海野彩葵の物語⑥
今日は仮想空間にログインして、ある部屋にいる。この部屋は二人きりで会える場所。ここで僕はソファーに腰を下ろして、あおいさんのことを待っている。
最近のあおいさんは今までのあおいさんと少し違う気がする。だから今日もどんなことをするのか、してくるのか全く分からない。
それから数分して、あおいさんがこの部屋に入って来た。
「あお……い…さん」
「…似合っていませんか?」
姿を現した、犬耳のカチューシャや首輪のようなものも付けているのだ。いくらここが仮想空間の世界だとしてもまさかそんな恰好で登場するとは予想いていなかった。
「に、似合っていますよ」
「そ、そうかな。でも、そう言ってくれると嬉しい」
あおいさんは僕の隣に腰を落ろした。未だにまだその恰好について色々と思う所はあるものの、あんまり触れない方がいいのか。触れてもいいのかがあんまり分からないんだよね。似合っているかを聞いて来たってことは、望んでその恰好をしている。
「私って普段はこういうことしないんですけど、ユウさんは私のことを犬として認めてくれた。だからせめてこういう風に少しでも犬に近付きたいなって思ったんです」
「そ、そうなんですね」
確かに通話で『私をユウさんの犬にさせてください』というお願いに対して、『わ、わかりました』とは返した。
かなり困惑はしたけど、熱意がすごかったのであそこでは首を縦に振るしかなかった。
「あんまり形から入るタイプではないんです。でも、犬になるって言っても難しいので。今日だけは形から入りました」
そんな説明は別にしなくても。もうあおいさんが少し特殊な性癖を持っている方だというのは分かったので。
「ユウさんの犬になりました!」
「…う、うん」
本人がとても嬉しそうにしているのが、何とも言えない。自分からやって嫌がることなんてないと思うけど、そんな様子が見えれば『止めた方がいいよ』と言える。
でも、今のあおいさんの様子は今まで一度も見たことがないぐらいに嬉しそう。やっと長年の夢が叶った人みたい。
「あおいさん、嬉しそうですね」
「うん!とっても嬉しいです。ユウさんの犬になれたことが」
「…そ、それなら本当に良かったです」
今でも僕の頭は必至に処理をしているけど、追いついていないのにあおいさんはまた驚くべき行動に出る。
「…なにしているんですか?」
あおいさんは急に床に四つん這いになって、僕のことを上目遣いで見つめて来る。
「……犬になってみたかったんです」
「それで四つん這いに?」
「はい、少しでも犬に近付くために犬耳も付けました」
「…そうですか」
もう僕に言える言葉はこれしかない。だって目の前に、犬になりきろうとする人がいたとして、その人に対して何を言えばいいのだろうか。
なんて言葉を掛けてあげるのが正しいのか。
僕にはわからなかった。
「ワン、ワン!」
「……」
「ワン、ワン!」
あおいさんはそう鳴きながら何かを期待するような眼差しで僕のことを見て来る。ここで何が求められるのか、頭の良い人だったらすぐにわかるのかもしれないけど、生憎、僕はそこまで頭が良くない。
だから、あおいさんが何を求めているのか全く分からない。
それでもずっとあおいさんは「ワン!ワン!」と鳴き続けるのだ。
しばらく考え、僕が選択したのは――――
「お手」
僕はあおいさんの目の前に片手を出した。犬であれば当たり前のお手だけど、まさか人間にこんなことをすることになるとは思わなかった。
しばらく何もしてこないから、選択を間違えたかと思ったけど、次の瞬間にあおいさんは僕の手に自分の手を合わせた。
「ワン!!」
「………」
「ワン、ワン!!」
またあおいさんは何かを期待するような眼差しでこっちを見て来る。今日本当に考えることが多くて、仮想空間が終わったらすぐに寝よう。
必死に考え、思い付いたのは撫でるだった。もう犬と同じように接するのが、当たりなのかもしれないという考えだ。
だってあおいさんは自分を『犬』と思っているんだろうし。
撫でるとあおいさんはとても気持ちよさそうにしてくれているので、この選択は正しかったみたいだ。
「もっと撫でてください!」
犬は喋らないんだけど、なんて思ったりもした。でも、そう思ってしまう時点で僕もかなり入る混んでしまっているのかもしれない。
あんまり強く撫でると髪をボサボサにしてしまうので優しく撫で続ける。別にここは仮想空間だからそこまで気にしなくてもいいのかもしれないけど、見た目はそのまんまだからやっぱり気にするし、感覚は共有しているので強く撫でると普通に痛いはず。
その日、僕はたくさんの初めてを体験したのだった。




