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二十七 夜よ、許して

長めです。


「…はい?」


「お前の淹れた茶を、俺は、もうずっと飲んでいない。お前が握った白飯も喰っていない」


「俺は、南区の邸の頃のように、お前と居たい。俺の元へ帰れ、アサツキ」

 はいと言え。

 そうおっしゃって私に伸ばされた、社長の大きな右手。


 ぐらり。


 船が大きく縦揺れして、不意の出来事でしたので体勢を崩してしまいました。私の左頬に社長の指が強めに当たって、い。

「いたっ」

 びりっとした痛みが走り、思わず、後ろに飛び退きました。

 今まで痛みを感じなかった事が不思議なくらい、頬はじんじんと熱を伴っておりました。確か、キティル様に鞭打たれた箇所です。

「その傷は何だ、アサツキ」

 え、えっと。

 冷え冷えした空気を背負われた社長に、本当の事は言えません。にじりにじりと後退って、追及を逃れる私の前に、腰に手を当てられた奥様が立ち塞がってくださいました。

「鈍い王子ね、今頃傷に気付いたの?」

「お前の仕業か」


 ひ。


 低い深みのある社長のお声が益々低められて、多少慣れた私でも、少し怖く感じてしまうのですが、奥様は平気そうでした。

 す、すごい。

「あたくしではないけれど、キティルのせいね。姉として謝罪するわ」

 姉?

 不思議そうにされたのは一瞬だけで、察しの良い社長は、奥様がニルスス家に属するお方だと理解なさったようでした。

「お前は俺たちの敵か」

 そ、そんな、奥様は敵ではございません。むしろお命を狙われているのです。

「自業自得だ」


 ふふん。

 背後に嵐を纏われた社長に、奥様は麗しい笑顔でもって爆弾を投下されました。

「ニイタカならもっと早く気が付くわ、ハンカチ位差し出して労わってくれる優しさも持っていてよ。ニイタカは、ね」

 お、奥様?

「なのに貴方はこの有事を利用して、この子を追い詰めるのね。素敵な紳士ぶりだって、アサツキも思っているでしょうね?」

 

 おっ、奥様っ。


 首がちぎれる程、左右に振りました。

 きゅ、救出に来てくださった社長に、何てことを。きっと烈火のようにお怒りになられるでしょう、そう思って身を竦めました。

 ところが。

 社長は懐から白いハンカチを取り出されて私の頬に押し当て、リンさんを背中に担ぎ、縄梯子の先に着けられた小舟へと降りられたのです。

 えっ?

 それも無言のまま。

 固い表情のまま。


「しゃ、社長」

 細い手摺の間に頭を押し込んで覗くと、リンさんを乗せた船が見えます。海面はだいぶ近づいていて、船の浸水を物語りました。

 ああ、この船は間もなく沈むのでしょう。


「アサツキ」


 縄梯子に足をかけられた社長は、長い腕を伸ばされます。

 あ、あの?


