終 そらへ還らなければなりません
注意報、発令中。
ごおぉん。
不気味な轟音が響き、そして、船は不規則に揺れ、最早立っていることも困難でした。
空気の塊がごぼりごぼりと泡立つ昏い海面、私たちのすぐそこまで迫ってまいりました。この船が沈没するまでの時間はもう間もなくでしょう。
私は。
たった一つしかない浮き具はティルニ様にお渡しし、その綱を私が引いて社長の小舟まで泳ぐつもりでおりました。
頭の中では。
けれど、それは無理なようです。
かつん。
「きゃあっ」
私たちが掴んでいたか細い手摺に、一本の矢が打ち込まれたのです。
闇に紛れるよう黒に塗られた短い矢は、空気抵抗の少ない遠距離用。多分、先程から近づいて来られた小型艇から射たのでしょう。
小型艇の死角となる太い柱の陰に、慌てて、ティルニ様を引き摺りました。
「とても逃げられないわ」
彼らは、私たちが海に飛び込んだとしても追って来るのでしょう。
「あたくしが此処で死ななければ、彼らは納得しないのよ」
殆ど悲鳴のようにおっしゃいました。
身を伏せたまま、私はティルニ様と船縁へと移動します。下を覗き込めば、海面はそう離れておりませんでした。
何て、幸いでしょう。
巡らされた手摺りの隙間をくぐり抜け、ティルニ様のお身体を押し出しました。
星と月の加護の無い夜。
吸い込まれそうな昏い海。
決断の時が来たのです。
にこり。
首を傾げて笑えば、ティルニ様の眉間も少し緩みました。手荒で申し訳ないのですが、浮き具を頭から被せます。
「駄目よ」
「そうおっしゃらないで」
「駄目。あたくし、これを使えないわ。あの尊大な王子が許さないもの」
「王子?」
「そうよ、黒い眼をしたあなただけの王子。浮き具はあなたが使いなさい、でなければ、あたくしは殺されるわ」
きっと社長の事でしょう。
けれど、ええと、社長は冷静で公平なお方です。先程はちょっと慌てていらしましたが、浮き具のこともきっと分かってくださいます。
「莫迦ね、王子はあなたの為なら何だってするわよ。あたくしを殺すこともね」
どうしましょう、誤解が解けません。
少し考えてから、翡翠のかんざしをお返ししました。そして、右のこめかみの髪を一房、持ち上げて。
「髪を切っていただけますか?」
怪訝なお顔をなさいましたが、再度お願いしますと、ティルニ様はかんざしを受け取られてくるりと指先で回しました。
すぱり。
何て鮮やかなお手並みでしょう。
小気味良く感じる程の切れ味は、かんざしに使われるだけでなく、暗器としての道具だったのでしょう。
「ありがとうございます」
「それで、どうするつもり?」
折良く、社長からハンカチをいただきましたし、丁寧に包み込んで細長く折り畳みました。それを使い、ティルニ様の射干玉の髪を高く結いました。
まあ。
顕わになった頬も首筋も、何て美しいのでしょう。
「これをお渡しくだされば、きっと分かってくださいます」
「…あの王子に、あなたの髪を渡せと言うの?」
少し咎めの色を乗せられた艶やかな唇。
「髪を渡すことは、特別な行為よ」
「はい」
光護国の女性にとって、髪は特別。
特別な人の為にお贈りするもの。
ちょっと意味は違うかも知れません。
けれど、社長は特別に信頼しておりますと、心を込めたつもりです。
「ニイタカに贈るべきよ」
「…軍曹さんには、あなたを贈ります」
見開かれた美しい瞳には、へにゃりと笑う私の顔が映っておりました。
どん。
私の単衣に身を包まれた背中を押しました。
「ちょ…っ」
下方から聞こえる水音。
急いで覗き込めば、良かった、海面には浮き具と共にティルニ様のお姿が見えました。その驚愕されたお顔に向けて、私は唇の前に立てた人差し指を当てました。
どうか、お聴きください。
「弧を描き陸へと潮は流れています。逆らわず、浮き具に身を任せて」
「あなたも飛び込みなさいっ、早くっ」
いいえ、私は。
「お見えになりますか?」
ついと指し示した方向に見えるのは、水面に点々と浮かぶ灯りたち。その内の一つに、一際明るく青く輝く光。
合図です。
私のお願いを、社長は叶えてくださったのです。特別な灯りをご用意くださった。
「青い光。あそこにございますのは、未来」
未来。
「あなたも一緒に行くのよ、アサツキっ」
切羽詰まったお声に、私は首を振りました。
いいえ。
未来が用意されているのは、私ではございません。それは、あなたに。
「あなたがセシカ アサツキです」
だから、ご一緒できません。
風と海流に味方され、浮き具と白いお顔はぐんぐんと遠ざかって行きます。もう見えませんが、黒いリボンが揺れていることでしょう。
黒いリボンは、軍曹さんを想う心。
あなたに託します。
豊かな髪をお結いした白いハンカチが、闇の中、ゆっくりと翻ります。ひらり。ひらり。ああ、それはまるで。
さようならと言っているみたい。
さようなら。
さようなら。
「どうぞ、ご無事で」
私の決断は。
きっと兄さまを、父さまを悲しませるでしょう。もしかしてイレフ様や社長も惜しんでくださるかも知れません。
伯母様ならば、珍しく褒めてくださるかしら。
「ミレイ様からは叱られそう…」
ごめんなさい。
でも、私。
この方法しか選べません。
だって、私は。
軍曹さんが命を懸けてお守りするのであれば、私も。
私も。
命を懸けてお守りしたいのです。
軍曹さんの腕の中へお返しすることこそ、私の使命。
「…軍曹さんをお願いします」
「ばかぁ…っ」
