第5話「東京オリンピック」①
第五話「東京オリンピック」
§ スパイ退治
十月になって、風にもかれ葉のにおいがまざるようになってきた。
いつもの秋よりにぎやかなのは、東京音頭にくわえて、新しい音頭が、あちこちのスピーカーからながれているから。
みんなが歌っているのは、『東京五輪音頭』。
とうとう東京オリンピックの季節がやってきた。
日本のあちこちから、人びとが東京にあつまっているような感じだった。
健二の家のまわりもカラフルになった。長屋ばかりがつづく小さな商店街も、オリンピックのポスターだらけだ。手づくりの幕も登場した。
今日も健二は、コンクリート道路に手をついて絵をかいている。ラジオからながれる音頭のリズムで、ローセキも動く。地面の白い絵は、どんどん大きくなっていた。
頭の上から、秋風のような声が聞こえてきた。
「おや、超特急ひかり号ですね」
下をむいている健二の目線に、イキな雪駄が立ち止まった。雪駄は着物を着た人がはくぞうりだ。健二は雪駄からゆっくりと目を上げた。
秋色のはおりを着た男の人だった。近所に住む、はなし家さんだ。みんなからは、師匠とかダンナさんと呼ばれている人だった。
これから夕方の寄席にむかうところだろうか、ふたりの若い衆もいっしょだ。
健二は自分がかいた、でっかい新幹線に両手をひろげた。
「夢の超特急ひかり号、発進ーー!」
「おお」
はなし家さんが、手をたたく。
「きのうは、すばらしい日でしたね。日本がほこる超特急に、みなさん大喜びでした。これで上方がぐんと近くなります」
「かみがた?」
「大阪方面のことです」
「そうさ。ひかり号は大阪まで、あっというまさ」
まるで自分の列車のように、健二が言う。はなし家さんは、にこにこして見ていた。
「わたしも、いつかはのりたいですね」
「うん。ぼくもぜったいにのるよ」
「競争ですね。けれど、大阪まで近道をして、うわばみ飛脚にならないよう、ちゃんと便所の用はすませなければ、ですね」
「うわばみ……?」
「はい。足がはやいのが自慢の飛脚さん。おまけに近道も得意で、こっちの道よりあっちのほそ道。いや、この道よりも、あの庭さきのほうが近道近道。ところがおなかが急にいたくなってきた。ははーん、これはうんちだ。いくらいそいでも、こればかりはガマンできない。あわてて便所に飛びこんだら、ふところの弁当が便所にドボン。ああ弁当も近道しちゃった。山のなかをいそぐ飛脚を、よだれをたらして見ていたのが、うわばみだ。大きな口をあけて、道の上で待っていた。そんなこととは知らない飛脚さん、どっこいさと、うわばみの口のなかにスポーン。それでもうわばみの腹のなかを走ると、おしりのあなから飛びだし、そのまま走っていった。うわばみは言ったよ。こんなことなら、ふんどしをしておけばよかった。――おあとがよろしいようで」
手をそろえて、はなし家さんが頭をさげる。そしてまた歩きはじめた。
しばらくぼおっとしていた健二が、はなし家さんの背中に言った。
「近道でも、ションベン横丁なら用がたせるよ。秘密の入り口を知ってるからね。いつでもおしえてあげるさ」
ラジオの音頭に、はなし家さんのわらい声がまざった。
健二もごきげんだ。またローセキをにぎりしめ、地面にむかった。すると、また人の気配がする。
ななめ向かいの阿部旅館の前に、女の子が立っていた。なにか言いたそうにしている。
女の子は日本人じゃなかった。健二よりも、ふたつか、みっつ年上っぽい。
赤い髪を頭のうしろでくくり、健二を見ている瞳は、うすい茶色だ。
この町にはアメや横丁があるから、外国人は見なれている。けれどはなしたことはいちどもない。そもそも英語なんて、はなせるわけがなかった。
知らん顔をして、また絵をかきはじめた。女の子は、まだこっちを見ているようだった。
「×××、××××」
