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二十三 好きにならずにいられない

ようやく本編です。


 ぐ、軍曹さん?


 馬車の隅々に残る夜の気配。

 小窓の隙間から差し込む光に照らされて、どきりと胸が跳ねたのです。だって、綺麗な線を描く軍曹さんの額と頬は、不吉な程、真っ青でした。


「…セシカ、さん?」


 呼んでくださった私の名は掠れて、弱く、普段のあの甘さはございませんでした。何よりもご自身を抱きしめられるかのようになさる軍曹さんの白い手袋は、赤く染まっていたのです。

 

 血。


「ぐ、軍曹さん…っ」

 取り乱さずにはいられませんでした。

 だ、だって血です。

 頭が真っ白になって、私は一体何を言うべきなのか、どうするべきなのかさえ分からなくなってしまいました。

「軍曹さん、どうして…っ」

 馬車の縁に脛を打ち付けながら乗り込んで、ようやく止血を思い出して、軍曹さんの腹部にぎゅっと掌を押し当てました。

 生温かな感触が伝わったその瞬間、でした。


「いけません」


 そっと手を押しのけられたのです。

 え…?

「お、お怪我の手当てを、わ、私…」

「いけません。あなたは私に触ってはいけない」


「わ、私の事、きらいになられましたか…?」


 言葉が勝手に飛び出してしまいました。

 がんがんと騒音が二つの耳奥で鳴り響いて、ああ、触ってはいけないなんて。そんな。そんな。

 いえ、私、莫迦だわ。きらいだなんて口走って。軍曹さんのお心は今では奥様のものだもの、私の事なんてもう。

 でもでも。

「き、きらいでもいいです。でもどうか、手当てをさせていただけませんか…?」

 泣いてはいけないと思いました。

 それでも、視界はぼんやりと滲んで行きます。何度も瞬いて、お願いしますと、心を込めて軍曹さんを見つめました。

「ぐ、軍曹さんが私をきらいになられても、それでも、私は」


 私は、あなたが。


「…あなたは可愛い」

 は?

「言ったでしょう?あなたは絶望的に可愛いのだと」

「軍曹さん?」

「恥ずかしがり屋で、純真で、一生懸命で、何をしても愛らしい。だからこそ、あなたは私が手にしてはならない黒ウサギなのです」

 ええと?

「あなたに触れられる資格が、私には、無いのです」

 出血が原因で朦朧となさっておいでなのかしらと、つい心配になってしまいましたが、軍曹さんは掠れる声でお話してくださったのです。

 幸運をもたらす黒ウサギって、わ、私が?


「ええ、そうです」

 セシカさん、あなたは私だけの黒ウサギ。

 ようやく出逢えたと嬉しくて、舞い上がって、あなたを手にした私はこの上なく幸せになりました。けれども。

 あなたは?

