第7話「また、ここで」①
第七話「また、ここで」
§ コマゴメ
公園のお山が白っぽくなってきた。
枝だらけだった木々に、小さな新芽がつきはじめてきた合図だ。これがはじまると、あっというまに、お山に春がくる。
三月になった。
健二ももうすぐ六年生になる。新しい季節のはじまりだ。
なのに、ただいま『家出中』だった。
ここはタンちゃんの家。
玄関からあがってすぐの部屋には、座卓やふとんをかさねた基地ができあがっていた。アルミの洗面器をかぶった健二が、基地の前に立っている。タンちゃんは基地のなかから、心配そうな顔で、こっちを見ていた。
それにうなずいてから、健二は玄関にむけて言った。
「ぜったいに帰らないよ」
目の前にいるのは、健二の母ちゃんと慎一兄ちゃんだ。母ちゃんは、いつものヤレヤレの顔をしている。
さっきから、おなじことのくり返しだった。
「ほら、帰るよ」
「帰らない」
「なにをバカやってるんだい。坂本さんにも、ごめいわくだろ。帰るよ」
「ぜったいに帰るもんか」
「健二!」
「いやだ。ぼくだけ、のけものにして。みんなキライだ」
はじまりは、きのうだった。
急に父ちゃんから、引っ越しすることを聞かされた。けれど急だったのは健二だけで、母ちゃんや兄ちゃんは、もう知っているような顔だった。
父ちゃんが言った。
『父ちゃんの仕事の都合でな。上野をはなれて、駒込に行く。ここをひきはらって、官舎に引っ越すことになった。おなじ東京だが、健二には転校してもらわないといけない。すまないな』
健二だけが知らなかった。
だいじなことなのに。
コマゴメなんて、どこにあるのかも知らないのに。
学校が変わっちゃうのに。
タンちゃんが、みんなが、いなくなっちゃうのに――
あとは声にならなかった。
泣いて、あばれて、止めに入った兄ちゃんの顔を、たぶんひっかいて、そのままくつもはかずに、家を飛びだした。
タンちゃんの家についたときには、顔もくつ下もぐちゃぐちゃだった。あとから追いついてやってきた母ちゃんは、タンちゃんの母ちゃんたちと話をしていた。
ここにも来たけど、すでに健二はできあがったばかりの基地のなかにもぐりこんだあとだった。きのうはそこで、タンちゃんといっしょにねむった。
今日だって帰るつもりはない。
明日だって、これからもずっと帰らない。
「コマゴメなんて行かない。なんで上野をはなれないといけないのさ」
「仕事の都合だって、きのう父ちゃんから聞いたろ」
母ちゃんが言った。それはわかっている。知りたいのは、そんなことじゃない。
「なんで父ちゃんは、引っ越しする仕事なの。タンちゃんやべべ子の家は、引っ越さないのに」
「なんだい、それ」
母ちゃんの声が変わった。
兄ちゃんがあわて、健二と母ちゃんのあいだに走る。近づくと、兄ちゃんのほっぺたのみみずばれが、まだ赤いのがわかった。兄ちゃんも言う。
「健二、もういいだろう。帰ろう」
「兄ちゃんもキライだ。ずるいよ、兄ちゃんばかり。転校もしないし。いつだって、ぼくにはナイショの話だって知っててさ。急におとなの味方になっちゃって、ぼくだけ、のけものだ!」
「転校しないのは、中学生だからだ。いまだって、電車で通学しているし、たいして変わらない。けれど健二はまだ小学生だ、しかたないじゃないか」
「それがずるいって、言ってるのに」
「わかった。もうおよし、ふたりとも」
ここでまた母ちゃん。さっきよりも声がしずかになった。
「健二、いつまでここにいるつもりだい」
「ずっとだよ」
「なら、坂本さん家の子になるのかい」
「それでもいい」
「どうするのさ」
「そうだ。父ちゃんが仕事を変えればいいんだよ。神社はムリだけど、べべ子のところみたいにさ、旅館とか、みやげもの屋でもいいな。うん、そうすればいいんだ」
