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第5話「東京オリンピック」②

§ カラーテレビと動物園


 つぎの朝、タンちゃん探偵からカラーテレビ工事の報告を聞いたのは、校門の前だった。


「おはよう。工事はどうだった」


「それがさ。小人トンネルもほらなきゃ、ペンキ工事もなしだよ」

 タンちゃんが両手をあげて、おおげさにがっかりポーズをしてみせる。


「ならどうやって、電気からテレビに大鵬や長島をはこぶのさ」


「東京タワーをつかうんだって。電気屋さんが言ってたよ」


「東京タワー? あんな大きなものが動くもんか。それに、色つきの電気だぞ」


「ぼくにだってわからないよ」

 タンちゃんがグローブ頭をかきむしる。


「ラジオとおなじよ。見えない電波だわ」

 高い声がして、べべ子が通りすぎた。なぜか顔は、ふてくされている。タンちゃんがそっと健二の耳に近づく。


「きのうさ、あれだけみんながあつまったのに、工事はあっというまに終わっちゃったんだ。かべに電気の線をつけただけだったんだもん。みんながっかりでさ……」


「聞こえてるわよタンちゃん」

 べべ子がキイキイ声をあげる。そしてげた箱から上ばきをとると、ばん、とすのこに落とした。


「工事だけなのに、みんながかってにさわいで来たのじゃない。カラーテレビがくるのは今日なんだし」


「うん。こんどこそ、ワクワクするよね」

 調子よくタンちゃんが言う。けれど、くつをはきかえたべべ子は早歩きで行ってしまった。


「べべ子めー。それで、健ちゃんのほうはどうだったの」

 タンちゃんが背中をくっつけて来る。


「うん。マルコはもともとのら犬だからね。もう、かけまわりたくって大変だよ。だから、あみだ堂のうらまで散歩してみた。あそこなら見つからないからさ」


 健二がはなすと、こんどはタンちゃんがべべ子みたいな声をだした。


「ええーっ!? あの場所は、ふたりだけの秘密なのに。なんでほかの人に、おしえちゃうの」


「ごめん、ごめんって。けど、モニカはここの子どもじゃないし、おミソでいいだろ。言ってないのとおなじさ」


「うーん、そうかな」

 タンちゃんが口をへの字にする。


「そうだよ」

 もういちど健二が言った。タンちゃんがにこりとする。


「そうだね。どうせすぐ、いなくなるんだから、透明人間のおミソだ。だけどもう、秘密の場所をもらしたら、ダメだよ」


「うん。わか……った」


 ぼおっとしてこたえたのは、今のタンちゃんの言葉にひっかかったから。


 モニカがいなくなる。


 そういえば、モニカはいつ外国に帰るのだろうか。父さんの仕事で日本に来たと言っていたけれど、いつまでいるかは、聞いたことがなかった。


 学校が終わって家に帰った健二は、洋服タンスの上から空きカンをおろした。


 健二の貯金箱だ。


 毎月百円のおこづかいと、夏休みにばあちゃんの家でもらったおこづかいののこりが、まだあったはずだった。今日は動物園に行く約束をしていた。


 健二はいちまいずつお金をかぞえて、チリ紙でくるんだ。モニカとふたり分だ。


 つぎにランドセルをひっくり返して、中身を全部たたみの上に落とした。そこまでやったところで、玄関からタンちゃんの声だ。


「健ちゃーん」


「はーい。今行くよ」


 からのままのランドセルを背おって、健二が玄関をでる。これはタンちゃんのアイディアだった。

動物園はマルコをつれて入れない。だから、『ランドセルにかくして行く作戦』だ。


 モニカは空き地で待っていた。マルコが健二たちを見て土管にもぐる。それをタンちゃんが追いかけた。タンちゃんがマルコをだっこして、土管からでて来た。


 モニカの前で、背のびをしてみせる。


「坂本三治です。よろしくね」


「短足タンちゃんだよ。土管のなかは、マルコとおなじくらい得意さ」

 健二が言いなおして、マルコのまねをした。すぐにタンちゃんが健二のおなかへ、頭つき攻撃だ。手のなかのマルコの頭も、健二の背中にこすりつけた。


「見たか、忍法ダブル頭つきだ」


「ふいうちとは、ひきょうなり。無念だ」


 健二がわらいながらたおれた。タンちゃんがマルコを高く持ちあげる。


「やったぞ。ぼくたちの勝利だ」

