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始  Mon sort sur vous

お待たせいたしました。

おそろしく、長くなってしまいました。

どうかお読みくださいますように。


「ニイタカ、罪人の貴方を選ぶほど、女は純粋じゃあなくてよ」


 嘲るようにティルニは嗤う。


「他の男を選ぶに決まっているわ、貴方を忘れてね。ほらね?」


 彼女の隣に立つ、あの男。

 高貴な地位に豊かな財力。人より遥かに抜き出た頭脳と手腕と人を引き付ける魅力を有したあの男は、何より、彼女を深く理解していた。

 敵わない。

 いっそ世界の果てに攫って行けたなら。誰の手も届かない、遥か遠くに。

 そうしたならば、彼女は。

 心の奥底で抱いていた私の浅ましい想いを、あの男は見抜き、羞恥と敗北感に打ちのめされた。私は彼女に相応しくない。

 彼女を幸せにできない。


 心密かに想う事すら、もう、許されない。


 私の黒ウサギ。

 可愛い私の。


「セシカさん」



「軍曹さん」

 口から漏れ出た微かな呼びかけに、まるで応答するように優しい声が響いた。

 幻聴だと思ったけれど、振り仰がずにはいられない。彼女がこのような深淵の世界にいる筈もないのに。あの人は色に溢れた世界が相応しい。

 一方、私は、光すら飲み込む闇の住人となり果てた。

 だが。

 鮮やかに引き裂かれる闇。

 差し込む光の洪水。

 向こうには、眩しい程の澄んだ青。


 そして。


「こちらにおいででしたか、軍曹さん?」


 空を背負った彼女が、鳥のように舞い降りたのだった。


 にこりと笑い、首を傾げる彼女の背に羽が見当たらないことが不思議だった。華奢な肩も白い首も、なだらかな頬も何もかも神聖過ぎた。

「…セシカ、さん」


「かえりましょう、軍曹さん」



「…帰る? そのような場所、何処にもありません」


 さらりと彼女の長い髪が揺れる。

「え、だって」

 ふいと逸らした視線の端で、彼女の髪の一部、右のこめかみに近い部分が不自然に短く映った。私の視線に気が付いたのか、彼女は短くなった髪を恥ずかし気にそっと隠した。

 問いたださずにはいられなかった。

「…これはどうしたのですか。鋭い刃物で切られたように見えますが?」

「え、ええと、これはその」

「まさか、誰かに切られたのですか?」

「ち、違…っ、じ、自分で切って」

「自分で?」


 つまり。

 自身で切り落としたならば、誰かに髪を贈ったと意味する。当然、相手は私ではない。胃よりも奥底から何かが沸々と湧き上がる。

 胸を焦がす黒い影の正体。

 それは。

 悋気。


「誰に贈ったのですか?」

 愚かだな、そう理解していても、勝手に動く口を止めることはできない。低くなった私の声音に、不穏を察知した彼女は、恐る恐るといった風情で見上げてきた。

「あ、あの」

「誰に、大切な髪を、贈ったのですか?」

 力を込めて問いかけると、彼女は涙目になり、少しずつ私から距離を置いた。それがどうしようもなく苛立たしく、なのに、最悪に可愛い。

 だから大きく一歩を踏み出して追い詰めずにはいられない。


「言わないと、抱きしめますよ?」


「い、いけませんっ」

 ぴょんと小動物のように飛び上がり、彼女はくるりと逃げ出した。翻った彼女の髪が青空に揺れて、舌打ちしたい気持ちだ。

 此処は現実では無い。

 ティルニを盾に取られ、腹部に致命傷を負った私は、多分最期の夢を見ているのだろう。なのに夢の中でさえ、彼女を得ることは叶わない。


「何故いけないのか、教えないあなたがいけない」


 彼女は黒ウサギで、私は狩人。

 こうして何度も追い詰めて、けれど、捕まえても捕まえても彼女は逃げて行く。もう少しでその細い腰を捉える寸前で、するりと躱された。

