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二十四 あなたの命より


「ぐ、ん、そうさ、ん…」


 何度もお呼びしました。

 けれども、血の気を失われた軍曹さんの綺麗な瞼は開かれません。長い亜麻色の睫毛も、もう、揺れないのです。

 呼吸は浅く、今にも止まってしまいそう。


「軍曹、さん」


 目を開けてください。

 甘い声を聞かせてください。

 お願い。


「わ、私は、ここです…軍曹さん」


 莫迦です。

 本当に私は莫迦です。運命を共にと口にしましたが、結局、少しも覚悟できておりませんでした。軍曹さんの死の覚悟を。

 い、や。


「いや…し、なないで」


 ぼと、ぼと。

 みっともなく涙が溢れました。筋を引いて伝う頬に、軍曹さんの手をそっと押し当てて、ああ、手袋越しでも感じるその冷たさ。

 死なないで。

 死なないで。

 死なないで。


「軍曹さんっ。軍曹さん」


 か、神様。


 助けて。軍曹さんを助けて。

 この方の命を、奪わないで。死なせないで。

 何でもします。

 私の命を差し上げます、だからどうか。どうか。

 神様。


「助けて…っ」


 ばん。

 突き破る勢いで馬車の扉が開きました。

「アサツキ…っ」

 肩で息をされる大きな男性、その漆黒の髪は乱れに乱れ、汗の浮かんだ額へと落ちておりました。悪鬼の如きそのお方は。

「しゃ、ちょう…」

 それでも私には、光明を背負って見えたのです。

「…血だ。怪我をしたのか、アサツキ、何処だ。何処を怪我したっ?」

 軍曹さんに縋りついていた私の身体は、あっという間に引き剥がされて、両頬を震える大きな手で挟まれました。


 社長。

 ああ、神様は憐れんで、社長をお遣わし下さった。

 もう大丈夫。

 だって社長がいらしてくださるから。


 安堵感が押し寄せると涙は返って溢れてしまい、えぐえぐと子どものように泣きじゃくりました。ひぃっく。

 軍曹さんが、奥様が。

 そう繰り返すだけで要領を得ない私の話を、それでも社長は理解してくださったのです。私を片手に抱えたまま、軍曹さんを検分なさいました。

「…ち、良くないな」

 小さく漏らされたお言葉に、私はがたがたと震え上がりました。


「落ち着け、アサツキ」

 だ、だって。

「打てる手はある」


 私は何一つ考えられませんでしたが、社長は三つだとおっしゃるのです。


「一、このまま放置する」

 は?

「ぜ、絶対に嫌です」

 このまま放置など出来ません。ふりふりと首を振る私を、社長は、憐れむような表情で見つめます。

「メネリック本人が望んだのだろう」

「でも…では、私もお供します」

「そんな事、俺が許すと思うのか。莫迦め、手足を縛り上げて一生監禁してやる」

 

 い、一生って。

 むう。

 睨み合ってしまいましたが、社長は大きく息を吐き出されて、他の案をご提示くださいました。

「メネリックを助けるには、敵の目を欺く仕掛けと、搬送先にも注意が必要だ」

 は、はい。

「二、俺の家、ウィアヌス家に助力を求める。お前はイレフにも父にも気に入られている。治療は当然、新しい名を用意することも可能だろう」


 新しい名前?

 それはメネリックでもトエルフでもない別人に、なれるということ?


「そうだ」

 驚きの余りに、ぱちぱちと瞬きするしかございません。別人になるなんて、〈貴〉とは何て大きな力をお持ちなのでしょう。

「そして、アサツキ、お前にも」

「私?」

 奥歯を噛み締められる社長の漆黒は揺らめいて、どうしてでしょう、とてもお辛そうです。

「アサツキの名と身分を捨て、新しい名を欲するなら、叶えよう。お前たち二人が暮らすこともできる」


 え?


 軍曹さんと?