 タンちゃんもわらう。見ていたモニカは、急にはじまった忍者ごっこに、茶色い瞳をまんまるにしてわらっていた。


 タンちゃんがマルコをモニカに返して言う。


「あみだ堂の秘密の場所のことはナイショだよ。ぼくらも、モニカの秘密はナイショにしておくからね」


「ひみつ? ないしょ」


「うん」

 タンちゃんが人さし指を口につけて、シーと言った。モニカがわらってうなずく。


「はい。これ、ないしょのしるし、です」

 モニカも人さし指をだした。


「すごいや」


 タンちゃんも大よろこびだ。健二がマルコの首からヒモをほどいた。


「よし、行こう」

「はい」

 モニカがこたえる。タンちゃんも健二に言った。


「ぼくも行かなきゃ。早くしないと、カラーテレビに追いこされちゃうもんね。健ちゃんたちも、きっと来てね」


「……」


 健二がだまる。


「ほんとうは見たいくせに。べべ子のことなんか、気にしない。それよりカラーテレビの勝ちだよ」


「うーん」


「待ってるよ。健ちゃんたちの場所取りは、ぼくにまかせてね」

 いじっぱりの終点を見つけられない健二に、タンちゃんが明るく言ってくれた。


 空き地をでた三人は、金物屋の前で立ち止まった。ここからタンちゃんは、あの近道で阿部旅館にむかう。タンちゃんが健二のランドセルを、ぽんぽんとたいた。マルコが入っている。


「マルコも、おなかいっぱいになったら、おいでね。そしたら、いっしょにカラーテレビを見よう」

 言ってから、タンちゃんが金物屋に入った。モニカはふしぎそうな顔だ。


「オーケー、だいじょうぶ。飛脚の近道だよ」

 健二が言った。


    *


 タンちゃんが阿部旅館についたとき、うわさを聞きつけた近所の人たちまで、玄関からあふれていた。まだカラーテレビは到着していないようだった。


「うわあ、これは大変だ」


 グローブ頭を人のあいだにすべりこませる。短い足と小さなからだを、うまくくねらせて進んだ。なんとかロビーにつくと、すでにベーゴマ星人タケシがジュータンの上にあぐらをかいていた。

「おそかったね。健二は?」


「あとで来るよ」

 タンちゃんがベーゴマ星人のよこにすわった。


 きのうの工事で新しくなった電源の前だけが、ぽっかりとあいている。それをかこむように、べべ子やクラスのみんな、それに近所のおじさんおばさんたちがすわっていた。


    *


 健二とモニカは動物園の入り口についた。大きなかんばんをモニカが見あげている。健二はキップを二まい買ってもどった。


「マルコのぶんはないからね、なかでおとなしくしてるんだぞ」

 背中のランドセルに言ってから、入り口のゲートにむかった。


 ゲートには、制服を着たお兄さんが立っていた。ふたりぶんのキップをちぎりながら、モニカににこりとする。


「Hello.Welcome Tokyo」


 もうすぐオリンピックだからだろう。外国のお客さんもおおぜい来ているようで、お兄さんが緊張しているのがわかった。モニカもあいさつを返す。


「Hello.×××××」


 お兄さんのおでこからは、冷や汗がでてきそうだ。それでも顔はにこにこしていた。しばらく歩いて健二がひとこと。


「おとなって大変だな。あれじゃあ、秘密の暗号ことばだ」


 モニカがわらう。ランドセルのなかで、マルコも『ワン』とないた。


「そうだな。早く食べに行こう」


「どこ、たべる、ますか」


「こっちだよ。この奥にふれあい公園がある。ヤギやウサギのおりでさ、ぼくたちもなかに入れるんだ」


 以前来たときに、そこで犬を見たことがあった。ベテランののら犬のようで、ヤギといっしょにエサ箱に顔をつっこんでいたのを、健二はおぼえていた。


    *


 阿部旅館では、大きな歓声とはくしゅがあがっていた。


 たった今、カラーテレビが到着したのだ。電気屋さんとべべ子のおじさんが、茶色い箱をしんちょうにはこんで来た。あれだけ大混雑していた人たちが、ふたりとテレビの箱に道をあけた。入場行進のようで、ロビーにいた子どもたちが手をふってむかえている。


 カラーテレビがジュータンにおろされると、さっきよりも、ぐんとみんなの押し合いだ。つんのめったタンちゃんの頭が、べべ子のおしりにあたった。いつもなら飛んでくるキイキイ声も、今はない。べべ子も電気屋さんの動作、ひとつひとつに夢中だった。