 私に囚われた黒ウサギさん、胸に抱いた小さな望みさえ叶えらず、私の親戚に理不尽な扱いでもって身一つで追い出されたあなた。

 それでも不平も言わず、私の身を案じてくれる健気なあなた。

 なのに、私は。

 あなたを裏切り、交換条件とはいえ他の女性と結婚し、復讐に身を落とした。汚れているのです、身も心も、何もかも全てが。

 あなたは私を幸せにしてくれたのに。

 今も、私を幸せにしてくれるのに。


 私はあなたを幸せにできない。


「可愛いあなたに、私は相応しくないのです」

 ぼろり。

 涙が零れました。

 以前の私は、自分は軍曹さんに相応しくないと思っておりました。立場が逆転した今になってようやく、それは拒絶の言葉なのだと知ったのです。

 愚かでした。

「そ、そんなこと」

「相応しくないのですよ、私は」

 ぎゅっと眉根を寄せられて、吐き出される言葉。ああ、私こそ、苦しむ軍曹さんをお助けできないのに。


「軍曹さんは、私を、幸せにしてくださいましたよ…?」


 〈武〉を冠するアサツキ家では、様々な決まり事がございました。特別な事情が無い限り、女は、食事の同席を許されません。

 土間の板敷きで黙々と食べるのです。

 それに殿方と並んで歩くなど考えられません、常に二歩後ろにと、躾けられました。

 けれども。

 軍曹さんは麗しく片目を瞑られて、必ず、隣の席をご用意くださいました。星のように、今日の出来事をお話しくださいました。

 どうぞと肘を貸してくださって、は、恥ずかしく思いながらも、隣を歩かせていただいたのです。

「私はあなたと一緒がいいのです」

 軍曹さんのお言葉は、まるで魔法の呪文のよう。

 きらきらして、不思議な魔法を私にかけてくださる。にっこりと笑っても、淑女らしくありませんと叱られることもなく、笑顔を返してくださった。

 素敵な魔法。


 あの時、素直に嬉しいと、何故お伝えしなかったのでしょう。

 とても幸せだったのに。

 いいえ。

 今、あなたのお心にどうぞ届きますように。


 私の心よ、届け。


「私は軍曹さんがいらっしゃるだけで、とても幸せです」


 メネリック家で、あなたと過ごした日々も。

 私のそらだと告白くださった夜も。

 あなたを待つ切ない時間も。

 勿論、今、この時も。


 いつも。いつも。いつでも。

 幸せです。


「…あの時の告白は忘れてください。私はもう、あなたのそらでは無い」

 ふうと吐き出された軍曹さんはとても辛そうなご様子で、そして、息は血の香りを含んでおりました。お願いです、どうか手当てを。

 でないと、軍曹さんは。

「いいえ、私はこのまま逝きたいのです。今の幸せな気分のまま」

 ひゅ。

 喉が鳴りました。まさかとは思っておりました、けれども、軍曹さんに降りかかる様々な思惑は辛すぎる現実です。

 それでも軍曹さんの口から希死をお聞きするなんて。ああ、どうしたらいいのでしょう。

「小さなウサギさん、悪い男の手から逃げて、本当の幸せを見つけなさい」

「わ、私の幸せは、あなたです」

「いい加減に気付きなさい、騙されたと。見捨ていいのです」

「いっ嫌です」


 どうしよう、私の心は届かないの?


 軍曹さんの黒い社交服、その懐には白いハンカチを忍ばせている筈で、ああ、やっぱり。さっと取り出しました。

「セシカさん?」

 血の飛沫が散ったハンカチを特殊な折り方をして、私は一生しないだろうと思っていたことを、今から、いたします。

 だって、他の方法が見当たりません。

「わ、私、セシカ アサツキは、目の前にいらっしゃる魔法使いさんに挑戦いたします。どうかお受けになって?」

「…は?」

 これは正式な挑戦です。

 白いハンカチを胸元に投げて、無理にでもにっこりと笑顔を作りました。呆然となさった軍曹さんは初めてで、ちょっと可愛いと思ってしまいました。

 絶対に内緒ですけれども。

「軍曹さんが勝たれれば、私はおっしゃる通り、馬車を降ります。でも、私が勝ったなら」


 私の望みを叶えてください。


「〈華〉のニイタカ メネリック、お受け致します」


 私が勝利する訳ないと思っていらっしゃるのでしょう?