ちいさな声が聞こえる。健二は手を止めた。
「なに」
反応した健二に、女の子がまたはなしはじめる。日本語じゃなかった。
「××、××××××。××××××××」
「やっぱり、わからないよ。だれかおとなの人にたのんで」
「×××、××××」
「だから、はなしかけても、ぼくにはわからないんだ」
だんだん、めんどうな気分になってきた。せっかくさっきまでは、楽しかったのに。
健二はズボンのポケットに手を入れた。すぐに、おもちゃのピストルをかまえる。
「そんなにしつこいとは、さては外国人スパイだな」
女の子の動きが止まった。
「超特急ひかり号の秘密をぬすもうとしたって、そうはいかない。この松本健二がいるかぎりはね」
探偵ごっこのはじまりだ。女の子はすぐに、旅館の玄関ドアのなかに逃げこんでしまった。
――ビュー。
そこにむかって、健二のピストルから水がふきだす。さらにもう一発。
「これでひかり号の秘密はまもられた」
水でっぽうをポケットにおさめる。と同時に、頭にゲンコツが落ちてきた。
「イタタ。ふいうちとは、ひきょうだぞ」
頭をおさえてふり返った。
「母ちゃん!」
「まったく、なんのつもりだい。ひとさまの玄関に水をひっかけるとは、大バカものだよ」
「違うよ。スパイがいたんだ。ぼくが秘密をまもったんだぞ」
――ゴチン。
「なにバカなこと言ってんだい。あんたひとりしかいなかったろう。早くぞうきんを持って来て、ふいとくんだね」
買い物に行こうとしていた母ちゃんに見つかったとは、健二探偵も、まだ修行不足だった。
§ カラーテレビに夢中
つぎの朝だ。
ゲンコツを二発もくらった頭は、学校に行ってもいたみがとれない。天然パーマの髪をおさえるふりをして、健二は教室に入った。朝だというのに、みんながさわいでいる。
『ボーエンダヨ、ボーエンダヨ~』
だれかが、テレビコマーシャルのまねをしていた。タンちゃんがやって来た。
「ベーゴマ星人タケシの家の近くの床屋が、カラーテレビを買ったらしいよ」
「ほんとうか」
健二も飛びつく。
カラーテレビどころか、この下町では、ふつうの色のテレビが家にあるのだってめずらしいのだ。もちろん健二の家も、テレビなんかない。
「オリンピックで客ひきのためだよ。だからおとなしか見せてくれないのさ」
「近くの料理屋にもカラーテレビがくるって、うわさもあるしね」
だれかが言いだす。
「子どもだって見たいよな」
「おとなはケチだ」
また教室がさわがしくなる。健二も言った。
「お客なら見せてくれるのかな」
「オレも行くぞ」
みんなが健二につづく。するとタンちゃんも口をはさんだ。
「子どもなのに、床屋なんて行かせてくれないよ」
いっしゅん教室がしずまる。
「お金はいくらかかるんだ」
「ヒゲならはえてるぞ。オレはおとなだ」
ベーゴマ星人タケシがいばった。いつも口のまわりで濃いうぶげがゆれている。そこで大爆笑になった。
「ムリに決まってるでしょ」
よく通るキイキイ声が、教室にひびいた。べべ子だ。
「なんだと」
ベーゴマ星人がべべ子につっかかる。
「おい、よせよ。相手はべべ子だぞ。かなうもんか」
健二がベーゴマ星人の手を引っぱった。それをちらりと見て、べべ子がゆっくりと自分のおかっぱ髪を手ではらう。
「そういえば、うちの旅館にもカラーテレビが入るって、言ってたわね」
前の席の女子の目が、まんまるになった。
「それ、ほんとう」
「ええ。お父さんとお母さんがはなしていたわ」
「いつ!?」
こんどは女子だけでなく、男子たちも走る。さっきまでつっかかっていたベーゴマ星人まで、べべ子の前に集合だ。うれしそうなべべ子の声がひびいた。
「旅館のロビーにおくのですって」
「いつだ」
「行ってもいいの」
質問ぜめに、べべ子の顔もピンク色にそまっている。そしてもったいぶったように言った。
「いっぺんにみんなはムリよ」
