第5話「東京オリンピック」②
§ カラーテレビと動物園
つぎの朝、タンちゃん探偵からカラーテレビ工事の報告を聞いたのは、校門の前だった。
「おはよう。工事はどうだった」
「それがさ。小人トンネルもほらなきゃ、ペンキ工事もなしだよ」
タンちゃんが両手をあげて、おおげさにがっかりポーズをしてみせる。
「ならどうやって、電気からテレビに大鵬や長島をはこぶのさ」
「東京タワーをつかうんだって。電気屋さんが言ってたよ」
「東京タワー? あんな大きなものが動くもんか。それに、色つきの電気だぞ」
「ぼくにだってわからないよ」
タンちゃんがグローブ頭をかきむしる。
「ラジオとおなじよ。見えない電波だわ」
高い声がして、べべ子が通りすぎた。なぜか顔は、ふてくされている。タンちゃんがそっと健二の耳に近づく。
「きのうさ、あれだけみんながあつまったのに、工事はあっというまに終わっちゃったんだ。かべに電気の線をつけただけだったんだもん。みんながっかりでさ……」
「聞こえてるわよタンちゃん」
べべ子がキイキイ声をあげる。そしてげた箱から上ばきをとると、ばん、とすのこに落とした。
「工事だけなのに、みんながかってにさわいで来たのじゃない。カラーテレビがくるのは今日なんだし」
「うん。こんどこそ、ワクワクするよね」
調子よくタンちゃんが言う。けれど、くつをはきかえたべべ子は早歩きで行ってしまった。
「べべ子めー。それで、健ちゃんのほうはどうだったの」
タンちゃんが背中をくっつけて来る。
「うん。マルコはもともとのら犬だからね。もう、かけまわりたくって大変だよ。だから、あみだ堂のうらまで散歩してみた。あそこなら見つからないからさ」
健二がはなすと、こんどはタンちゃんがべべ子みたいな声をだした。
「ええーっ!? あの場所は、ふたりだけの秘密なのに。なんでほかの人に、おしえちゃうの」
「ごめん、ごめんって。けど、モニカはここの子どもじゃないし、おミソでいいだろ。言ってないのとおなじさ」
「うーん、そうかな」
タンちゃんが口をへの字にする。
「そうだよ」
もういちど健二が言った。タンちゃんがにこりとする。
「そうだね。どうせすぐ、いなくなるんだから、透明人間のおミソだ。だけどもう、秘密の場所をもらしたら、ダメだよ」
「うん。わか……った」
ぼおっとしてこたえたのは、今のタンちゃんの言葉にひっかかったから。
モニカがいなくなる。
そういえば、モニカはいつ外国に帰るのだろうか。父さんの仕事で日本に来たと言っていたけれど、いつまでいるかは、聞いたことがなかった。
学校が終わって家に帰った健二は、洋服タンスの上から空きカンをおろした。
健二の貯金箱だ。
毎月百円のおこづかいと、夏休みにばあちゃんの家でもらったおこづかいののこりが、まだあったはずだった。今日は動物園に行く約束をしていた。
健二はいちまいずつお金をかぞえて、チリ紙でくるんだ。モニカとふたり分だ。
つぎにランドセルをひっくり返して、中身を全部たたみの上に落とした。そこまでやったところで、玄関からタンちゃんの声だ。
「健ちゃーん」
「はーい。今行くよ」
からのままのランドセルを背おって、健二が玄関をでる。これはタンちゃんのアイディアだった。
動物園はマルコをつれて入れない。だから、『ランドセルにかくして行く作戦』だ。
モニカは空き地で待っていた。マルコが健二たちを見て土管にもぐる。それをタンちゃんが追いかけた。タンちゃんがマルコをだっこして、土管からでて来た。
モニカの前で、背のびをしてみせる。
「坂本三治です。よろしくね」
「短足タンちゃんだよ。土管のなかは、マルコとおなじくらい得意さ」
健二が言いなおして、マルコのまねをした。すぐにタンちゃんが健二のおなかへ、頭つき攻撃だ。手のなかのマルコの頭も、健二の背中にこすりつけた。
「見たか、忍法ダブル頭つきだ」
「ふいうちとは、ひきょうなり。無念だ」
健二がわらいながらたおれた。タンちゃんがマルコを高く持ちあげる。
「やったぞ。ぼくたちの勝利だ」