「俺と来い、アサツキ」

 同じ闇色をなさっておいででも、辺りを払われる威厳を持った社長の瞳。何故でしょう、切ない光が満ちていらっしゃるように見えるのです。

「あの女の言うことは、真実だ。俺は自分でも情けないと思う」

 そ、そんな事、ございません。

「だが、敵か味方かも分からない女の傍に、お前を残して行けん。来い」


 で、でも、私。


 奥様を一人にはできません。どなたかに狙われる可能性は残っておりますし、何より、実のお父上様に見捨てられた傷が心配です。

 もしかたら、最悪の場合も考えられるのです。

「私は」

「俺の手を取れ、アサツキ。俺にお前を守らせてくれ」

 私の返事を待つ大きな手の平、その上には、本当に私を案じてくださる真心がございました。一人で頑張るなとおっしゃってくださった社長。


 いつでも私を支えてくださった、この海のように心深きお方。


 頬を滑り落ちた涙が一粒、ぽつん。

 まるで返事のように社長の手の平に着地して、ああ、泣いてはいけません。


「社長。奥様は、軍曹さんがそのお命に代えてお守りなさったお方です」


 軍曹さんが望まれるならば、私も。

 命を懸けてでもお守りしたいのです。


 軍曹さんの望みは私の望み。


「ご一緒できません、お許しください」


 どうか分かってください。


 笑いたかったのですが、ふにゃり、失敗してしまいました。だからでしょうか、社長の眉間が苦し気にぎゅっと寄せられたのは。


「…あいつの名前を愛おし気に呼び、額に祝福を与えても、俺には何も…」


 俺には何も与えない。

 守る権利も、その小さな手も。

 お前の欠片すら、何一つ。


 海風に攫われてしまいそうだと感じる程、切ない響きを宿されたお声に、私の胸はぎゅっと痛みました。それれでもと、耳朶に届く囁き。


 諦められない。

 今はあいつのものでも、未来なら?


「俺に未来をくれ、アサツキ」


 未来。


 素敵な言葉です。

 いつでも社長は素敵な言葉を贈ってくださる。ずっと昔のあの時のように、私の心に掛かった暗雲を払ってくださる。

 軽やかなお声が蘇り、私の耳は熱を発しました。

 もう。

 もうもうもう。

 素敵なのです、社長は。


 い、一生、内緒にしようと決めておりましたのに。


「…社長とはずっと前にお逢いしたことがございました」

 覚えていらっしゃらないでしょう?

 そう問えば、社長の眉間から皺が全て消え去りました。再び現れて、考え込まれたそのお顔はまるであの頃のようです。

 初めてお逢いした、あの頃。

「私はまだ女学生で、伯母さまに決められた婚約者のご葬儀でした。イクノ マナハラ様。帝学での同級生だったのでしょう?」

 あの涼やかな雨。

 穏やかなひと時。

「名も知らぬ私に、あなたは素敵な言葉をくださった」


『それを何というか知っているか。自由、だ』


 今も心の奥底で輝く宝石。

 私に力を与えてくださる言葉。


「まさか…お前があの時の女…?」

「覚えていてくださったのですか?」

 職を求めて南区のウィア版元に行き付いて、どれだけ目を疑ったことでしょう。きらきらと埃が反射する中の、あなた。

 不機嫌そうに漆黒の瞳で私を射抜かれて、息が止まる心地だったなんてご存じ無いでしょう?

 ちっとも記憶に無いご様子に、寂しくてがっかりして、切なくて。そうして、私は。

 初めて気が付いたのです。


 私の心に灯った仄かなあの想いは。


 恋だったのだと。


 だからお名前は呼べませんでした。もう上司部下の関係では無いにも関わらず、今でも社長と呼ばせていただく理由です。

 だって、だって恥ずかしい、ですもの。

 私だけの秘密にしておきたかったけれど、ゆ、勇気を出します。

「こ、告白いたします」


「あなたは私の初恋です、サージェット ウィアヌス様」


 は、恥ずかしいぃっ。

 頬はもうどうしようもなく燃え上がって、目を固く閉じたとしても、社長のお声は聞こえてしまうのでした。


「…は?」


「ちょっと待て、俺がお前の、はつ?」

「もうっ」

 私の隣にいらした奥様は、呆れたため息を吐き出されて、船の欄干に架けられた鉤爪を無理矢理に外し、下へと放り投げられたのです。

 当然、鉤爪の先の縄梯子は大きくたわみ、ひゃっとしましたが社長は小舟に着地されたようです。

「ぐずぐずしないでさっさと行って頂戴っ」


 ばふん。

 何かが降ってまいりました。

 中央に穴が開いた丸いそれは、色褪せた古い浮き具でした。小舟に備えてあったのでしょう、かなりの年代物です。

「急いで戻って来る。だが、もしもの時はそれを使え」

「は、はい。あの、特別な灯りを入手できませんか、それを頼りに泳ぎますから」

 海上に浮かぶ光は幾つもあり、信じられる船かどうか判断できません。社長の元に辿り着く為には、特別な印が必要でした。

「…分かった。無事に辿り着け」


 きしりとした音は、社長の小舟が漕ぎ出された証でしょう。それはほっとすると同時に、心細さももたらしました。

 ああ。

 月が輝く夜だったならば。

 人々に安らぎを与えてくださる夜は、海と空が混ざり合い、深い闇に感じました。どうしてこわいと感じるのでしょうか。


「あなたも行きなさい、アサツキ」

 奥様?