一同。
「ええーー」
「ケチ」
「いいなあ」
大合唱だ。
「いいわ、お父さんに聞いてあげる。けど、順番にね」
するとだれかがノートに線をひきはじめた。かってに順番表をつくりはじめたのだ。女子もさきをあらそって名前をかいた。あっというまに、ノートには名前の行列ができあがってしまった。べべ子が言う。
「まだ、なにも言ってないのに。しかたないわね」
そんなことを言っても、悪い気はしていないようだ。
「あら、健ちゃんの名前がないみたい」
みんなの外にいた健二が、そっぽをむいた。べべ子の声なんて聞こえないふりだ。
ほんとうは、ものすご~くカラーテレビは見たい。
だけど、みんなのように、べべ子をちやほやしたくない。いつもは、いっぱいくわされているタンちゃんまで、べべ子の子分のようなありさまだ。
「ふん」
健二は鼻をならした。
学校から帰るとき、阿部旅館の前に、またあの外国人の女の子が立っていた。
健二を見つけると、玄関ドアのかげにかくれた。それでもドアを閉めずに、顔だけをだしてこちらを見ている。
健二は知らん顔で通り過ぎる。ちらりとよこ目でのぞいたら、女の子が肩をすぼめた。きのうのことが、よほどこわかったに違いない。
健二は止まって、女の子のほうをむいた。
「きのうは、ごめんなさい。べつに泣かすつもりじゃなかったんだからね」
言葉のわからない女の子は、まだおびえ顔だ。なんだか、こっちがイライラしてくる。
「でもさ、日本にいるのに、日本語ではなさない、あんたも悪いんだよ。って、どうせ言ってもわからないか」
はなすのをとちゅうでやめて、健二が頭をさげる。それから両手をぱんと合わせた。
「これでわかるかな。ごめんなさいっていう意味だよ」
女の子はびっくりしている。けれど、すこしわらったみたいだった。健二のジェスチャーの意味がわかったのかもしれない。
「じゃあね」
健二が言ったときだ。
「×××……××。こんにち…わ、は」
女の子がはなした。もういちど、健二を見て言う。
「……こんにち、は」
「なんだ。すこしは、はなせるんだね」
「×××××××はやい、わからない、い。ゆっくり、かんたん」
言葉がつづく。健二は開きかけた口をいったん閉じ、手を動かしながら聞いた。
「こ、の、旅、館、に、と、まっ、て、い、る、の?」
「×××……」
またつたわらない。それに、×××? なに語を言っているのかもわからない。アメや横丁で耳にする外国語の音と、感じが違う。健二はラジオのオリンピックニュースを思いだした。
会場の近くでは、世界のいろんな国の選手たちが、ぞくぞくと東京にやって来ているというニュースだ。
「もしかしたらさ、オリンピックで来たの?」
女の子の顔が明るくなった。知っている言葉だったようだ。
「××××××、オリンピック!」
「そう、そのオリンピックさ。トーキョーオリンピックで来たんだね」
「オリンピック、はい」
「すごいや。それで、なんの選手なの。いつオリンピックにでるの」
興奮して早口になる。
「ああごめん。ゆっくり、かんたんに、だったよね」
「はい。わたし×××、にほん××××、きます。××××、しりますか。××××――」
「やっぱりわかんないぞ。けどオリンピック選手に会ったなんて、大事件だ」
「×××××××」
「あっそうか。ぼくは、ケ、ン、ジ。あなたの名前は」
健二が自分を指さしてから、女の子に指をむける。
「わたし、モニカ……です。××××……」
「わかった。モニカだね、記念のあくしゅだ」
モニカがはなしているとちゅうで手をだす。考え中みたいな顔のモニカの手を引っぱって、健二はにぎりなおした。
「あくしゅだよ。あ、く、しゅ」
「……あく、しゅ」
「そう。なかよくなったしるしだよ」
「あくしゅ。しるし」
「うん」
また健二がはなしはじめる。