 やがて準備がおわって、べべ子のおじさんがカラーテレビの前にひざをついた。


――ボオーン、パチ。


 聞いたことのない音がして、黒かったカラーテレビの正面が明るくなる。さっきまで大歓声だったロビーは、柱時計の音が聞こえるほど、しずかになっていた。


――カチ。

――カチ。

――カチ。


 ふりこの音に合わせて、すこしずつカラーテレビが青白い色に変わる。ぼやぼやと動いていたかげが、人のかたちになり、ラジオで聞いたことのある声がしてきた。


「オリンピックニュースだ!」


 ベーゴマ星人が声をあげる。そしていっきに歓声がひろがった。みんなのはくしゅのなかで、べべ子のおじさんもうれしそうに頭をさげている。


「タケシがさわぐから、カラーテレビの音が聞こえなくなっちゃったじゃない」


 キイキイ声のもどったべべ子が、おかっぱ髪をゆらしてうしろをにらんだ。けれど、ほっぺたはピンク色だ。タンちゃんが言った。


「うへへ。カラーテレビ、バンザーイ」


「バンザーイ」


 ベーゴマ星人も言う。みんなも両手をあげて、バンザイの大合唱になった。


    *


 こちらは動物園。


 ふれあい公園についた健二は、ランドセルからマルコをだして両うでにかかえていた。オリのなかでは、ヤギが地面の草を食べている。すみっこにいたウサギが、健二の気配に気づいて逃げて行った。