 くそ。


「ぐ、軍曹さん。意地悪しないで」

「意地悪はあなたですよ、セシカさん。私には髪など贈ってくださらなかったでしょう?」

「か、髪なんて…」

「真実の心が宿る髪は、特別な相手にしか贈らないとご存じですよね?」

「そんな、も、もっと良いものを差し上げますから」


 雲間を追い駆け合う私と彼女、その周囲の青空が変化した。

 綺麗に剪定された木々と咲き誇る花々が浮かぶ。

 懐かしい小径だ、この先を行けば、祖父が愛した異国風の館がある。黒い蝶ネクタイをした執事と、揃いのお仕着せの侍女たちが私の帰りを待っている。

 白い衣服の料理長に、厳めしく眉を寄せるココノエも。

 そして、おっとりと椅子に座る祖母。

「おかえりなさい、ニイタカさん」


「ね、私の髪よりもっと素敵でしょう?」


 生垣に囲まれた商家は、通い慣れたカン家。

 大きな腹部に手を当てているのは、ミレイ。薔薇色の頬をぷっくり膨らませ、傍らに寄り添うテゴを困らせている。


 額の真ん中で髪を分けたセーリク。

 太い眉をした直属の上司。帝学時代の友。社交界を彩る華麗な花たち。


 様々な顔が浮かんでは消えて行く。


「…良いもの? 素敵? 私が欲しいのは…」

「え?」

「あなたはちっとも分かっていません、セシカさん」


 私に心寄せる人がどれだけ存在しても、私は、あなたが良いのです。


「ぐ、軍曹さんったら、もうっ。皆さまの元へ帰りたいと思っていらっしゃるでしょう?」

 彼女は真っ赤になり、ぷくっと頬を膨らませる。いつの間に折ったのか、特殊な居り方をした白いハンカチを私の胸元へと放った。

 これは挑戦?

 彼女が?

「軍曹さんに挑戦します。私が勝ったなら、皆さまの所へ帰って下さいますか?」


 大きな瞳で見上げながら、正式な挑戦ですと彼女が宣言する。真剣なのだろうけれど、むしろ、可愛さは増すばかり。

 彼女は分かっていない。

 そんな顔をされたら、私の理性を壊すだけなのだと言うことを。


「…私が勝ったなら、いただきますよ?」

「え、何を、でしょう?」

「あなたを。セシカさん」


 少しばかり困らせようとした言葉に、予想外の返答がなされた。爽やかな風に流されて、小さな彼女の声が届く。


「…はい。軍曹さんが勝ったなら」


 は?


 現実の彼女ならば決して言いそうにない返事に、私の何かがぷちりと切れた音がした。そうですか。そう答えますか。

 私を狂わせる黒ウサギさん、そろそろ思い知るべきですよ。


「男は莫迦な生き物なのですよ、セシカさん」


「え、あの、ちょ、挑戦の内容はかくれんぼです。私を見つけてくださいね?」

 そう言った彼女は、厚い雲に隠れた。

 その雲の裏側に回り込むと唐突に頑健そうな建築物が現れる。木の扉が僅かに開き、関係者以外立入禁止と書かれた中に入り込んだ。

 窓が並んだ細い廊下。

 幾つかの扉を経て、広めの階段を昇降し、奥へ奥へと向かう。彼女は何処に隠れたのだろう。そうして、一つの部屋に行き着いた。

 扉に添えられた名札には。


 セシカ アサツキ。


 押し開けた部屋は狭く、質素な寝台があるだけだった。小さな机に向かい、椅子に座る後ろ姿。長い髪が肩を隠す。

「捕まえましたよ」

 ぎゅっと握り締めた白い腕は、何故か、彼女のものではなかった。振り向いた面は、射干玉の髪を結い上げた佳人。

 え?


「ティルニ?」


「貴方の勝ちね、ニイタカ」

 妖艶に微笑んだティルニに混乱し、辺りを見回した。けれども彼女の姿は何処にもない。いない。

「約束通り、あたくしをあげるわ」

 首にティルニの腕が巻き付き、引き剥がそうとしたけれど、固まったように身体が動かない。違う。私が探しているのは。

 セシカさん。

「ニイタカ。あたくしがセシカよ」


 なに?


