表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
28/30

終  そらへ還らなければなりません

注意報、発令中。


 ごおぉん。


 不気味な轟音が響き、そして、船は不規則に揺れ、最早立っていることも困難でした。

 空気の塊がごぼりごぼりと泡立つ昏い海面、私たちのすぐそこまで迫ってまいりました。この船が沈没するまでの時間はもう間もなくでしょう。


 私は。

 たった一つしかない浮き具はティルニ様にお渡しし、その綱を私が引いて社長の小舟まで泳ぐつもりでおりました。

 頭の中では。


 けれど、それは無理なようです。


 かつん。


「きゃあっ」

 私たちが掴んでいたか細い手摺に、一本の矢が打ち込まれたのです。

 闇に紛れるよう黒に塗られた短い矢は、空気抵抗の少ない遠距離用。多分、先程から近づいて来られた小型艇から射たのでしょう。

 小型艇の死角となる太い柱の陰に、慌てて、ティルニ様を引き摺りました。

「とても逃げられないわ」

 彼らは、私たちが海に飛び込んだとしても追って来るのでしょう。

「あたくしが此処で死ななければ、彼らは納得しないのよ」

 殆ど悲鳴のようにおっしゃいました。

 身を伏せたまま、私はティルニ様と船縁へと移動します。下を覗き込めば、海面はそう離れておりませんでした。

 何て、幸いでしょう。

 巡らされた手摺りの隙間をくぐり抜け、ティルニ様のお身体を押し出しました。


 星と月の加護の無い夜。

 吸い込まれそうな昏い海。


 決断の時が来たのです。


 にこり。

 首を傾げて笑えば、ティルニ様の眉間も少し緩みました。手荒で申し訳ないのですが、浮き具を頭から被せます。

「駄目よ」

「そうおっしゃらないで」

「駄目。あたくし、これを使えないわ。あの尊大な王子が許さないもの」

「王子?」

「そうよ、黒い眼をしたあなただけの王子。浮き具はあなたが使いなさい、でなければ、あたくしは殺されるわ」

 きっと社長の事でしょう。

 けれど、ええと、社長は冷静で公平なお方です。先程はちょっと慌てていらしましたが、浮き具のこともきっと分かってくださいます。

「莫迦ね、王子はあなたの為なら何だってするわよ。あたくしを殺すこともね」

 どうしましょう、誤解が解けません。

 少し考えてから、翡翠のかんざしをお返ししました。そして、右のこめかみの髪を一房、持ち上げて。

「髪を切っていただけますか?」


 怪訝なお顔をなさいましたが、再度お願いしますと、ティルニ様はかんざしを受け取られてくるりと指先で回しました。

 すぱり。

 何て鮮やかなお手並みでしょう。

 小気味良く感じる程の切れ味は、かんざしに使われるだけでなく、暗器としての道具だったのでしょう。

「ありがとうございます」

「それで、どうするつもり?」


 折良く、社長からハンカチをいただきましたし、丁寧に包み込んで細長く折り畳みました。それを使い、ティルニ様の射干玉の髪を高く結いました。

 まあ。

 顕わになった頬も首筋も、何て美しいのでしょう。


「これをお渡しくだされば、きっと分かってくださいます」

「…あの王子に、あなたの髪を渡せと言うの?」

 少し咎めの色を乗せられた艶やかな唇。

「髪を渡すことは、特別な行為よ」

「はい」


 光護国の女性にとって、髪は特別。

 特別な人の為にお贈りするもの。


 ちょっと意味は違うかも知れません。

 けれど、社長は特別に信頼しておりますと、心を込めたつもりです。


「ニイタカに贈るべきよ」

「…軍曹さんには、あなたを贈ります」


 見開かれた美しい瞳には、へにゃりと笑う私の顔が映っておりました。

 どん。

 私の単衣に身を包まれた背中を押しました。


「ちょ…っ」


 下方から聞こえる水音。