「モニカもオリンピックにでるんだね、すごいや。日本チームじゃないけど、モニカのことも応援するよ。って言ったって、競技場になんて行けないから、ここでがんばれって言うだけだけどね」
健二の興奮は止まらない。どんどん早口になってはなしつづける。モニカはずっと、こまった顔のままだった。
§ モニカとマルコ
週があけても健二のクラスは、カラーテレビの話でもりあがっていた。べべ子のまわりには、すこしでもべべ子に気にいられたいクラスメートたちがあつまっている。そこへ健二の登場だ。
「カラーテレビもすごいけど、ぼくはもっとすごいぞ」
タンちゃんが健二を見る。
「カラーテレビよりもすごいものって、なに」
「オリンピック選手に会ったんだ」
「うそ! どこで会ったの、すごいや」
「そうだろ。ぼくもびっくりさ。だからオリンピックはモニカの応援をするんだ」
「モニカ?」
べべ子が話に入る。
「そうだよ。外国から来た赤毛のモニカだ。べべ子の旅館の前ではなした」
「なーんだ。おどろいてソンしちゃったわ」
「なんだと」
べべ子にむかう健二を、タンちゃんが止めに入る。べべ子はわらって言った。
「だって、健ちゃんったら、おかしなことを言うから」
「オリンピック選手だって聞いたさ」
「モニカは日本語をはなせないのに? 健ちゃんには、わかったのかしら」
「ちゃんと『はい』と言ったよ」
「はあ~~」
べべ子がわざとらしく息をはいた。
「モニカはね、選手なんかじゃないわ。父親とふたりで日本に来ているの。父親の仕事の用事よ」
「なんだって」
「どうせ健ちゃんの早とちりでしょ」
べべ子が言うと、クラスのみんなもわらった。
「なーんだ」
「早とちりか」
「びっくりさせやがって」
「そうだよな。こんな下町に選手なんているものか」
みんなに言われて、健二の顔は、みるみるふくれていった。
帰り道。
まだ気持ちのおさまらない健二は、へび屋の前で立ち止まった。いつもここを通るときには、店さきのガラスのなかのへびをのぞいてゆくから。けれど今日は先客がいた。
モニカがガラスにへばりついていた。へびを興味ぶかそうに見ている。ガラスにうつった健二に気づいて、ふりむいた。
「こん××、にちは」
「うん」
そっけなく言った。モニカが首をかしげる。
「×××××××、××××××」
「わかってるよ。モニカのせいじゃない。ぼくがかってに、かん違いしただけさ」
「?」
「ああ、ゆっくり、かんたんに、だよね」
「ケンジ」
「へび、すごいだろ。店のなかには、もっといっぱいいるんだ。かわかして薬にするのさ」
「くすり? へび×××××」
「じゃあね」
モニカにもわかるように、手をふった。するとモニカが追いかけて来る。健二の手をつかんではなさない。
「ケンジ、×××まって、おねがい。しりますか」
「知らないよ。ぼくは、日本語しかわからないんだから、おとなに言ってよ」
「おとな、だめ。ケンジ、××××おねがい」
「なら、べべ子、いや旅館の尚子にたのめよ」
「なおこさん、いない。おいていく、モニカ」
「ははーん。さてはべべ子のやつ、いつもえらそうなことを言ってても、外国語がわからないからって、逃げてるんだな」
「?」
「ああ、こっちの話」
すこし健二がわらったところで、モニカがつかんでいた手にちからをこめた。
「あくしゅ。です」
「でもあれは、ぼくがかん違いしてたから」
「しるし。×××なかよし」
「だからさぁ」
「くすり、おねがい。×××しりますか」
モニカが健二の目を見る。よほどこまっているような気がしてきた。健二はあたりを見まわして、モニカの手をほどいた。おどろいたモニカが、かなしそうな顔をする。
「違うよ。ここは学校の帰り道だからさ、だれかに見られると、めんどうがふえるの。わかる?」
「ケンジ、ゆっくり。かんたん」
「もう、わかってるよ。で、なに。な、に、か、ぼ、く、に、おねがいですか」