「…軍曹さん」


 背中から囁く声が聞こえた。

 振り向けなくとも声の主は、彼女だ。だが身体は動かず、背中に伝わる熱に悶えたくなった。折角彼女が傍にいるのに、何故?

 振り向けない。

 声がでない。


「…最期ですから、ちょっとだけ甘えさせてください…」


 さいご?

 不吉な彼女の台詞に、嫌な予感が胸を掠める。その途端。

 足元が崩れた。

 胃の腑を押し上げる浮遊感。

 落下する先は、またしても闇の世界だ。いや、ティルニのうねる黒髪が全身に絡みついて、動きを阻んでいる。

 無理矢理首を上げれば、遥か遠くに青が見えた。その青には小さな人影があり、一人、彼女が取り残されている。

 セシカさん。

 遠ざかって行くのに、何故だろう、悲し気な微笑みが鮮明に見える。


「さようなら、軍曹さん」


 さようなら?


「…あなたは私のそらだから。どうかお戻りになって」


 戻る?


「どうかお幸せになって下さい」


 私の幸せはあなただ、セシカさん。

 あなたがいない世界では幸せになれない。


「さようなら、軍曹さん」





「この男さえいなければ…っ」

「やめなさい、サージェ、意識の無い者の胸ぐらを掴むものでは無いよ」

「あいつを苦しめるだけ苦しめ、更にその身さえ捧げさせた。そんな事実も知らずに眠るこの男を、許せというのか。イレフ」

「事実を知らないことは、むしろ不幸だよ」

「それがこの男の報いだろう」

「あの子が聞いたら悲しむ言葉だよ、サージェ」

「…アサツキ…」

「練国から迎えが到着したようだ。さっさと身柄を引き渡すとしよう」

「…この国から消え失せろ、メネリック。何も知らず、知らされずに眠ったまま。それがお前への罰だ」



「別れの時だね、友よ…君が見ているのは幸せな夢かな。それとも悪夢かな。ここで目が覚めたら面白いのに、君はそう思わないか? 答えをいつかくれるね、ニイタカ」



「天罰が下ったのよ、ニダカ」

 母である練国の女王は、雪のように儚げな容貌をしている。

 けれども、意識不明の重体であった息子を迎えに遥々光護国に自ら赴くほどの行動力を有し、割と辛辣な面も持つ。

 外見も中身も私は母に似ていると評されるが、そうだろうか?

「黒ウサギは天からの贈り物よ」

「…存じております」

「黒ウサギを発見しながら、他の女性と結婚するなんて。命の恩人に請われたとて受け入れてはいけなかったわ。天に唾棄する行為よ」

 ようやく意識を取り戻したばかりの病床の身に、母の叱責は延々と続いた。

「頭の硬いあの人を手に入れる為に、わたくしがどれだけ策を練り、陥落させたと思うの」

 父と母の思い出話は赤裸々過ぎ、正直、腹部の傷を抉る。

 更に。

「そんなことだから不能になるのよ」

 ぐ。

 事実だが、まさか母に見通されていたとは。

 思わず頭を抱えると、母は憐れみを乗せた声で言った。


「真実を聞く勇気があるかしら。わたくしの話は残酷よ?」


 列強の国々の中でも、練国は情報戦に強い。

 東の果ての国で起こった不祥事も、女王は正確に把握した。光帝の側近中の側近である〈貴〉のニルスス家が黒幕であったこと。

 一人の女性が生け贄となったことも。

 ニルスス家の罪を一身に背負わされ、忌み子であったティルニは口封じされた。対外的にはそう報道されているが、母が入手した事実と食い違う。

 密かに助けられた彼女は、全容を知る証人として、国の保護下にあるらしい。彼女の情報を基に、逃亡中であったニルスス家当主と長女は地方で逮捕された。

 そこまで話した母は、長いため息を吐き出した。

「ティルニも犠牲者だけど、死亡した者を思うとね…」

 母から渡された数枚の死亡者名簿。

 ティルニの下方にも名が綴られ、その少女は。


 〈武〉のセシカ アサツキ。


 はらり。

 書類が手から滑り落ちた。


 セシカさん?


「ま、さか…」

「この子の名前は厳重に伏せられていたわ…貴方の黒ウサギさんね?」

 彼女が死んだ?