タンちゃんもわらう。見ていたモニカは、急にはじまった忍者ごっこに、茶色い瞳をまんまるにしてわらっていた。
タンちゃんがマルコをモニカに返して言う。
「あみだ堂の秘密の場所のことはナイショだよ。ぼくらも、モニカの秘密はナイショにしておくからね」
「ひみつ? ないしょ」
「うん」
タンちゃんが人さし指を口につけて、シーと言った。モニカがわらってうなずく。
「はい。これ、ないしょのしるし、です」
モニカも人さし指をだした。
「すごいや」
タンちゃんも大よろこびだ。健二がマルコの首からヒモをほどいた。
「よし、行こう」
「はい」
モニカがこたえる。タンちゃんも健二に言った。
「ぼくも行かなきゃ。早くしないと、カラーテレビに追いこされちゃうもんね。健ちゃんたちも、きっと来てね」
「……」
健二がだまる。
「ほんとうは見たいくせに。べべ子のことなんか、気にしない。それよりカラーテレビの勝ちだよ」
「うーん」
「待ってるよ。健ちゃんたちの場所取りは、ぼくにまかせてね」
いじっぱりの終点を見つけられない健二に、タンちゃんが明るく言ってくれた。
空き地をでた三人は、金物屋の前で立ち止まった。ここからタンちゃんは、あの近道で阿部旅館にむかう。タンちゃんが健二のランドセルを、ぽんぽんとたいた。マルコが入っている。
「マルコも、おなかいっぱいになったら、おいでね。そしたら、いっしょにカラーテレビを見よう」
言ってから、タンちゃんが金物屋に入った。モニカはふしぎそうな顔だ。
「オーケー、だいじょうぶ。飛脚の近道だよ」
健二が言った。
*
タンちゃんが阿部旅館についたとき、うわさを聞きつけた近所の人たちまで、玄関からあふれていた。まだカラーテレビは到着していないようだった。
「うわあ、これは大変だ」
グローブ頭を人のあいだにすべりこませる。短い足と小さなからだを、うまくくねらせて進んだ。なんとかロビーにつくと、すでにベーゴマ星人タケシがジュータンの上にあぐらをかいていた。
「おそかったね。健二は?」
「あとで来るよ」
タンちゃんがベーゴマ星人のよこにすわった。
きのうの工事で新しくなった電源の前だけが、ぽっかりとあいている。それをかこむように、べべ子やクラスのみんな、それに近所のおじさんおばさんたちがすわっていた。
*
健二とモニカは動物園の入り口についた。大きなかんばんをモニカが見あげている。健二はキップを二まい買ってもどった。
「マルコのぶんはないからね、なかでおとなしくしてるんだぞ」
背中のランドセルに言ってから、入り口のゲートにむかった。
ゲートには、制服を着たお兄さんが立っていた。ふたりぶんのキップをちぎりながら、モニカににこりとする。
「Hello.Welcome Tokyo」
もうすぐオリンピックだからだろう。外国のお客さんもおおぜい来ているようで、お兄さんが緊張しているのがわかった。モニカもあいさつを返す。
「Hello.×××××」
お兄さんのおでこからは、冷や汗がでてきそうだ。それでも顔はにこにこしていた。しばらく歩いて健二がひとこと。
「おとなって大変だな。あれじゃあ、秘密の暗号ことばだ」
モニカがわらう。ランドセルのなかで、マルコも『ワン』とないた。
「そうだな。早く食べに行こう」
「どこ、たべる、ますか」
「こっちだよ。この奥にふれあい公園がある。ヤギやウサギのおりでさ、ぼくたちもなかに入れるんだ」
以前来たときに、そこで犬を見たことがあった。ベテランののら犬のようで、ヤギといっしょにエサ箱に顔をつっこんでいたのを、健二はおぼえていた。
*
阿部旅館では、大きな歓声とはくしゅがあがっていた。
たった今、カラーテレビが到着したのだ。電気屋さんとべべ子のおじさんが、茶色い箱をしんちょうにはこんで来た。あれだけ大混雑していた人たちが、ふたりとテレビの箱に道をあけた。入場行進のようで、ロビーにいた子どもたちが手をふってむかえている。
カラーテレビがジュータンにおろされると、さっきよりも、ぐんとみんなの押し合いだ。つんのめったタンちゃんの頭が、べべ子のおしりにあたった。いつもなら飛んでくるキイキイ声も、今はない。べべ子も電気屋さんの動作、ひとつひとつに夢中だった。