「あんた。本気で言ってるのかい」
「うん。そうなれば、もう引っ越ししなくていいし、母ちゃんだって、上野はいいところだって言ってたから、名案だよ」
「あんたって子は……。わかった。もう帰って来なくていい」
いっしゅん母ちゃんの声が強くなった。これはゲンコツのときの声だったから、健二は反射で首をすっこめた。
けれど今日はゲンコツが落ちてこなかった。
なにもないまま母ちゃんは、タンちゃんの母ちゃんたちのいる部屋へ行ってしまった。
――コチン。
かわりに小さく兄ちゃんのゲンコツが落ちてきた。ふいをつかれて、健二がめんくらう。タンちゃんも基地からでて来た。
兄ちゃんは、いちどタンちゃんににこりとしてから、また健二のほうをむいた。こんどはしずかにはなしはじめる。
「母ちゃんな、今日は健二の着替えやパンツも持ってきてくれたんだぞ。それにランドセルまで。明日は月曜で学校だろ。もし健二が今日も帰らないって言ったら。あとひと晩だけお世話になりますって、坂本さんにお願いするつもりだったんだ。転校したら、もういっしょに遊べなくなるからってね。それなのに」
「なんでぼくばっかり、しかられるのさ。悪いことなんて言ってないからね」
くやしなみだが健二の目にたまってくる。兄ちゃんはタンちゃんの頭に手をのせた。
「三治くん、今夜も健二のことをよろしくな」
「うん。ずっとでもいいもん」
兄ちゃんはにがわらいだった。それから母ちゃんとふたりで帰って行った。
のこった健二は、また基地のなかに入った。そこへタンちゃんもグローブ頭をつっこんでくる。座卓とふとんでかこまれているけど、屋根がわりのマットレスには懐中電灯をぶらさげてあるから暗くない。
タンちゃんが健二に頭つきをしたせいで、てんじょうの懐中電灯がふりこのようにゆれた。
一直線な光が、しょんぼり顔の健二と、ふとんの花がらを交互にてらしていた。
§ 暗い窓
つぎの日は、タンちゃんの家から学校に行った。転校のことは、まだクラスのみんなには、つたえていない。
だから、みんな平気な顔をして、六年生のクラスわけの話でもりあがっている。
あとすこしで、三学期が終わる。
母ちゃんたちだって、がまんの限界があるに違いない。そうしたら、ぼくはどうなる。健二は自分の席なのに、イスのすわりごこちが悪くなったような感じがした。
下校のチャイムがなって、健二はゆっくりとランドセルを持ちあげた。そこへタンちゃんも帰りじたくで近よってきた。
「健ちゃん、今日もうちの基地に来るでしょ。きのうの悪漢探偵のつづきをしようね」
しばらく健二はだまったままだった。やがて、タンちゃんを見てわらった。
「よしきた。今日はつかまらないぞ。タンちゃん家は、かくれるところがいっぱいあるからね。悪漢役が楽しいんだ」
「うん」
「もうここからが勝負だ。三治探偵団のしょくん、わたしをつかまえることができるか」
おおげさに手をふりあげる。
「逃がすものか、大悪漢め。今日もタイホだ」
走る健二を、タンちゃんが追いかけた。
陽のかたむいたろうかに、ふたりのかげがのびる。じゃれつき、ふざけた形になるかげたちは、しばらく学校をでなかった。
もう足元がうす暗くなったころ、やっと校門をでた。タンちゃんの家へむかう健二の足が止まった。
「どうしたの」
タンちゃんが顔をのぞく。
「うん。ちょっと家をのぞいてからさ、それから行くよ。タンちゃんはさきに帰ってて」
「わかった。すぐに来てね、待ってるよ」
「うん」
健二はゆっくりとうしろをむいた。とは言っても、家に帰りたいわけじゃない。まだ気持ちだって、どうしていいか、わからない。
けれど、きのう母ちゃんが言った。
『わかった。もう帰ってこなくていい』
この声と、そのときの母ちゃんの顔が、ずっと目の前に引っかかっている。だから、ほんのちょっと、家の前を通るだけだ。