「ケンジ、ありがとう」
モニカの顔があかるくなる。そしてこんどは、モニカが早口にはなしはじめた。
「×××××××、あっち××××××。くすり××××、××××。××××……」
「ちょ、ちょっと待って。わ、か、ら、な、い、よ。なにが言いたいのか。もっとゆっくり、日本語でさ」
モニカも言葉がわからなくて、イライラしているようだ。
「××××××っ。××××××!!」
また健二の手をつかんだ。
「だーかーらー、これはやめ……」
健二の声がおわらないうちに、モニカが引っぱる。
「ち、ちょっと」
「こっち。です」
「わかったから。これ、はなせって」
手をふりほどいた。モニカが健二を見る。
「だいじょうぶ。逃げないから、いっしょに行く」
「だいじょ…ぶ? オーケー。こっち、です」
健二はモニカのあとについて行った。
アメや横丁のはずれにそって歩き、町のはずれ近くの空き地に入る。モニカには知らない町のはずなのに、いちども迷ったふうもなく歩いていた。
ここは、ほとんど人の来ない場所だった。子どもも遊びに来ない。だから空き地といっても、夏に育ちすぎた雑草が、肩の高さにまでのびて密林地帯になっていた。
たしか奥のほうに、大きな水道の土管や古タイヤがころがっていたおぼえもあったけど、今はススキにかくされて見えない。
そんな密林をかきわけて、モニカは空き地の奥に入ってしまった。背の高いススキにはばまれて、モニカの背中が見えない。
「ちょっとモニカ、待ってよ」
「こっち、です」
モニカの服のそでがのぞく。健二はそっちの草をかきわけた。しばらく進むと、記憶の通り、大きな土管がなん本かよこたわっていた。人間ひとり、ひざを立てて入れるくらいの大きさでコンクリート製だ。
そのひとつの前で、モニカは待っていた。よこにくいのような木が立っていて、結んだヒモが土管のなかにつづいている。
モニカは健二が到着したのを確認すると、土管のなかに入ってしまった。健二もなかをのぞいてみる。
「ワン」
子犬だ。
モニカを見て、しっぽをふっている。両手でかかえこめるほど小さくて白い犬だった。うれしそうに立ちあがろうとする子犬を、モニカがおさえる。
「×××、××××。××」
「いいじゃない。のら犬なんだから、自由にさせてあげなよ」
「×××、だめ。たつ、いけない」
「かわいそうだよ。こんなに小さくても、ヒモで結ぶのはよくない」
「ケンジ、わからない、いう。×××××、けが、×××たつ、いけない」
「けが、この犬が? ちょっと見せて」
健二も四つんばいになって土管に入る。なかには、まわりにはえていた草が、ふとんのようにしきつめてあった。
よく見ると子犬の左うしろ足には、青い布がゆわえてあった。
「モニカのハンカチかい」
「はい」
「ちょっとだけ、とってもいいかな」
「××××××」
なにを言っているかわからなそうだったが、モニカはうなずいている。そして自分のひざの上に、子犬をのせた。健二がゆっくりとハンカチをほどく。
骨はだいじょうぶそうだけど、足首のあたりの肉がえぐられているようだった。傷はまだ新しくて、血もでていた。
「どうしてモニカが」
モニカが自転車にのる動きをはじめる。どうやら自転車にひっかけられたケガのようだ。
「見たの?」
「はい。さんにち、まえ。あるいている、×××、おとなの×××××××、マルコないた。うごかない、だけど、うごいた。けが、うごいた。×××××でる。たくさん」
「うん、わかった。よくわかったよ。それで血を止めて、子犬を動かないようにヒモで結んだんだね」
「×××××!」
モニカの声が大きくなる。事故を思いだしているみたいで、興奮して早口になってきた。かといって、健二だってどうするのがいいか、わからない。
