ってるね」
「あ、えっと。みんなが走ってたから、聞いたんだ」
健二があわてる。ふと母ちゃんがわらいはじめた。
「それがねえ、おっかしいのさ。おおごとにならなかったから、わらい話なんだけどね」
焼き鳥屋のガンさんが、酒場のドアをこじ開けて入ってみると、おばさんは店の一階にいた。タタミにころがって、大いびきで寝ていたらしい。その足元の火鉢と座ぶとんから火がでていた。
あとから入ってきた町内の消防団が十人。全員水バケツをかかえて来たけれど、はじめの水だけで火は消えたそうだ。おばさんは『ひゃ、つめたい!』と言って目をさましたとか。
「ガンさんが早くに見つけてくれたから、わらい話ですんだのさ。しかし、火事んなかで寝てて、つめたいはないよねえ」
聞いてた兄ちゃんもあきれ顔だ。
「あそこのおばさんも、もうひとりぐらしはムリだよ。このあいだなんか、あいさつしたって全然聞こえてないみたいだったし、耳もいよいよ遠くなってるね」
また兄ちゃんがおとなみたいな口ぶりで言った。負けずに健二も口をはさむ。
「なんで座ぶとんまで燃えちゃったの」
「さあねえ。今ごろは交番と消防署が調べてるだろうよ。あんたも気をつけるんだよ。火はこわいからね、みんな持っていかれちまうんだ」
母ちゃんにおこられているような気分だ。外でなにかがおこると、たいていの場合、話のさいごはお説教みたいになる。いつも健二が口をとがらせて終わるのが、毎度のことだった。
「うん、わかったよ」
けれど今日だけは健二も素直に返事をした。
母ちゃんはめずらしそうな目で兄ちゃんを見る。兄ちゃんが健二のおでこに手をあてて、熱をはかるふりでからかった。
母ちゃんたちは知らないだけだ。あんなこわい思いは、もうしたくない。健二はお茶わんからのぼるゆげを、じっと見つめていた。
そして、ナガシマがなくなっていることに気づいたのは、銭湯に行ったときだった。