やがて準備がおわって、べべ子のおじさんがカラーテレビの前にひざをついた。
――ボオーン、パチ。
聞いたことのない音がして、黒かったカラーテレビの正面が明るくなる。さっきまで大歓声だったロビーは、柱時計の音が聞こえるほど、しずかになっていた。
――カチ。
――カチ。
――カチ。
ふりこの音に合わせて、すこしずつカラーテレビが青白い色に変わる。ぼやぼやと動いていたかげが、人のかたちになり、ラジオで聞いたことのある声がしてきた。
「オリンピックニュースだ!」
ベーゴマ星人が声をあげる。そしていっきに歓声がひろがった。みんなのはくしゅのなかで、べべ子のおじさんもうれしそうに頭をさげている。
「タケシがさわぐから、カラーテレビの音が聞こえなくなっちゃったじゃない」
キイキイ声のもどったべべ子が、おかっぱ髪をゆらしてうしろをにらんだ。けれど、ほっぺたはピンク色だ。タンちゃんが言った。
「うへへ。カラーテレビ、バンザーイ」
「バンザーイ」
ベーゴマ星人も言う。みんなも両手をあげて、バンザイの大合唱になった。
*
こちらは動物園。
ふれあい公園についた健二は、ランドセルからマルコをだして両うでにかかえていた。オリのなかでは、ヤギが地面の草を食べている。すみっこにいたウサギが、健二の気配に気づいて逃げて行った。
中央のエサ箱には、茶色いつぶのエサと、野菜やくだものがまだ、のこっている。
「モニカはここで待ってて」
言いのこして、健二が腰の高さほどの木さくに手をかける。かんぬきでとめている小さなトビラを開けて、なかに入った。
公園には、ほかに小さな女の子とお母さんの親子づれがいる。お母さんは女の子を見ているので、健二のシャツの下で動いているマルコには、気づいていないようすだ。
それを確認してから、健二はゆっくりとエサ箱に近づく。そのあとをヤギがついてきた。
「だめだよ。ぼくはエサは持ってないんだから」
手でヤギをはらう。モニカの顔が心配そうだ。
「ケンジ」
「オーケー、だいじょうぶさ」
小声で返事をした。親子づれは、まだウサギと遊んでいる。
「よし、今だ」
マルコをシャツからだし、エサ箱の前で手をはなした。しばらく動かなかったマルコは、やがて黒い鼻をつきだして、においをかぎはじめた。そしてエサ箱に顔をつっこんだ。
健二が両手で大きなまるをつくって、モニカに見せる。モニカも手をふったあと、まるでこたえた。
マルコはずっとエサを食べつづけている。そこへヤギたちもやって来た。しゃがんでいた健二がヤギを見あげて言う。
「悪いな。すこしだけ分けておくれよ。今日だけだからさ」
「ンメエエエー」
「おっ話がわかるねぇ。イキだね。ありがとさん」
はなし家のような口ぶりで言った。白くて小さなマルコは、ヤギの親子のようにも見えた。これなら、だれが見てもあやしまれないだろう。健二がホッとしたときだ。
急にヤギたちがエサを食べるのをやめて、顔をあげた。
耳をいそがしそうに動かしたと思ったら、いきおいよく地面をけって走りだす。それでもマルコは、エサ箱に顔を入れたままだ。
「たいした度胸だな。これなら、りっぱなのら犬になれるぞ」
健二が言った声に、大きな声がかさなった。
「ワン、ワンワン、ワワン」
ものすごいいきおいで走って来るのは、いつか健二が見たベテランのら犬だ。そいつが木さくをジャンプした。
マルコにむかって走って来る。
健二が手をのばしたときには、もうまにあわなかった。マルコが走りだした。
のら犬はマルコを追いかける。ヤギも逃げまわって、オリのなかは砂ぼこりだらけだ。ヤギがいっせいに声をあげている。そこへさっきの親子づれの女の子の泣き声がまざった。
「マルコー! マルコ! こっちだ」
健二が呼んでも、マルコは逃げまわるだけだ。ひきずっていた足を必死に動かして、ヤギの足のあいだをすりぬけている。だからよけいにヤギも混乱して逃げまくっていた。
のら犬は歯をむきだしにしていた。