 急いで覗き込めば、良かった、海面には浮き具と共にティルニ様のお姿が見えました。その驚愕されたお顔に向けて、私は唇の前に立てた人差し指を当てました。

 どうか、お聴きください。

「弧を描き陸へと潮は流れています。逆らわず、浮き具に身を任せて」

「あなたも飛び込みなさいっ、早くっ」


 いいえ、私は。


「お見えになりますか?」

 ついと指し示した方向に見えるのは、水面に点々と浮かぶ灯りたち。その内の一つに、一際明るく青く輝く光。

 合図です。

 私のお願いを、社長は叶えてくださったのです。特別な灯りをご用意くださった。

「青い光。あそこにございますのは、未来」


 未来。


「あなたも一緒に行くのよ、アサツキっ」

 切羽詰まったお声に、私は首を振りました。

 いいえ。

 未来が用意されているのは、私ではございません。それは、あなたに。


「あなたがセシカ アサツキです」


 だから、ご一緒できません。


 風と海流に味方され、浮き具と白いお顔はぐんぐんと遠ざかって行きます。もう見えませんが、黒いリボンが揺れていることでしょう。

 黒いリボンは、軍曹さんを想う心。

 あなたに託します。

 豊かな髪をお結いした白いハンカチが、闇の中、ゆっくりと翻ります。ひらり。ひらり。ああ、それはまるで。

 さようならと言っているみたい。


 さようなら。

 さようなら。


「どうぞ、ご無事で」



 私の決断は。


 きっと兄さまを、父さまを悲しませるでしょう。もしかしてイレフ様や社長も惜しんでくださるかも知れません。

 伯母様ならば、珍しく褒めてくださるかしら。


「ミレイ様からは叱られそう…」


 ごめんなさい。


 でも、私。

 この方法しか選べません。

 だって、私は。


 軍曹さんが命を懸けてお守りするのであれば、私も。

 私も。

 命を懸けてお守りしたいのです。


 軍曹さんの腕の中へお返しすることこそ、私の使命。


「…軍曹さんをお願いします」




「ばかぁ…っ」


 遠ざかるお声を背にして、私は勾配になった船床を這い、柱の向こう側へと回り込みました。その途端、ひゅん、放たれた矢が身を掠めました。

 そう、私を狙ってください。


 決して身代わりだと気づかれませんように。


 ぎぎ。

 ぎぎぎ。


 不気味な軋む音。

 意を決し、小型艇からも見える船縁に立ちました。あそこにいる、そんな喧騒が小型艇から聞こえてくるように感じます。

 ええ、私は此処です。

 きちんと背筋を伸ばし、弾むように水面へと飛び込みました。闇よりも濃い色をした海水は、思っていた以上の冷たさです。

「海ってこんなにも泳ぎにくいの…」

 実は、私。

 伯母さまとの特訓は川ばかりで行われ、海で泳いだことはございませんでした。

 それでも泳がなければなりません。

 ティルニ様が社長の元に無事辿り着くまで、矢を放たれようと、波間に頭から沈もうと、泳ぐのです。塩辛い海水が喉を塞ぎ、涙が滲みました。


 泳いで。泳いで。


 足も手も重く痺れ、海水に浸かった髪は鉛のようです。

 どれだけ泳いだでしょう。長く感じましたが、実際には短いのかも知れません。もう時間の感覚は失われておりました。

 ティルニ様は、ああ、無事に社長の元へ辿り着かれたでしょうか。

 いいえ。

 まだかも知れません。ならば、もっと注意を引かなければ。


 苦しい。

 苦しい。


 限界でした。


 指先一つさえ、もう、自身のものではない感覚。


「ぐ、んそ、う、さん」

 必死で噤んでいた口から零れ落ちたのは、口にするまいと誓った方の名前。

 いけないと我慢すればするほど、私の胸に住んでいる小鳥が羽を揺らすのです。ああ。抑え込んでも、どうしてこの小鳥は羽ばたきを止めないの?


 どうして、好きを止められないの?