 まさかそんな筈ない。だが。

 ぐらぐらと世界が揺れる中、意識不明の間に見たあの夢を思い出した。彼女の夢。さようならと、幸せになってと彼女は告げた。

 膝が戦慄き、床に崩れ落ちた。

「ティルニはセシカの名を譲られたと主張しているの。どこかの権力者が烈火の如く握り潰したみたいね」


 彼女がティルニに名を譲った?

 それは、何故だ?

 ティルニを救う為に?

 違う。

 私だ。

 私にティルニを与える為だ。

 私の為に。

 それが幸せだと信じて。

 私の幸せを願って、願って、願って。


 あの黒ウサギさんは。


「お幸せになってください、軍曹さん」



「…天罰ね」

 母の声が遠い。

 天罰ならば私が死ぬべきだろう、だのに何故、彼女が死ななければならない?

 神は無情で、どんなに祈りを捧げても、何一つ叶えてくれない。いつでも。手の中の大切なものを奪っていく。

 そんな神を信じるのか。否。

「信じ、ま、せん。彼女が死ぬはず、ありません」

 信じない信じない信じない。


 かち。


「かくれんぼです、私を見つけて下さいね?」


 脳裏を掠めた言葉。

 ああそうか、と、すとんと腑に落ちた。

 友よ、君は切り札をくれたのか。


「何か思いついたのかしら?」

「ええ。切り札を」

 母は素晴らしいわねと、一通の手紙を差し出した。裏を返せばリンとだけ書かれ、幾人もの手を介して届けられた事が察せられる滲み具合だった。

 本物のリンは自分の名前すら書けない。

「わたくしに何か頼み事はあるかしら」

 隠し封筒の仕掛けを、母は気付いていた。私が読み終えると同時に、ふふふと嗤う。私が何を決意したかお見通しらしい。

「では結婚式の手配を」

「任せて。直ぐに出国するでしょう? 帰国後直ぐに挙げられるよう手配しておくわ」

「感謝いたします」

「黒ウサギにはともかく行動あるのみ。貴方も巧妙に騙して…いえ囲い込ん…ともかく捕獲なさいな」



 練国から東にやや南下すると、北国との境界に聖剣山がそびえている。流石に病み上がりの身体に山越えは堪えた。

 けれど漏らした息はもう白く見えない。


 季節は春。


 彼女と約束した季節。


 空に続く緑の草原。

 咲き乱れる小さな花々。

 ひらりひらりと舞う蝶たち。


 神は、用意周到に準備していたのだ。

 この時の為に。


 辺境の駐屯地は平和で、良い旅をと敬礼を送られた。そこから少し離れた目的地では、青い空と明るい雲が迎えてくれた。

 躍動する駿馬たちに囲まれながら、巧みに制する深緑の制服。

 その傍に、異国風の青い衣を纏った小さな影が見える。

 ああ、私の唯一。

 気配を消して近づいたのに、馬の嘶きによって先ずは友に気付かれてしまった。明哲な額を覗かせて親友は、遅刻だなと嗤った。


「待たせたかな、セーリク」


「明後日には国のお偉方がみえるって。こんな僻地の駐屯地まで何を確認したいのだろうね?」

 背後に隠れたウサギに気を遣い、セーリクは声を潜めた。

 要するに、あの男、サージェット ウィアヌスは未だに彼女を諦めきれていないらしい。ぎりぎり間に合った事を神に感謝した。


「魔王は執念深い」

「それを君が言うのか、ニイタカ」

 まるで自分もそうであるような言い方だと思ったが、セーリクには恩がある。肩を竦めたに留めた。

 セーリクが与えてくれたのは切り札。

 意識のない自分に向けて、セーリクは、出会った頃と同じ言葉を別れの言葉とした。まさか、その言葉の裏側に、彼女を保護したと意味があったとは。

 自分以外、分かる者はいないだろう。

「感謝しているよ、セーリク。ついでに攫って行くことを許してくれるだろう?」

「君は爽やかな顔をして、本当に質が悪い。僕の苦労が分かるまいよ」



 