遠ざかるお声を背にして、私は勾配になった船床を這い、柱の向こう側へと回り込みました。その途端、ひゅん、放たれた矢が身を掠めました。
そう、私を狙ってください。
決して身代わりだと気づかれませんように。
ぎぎ。
ぎぎぎ。
不気味な軋む音。
意を決し、小型艇からも見える船縁に立ちました。あそこにいる、そんな喧騒が小型艇から聞こえてくるように感じます。
ええ、私は此処です。
きちんと背筋を伸ばし、弾むように水面へと飛び込みました。闇よりも濃い色をした海水は、思っていた以上の冷たさです。
「海ってこんなにも泳ぎにくいの…」
実は、私。
伯母さまとの特訓は川ばかりで行われ、海で泳いだことはございませんでした。
それでも泳がなければなりません。
ティルニ様が社長の元に無事辿り着くまで、矢を放たれようと、波間に頭から沈もうと、泳ぐのです。塩辛い海水が喉を塞ぎ、涙が滲みました。
泳いで。泳いで。
足も手も重く痺れ、海水に浸かった髪は鉛のようです。
どれだけ泳いだでしょう。長く感じましたが、実際には短いのかも知れません。もう時間の感覚は失われておりました。
ティルニ様は、ああ、無事に社長の元へ辿り着かれたでしょうか。
いいえ。
まだかも知れません。ならば、もっと注意を引かなければ。
苦しい。
苦しい。
限界でした。
指先一つさえ、もう、自身のものではない感覚。
「ぐ、んそ、う、さん」
必死で噤んでいた口から零れ落ちたのは、口にするまいと誓った方の名前。
いけないと我慢すればするほど、私の胸に住んでいる小鳥が羽を揺らすのです。ああ。抑え込んでも、どうしてこの小鳥は羽ばたきを止めないの?
どうして、好きを止められないの?
私のばか、ばか、ばか。
「…軍曹さん」
この想いはもう、駄目なのに。
あなたにとって、迷惑にしかならないのに。
「それでも、私は」
あなたが好きなのです。
こつん。
何かが肩にぶつかりました。それは海の底から不自然に生えた木のようにも見え、いいえ、脱出した筈の船の主柱でした。
遠く離れたと思っていましたが、結局、ぐるりと流されただけだったのでしょう。ではティルニ様はどうなったのでしょうか。
私には、誰もお守りできないの?
「そんな…」
絶望が押し寄せました。
必死で主柱に掴まり、痺れた両腕で泥のような体を支え、無理矢理よじ登りました。はあはあと息が切れて、そして。
目にしたものは。
青い光。
あの青い光が、ぐるぐると回転しているではございませんか。
ああ。
ああ。
ティルニ様は無事に辿り着かれた。
そう確信できたのです。
「良かった」
これで思い残すことは何もございません。
ほっと安堵した私の頬の直ぐ傍を、ひゅう、掠めた熱。
熱い。
そう思う間もなく、その炎はじゅっと音を立てて海面に沈みました。
「火矢…?」
一番接近している小型艇に、人影が見えました。焦れた余り、とうとう火矢を放ったのでしょう。ひゅうん。ひゅうん。
風を切る矢の音に、決して逃すまいと妄執を感じました。
不思議です。
どうしてちっともこわくないのでしょう。
闇を裂く火矢たちの灯りに、むしろ、心はとても凪いで。
「神様?」
ああ、此処は神様の隣。
だから、こわくない。
「…私、守り切れましたか…?」
まるで神様が返事をしてくださったかのように、ふわり、一陣の風が吹いて。
濡れた私の髪が踊り、空を閉ざしていた厚い雲を押し流したのです。隙間から差し込むのは、ずっと待ち望んでいた恋しい光。
亜麻色。
まあるいまあるいお月様。
「魔法使いさん」
嬉しくて、にこりと微笑みました。
以前。
あなたは堕ちたとおっしゃいましたね。
今ならば、私はこうお答えするでしょう。堕ちたあなたの欠片を探します、と。大地に散らばったあなたの欠片を残らず、私は、探します。
「そうしたら、あなたはそらに戻ってくださるでしょう?」
あなたは私のそら。
私の還るべき居場所。
私の全て。
「…大好き、ニイタカ様」
大好き。
大好き。
大好き。
あなただけ。
私には、あなただけ。
「あなたに届かなくて良かった…」
あの馬車の中で私の声が聞こえていらしたならば、きっと、あなたは私を不憫に思ってくださるでしょうから。
でも、あなたのお傍には。
私ではないから。
だから。
この想いは、秘密です。
私だけの秘密。
「私の名前だけは…お傍に置いてくださいね?」
神様は、内緒になさってくださるかしら。
そらに向かって精一杯手を伸ばして、ああ、ほらもうすぐ届きます。
神様。
神様。
どうかお願い致します。
あのお方がお幸せでありますように。
それは光護国の物語。
海の国の人魚が、陸に住む王子に恋をしたお話。
大いなる魔法使いによって大地へ飛び出した人魚は、後に気が付くのです。人魚が心から好きになったのは、王子ではなく魔法使いだったと。
けれども、遅すぎたのです。
魔法使いは、既に別の女性を選んでしまいました。悲しみに暮れる人魚に、女性は、人間の愛を示します。
愛、それは刃でした。
人間の愛を知った人魚は、二度と海の国に戻れません。人魚にできることは、その身を捧げることだけ。
そうして、海の泡となって人魚は消えてしまったのです。
全てをご覧になった神は憐れみ、人魚の魂をそらへと還してくださいました。
光護国に伝わる物語は、今、ここで。
そらへ還らなければなりません。
お読みいただき、ありがとうございました。
セシカのお話は、これで最後となります。