 この世で結ばれることは無いと、私は諦めました。けれども、軍曹さんと手を取り合える可能性があるのです。

 それは希望の芽でした。

 胸が苦しく思う程、芽は、私の胸の中で一気に育って行きました。ぐんぐんと茎を伸ばして、葉を茂らせて、蕾を付けるまでに。

 花開いたならば、ああ、どんなに嬉しいでしょう。


「だが」

 社長の低いお声により、はっ、私は夢の世界から戻りました。

「此処からウィアヌス家まで距離がある。メネリックの命が持つかどうか保証できん」


 ああ、そんな。


「三、光揚館には現在、帝が行幸中だ。我が国最高の医師団も傍に付き従っている、彼らの力をもってしてならばメネリックの命も救われるだろう」

 えっ?

 お、おおそれおおくも、み、帝?

「そんなに見開くな、目玉が落ちるだろう。引き換えに条件を出されるだろうが、帝とは懇意な間柄だ。協力は受けられる」

 こ、懇意って。

「この案も不利益はある。聞きたいか?」

「お願いします、お教えください」

「メネリック、いや、トエルフは練国からの異邦人。今回の事件に巻き込まれたという立場を貫かねばなるまい、いずれ練に返される」


 お前と結ばれることは無い。


「アサツキ、お前はどちらを選択する?」


 軍曹さんの命。

 それとも、私の欲。

 どちらかを選ばなくてはなりません。


 ああ。

 頭の片隅で、冷静な私の声がします。考えなくてはならないことがもう一つあるでしょう、と。そう、きちんと心を見据えなくては。


 私。


「…私の大事は」

 ぎゅっと胸の前で握り合わせた二つの手は、震えてしまいました。決断しても尚、揺らいでしまう私は、弱虫です。

 ばちん。

 両手で頬を叩きました。手加減してしまったので、もう一度。ばちん。弱虫、弱虫、消えろ。

「やめろ、痛々しい」

「社長」


 考えて。

 考えて。

 そうして、私は決断したのです。


「私の大事は軍曹さんの命に他なりません。どうか、お救い下さい」

 頑張って微笑みました。ふにゃり。

 失敗してしまったようです。堪え切れない涙も、はらり、はらりと頭を下げた拍子に幾つもの粒となって床に落ちて行きました。

「…いいのか。お前は、本当にそれでいいのか?」

「はい」


 軍曹さん。

 あなたの命より大切な物はございません。

 だから、あなたの命を、私は選びます。


 社長はぎゅっと目を閉じられて、大きな手で口元を覆われて、そのまま額にかかる前髪を掻き上げられました。何か堪えられるような、そんなお顔。

「お前の望みを、俺は、叶えよう」


 そうして大慌てで用意いたしました。

 馬車内に残されていた軍人さんを下ろし、敵を欺く為に軍曹さんの血を藪の中へ落としました。上着を木々に引っ掛けることも忘れません。

「この地は今や俺たちが目を光らせている。綿密な探索はできないだろう」

 軍曹さんを乗せた馬車は、光揚館まで社長が繰ってくださることになりました。

 同乗するかと、聞いてくださいましたが、いいえ。私が居ては、帝の御元に向かう足手纏いとなりますから。

「お借りした諫早を残して行けません。この軍人さん方も。どなたかをお寄こしください、社長のお馬と一緒に、後で向かいます」


 怪我に響かぬよう、軍曹さんの身体を固定しました。

 意識の無い軍曹さんの亜麻色の髪。綺麗な線を描く頬と顎。煽情的なほくろのあった目尻に残された、傷跡。

 軍曹さん。

 胸に込み上げてくる熱。

 たくさんの想い。


「軍曹さん、どうかお許しください」

 青い右頬に、ちょん、口づけを落としました。

「ご一緒できない私を」

 次は冷たい左頬に、ちょん。

「勝手に決めた私を」


 お許しください。


 綺麗な瞼には切なる願いを。ちゅ。


「どうぞご無事で」


 そして。

 高い鼻には。

 かぷん。

「…軍曹さんの、莫迦」

 恨み言と共に、甘噛みしました。だって、く、悔しいのですもの。賭けは私の負けっておっしゃいましたが、それは兄さまとの賭けの事ですか?