 確かに挑戦は生まれて初めてですけれども、が、頑張るつもりです。えっと、挑戦で大切なことは冷静さ、でしたかしら。

 ふうと一つ息を吐いて。

「問題です。軍曹さんのお話を聞いて、私はどう思ったでしょう?」


 一、呆れた。

 二、悲しい。

 三、腹立たしい。


「一、でしょうか?」

 少し考え込まれた末の答えに、私は、どうして四をお聞きにならないのと告げました。ず、ずるは承知の上です。

 わざと言葉を区切ったのです。

「答えは、四、です。呆れて、悲しくて、腹が立ちました…自分自身に」

「…あなたって人は、どこまで」

 勝利宣言はできませんでした。

 軍曹さんのお顔が堪えるように苦し気で、それでも、私は軍曹さんの手当ての為に、勝者の権利を行使いたします。

「手当てを、させてください」

 軍曹さんの白い手袋は真っ赤に染まり、ああそんな、傷口から出血はまだ続いておりました。挑戦の証を当てて、外した腰の幅広リボンをぎゅっと巻き付けます。

 うっ。

 低く呻いて、その額には冷や汗が滲んでおりました。

「…あなたは血が苦手でしょう?」

 た、確かに指は震えてしまっておりますけれど。

「ぐ、軍曹さんは特別です、血だって、全然平気です」

「あなたって人は…本当に、いけない」


「あなたといると、私は」

 間近で瞬く鳶色の瞳に浮かぶ光。

「私は、死にたくないと思ってしまう…生きていたいと願ってしまう」

 その輝きの名は、希望と絶望。

「い、生きてはいけないのですか?」

「だめです。私は此処で死ななければ、ティルニが殺されます」

 息を呑みました。

 軍曹さんは、もう、決心なさっているのです。

 それは悲壮に満ちた決意で、私がどんなに言葉を尽くそうと翻らないのでしょう。

 ぼろぼろと涙が零れました。

 胸がぎゅうと痛んで、仕方がないのです。 

「なら」


「どうか私も、ご一緒に」


 軍曹さんは、私のそら。

 あなたが墜ちたのなら、その下の、ちっぽけなウサギだって生きてはいけません。息すら出来ないでしょう。

「軍曹さんと運命を共にすることを、どうか、お許しください」


 人の心は複雑です。

 目の前にいらっしゃる亜麻色の髪のお方は、もう私の婚約した方ではないのだから、諦めなくてはなりません。そう思うのに、やっぱり恋しいと胸の小鳥が叫ぶのです。

 私も揺れて、揺れて、揺れて。

 それでも。

 私。

 あなたとご一緒が良いのです。


「…ぎゅっと、して…?」


 甘えたさんだね、セシカ。

 そうです。

 本当の私は、とても甘えた、です。裾を引っ張って、兄さまに、頭を撫でてとお強請りします。呆れながらも兄さまは、大きくて温かい手が撫でてくださる。

 兄さま、大好き。

 でも。

 私、軍曹さんが、もっともっと好きなのです。

 泣きたいくらい、大好きなのです。


 どうか、お願い。

 あなたの熱を分けてください。


「ぎゅっとしてください…ニイタカ様」


 ニイタカ様。

 あなたのお名前は、私の宝物。胸の奥底に大事に抱いて、ずっと温めていたのです。想いが伝わってしまうようで、恥ずかしくて、小鳥の囁きになってしまったけれど。

 どうか、笑ったりしないで?


「あなたって人は、いけない人だ。何処までも私を翻弄する…」

 私の肩に回された二つの腕、一瞬、躊躇ったようにも見えましたが、優しくぎゅっとしてくださったのです。

 嬉しい。

「軍曹さん、星が綺麗です」

 こてん。額を胸にそっと預けると、とても温かでした。星空の下で、あなたと、こうしたいと何度願ったでしょう。

「もう一度、名前を呼んでください。セシカさん」

「…ニ、イタカ様」

 軍曹さんは何度も甘く強請られて、もう、こんな体勢で可愛いなんておっしゃらないでください。恥ずかしいです。

 それに、ほ、本気にしてしまいますから。

「あなたは可愛いですよ、とても。好きにならずにはいられない程に…ああ」

 ため息を一つ。

「賭けは、私の負けだな…」

「え?」

「あなたが好きです、セシカさん」


 え?

 い、今?


「好きです。私はあなたが好きです。何より、誰より。あなたが」


 好きです。


「…え?」

 私を抱きしめてくださっていた腕が、ずるり、力を失くして滑り落ちました。ぐ、軍曹さん?

「軍曹さん?」

 

 馬車の中は青い静寂。

 深き藍からほんのりと明るさを増した空に、月と星は追い払われていたのでした。


「軍曹さんっ」





お読みいただき、ありがとうございました。

結構頑固な軍曹さんに、困るセシカ。いつもと逆転です。

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