自分のエサ場に入って来たマルコを、追いはらっているのだ。
「ケンジ。こっち」
モニカが外から呼んでいる。そのよこで、親子づれがオリを脱出した。あとはマルコがでれば、のら犬もゆるしてくれるだろう。
健二が声をあげる。
「モニカ、そっちにマルコを追いこむから、そのすきにトビラを開けて、すぐに閉めるんだ。マルコをつかまえてよ」
モニカを見る。
「よし、今だ」
健二がのら犬とマルコのあいだに走りこんだ。
「××××××、××××××―――。わからない。××××、もっと、ゆっくり」
モニカは泣きそうだ。
「開けるんだ、それを。マルコを呼んで。モニカの声なら、マルコもわかるから」
健二はもう一周。オリのなかを走った。
「ワン、ワンワン」
のら犬の声がもっと大きくなる。こんどは健二を追いかけはじめた。健二はヤギの背中でタッチしながら、右へ左へと、こまかく方向をかえた。さわぎはマルコのそばから、はなれていった。
「モニカー! こんどこそ、今だ」
「ケンジ……」
「オーケー、だいじょうぶだよ」
「……はい」
日本語はわからなかったけれど、きっとモニカにはつたわったのだと思う。
「マルコー」
名前を呼んで、モニカがトビラを開けた。マルコは一直線にモニカのほうへ走って行く。
「よし!」
健二がにこりとした。
「これで任務完了。健二探偵も脱出だ」
健二が右手をふりあげる。するとオリをでたマルコが、モニカの足をすりぬけ、ものすごいいきおいで逃げて行くのが見えた。モニカがマルコを呼ぶ。
「マルコ。×××××××! ×××××!!」
閉めるのがおくれたトビラから、ヤギが飛びだした。
モニカがあわててトビラに手をかける。そこへまたべつのヤギたちがむかって来た。あののら犬も、ヤギを追いかけるように走って来る。
「×××―――」
モニカが手をはなす。そのままうずくまった。そこをヤギとのら犬がかけぬけた。
「×××―――、××××、ケンジ。ケンジ」
健二がかけよる。
「モニカ、だいじょうぶ? ケガはない?」
茶色い瞳から、なみだがあふれていた。
「ケンジ、ごめんなさい。×××××××マルコ。いません××××××××。にげ、ました」
「違う。ぼくが、聞きたいのは。モニカは、ケガ、してない? オーケー、だいじょうぶ、なんだね」
ケンジに指をさされて、モニカはゆっくりとうなずいた。ケンジがモニカの肩をつかむ。
「よかった。よし、追いかけなきゃ。マルコも、ヤギも」
「はい」
モニカの手を引っぱって、立たせてあげた。足元に青いハンカチが落ちていた。モニカが両手ですくう。
「マルコ、のです」
「うん。行こう」
「はい」
のら犬とヤギの大脱走は、動物園のあちこちで、さわぎをおこしていた。その声のするほうへ、健二たちは走った。
*
そのころ阿部旅館でも、さわぎがはじまっていた。
「これ、健ちゃんだ。健ちゃんだよ」
タンちゃんが、カラーテレビの画面を指さして言う。
ここまでオリンピックニュースは、準備ばんたんととのった会場の紹介や、各国の選手の活躍をながしていた。つぎにはじまったのが、『オリンピックでにぎわう街の風景』のコーナーだ。
ちょうど上野公園が特集されたので、みんなで盛りあがっていたところだった。国内外の観光客でいっぱいの動物園に、画面が切りかわったとたん、たくさんのヤギに追いかけられている(ように見えた)、健二が登場したのだ。
「なに、これ」
べべ子がふきだした。カラーテレビには、モニカもマルコもうつっていない。
テレビの中のお姉さんのうしろを、またヤギといっしょに健二がかけぬけて行く。お姉さんが、すずしい顔で言った。
『楽しそうです、動物と人間の運動会です。ひと足早いオリンピックも、よいものですね。以上、ますますオリンピックムードが高まる動物園から、おつたえしました』
――チャンチャラ、チャンチャン。
すとんと画面が切れて、コマーシャルの音楽がながれた。いっしゅん、しいんとしたロビーを、健二の母ちゃんの声が切りさく。
「なにやってんだい。運動会なもんか、まったく」