この時間なら、もう母ちゃんは夕ごはんのしたくをはじめているはずだ。父ちゃんと兄ちゃんはまだ帰っていないだろうから、見つかる心配はない。健二はゆっくりと家にむかった。
帰り道さいごの路地を左にまがると、まず目に入るのは、すこしさきにある阿部旅館のかんばんだ。もう暗いから、電気がついている。白くぼんやりと、あたりの垣根も照らしていた。
それのななめ向かいにあるのが、三軒つながった長屋の建物。そこのまん中が健二の家で、模様ガラスの玄関の前には、商店街のまるい電灯がたっている。
いつもの風景、いつものにおい。
健二は音をたてないように、ゆっくりと歩いていた。もうすぐ家の前だ、母ちゃんの包丁の音が聞こえる。
と、おもったのに。
真っ暗だった。
いつもなら電気で黄色く光っている台所の小窓も、そこにうつる母ちゃんのかげもない。黒い玄関には、外の電灯が反射していた。
両どなりの窓は明るいのに、まん中だけが、光と人の気配をなくしていた。
「母ちゃん!?」
さけんで健二は、いきおいよく玄関の引き戸を開けた。くつがなかなかぬげなくて、片ほうがまだ足にひっかかっている。それでも茶の間にむかった。
「兄ちゃん?」
暗い茶の間には、だれもいない。
「母ちゃん!」
流し台をふり返ったけれど、おなじだった。
「父ちゃーん。わーーん!」
この家にはだれもいない。
健二はタタミにすわりこんだ。
『もう帰って来なくていい』
『坂本さん家の子になるのかい』
声が頭のなかから聞こえてくる。
「わーー!! わーー!! 母ちゃーーん」
大声をはりあげた。声といっしょに、なみだと鼻水があふれてくる。
「わーーん、わーーん」
だんだん頭もいたくなってきた。ごしごしと頭をかきむしってから、目もこすった。
すると、ちゃぶ台の上に小さな紙が見える。健二はすわったまま手をついて近づいた。
うす暗くても、外からとどく電灯の光で文字は見えた。
『お願いしてあるから、夕ごはんは阿部さんのところで食べさせてもらいなさい』
母ちゃんの字だ。
おいていかれてしまった。
健二をのこして、みんなはコマゴメに行ってしまった。
「ほんとうにおいてっちゃうなんて、ひどいや」
でっぱなしの鼻水が、口に入ってしょっぱい。
「ぼくも行かなきゃ」
健二は立ちあがった。
「コマゴメって、どこだ」
わからない。けれど電車で行けるはずだ。
健二は二階にあがって、あの貯金箱をひっくり返した。モニカと動物園に行ったとき、まだ百円くらいのこっていたはずだった。健二はちらばった十円玉をかきあつめて、ズボンのポケットに入れた。
玄関を開けたとき、外からおなじタイミングで戸を開けたべべ子とぶつかりそうになった。
「うわっ」
「キャッ」
べべ子がおおげさにのけぞる。それにも気づかないで、健二がよこをかけぬけた。すぐにべべ子も声をだす。
「ちょっと健ちゃん、待ちなさいよ」
「いまいそがしいから、またな」
「もう。声がしたから、呼びにきてあげたのに。なによ」
べべ子が健二のシャツを引っぱった。
「あらら、健ちゃんの顔、ぐちょぐちょじゃない」
「うるさいぞ、べべ子。はなせよ」
なぜかべべ子の口が、ほほえむようにまがった。
「だいじょうぶよ。慎一兄さんだって、すぐに帰って来るもの。心配いらないわ」
まるでお姉さんっぽく言う。
「来るもんか」
「え?」
「兄ちゃんも帰って来ない。みんな帰らない」
「ちょっと、なに言ってるの、健ちゃん。そんなことな……」
――バン。
手をふりほどいた。べべ子がびっくり顔になる。なめらかな口の動きも止まった。
「べべ子にわかるもんか。兄ちゃんばっかり。きょうだいのいないべべ子に、わかるもんか!」
「なっ……」