 中央のエサ箱には、茶色いつぶのエサと、野菜やくだものがまだ、のこっている。


「モニカはここで待ってて」


 言いのこして、健二が腰の高さほどの木さくに手をかける。かんぬきでとめている小さなトビラを開けて、なかに入った。


 公園には、ほかに小さな女の子とお母さんの親子づれがいる。お母さんは女の子を見ているので、健二のシャツの下で動いているマルコには、気づいていないようすだ。


 それを確認してから、健二はゆっくりとエサ箱に近づく。そのあとをヤギがついてきた。


「だめだよ。ぼくはエサは持ってないんだから」

 手でヤギをはらう。モニカの顔が心配そうだ。


「ケンジ」

「オーケー、だいじょうぶさ」

 小声で返事をした。親子づれは、まだウサギと遊んでいる。


「よし、今だ」


 マルコをシャツからだし、エサ箱の前で手をはなした。しばらく動かなかったマルコは、やがて黒い鼻をつきだして、においをかぎはじめた。そしてエサ箱に顔をつっこんだ。


 健二が両手で大きなまるをつくって、モニカに見せる。モニカも手をふったあと、まるでこたえた。


 マルコはずっとエサを食べつづけている。そこへヤギたちもやって来た。しゃがんでいた健二がヤギを見あげて言う。


「悪いな。すこしだけ分けておくれよ。今日だけだからさ」


「ンメエエエー」


「おっ話がわかるねぇ。イキだね。ありがとさん」


 はなし家のような口ぶりで言った。白くて小さなマルコは、ヤギの親子のようにも見えた。これなら、だれが見てもあやしまれないだろう。健二がホッとしたときだ。


 急にヤギたちがエサを食べるのをやめて、顔をあげた。


 耳をいそがしそうに動かしたと思ったら、いきおいよく地面をけって走りだす。それでもマルコは、エサ箱に顔を入れたままだ。


「たいした度胸だな。これなら、りっぱなのら犬になれるぞ」

 健二が言った声に、大きな声がかさなった。


「ワン、ワンワン、ワワン」


 ものすごいいきおいで走って来るのは、いつか健二が見たベテランのら犬だ。そいつが木さくをジャンプした。


 マルコにむかって走って来る。


 健二が手をのばしたときには、もうまにあわなかった。マルコが走りだした。


 のら犬はマルコを追いかける。ヤギも逃げまわって、オリのなかは砂ぼこりだらけだ。ヤギがいっせいに声をあげている。そこへさっきの親子づれの女の子の泣き声がまざった。


「マルコー! マルコ! こっちだ」


 健二が呼んでも、マルコは逃げまわるだけだ。ひきずっていた足を必死に動かして、ヤギの足のあいだをすりぬけている。だからよけいにヤギも混乱して逃げまくっていた。


 のら犬は歯をむきだしにしていた。


 自分のエサ場に入って来たマルコを、追いはらっているのだ。


「ケンジ。こっち」


 モニカが外から呼んでいる。そのよこで、親子づれがオリを脱出した。あとはマルコがでれば、のら犬もゆるしてくれるだろう。


 健二が声をあげる。

「モニカ、そっちにマルコを追いこむから、そのすきにトビラを開けて、すぐに閉めるんだ。マルコをつかまえてよ」

 モニカを見る。


「よし、今だ」


 健二がのら犬とマルコのあいだに走りこんだ。


「××××××、××××××―――。わからない。××××、もっと、ゆっくり」

 モニカは泣きそうだ。


「開けるんだ、それを。マルコを呼んで。モニカの声なら、マルコもわかるから」


 健二はもう一周。オリのなかを走った。


「ワン、ワンワン」


 のら犬の声がもっと大きくなる。こんどは健二を追いかけはじめた。健二はヤギの背中でタッチしながら、右へ左へと、こまかく方向をかえた。さわぎはマルコのそばから、はなれていった。


「モニカー! こんどこそ、今だ」


「ケンジ……」


「オーケー、だいじょうぶだよ」


「……はい」


 日本語はわからなかったけれど、きっとモニカにはつたわったのだと思う。


「マルコー」


 名前を呼んで、モニカがトビラを開けた。マルコは一直線にモニカのほうへ走って行く。


「よし!」


 健二がにこりとした。

「これで任務完了。健二探偵も脱出だ」


 健二が右手をふりあげる。するとオリをでたマルコが、モニカの足をすりぬけ、ものすごいいきおいで逃げて行くのが見えた。モニカがマルコを呼ぶ。


「マルコ。×××××××! ×××××!!」


 閉めるのがおくれたトビラから、ヤギが飛びだした。


 モニカがあわててトビラに手をかける。そこへまたべつのヤギたちがむかって来た。あののら犬も、ヤギを追いかけるように走って来る。


「×××―――」

 モニカが手をはなす。そのままうずくまった。そこをヤギとのら犬がかけぬけた。


「×××―――、××××、ケンジ。ケンジ」


 健二がかけよる。

「モニカ、だいじょうぶ? ケガはない?」


 茶色い瞳から、なみだがあふれていた。


「ケンジ、ごめんなさい。×××××××マルコ。いません××××××××。にげ、ました」


「違う。ぼくが、聞きたいのは。モニカは、ケガ、してない? オーケー、だいじょうぶ、なんだね」


 ケンジに指をさされて、モニカはゆっくりとうなずいた。ケンジがモニカの肩をつかむ。


「よかった。よし、追いかけなきゃ。マルコも、ヤギも」


「はい」


 モニカの手を引っぱって、立たせてあげた。足元に青いハンカチが落ちていた。モニカが両手ですくう。

「マルコ、のです」

「うん。行こう」

「はい」


 のら犬とヤギの大脱走は、動物園のあちこちで、さわぎをおこしていた。その声のするほうへ、健二たちは走った。


    *


 そのころ阿部旅館でも、さわぎがはじまっていた。


「これ、健ちゃんだ。健ちゃんだよ」

 タンちゃんが、カラーテレビの画面を指さして言う。


 ここまでオリンピックニュースは、準備ばんたんととのった会場の紹介や、各国の選手の活躍をながしていた。つぎにはじまったのが、『オリンピックでにぎわう街の風景』のコーナーだ。


 ちょうど上野公園が特集されたので、みんなで盛りあがっていたところだった。国内外の観光客でいっぱいの動物園に、画面が切りかわったとたん、たくさんのヤギに追いかけられている(ように見えた)、健二が登場したのだ。