 あの男の包囲網をくぐり抜け、彼女を発見し、内密に北国まで護送するには骨を折ったであろう。

「あの海域に精通している地元民を利用した?」

「ご明察」

 彼女を捜索する為に、セーリクは地元民を頼った。結果、軍人よりも早く彼女を発見できたのだから、セーリクのここぞという時の強運は本物だ。

「長年貯蓄していた馬場建築費は、すっからかんになったよ」

 セーリクの夢は、手放した馬たちを取り戻すことだった。青空の下、馬たちと自由に駆け巡る妹が一番好きだったから。

 妹莫迦のセーリク。

「…それでも後悔していない。魔王は光帝妃にと望んでいて、そんな夢物語を信じる程、僕は馬鹿じゃない」


 …どうだろう、あの男ならやってのけたかも知れないが。

 

 そのセーリクの背中から、ひっく、小さな嗚咽が聞こえる。

 子どものようなそれに、胸が甘く震えた。

「かくれんぼは終わりですよ、セシカさん」


「ぐ、ん、そうさん…」


 軍曹さん。

 彼女は好きな相手ほど、名前を呼べなくなる。破滅的な恥ずかしがり屋なのだが、そこがまた可愛いと思うのだ。

「困った事に、私は軍曹位でなくなりました」

「え、じゃあ、こ、こまったさん?」

「こまったさん?」

 彼女の中で、私は不思議な呼び方をされているようだ。可笑しくてくすりと笑い、温かい熱に全身が満たされた。

 ああ、彼女といるとこんなにも心地良い。

「あなたが私を困らせているのですよ、セシカさん」

「だ、だって涙でみっともない顔をしているから…み、見ないで」


「今すぐセーリクの背中から出て来ないと口づけますよ?」


 ひぃ。

 彼女は本気の悲鳴を漏らしただけで、恨みがましい抗議をしたのは友だった。

「…ニイタカ」

 邪魔者は馬に蹴られるべきだろう。

 ので、傍らの馬の尻を無言で叩く。驚いた馬は大きく嘶き、爆走した。当然、手綱を握っていたセーリクは引き摺られ、文句だけを残して彼方へと消える。

 これで良し。


「かくれんぼは終わりと言ったでしょう、セシカさん?」

 両手でそっと彼女の頬を挟むと、髪の一部が短く切り取られていて、やはりあれは只の夢では無かったのだと背筋が凍る。

 この愛しい温もりを、永遠に失うところだった。

「…お願いですから、私を置いて行かないでください」

 彼女はぽろぽろと透明な雫を幾つも頬に滑らせて、軍曹さんが生きていらして嬉しいですと、何度も何度も呟いた。

 ああもう。

「見つけたら、あなたを貰う約束でしたね?」

「え?」

 果たせなかった幾つもの約束、その内の一つを実行しようと頬寄せた瞬間に、あ、と彼女は叫び飛び退ってしまった。

 私たちの間を、さらり、風が吹き抜ける。


「い、いけませんっ、軍曹さんには奥様がっ」

 真っ赤になり口を開閉させるだけで上手く言葉になっていないが、彼女はティルニが生きているので迎えに行けと言いたいらしい。

 めらりと嫉妬心が燃え立つ。

「彼女は亡くなった、そう、彼女本人から手紙が届きましたよ」

「は?」

 リンの名を使用した手紙の正体。それは別の名となったティルニから送られたものだった。新たな人生を送るつもりだと書かれたそれは、あなたにはもう妻がいないのよと結ばれていた。


 心の赴くままに、と。


「死者の眠りは暴いてはいけないのですよ。セシカさん」

 

 軍曹さんと呟く黒ウサギさん、もう決してあなたを逃すつもりはありませんよ?