言葉のかわりに、べべ子の髪の毛がブルブルとふるえだした。キイキイ声の超特急クラスの前ぶれだ。健二がべべ子のわきをぬける。
すでに商店街を走っていた。うしろでべべ子がさけんでいるけれど、もう聞こえなかった。
§ 知らない電車
上野駅についたころ、あたりはもう夕ぐれから夜のはじまりへと変わっていた。改札口の電気がまぶしい。それがよけいに心臓をドキドキさせた。
ひとりで電車にのったことなんてない。健二はキップ売り場に立った。ポケットからだした十円玉のかたまりを、窓口の石のテーブルにのせる。
「子ども一まい、コマゴメまで」
「はい。十五円ね」
窓口のおじさんが、おつりの五円玉とキップをだしてくれた。健二はのこりの十円玉をポケットにしまった。
キップがあれば改札口はかんたんだ。いつも外からながめていたリズミカルな改札鋏で、すぐにパチンとやってもらえた。
ここからが問題だった。
健二が知っているのは、改札口の外だけだ。駅のなかは、もっと広い。どこの線路がコマゴメにつづいているのか。ホームがいくつあるのかさえ、わからない。おまけに、会社が終わる時間らしくて、おぜいの人でむこうのカベも見えなかった。
健二は耳をすませた。まわりから、たくさんの声が聞こえてくる。
――ザワ、ザワ。
――ザワ、……マゴメ。
だれかが言った。
健二はあたりを見まわした。男の人と女の人が、はなしながら歩いている。きっとあの人たちだ。健二はいそいであとを追いかけた。
いくつもの乗り場と通路を通過して、階段をのぼる。ホームに入ってきた電車は、見おぼえのある色だった。
とたんにホームが人だらけになる。電車からおりてきた人、これからのりこむ人、あちこちでおし合いがはじまった。さっきの男の人と女の人も見うしなってしまった。この電車にのるのか、それとも。
ぼーっと考えている健二は、ホームのじゃま者だ。
「おいぼうず。のるのか。のるなら早く行け。のらないなら、どけよ。こっちがのりおくれる」
背広を着たおじさんに背中をつかまれた。
――ジリリリリ。
発車の合図がなる。おじさんは健二をおしのけて、のり口に走った。つられて健二も走る。そのあとからも、なん人かのりこんだところで、電車のドアが閉まった。
なにも考えられないまま、健二はからだがつぶされそうなくらいギュウギュウづめの電車にのった。
これはどこ行きなのか。コマゴメは。
こんなにもたくさんの人がまわりにいるのに、健二はひとりぼっちだった。
母ちゃん。
いっしょに電車にのるときは、いつも楽しかった。デパートの帰りに、屋上でアイスクリームを食べた。はじめて銀色のスプーンで食べたアイスクリームは、なんておいしかったろう。おばあちゃんの家に行くときには、なん回ものりかえた。いろんな電車や列車を見つけて、兄ちゃんとおしえっこして競争した。
なのに今日はだれもいない。
スピーカーから、車掌さんの声がした。これからの駅をおしえてくれているのに、まわりの声がうるさすぎて、よく聞こえない。わからないまま、スピーカーはしずかになってしまった。そして電車はつぎの駅についた。
また人のながれといっしょに、外にだされそうになる。とっさに健二はからだをかたくした。みんなと反対に、電車の奥へと足をふんばる。
「チェッ」
さっきのおじさんが、健二の耳元で声をだしてからでて行った。
健二の足は石になった。また電車は動きだす。手すりにもつかまれないまま、人と人のあいだにはさまっていた。
――ザワ、ザワ。
――…ゴメ。ノリカエ。
――ザワ、ザワ。
だれかがはなしている。のりかえ? この電車はコマゴメには行かないのだろうか。それとも、べつの話? あいかわらずスピーカーからの声は聞こえづらい。不安な気持ちが健二にイライラとドキドキをつれてくる。