 私のばか、ばか、ばか。


「…軍曹さん」


 この想いはもう、駄目なのに。

 あなたにとって、迷惑にしかならないのに。


「それでも、私は」


 あなたが好きなのです。


 こつん。

 何かが肩にぶつかりました。それは海の底から不自然に生えた木のようにも見え、いいえ、脱出した筈の船の主柱でした。

 遠く離れたと思っていましたが、結局、ぐるりと流されただけだったのでしょう。ではティルニ様はどうなったのでしょうか。

 私には、誰もお守りできないの?

「そんな…」


 絶望が押し寄せました。


 必死で主柱に掴まり、痺れた両腕で泥のような体を支え、無理矢理よじ登りました。はあはあと息が切れて、そして。

 目にしたものは。


 青い光。

 あの青い光が、ぐるぐると回転しているではございませんか。


 ああ。

 ああ。


 ティルニ様は無事に辿り着かれた。

 そう確信できたのです。


「良かった」


 これで思い残すことは何もございません。


 ほっと安堵した私の頬の直ぐ傍を、ひゅう、掠めた熱。

 熱い。

 そう思う間もなく、その炎はじゅっと音を立てて海面に沈みました。


「火矢…?」


 一番接近している小型艇に、人影が見えました。焦れた余り、とうとう火矢を放ったのでしょう。ひゅうん。ひゅうん。

 風を切る矢の音に、決して逃すまいと妄執を感じました。

 不思議です。

 どうしてちっともこわくないのでしょう。

 闇を裂く火矢たちの灯りに、むしろ、心はとても凪いで。


「神様?」


 ああ、此処は神様の隣。

 だから、こわくない。


「…私、守り切れましたか…?」


 まるで神様が返事をしてくださったかのように、ふわり、一陣の風が吹いて。

 濡れた私の髪が踊り、空を閉ざしていた厚い雲を押し流したのです。隙間から差し込むのは、ずっと待ち望んでいた恋しい光。


 亜麻色。


 まあるいまあるいお月様。


「魔法使いさん」


 嬉しくて、にこりと微笑みました。


 以前。

 あなたは堕ちたとおっしゃいましたね。

 今ならば、私はこうお答えするでしょう。堕ちたあなたの欠片を探します、と。大地に散らばったあなたの欠片を残らず、私は、探します。


「そうしたら、あなたはそらに戻ってくださるでしょう?」


 あなたは私のそら。

 私の還るべき居場所。


 私の全て。


「…大好き、ニイタカ様」


 大好き。

 大好き。

 大好き。


 あなただけ。

 私には、あなただけ。

 

「あなたに届かなくて良かった…」

 あの馬車の中で私の声が聞こえていらしたならば、きっと、あなたは私を不憫に思ってくださるでしょうから。

 でも、あなたのお傍には。


 私ではないから。


 だから。


 この想いは、秘密です。

 私だけの秘密。


「私の名前だけは…お傍に置いてくださいね?」


 神様は、内緒になさってくださるかしら。



 そらに向かって精一杯手を伸ばして、ああ、ほらもうすぐ届きます。


 神様。

 神様。

 どうかお願い致します。


 あのお方がお幸せでありますように。






 それは光護国の物語。

 海の国の人魚が、陸に住む王子に恋をしたお話。

 大いなる魔法使いによって大地へ飛び出した人魚は、後に気が付くのです。人魚が心から好きになったのは、王子ではなく魔法使いだったと。

 けれども、遅すぎたのです。

 魔法使いは、既に別の女性を選んでしまいました。悲しみに暮れる人魚に、女性は、人間の愛を示します。

 愛、それは刃でした。

 人間の愛を知った人魚は、二度と海の国に戻れません。人魚にできることは、その身を捧げることだけ。

 そうして、海の泡となって人魚は消えてしまったのです。

 全てをご覧になった神は憐れみ、人魚の魂をそらへと還してくださいました。


 光護国に伝わる物語は、今、ここで。



 そらへ還らなければなりません。





お読みいただき、ありがとうございました。


セシカのお話は、これで最後となります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