「…奥様はどうなさるおつもりですか?」

「分かっているでしょう、あなたには。あたくしはこの船に残るつもりよ」


 ああ。


 当たって欲しくないと思っておりましたのに。何故、事態は最悪な方向へと向かわずにいられないのでしょう。

「言ったでしょう、あたくしはお父様の支配から逃れられないの。死ねと言われたなら、そうするしかないのよ」


 愛はまるで呪縛。

 鋭い刃となって、胸を抉るのです。


「では」

 飲み込んだ吐息は、私の覚悟。

 ごくりと喉が鳴りました。


「ティルニ様でなく、他の方になられたらいかがでしょう」

 頭部に回した手でするりとリボンを外し、奥様の、いえ美しきお方の前に掲げました。ひらり。黒色のリボンが揺れます。

「例えば、セシカ アサツキに…私に」


 あなたは死んではいけません。


 軍曹さんの命の恩人だからだけでなく、また、軍曹さんが守られたからだけでもございません。あなたはニルスス家が犯した全容を証言できる唯一のお方だからです。

 大事な証人なのです。

 全力を以てこのお方をお守りすること、ああ、きっとこの為に私は〈武〉を冠したに違いありません。


 あんなにも〈武〉の使命を重く感じておりましたのに、不思議です。

 ようやく私は理解したのです。

 身分は重き鎖ではなく、果たすことで至上の喜びを与えてくださるもの。

 

 神様からの贈り物。


 ティルニ様がティルニ様である限り、父上様のご命令を選択するとおっしゃるならば。今の私にできることは一つだけ。

 この名をお譲りいたします。

 どうかお受けになってください。

 どうか私に、あなたを守らせて欲しいのです。


「あなたの名前を貰ったら、あなた自身はどうするの。あたくしの身代わりになるとでも?」

「はい」


「ばかっ」


 振り上がった繊手は、夜目にも美しく映えました。ばしん。

 小気味よい音に、私の頬はじんと痛みます。それでも傷ついた左頬ではなく、右頬を選んでくださったあなた。

 守るに相応しいお方。


「犠牲が尊いとでも思っているのっ、目を覚ましなさい」

「目は覚めております」

「なら…っ」

「私…私は悔しいのです」


 悔しい。


 どなたにも明かすことの無かった心を、今、この月を隠した密やかな夜に。

 夜よ、許して。

 私の我が儘を。


「傷つかれた軍曹さんを、本当は、私がお救いしたかったのです」


 …奥様ではなく、私が。

 お救いしたかった。


 軍曹さんが苦しまれるなら、私も。

 軍部に追われる恐怖も、堪え難き苦難も、何もかもを私は一緒に感じたかったのです。小さい頃、兄さまと半分こしたように。

 軍曹さん。

 あなたと半分こ。


 けれども、結局、叶いませんでした。

 私は何の役にも立てなかったのです。


 悔しい。

 悔しくて悔しくて。


 だから。


「軍曹さんをお救いするのは、今度こそ、私でありたいのです」


 どなたにもお譲りいたしません。


 しゅるりと腰紐を解いて、脱いだ単衣を奥様の肩にお掛けしました。射干玉に輝く髪は黒いリボンでお結いしたら、ほら、翡翠のかんざしはもう要らないでしょう?

 あなたは解き放たれて、自由なのです。


「あ、あたくしが生きていると知ったら、父は…妹だって何をするか」

「そうかも知れません。けれども、あなたはニルスス家と何の関連も無い只のセシカになるのです。心配なさらないで」


 にこり。


「僭越ながら、私が掛けられた呪縛をお解きいたします」


 呪いよ、解けろ。





お読みいただき、ありがとうございました。


この物語は乙女ゲームのようになったら良いなと思っております。

「泡」の類似点と相違点に、にやりとしていただけたら嬉しい限りです。


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