どうしようか、とおもったとき、また電車がとまった。たくさんの人が、でたり入ったりのくり返しだ。いつのまにか、奥のほうにおしこまれてしまった。あせと香水のにおいがまざっている。
おもいっきり息をすいたいけれど、よけいに気持ち悪くなりそうだ。まるであのときの地下の空気みたいに。
黒いおじさんは、地下から外にでた。自分で、でた。
勇気をだして。
自分でだれかに聞こう。健二はつぎの駅でおりた。
発車の合図がなって、電車は行ってしまった。ホームにいた人たちは、いつのまにかすくなくなっていた。健二ははなしかける人をさがす。
はじめての駅、むこうに見える景色も知らない、よその町だ。
健二はホームを歩いた。
大声で歌をうたっている人がいる、よっぱらいのおじさんだ。
いそがなくちゃいけないのに、雑音ばかりで、なにも考えられない。健二の口がぐちゃぐちゃに動いた。
「……う、るさい」
「あん?」
小さかったはずの健二の声に、よっぱらいのおじさんが反応した。
「よおー、ヒック。ぼうず、ひとりか。いけないねぇ、もう夜だぞ、家へけえれ。ヒック」
健二にからんできた。からだじゅうから、お酒のにおいがする。健二は知らん顔をしてよこをむいた。すると肩を引っぱられた。
あやうくころびそうになる。ホームから落ちたら大変だ。逃げようとした足がもつれて、ホームにひざをついてしまった。
まただんだんと人がふえてきて、ホームについた健二の手の上を、いくつかのくつが通り過ぎるようになった。でそうになるなみだは、手のひらをグーにしたらがまんできた。
「きみ、だいじょうぶかい」
目の前に白い手袋がひらいた。ここの駅員さんだった。
健二がゆっくりと、その手をつかむ。そしてやさしく立たせてくれた。
「ごめんよ。気づくのがおそくなってしまって。ケガはないかい」
「はい。ありがとうございます」
「おや、きみは。たしか松本のとこの、えっと……健二くん、だったかな」
「はい?」
「びっくりだなあ」
びっくりはこっちだ。そういえば、見たことのある顔だった。
父ちゃんは家では仕事の話はしないけれど、この人だけは、なん度か家につれて来たことがある。おなじ学校からの友だちだって、言ってたっけ。
「ひとり? お母さんはいっしょなのかい」
「あの、コマゴメはどこですか?」
「駒込? 山の手線の? まいったなぁ、ここはもう埼玉の入り口だよ。線をまちがえたみたいだね」
「えっ」
「ちょっと待ってて。おじさんももうすぐ交代時間で会社にもどる。いっしょに帰ろう」
急にいそがしそうにはなしはじめたのは、電車が近づいた合図の信号がついたからだった。
それからしばらくして、健二はおじさんと電車にのった。見おぼえがあるはずだ。埼玉のおばさんの家に行くときの電車の色だった。
こんどの電車はさっきよりもすいていて、おじさんとならんでつりかわをつかむことができた。ふと、おじさんがおもいついたような顔をする。
「そうか。駒込か。おもいだしたよ」
「?」
「あそこの建物は新しくて、風呂もあるんだって、きみの父さんが言ってたな。安全でいい町らしいよ。そうか、引っ越すことになったのか。よかったな」
「よかない」
「銭湯や国鉄の借り風呂じゃなくて、自分ちの風呂だぞ。きっと冷蔵庫だって、電気式だ」
「……」
「なあ健二くん。駒込より手前の駅でおりていいかな」
「だめだよ。ぼく、いそいでるから。もうずいぶんと時間かかっちゃったし、早くいかないと」
「すぐだから。ほらつぎだ」
タイミングよく、電車のブレーキがかかる。健二は片足にちからを入れて、つりかわにぶらさがった。
しばらくしてドアが開く。
「さあ、おりよう」
「でも」
背中をおされたまま、健二は友だちのおじさんとホームにおりてしまった。
また知らない駅だった。