この町には、たくさんののら犬が生きている。なかには、この子犬よりも小さな犬だって、自分のちからでエサを食べて、たくましくくらしていた。それをヒモでしばるのは、かわいそうに思えてくる。
ハンカチをはずしたまま考えている健二に、モニカがしびれをきらした。
「ケンジ、くすり。けが、いたい」
「ああそうだね。ヒモをほどくのは、それからでもいいね。そうすれば、自由に食べ物も見つけられるし」
ここで健二が気づく。
「エサ、この子犬の食べ物は。三日前からここにしばられているんじゃ、おなかがすくだろ」
ごはんを食べる身ぶりで、健二がはなす。モニカはなん度もうなずいて聞いていた。
「ごはん、モニカあさごはん。たまごゆで、×××××、いつも。たべる。ひとつ」
「ああ、べべ子の旅館はいつも、朝ごはんにゆで玉子がでるんだ。それを毎日持って来てたの?」
「×××? はい。アンド、すいどう」
でもそれだけじゃ、たりないかもしれない。また考えこむ健二をモニカがせかす。
「くすり、しりますか」
「そうだったね。モニカはここで待ってて。家から持って来るからさ。ぼくなら近道を知ってるから、すぐにもどって来るよ」
「ケンジ?」
「オーケー、だいじょうぶ。すぐ、もどる」
「××、ありがとう、ケンジ」
「いいさ。じゃあ、行ってくるね」
健二は土管からでて、またススキをかきわけて走った。
健二の知っている近道とは、ふつうの道ではない。金物屋の店さきから、開けっぱなしの玄関をぬけ、ションベン横丁からすだれをめくって、表の路地にでる。
言った通り、あっというまに赤チン薬を持って、空き地にもどった。モニカがおどろいた目で、草まみれの健二を見る。
「ケンジ、はやい……です」
「まかせてよ。この町はぜーんぶぼくの遊び場だからね。どこにうわばみがかくれているかも、みんなお見通しさ」
「うわ…ば……?」
「のき下を通ると、すぐにおこるガミガミおじじのことさ。それより、早く赤チンをぬろう」
「あかい、ち」
「血じゃないよ。ア、カ、チ、ン。ケガをすると、みんなこれをぬるんだ」
「はい」
健二が子犬に赤チンをぬる。おとなしかった子犬が、足をばたばたと動かしてあばれた。だからよけいに子犬の白い毛が、朱色にそまってしまった。また血がでてきているように見えて、モニカが心配そうな顔をする。
「しみていたいのは、くすりがきいてる証拠さ」
「ケンジ?」
「オーケー、だいじょうぶ。こんなケガなんて、すぐになおるよ」
「……はい」
「よしこれで終わり。くすりをなめないように、またハンカチでしばっておこう」
のら犬は、なんでも自分でなめてケガをなおすことを、健二は知っていた。
けれど、モニカが心配しているのはかわいそうなので、わざと赤チンをぬった。あとは、きちんと歩けるようになったら、ヒモをほどいてやればいい。
「モニカ」
「はい」
「ゆで玉子だけじゃ、おなかがすくと思うよ。体力つけて、早くケガもなおさないとダメだし」
「だめ、ですか」
「そうじゃなくて、こいつのごはんの話さ」
また健二がジェスチャーをする。
「はい。マルコ、おなかすきます」
「マルコ? こいつの名前」
「はい。マルコ、は、しんだ。なまえ、しろい、モニカなきます」
以前飼っていた白い犬の名前だった。だから自転車にはねられたとき、ほおっておけなかったのだった。
「あのさ」
健二が言う。じつは、さっき近道をしていたとき、名案がひらめいていた。
「もうすこしケガがなおったら、マルコをここから連れだしてもいいかな。たくさんエサがあるところを知ってるんだ」
「えさ、×××しります?」
「動物園さ。あそこなら動物がいーっぱいいるから、マルコの食べられるものくらいあまってるさ。マルコのごはんだよ、ご、は、ん」
「ごはん。はい」
「それまでは、ぼくも水や食べものを持って来るから」
健二は右手の小指をたてた。
「指きりだよ。約束のしるし、こうするんだ」