立ちあがって、母ちゃんがロビーをでて行った。子どもたちは大爆笑だ。タンちゃんが言う。
「すごいや。健ちゃんは見るよりもさきに、カラーテレビのなかに入っちゃった」
「うん。さすが近道忍法の健二だよ」
ベーゴマ星人も言うと、またみんなが大わらいになった。
§ でっかいオリンピック
そのあとの健二は大変だった。
モニカや動物園の人たちと、逃げたヤギやウサギを全部つかまえたころには、もううす暗くなっていた。のら犬は、あのままどこかへ行ってしまった。マルコもいない。
モニカがハンカチをにぎりしめたまま、歩いている。
動物園の出口ゲートについたとき、健二が声をかけた。
「マルコなら、だいじょうぶさ。あんなに走りまわっていたんだ。ケガも、もうじきなおるよ。もしかしたら、このあたりのボスのらになるかもしれない」
「×××、××××? ケンジ。マルコはボス、しりますか。ですか」
「足の早いマルコが一等賞だ。きっと、あののら犬だって、くやしがるに違いないよ。『こんなことなら、なかよくしておけばよかった』ってね。おあとがよろしいようで」
はなし家のように健二が、手をそろえる。おぼえたばかりの、うわばみ飛脚だ。
やっとモニカもわらった。そして、動物園の奥を見つめる。
「なかよしのしるし、マルコ。しります」
「うん」
健二がうなずいた。
ここまでいっしょに来てくれた動物園の人たちに、もういちど頭をさげて、ふたりはゲートをでる。目の前には、母ちゃんが立っていた。
「あんたって子はぁー」
すかさずゲンコツ二発。
母ちゃんはすぐに動物園の人を追いかけて、なん度も頭をさげていた。
夜だ。
健二の家に、モニカが父親とやって来た。突然の外国人の訪問に、母ちゃんは中学生の慎一兄ちゃんを引きずって行った。なのに、モニカの父さんが日本語ができるのがわかると、とたんにいつもの母ちゃんにもどったらしい。兄ちゃんが健二のいる茶の間にもどって来た。
玄関で母ちゃんが、いせいのいい声をあげているのが聞こえる。
「いいんですよ。そんなにあやまらないでくださいな。どうせ、うちの健二がおたくのお嬢さんをつれて、またバカやらかしただけなんですから。なに、いつものことですよ。はい」
長屋中に聞こえるほどの大声だ。兄ちゃんが気の毒そうな顔で、健二を見た。
「いつものゲンコツ、だもんな。はんぶん手伝おうか」
健二は漢字の書きとりのまっ最中だった。
今日のさわぎのバツで、母ちゃんから山もりの宿題がでてしまった。
「オーケー、だいじょうぶ」
「おっ、外国人の友だちができたからって、英語つかったな」
兄ちゃんが健二のゲンコツ頭をなでた。
玄関から、母ちゃんの呼ぶ声が聞こえる。
健二が行くと、モニカの父さんがやさしくあいさつをしてくれた。母ちゃんが言う。
「ポリーニさん、お仕事でね、明日上野をたつんだってさ」
「明日。モニカも?」
「もちろんだよ」
そこでモニカの父さんが言った。
「ケンジくん、モニカとなかよし、ありがとうございます。とてもうれしい、よろこんでいました。あしたから、ヨヨギにとまります。いままで、ありがとうございました」
「モニカ、ほんとうなの」
「はい。ケンジ、ありがとう。マルコ、げんき、ありがとう」
「なんのことだい。マルコって」
すぐに母ちゃんが言ったので、健二は人さし指を口にあてた。
「はい」
そう言って、モニカがにこりとする。それから右手をだした。
「ケンジ、あくしゅ、です」
「うん。なかよしのしるしだ」
健二がモニカの右手をにぎった。
モニカと父さんは、阿部旅館に帰って行った。玄関の引き戸を閉めて、健二が言う。
「オリンピックまで、あとすこしなのにさ。今行かなくてもいいのに」
すると母ちゃんが言った。
「今聞いたんだけどね、ポリーニさんは、オリンピックの仕事で来てたんだよ。びっくりしたね。さわがしいのはイヤだからって、わざわざここに宿をとってたんだとさ。けど、もうじきだからね。会場の近くにうつることにしたらしいよ」
「うそ」
「おや、健二は知らなかったのかい。おかしいねえ、きっと尚子ちゃんは知っていたはずなのに。健二の探偵ごっこも、まだまだってことだ」