「なに、これ」


 べべ子がふきだした。カラーテレビには、モニカもマルコもうつっていない。


 テレビの中のお姉さんのうしろを、またヤギといっしょに健二がかけぬけて行く。お姉さんが、すずしい顔で言った。


『楽しそうです、動物と人間の運動会です。ひと足早いオリンピックも、よいものですね。以上、ますますオリンピックムードが高まる動物園から、おつたえしました』


――チャンチャラ、チャンチャン。


 すとんと画面が切れて、コマーシャルの音楽がながれた。いっしゅん、しいんとしたロビーを、健二の母ちゃんの声が切りさく。


「なにやってんだい。運動会なもんか、まったく」


 立ちあがって、母ちゃんがロビーをでて行った。子どもたちは大爆笑だ。タンちゃんが言う。


「すごいや。健ちゃんは見るよりもさきに、カラーテレビのなかに入っちゃった」

「うん。さすが近道忍法の健二だよ」


 ベーゴマ星人も言うと、またみんなが大わらいになった。


§ でっかいオリンピック


 そのあとの健二は大変だった。


 モニカや動物園の人たちと、逃げたヤギやウサギを全部つかまえたころには、もううす暗くなっていた。のら犬は、あのままどこかへ行ってしまった。マルコもいない。


 モニカがハンカチをにぎりしめたまま、歩いている。


 動物園の出口ゲートについたとき、健二が声をかけた。


「マルコなら、だいじょうぶさ。あんなに走りまわっていたんだ。ケガも、もうじきなおるよ。もしかしたら、このあたりのボスのらになるかもしれない」


「×××、××××? ケンジ。マルコはボス、しりますか。ですか」


「足の早いマルコが一等賞だ。きっと、あののら犬だって、くやしがるに違いないよ。『こんなことなら、なかよくしておけばよかった』ってね。おあとがよろしいようで」


 はなし家のように健二が、手をそろえる。おぼえたばかりの、うわばみ飛脚だ。


 やっとモニカもわらった。そして、動物園の奥を見つめる。


「なかよしのしるし、マルコ。しります」

「うん」

 健二がうなずいた。


 ここまでいっしょに来てくれた動物園の人たちに、もういちど頭をさげて、ふたりはゲートをでる。目の前には、母ちゃんが立っていた。


「あんたって子はぁー」


 すかさずゲンコツ二発。


 母ちゃんはすぐに動物園の人を追いかけて、なん度も頭をさげていた。


 夜だ。


 健二の家に、モニカが父親とやって来た。突然の外国人の訪問に、母ちゃんは中学生の慎一兄ちゃんを引きずって行った。なのに、モニカの父さんが日本語ができるのがわかると、とたんにいつもの母ちゃんにもどったらしい。兄ちゃんが健二のいる茶の間にもどって来た。


 玄関で母ちゃんが、いせいのいい声をあげているのが聞こえる。


「いいんですよ。そんなにあやまらないでくださいな。どうせ、うちの健二がおたくのお嬢さんをつれて、またバカやらかしただけなんですから。なに、いつものことですよ。はい」


 長屋中に聞こえるほどの大声だ。兄ちゃんが気の毒そうな顔で、健二を見た。

「いつものゲンコツ、だもんな。はんぶん手伝おうか」


 健二は漢字の書きとりのまっ最中だった。


 今日のさわぎのバツで、母ちゃんから山もりの宿題がでてしまった。

「オーケー、だいじょうぶ」


「おっ、外国人の友だちができたからって、英語つかったな」

 兄ちゃんが健二のゲンコツ頭をなでた。


 玄関から、母ちゃんの呼ぶ声が聞こえる。


 健二が行くと、モニカの父さんがやさしくあいさつをしてくれた。母ちゃんが言う。

「ポリーニさん、お仕事でね、明日上野をたつんだってさ」


「明日。モニカも?」

「もちろんだよ」


 そこでモニカの父さんが言った。

「ケンジくん、モニカとなかよし、ありがとうございます。とてもうれしい、よろこんでいました。あしたから、ヨヨギにとまります。いままで、ありがとうございました」


「モニカ、ほんとうなの」


「はい。ケンジ、ありがとう。マルコ、げんき、ありがとう」


「なんのことだい。マルコって」


 すぐに母ちゃんが言ったので、健二は人さし指を口にあてた。

「はい」

 そう言って、モニカがにこりとする。それから右手をだした。


「ケンジ、あくしゅ、です」


「うん。なかよしのしるしだ」

 健二がモニカの右手をにぎった。


 モニカと父さんは、阿部旅館に帰って行った。玄関の引き戸を閉めて、健二が言う。


「オリンピックまで、あとすこしなのにさ。今行かなくてもいいのに」


 すると母ちゃんが言った。

「今聞いたんだけどね、ポリーニさんは、オリンピックの仕事で来てたんだよ。びっくりしたね。さわがしいのはイヤだからって、わざわざここに宿をとってたんだとさ。けど、もうじきだからね。会場の近くにうつることにしたらしいよ」