モニカの右手を引っぱって、小指をつなぐ。
「ゆびきりげんまん、うそついたらはりせんぼん、のーます」
「はり、せん……」
「おまじないの歌だよ、きっとね。約束の歌だ」
「やくそくの、しるし。なかよしのしるしは、あくしゅ。にほん、あります、たくさん」
「そうだよ。もっとたくさんの秘密のしるしだってあるんだ。タンちゃんとぼくだけのね。でもそれはナイショ、の、しるし」
健二が人さし指を口の前で立てて、シーッと言った。
夕方になって、ふたりは阿部旅館に帰って来た。
「ケンジ、ありがとう」
「また明日ね」
「はい」
手をふったとき、玄関ドアが開いてべべ子がでて来た。
「あら、めずらしい組み合わせね」
モニカがべべ子に近かよる。
「ただいま、なおこさん」
頭をさげてなかに入る。そのすきに逃げようとした健二が足を止めた。
「べべ子、モニカはゆで玉子が大すきなんだって。だから、朝ごはんのときは、ひとつじゃなく、ふたつかみっつ、もっと食べたいらしいよ」
「なによ、それ」
「だから、そういうことさ。よろしくな」
「ええ。お母さんにつたえとく」
「よっしゃあ。ありがとな」
「べ、べつに。ゆで玉子くらい」
めずらしく素直な健二の言いかたに、べべ子もびっくりした様子だった。
次の日だ。
今日の学校も、朝からべべ子のまわりは人だらけだった。教室に入った健二が、机にランドセルを置く。それをあいずに、べべ子の声がひびいた。
「カラーテレビがね、明日くることになったらしいわ」
「うおー」
「いよいよか」
「見たいわあ」
クラス中、大合唱だ。
たまらず健二もべべ子に近かよる。タンちゃんが健二の首に手をまわしてきた。
「すごいね、早く見たいよ」
べべ子の声はつづいた。
「それでね、今日は電気屋さんが来て、準備のための工事をするのですって」
タンちゃんが聞いた。
「カラーテレビの工事って、どんなことをするの? テレビのなかにペンキを入れるのかな。そしたら、なかの人間はどうなっちゃうんだろ」
「違うよ。地面に大きなあなをほるに決まってるだろ。な、健二」
ベーゴマ星人タケシも声をあげる。とうとう健二もワクワクしてきた。
「きっと、すごい工事さ」
「うん。うん」
健二の声に、タンちゃんがなん度もグローブ頭を動かす。タンちゃんがべべ子の机に手をついた。
「早く見たいね。べべ子、学校が終わったらぼくも、工事を見に行くよ」
「オレも」
ベーゴマ星人が手をあげる。
「わたしも」
「ぼくもぜったいだ」
クラスの半分が手をあげた。べべ子がが健二を見た。
「健ちゃんも来るでしょ」
「あたりまえさ。ね、健ちゃん」
かわりにタンちゃんがこたえる。けれど健二には約束があった。
「ぼく、今日は行けない」
タンちゃんが飛びつく。
「うそ、なんで」
「約束があるんだ」
「ぼく以外に、だれとの約束さ」
「うん……」
健二が言葉につまると、だれかの声がした。
「知ってるよ。きっと赤毛の女の子さ」
「てきとうなことを言うな」
タンちゃんが言い返す。
「だって見たぞ。きのう健二が外国人の女の子と、手をつないでいるところをさ。あれは、あやしいぞ~」
女の子のふりで、からだをくねらせた。それを聞いたクラス中が大さわぎだ。
「外国の女とデートか」
「チューはしたの? 外国じゃ、あいさつだろ」
「きゃー、いやん」
きのうの帰り道のことだ。やっぱりだれかに見られていた。
健二は、耳があつくなった。
――ガタン。
イスから立ちあがったのはべべ子だった。
「健ちゃん、それ、ほんとうなのかしら」
ほそい目を、さらにほそくしてべべ子が聞く。いつもなら反撃する健二だけど、今はそれどころじゃない。
「健ちゃん」
もういちどべべ子が言う。健二はべべ子とまわりのみんなを、ぎろりとにらんだ。
「そんなんじゃないよ。だけど、今日の約束はモニカがさきだから、べべ子のところには行かない」