さっきよりもにぎやかなのは、ベンチのまわりでさわいでいる、男子学生の集団のせいだ。どこかで赤んぼうも泣きはじめた。
逆行きの電車の時間が近いのか、ホームの人がどんどん増えてくる。赤んぼうの声に、みんなはにがいお茶をのんだときみたいな顔をして歩いていた。あのわかいお母さんは、もうひとりの子どもの手もにぎっている。手がたりなくて、赤んぼうをあやせないみたいだった。
友だちのおじさんがかけよろうとしたとき、だれかのカバンが健二にあたった。
――ドン。
また健二がひざをつく。
「だいじょうぶかい」
すぐにおじさんが、もどって来てくれた。
「もういやだ。早く行かせてくれよう」
健二がうなるように言った。
すると、さっきのわかいお母さんが、両手で赤んぼうをあやしているのが見えた。いつのまにか、泣き声もやんでいる。もうひとりの子どもは、駅員さんが手をつないでくれていた。友だちのおじさんは、まだここにいるから、この駅の駅員さんで――
「父ちゃん」
駅員さんは父ちゃんだった。知らない子どもと手をつないで、なにかはなしかけているようにも見える。
『もう帰って来なくていい』
また母ちゃんの声が聞こえた。
「わらうな……」
健二の顔があつくなった。
「父ちゃん、わらうな。手をはなしてよ」
言ったのと走ったのは同時だった。
「健二?」
気づいた父ちゃんが、こっちを見る。そこへ、つっこむように健二が飛びこんだから、父ちゃんは手をつないでいた子どもをかばって、背中をむけた。父ちゃんのうでのなかで、子どもがぽかんとしている。それがよけいに気にいらなかった。健二が大声をだす。
「はなれろ。ぼくの父ちゃんだ」
「やめないか、健二」
父ちゃんが小声で言った。そこへさっきのお母さんが声をかけてくる。
「ありがとうございました。おかげさまで、やっとねむってくれました」
さっきまで泣いていた赤んぼうは、背中におんぶされていた。父ちゃんから子どもの手をうけとると、健二ににこりとした。
「こまっていたの。赤ちゃんは泣きやまないし、この子は手をはなすと、すぐどこかへ行ってしまうでしょ。悪い人ばかりじゃないかもしれないけれど、やっぱりぶっそうだもの。手をはなせなかったの。そしたら、すぐに駅員さんが声をかけてくださって。ほんとうにうれしかったわ」
「あの……」
「やさしいお父さんね」
それからもういちど父ちゃんにお礼を言ってから、行ってしまった。
健二は父ちゃんを見た。
父ちゃんの右手はグーのかたちをしていたが、さすがにここで制服を着たままゲンコツは落とせないらしい。小さな声が聞こえるだけだった。
「なぜここに」
「いまの電車で来た。コマゴメに行くんだ」
「はあ? あれは埼玉行きだぞ」
「うん。だからもどって来た。父ちゃんの友だちのおじさんといっしょに。あれ? おじさんがいない」
父ちゃんがため息をつく。
「まあいい。あとでゆっくり聞こう」
ここで父ちゃんが上を見あげる。電車が近づいてきた合図の信号がついたのだ。
「もうすぐ仕事が終わるから、あそこのベンチで待っていなさい」
「うん」
健二は言われたとおりにうなずいた。そこへ電車が、風といっしょに入ってくる。すぐに父ちゃんは拡声器を持ちあげて、ホームじゅうに声をひびかせた。
どんなにさわがしくても、よくとおる、はっきりとした声だった。
電車のドアが閉まって、父ちゃんがまっすぐに立った。指のさきまで、ぴんと伸びた白い手袋が、安全確認をする。一直線のからだがキビキビと動いていた。
電車が走りだして、さいごに車掌さんと敬礼をする。そのあともまだ、父ちゃんはまっすぐに立ったまま、走りさった電車と線路を指さし確認していた。
健二はベンチにすわったまま、ただ父ちゃんのまっすぐな背中を見ていた。
「かっこいいだろ。あれがぼくの父ちゃんだ」