「うそ」


「おや、健二は知らなかったのかい。おかしいねえ、きっと尚子ちゃんは知っていたはずなのに。健二の探偵ごっこも、まだまだってことだ」


 わらいながら母ちゃんが茶の間にもどって行く。


「くそー、べべ子のやつ」


 玄関にむかって、あっかんベーをした。



 十月十日は、朝からさわやかな風がふいていた。


 台風でせんたくされた秋の空は、どこまでも高くて、見あげた健二も、そのまますいこまれそうな気持ちになった。


 今日から東京オリンピックがはじまる。


 健二の家には、母ちゃんの妹のおばさんや、いとこたちが遊びに来ていた。ここからオリンピックが見えるわけじゃないのに、わざわざ埼玉県からやって来ていた。すこしでも近くにいたいのだと。


 ほかの家も同様で、町中、だれかの親せきだらけだ。


 焼き鳥屋のガンさんが、裏通りからここの路地まで来ていた。朝からいいにおいのけむりをはたいている。大衆酒場の前では、すでに赤い顔をしたおじさんが、えだまめをつまんでいた。


 ひときわにぎわっていたのが、阿部旅館だ。


 ロビーは映画館のような人だかりだった。入りきれない人たちが、せめてカラーテレビの音だけでも聞こうと、コンクリート道路にゴザをならべている。


 健二はタンちゃんと、阿部旅館の庭にまわった。そして大きなイチョウの木にのぼる。


 べべ子に見つからずに、カラーテレビが見える場所を見つけたのは、きのうだった。ここなら、開けっぱなしのロビーの窓から、なかがまる見えだ。


 べべ子に負けたくなかったけれど、やっぱりカラーテレビは見たかった。


 遠くから聞こえるラジオの音が、いよいよオリンピックがはじまることをつげている。そして、カラーテレビのなかに、五つの輪がうつしだされた。


 日本中の人たちといっしょに、阿部旅館にあつまった人、路地にあふれた人たちが手をあげる。健二のからだは、心臓の音といっしょにドキドキとゆれているような気がするほど、熱くなっていった。


 あっというまに時間がすすんで、世界の選手たちの入場行進だ。こんなにもたくさんの外国人を、いちどに見たことがない。健二は画面のなかで手をふっている、目や鼻のかたちの違う人たちを見つめていた。


「すごいね。これがオリンピックだね」

タンちゃんが言った。


「うん」

 そうこたえるのがやっとだ。


 やがて、ブルーインパルスの航空ショーがはじまった。五機の飛行機が、カラーテレビのなかでアクロバット飛行をしている。


「健二!」


 下から声がした。庭の垣根の外から、埼玉のおばさんが呼んでいる。


「だめだよ。今いいところなんだから、ブルーインパルスさ」


 カラーテレビのなかに、けむりの輪が五つならんだ。健二の目はくぎづけだ。


 またおばさんの声がする。


「空をごらんよ。もう二度と見れないからね、おぼえておいてほしかったのに、テレビに夢中とは、ざんねんだよ」


「え?」


 健二がおばさんに、目をうつす。おばさんは、空を指さしていた。見あげた健二の目に飛びこんできたのは、ほんものの五つの輪だった。


「タンちゃん……」


 目をそらさずに声をだす。すぐにタンちゃんも上をむいたまま、かたまった。


 青い空に、くっきりと、赤、緑、黒、黄、青の輪がうかんでいたのだ。それはそれは、大きな絵だった。


「すごいや」


 健二はいつまでも見ていた。カラーテレビよりもあざやかな色が、頭の上にふってきそう。


「テレビのなかと、ほんものの空はつながってたんだ。すごいぞー、すごいぞーー」


 健二がバンザイをする。タンちゃんが枝にしがみついた。


「ダメだよ。ゆらしたら落ちちゃう。健ちゃん」


「落ちたってかまわないさ。今日はすごい日のはじまりなんだ」


 またバンザーイと言って、健二は木の上から空に飛びあがった。


「健ちゃん!」


 タンちゃんの声と同時に、健二が庭に落ちた。


 あおむけのまま空を見ると、タンちゃんの頭の上で、五色の輪がにじんでゆくところだった。


「こんなでっかいなら、モニカもマルコも、佐藤さんも、白いおじいさんだって。みんな、きっとどこかで見てる」

 寝ころだまま、健二は両手を空の輪にくぐらせた。


「みんな、また会える」

 大きな輪っかとの指きりげんまんだった。


第5話「東京オリンピック」おわり



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