 違います。

 兄さまの負けです。

 ちゃんと私、言いました。あなたがおっしゃる前に、ちゃんと。なのに、聞いていらっしゃらなかったなんて。


 もう。

 もう、もう。


「もう、軍曹さんの莫迦」


 私はあなたが大好きです、ニイタカ様。




 馬車が動き出す直前。

 これで最後かもしれません。覚悟は涙となりました。御者台に乗られた社長はおっしゃいます、それこそ大量の苦虫を噛み潰した表情で。

「狡いだろう」

「え?」

「俺にも同じ行為を要求する。いいな?」

 はい?

 おっしゃる意味が理解できません。懇意なご関係とは言え、畏れ多くも帝にご助力を願ってくださる社長に心から感謝いたします。

「感謝なぞいらん。俺が欲しいのは」

「欲しいのは?」

「…早く光揚館に戻って来い。落ち着いたら伝える」

 は、あ?

 首を傾げる私の前から馬車は走り出し、遠ざかって行きます。もう一度、心からお祈りいたしました。


 神様。

 この世で何より大切な軍曹さんを、どうかお守りください。


 長い夜でした。

 白々と明け行く空の下、数名の騎馬が見えました。金色の飾緒を付けられた、光揚館を取り囲んでいた方々です。

「後はお任せください」

 綺麗に揃った敬礼をなさって、皆さま、さっと明後日の方を向いてしまわれたのです。

 え?

「こちらをどうぞ」

 長外套を差し出されて、ひゃっ、ようやく気付きました。私、ぼろぼろでした。ふ、太い脚も丸出しです。

「お、お見苦しいものを見せてしまい」

「い、いえ役得で…げふん」

 咳払いをなさった彼らは、集団で括られていた軍人の方々を確保なさいました。

 頼もしいお姿です。ぼんやりと見つめていた私に、縦縞灰のズボンをお召しになられた壮年のお方が一人、近づいていらしました。

「お嬢様」

 何処かでお見かけしたことのある、そう、ウィアヌス家の執事さんではございませんか?

「馬車をご用意しております。馬はお預かりしましょう」

 恭しくおっしゃって、けれども。

 続きは、私にしか聞こえないよう潜められていたのです。


「言う通りに。さもなくば後悔しますよ」


 馬車は何度か乗り換えました。

 当然、矢筒も弓も取り上げられて、後ろ手に拘束されました。

 きっちりと窓は閉められており周囲を伺うこともできません。車輪の響きや増幅した振動から考えると、多分、帝都を出たのでしょう。

 ふう。

 あの高貴なお方から接触があるだろうと思っていたのですが、予想よりも早過ぎました。

 息を整えて、冷静にならなくては。


「降りろ」


 潮の香りと波の音。

 けれども慣れ親しんだ南区ではないようです。港ですけれど停泊中の船は軍艦ですし、もしかしたら北区なのかも知れません。

 軍港のある北区はご領地ですから。


「虫けらのお陰で、散々だわ」


 見た目は倉庫のようでしたが、奥の一室は上等な設えでした。優美な椅子に座られるのは、白百合の花の精。

 〈貴〉のキティル ニルスス様。

「あの方はね、女性嫌いを改められたら次の帝になるのよ」

 え?

「現帝が強くお望みなの。そうして、わたくしは妃となり、あの方の隣に並び立つの。皆が跪く中をね」

 ふふ。

「決まっているのよ」

 見開かれた目は血走っておりました。

「邪魔する者は許せないわ。今までと同じくね」

「あの?」

「馬鹿な女そのものに手出しする程、わたくしは愚かでなくてよ。親しい侍女を攫って異国へと売るの。貴女もこうなりたいかしらって、脅しを込めてね」


「でも、そうね。死ぬより辛い思いをして貰うわ、虫けらには。ね?」





お読みいただき、ありがとうございました。

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