「今日はあなたの許しを請いに参りました」

 ぱちぱちと瞬きする彼女の両手を握り、片膝を付く。わたわたと慌てる彼女の思考回路を塞いでしまうことが肝要だ。

「あなたは帝都で、私の親戚たちに酷い手打ちをされた。それでも私の家族を守って下さったあなたに、心からの感謝を」

「わ、私、力不足で」

「そんな健気なあなたに対し、私は不実な裏切りを犯した。まあ、あなた以外の女性とはできないのですが」

「え?」

「いえ、何でもありません。こうして触られることもお嫌でしょう?」

「ま、まさか」

「許して下さるのですか?」

「は、はい」

「なら」


「あの馬車での時のように、好きと言って下さいますね?」


 あの頃の記憶は現か夢か曖昧なものばかりだが、馬車の扉を開けた彼女の姿は鮮明に覚えている。私の元に舞い降りた、私だけの天女。

 すり抜けようとする彼女の手を、逃さぬよう力を注ぐ。

 二度とそらに還さぬように。

「きっ聞こえて」

「あなたの声を聞き逃したりしません。どうかもう一度聞かせて下さい」


 これ以上ない程赤く染まった彼女は可愛すぎ、抱きしめられずにはいられなかった。小さな指を開き、私の裾を握る姿に理性は引き千切られたから。

「ひゃあっ」

 草原に寝転び、ぐるぐると回る。

 ぐったりした彼女の鼻を甘噛みする。

「お返しですよ」


 子どものようなことをしたいと思うのも、実際に実行するのも、彼女にだけ。


「私は怒っているのですよ、この上も無く」

 ティルニの詳細な手紙により、船での彼女の行動を知った。やはり彼女の髪を貰ったのはあの男で、初恋もあの男らしい。

 何より、身代わりに命さえも投げ出そうとする彼女の愚かさに、目眩がした。

 けれど、それは全て、私を想ってのことだ。

 莫迦で愛しい、私の黒ウサギ。

「…ごめんなさい」

「許します、ある一部を除いて。私もあなたに謝罪しなければ。遠くへ攫うのだから」

「え」

「あなたがいないそらの下で、私に幸せはありえないのです」


 互いを思いやる余り、私たちは間違えた。

 多分それは。


 私たちが、神の選んだ一対だから。


 互いの幸せを願うならば、離れていてはいけない二人だから。


「あなたは私のそら。私だけの黒ウサギ、どうか心を聞かせて下さい」

「…だ、大好き、です」


「わ、私にはあなただけです。ニイタカ様、あなただけ」


 小さな小さな囁きに、ああようやく望みが叶えられ、破顔する。


「もう一度」

「だ、大好き、です」

「もう一度」

「だ、大好き」

「もう一度」

「い、意地悪なさらないで」


 意地悪でしょうか?


 あなたこそ意地悪ですよ。

 私をあなた無しではいられなくしたくせしてね。

 魔法をかけたのは、あなたの方。


 この責任はたっぷりと教えて差し上げますから。

 二度と他の男を近づけたりしませんよ。

 身をもって学んでくださいね。


「愛しています、セシカさん」




 我が国で伝わる幸福の伝承。

 黒ウサギが現れたなら何をしてでも捕えることを、皆さんは既にご存知でしょう。ええ、有名なお話ですからね。

 遠い昔、魔法使いと称された王子と愛らしい黒ウサギのお話は?

 ご存じない?

 大勢の国々と交渉し、技術と知識をこの国にもたらした稀代の魔法使いの裏側を、今日はお聞かせいたしましょう。

 春にこの国が緑に染まり、れんげの花が咲き乱れるようになったこと。

 耐寒ガラスを発明し、空の青を年中楽しめるようになったこと。

 大陸一の駿馬を代表に、様々な動物たちの楽園であることも。

 それは全て。

 彼の妻であった黒ウサギの為に、彼が魔法を駆使した故なのです。

 結婚式に誓う、あなたのそらとなります、との言葉も彼が最初でしたね。

 夜空に輝く亜麻色の月に黒いウサギの影が寄り添って見えることも、今でも二人の仲睦まじい証拠なのです。

 生涯、あなただけと誓い合った二人。


 あなたにも黒ウサギが見つかりましたか?



 どうかその時には。

 逃さず手にいたしますように。


 きっと幸せになりますよ。




星の数ほど存在する中で、ちっぽけなこのお話を見つけ、お読みくださった方々。

途中、かなり時間が空いてしまい、本当に申し訳ない限りです。

もしもお待ちいただいた方がいらしましたら。

少しでもこのお話を気に入って下さったなら。

本当に嬉しく思います。


目を通して下さって、ありがとうございました。


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