「あらそう。べつにいいのよ。健ちゃんが来なくったって、工事には関係ないんだから」
それっきりべべ子はなにも言わなかった。健二も自分の席にもどる。タンちゃんが追いかけて来た。
「ほんとうに、行かないの」
「うん。なんだよ、べべ子のやつ。もうぜったいにカラーテレビなんか見に行くもんか」
すこしずつ落ちついてきて、いつもの健二にもどる。タンちゃんは、健二とべべ子の顔をかわりばんこに見てから、もういちど言った。
「明日は見に行こうよ」
「ううん。ぼくは行かない。べべ子のごきげんとりはイヤさ」
「そんなあ」
そこへベーゴマ星人タケシがやって来た。
「おい健二、モニカってだれだ。きのう言ってた、べべ子の旅館のお客か」
「うん。だけどみんなが言うのと、違うぞ」
「なーんだ、つまんない」
「ベーゴマ星人から、エッチ星人にするぞ」
「それはかんべん。で、どうした」
「うん」
健二はきのうのことをタンちゃんとタケシにはなした。今日、マルコのところへ行くことも言ったけど、やはりふたりはカラーテレビ工事のほうが気になるようだ。
「いっしょに行けなくて、ごめんね」
タンちゃんがハの字まゆげをさげて言った。
「オーケー、だいじょうぶ。それより、カラーテレビ工事の秘密を調査せよ。だぞ」
「オーケー。健二探偵も気をつけて」
右手で敬礼し合う。
「ふたりとも、外国にかぶれてやんの。そんなことだから、いつまでたってもオレのアカールに勝てないんだ」
ベーゴマ星人がわらった。
家に帰ると、健二はランドセルを玄関にほおりなげた。工事は夕方からだと、べべ子が言っていた。なのに、ななめ向かいの阿部旅館には、クラスメートが集まってきている。
こんななか、モニカを呼びに行けば、またなにを言われるか、想像するだけで、ゲンコツよりも頭がいたくなりそうだ。
健二はからの牛乳ビンに水を入れた。それから、ゆうべおかわりをしてかくしておいたごはんをまるめて、紙でくるむ。マルコのだ。
健二は玄関のなかでしゃがみこんだ。
ほおづえをついた健二の前には、あのげた箱があった。夏休みに出会った、白いおじいさんの顔がかさなる。
健二以外におじいさんを見た人はいなかった。お別れの日、手をつないでいた小さい女の子も、目のさっかくじゃなかった気がする。ふたりとも、この世にいない人たちだった。
ほんとうのことを知ったとき、ものすごくびっくりした。けれど、ちっともこわいとは思わなかった。
それどころか、また会いたい。また会えるって思ってる。
ほかのみんなに見えなくても、あのとき、おじいさんと健二はいっしょにいたのだ。
健二はげた箱の四すみの金具を指でこすった。あの日以来、こうやって砂をはらうのが日課だ。
「カラーテレビがくるんだってさ、すごいね。タンちゃんなんて、もう夢中さ」
金具のなかで、おじいさんがうなずいた。
「うん。モニカとマルコが待ってるよね」
健二が立ちあがる。玄関の模様ガラスを開けると、目の前にモニカがいた。
「こんにちは。ケンジ」
「うん、こんにちは。行こうか」
「はい」
モニカのうしろで、にやにや顔のクラスメートがこっちを見ている。ちょうど帰って来たべべ子も、よこ目で見ていた。健二はなにも気づかないふりで出発した。
空き地の土管につくと、ふたりの足音を聞いてマルコが飛びだして来た。青いハンカチを巻いた足はまだ引きずっていたが、しっぽをちぎれそうなくらいにふりふりしている。モニカがかけよった。
「××××、だめです。いたい、なおりません」
マルコをだきあげる。マルコは口を開けてモニカにじゃれていた。健二もしゃがんで、マルコをなでた。
「ずいぶん元気になったね」
「たまご。にこ、たべました」
「そっか。よかったな」
白い頭をぐしゅぐしゅとしたあと、持ってきたごはんと水をならべた。