わらいながら母ちゃんが茶の間にもどって行く。
「くそー、べべ子のやつ」
玄関にむかって、あっかんベーをした。
十月十日は、朝からさわやかな風がふいていた。
台風でせんたくされた秋の空は、どこまでも高くて、見あげた健二も、そのまますいこまれそうな気持ちになった。
今日から東京オリンピックがはじまる。
健二の家には、母ちゃんの妹のおばさんや、いとこたちが遊びに来ていた。ここからオリンピックが見えるわけじゃないのに、わざわざ埼玉県からやって来ていた。すこしでも近くにいたいのだと。
ほかの家も同様で、町中、だれかの親せきだらけだ。
焼き鳥屋のガンさんが、裏通りからここの路地まで来ていた。朝からいいにおいのけむりをはたいている。大衆酒場の前では、すでに赤い顔をしたおじさんが、えだまめをつまんでいた。
ひときわにぎわっていたのが、阿部旅館だ。
ロビーは映画館のような人だかりだった。入りきれない人たちが、せめてカラーテレビの音だけでも聞こうと、コンクリート道路にゴザをならべている。
健二はタンちゃんと、阿部旅館の庭にまわった。そして大きなイチョウの木にのぼる。
べべ子に見つからずに、カラーテレビが見える場所を見つけたのは、きのうだった。ここなら、開けっぱなしのロビーの窓から、なかがまる見えだ。
べべ子に負けたくなかったけれど、やっぱりカラーテレビは見たかった。
遠くから聞こえるラジオの音が、いよいよオリンピックがはじまることをつげている。そして、カラーテレビのなかに、五つの輪がうつしだされた。
日本中の人たちといっしょに、阿部旅館にあつまった人、路地にあふれた人たちが手をあげる。健二のからだは、心臓の音といっしょにドキドキとゆれているような気がするほど、熱くなっていった。
あっというまに時間がすすんで、世界の選手たちの入場行進だ。こんなにもたくさんの外国人を、いちどに見たことがない。健二は画面のなかで手をふっている、目や鼻のかたちの違う人たちを見つめていた。
「すごいね。これがオリンピックだね」
タンちゃんが言った。
「うん」
そうこたえるのがやっとだ。
やがて、ブルーインパルスの航空ショーがはじまった。五機の飛行機が、カラーテレビのなかでアクロバット飛行をしている。
「健二!」
下から声がした。庭の垣根の外から、埼玉のおばさんが呼んでいる。
「だめだよ。今いいところなんだから、ブルーインパルスさ」
カラーテレビのなかに、けむりの輪が五つならんだ。健二の目はくぎづけだ。
またおばさんの声がする。
「空をごらんよ。もう二度と見れないからね、おぼえておいてほしかったのに、テレビに夢中とは、ざんねんだよ」
「え?」
健二がおばさんに、目をうつす。おばさんは、空を指さしていた。見あげた健二の目に飛びこんできたのは、ほんものの五つの輪だった。
「タンちゃん……」
目をそらさずに声をだす。すぐにタンちゃんも上をむいたまま、かたまった。
青い空に、くっきりと、赤、緑、黒、黄、青の輪がうかんでいたのだ。それはそれは、大きな絵だった。
「すごいや」
健二はいつまでも見ていた。カラーテレビよりもあざやかな色が、頭の上にふってきそう。
「テレビのなかと、ほんものの空はつながってたんだ。すごいぞー、すごいぞーー」
健二がバンザイをする。タンちゃんが枝にしがみついた。
「ダメだよ。ゆらしたら落ちちゃう。健ちゃん」
「落ちたってかまわないさ。今日はすごい日のはじまりなんだ」
またバンザーイと言って、健二は木の上から空に飛びあがった。
「健ちゃん!」
タンちゃんの声と同時に、健二が庭に落ちた。
あおむけのまま空を見ると、タンちゃんの頭の上で、五色の輪がにじんでゆくところだった。
「こんなでっかいなら、モニカもマルコも、佐藤さんも、白いおじいさんだって。みんな、きっとどこかで見てる」
寝ころだまま、健二は両手を空の輪にくぐらせた。
「みんな、また会える」
大きな輪っかとの指きりげんまんだった。
第5話「東京オリンピック」おわり




