二十五 ばかよ
遅くなりました…。
近親相姦の表記があります。ご注意ください。
「喜んで?」
艶やかな唇の両端を上げて麗しく微笑んでいらっしゃるお姿は、本当に白百合のようでした。なのに、そのお美しい綺麗な瞳には、私など映していらっしゃらない。
「虫けらにしては、あなた、高値が付いたわ。顧客の中で一番の下種に売ってあげる、喜んでね?」
ああ。
耳を塞げるものならばどれ程良かったでしょう。
背中で縛られた縄がそれを阻止し、ぎりっと音を上げて、手首に食い込みました。その痛みが、私を現実に引き戻すのです。
我が国の女性を異国へと売買していたのは、この高貴なお方。
私たち〈武〉の主。
「黙っていないで、みっともなく泣いて許しを請えばいかが?」
くすくすと楽し気な冷徹な笑い声。
「まあ、それも無駄だけれどもね。わたくし、許さないもの」
ひゅ。
振り上げられた短鞭は、空を裂いて私の頬を打ったのです。い、いた。
「虫けら風情があのお方に取り入るなんて、引き裂いてやりたいくらいよ」
胸に渦巻く激情のまま、叫んでしまいたい。
どうして、と。
でも今は。
冷静にならなくては。
「…奥様は?」
鼓舞する様に、ぎゅ、掌を胸で握り締めます。
声よ、震えないで。掠れないで。
「トエルフ様の奥方、ティルニ様はどちらにいらっしゃいますか?」
奥様。
軍部に囚われた奥様を、私は取り戻したいのです。その為、此処まで来たのです。それがどんなに困難であろうとも、私は。
頑張りたい。
軍曹さんの為にも。
「奥様をお返しください」
「…馬鹿なの?」
一瞬ニルスス様は唖然となさって、そうして、くつくつ、綺麗なお顔を歪められて笑い声をお上げになりました。
「返すも何も。虫けらって本当に脳が無いのね、いいように騙されて、可笑しいったら」
「え?」
「わたくし、とても寛大だから教えて差し上げてよ?」
「あれはこちら側の人間よ、お馬鹿さん」
太陽の光を受けて、輝く港。
軍用船ではなく小型の商船は、張られた帆の一枚一枚に海風が集められ、はためいておりました。白い服を召された水兵さんによって私は、船内の小部屋へ案内されました。
そこには奥様がいらっしゃる。
そう思っていたのですが、果たして、窓の無い小部屋にはどなたの影も見当たりませんでした。がっかりです。
「着替えろ」
手首の縄を水兵さんは外してくださいましたが、がちゃり、扉に鍵をかけられたようです。
ふう。
備え付けの棚に用意されていたのは水差しと盥と白い単衣、そして薄い毛布でした。
身体をのろのろと清め、着替えてから毛布に包まりました。冷え切った身体がほんのりと温まると、泥のような疲労感に襲われます。
考えなくてはいけないのに、頭の中は、ぐちゃぐちゃでした。
「軍曹さん…」
自分の声に、はっと目覚めました。
このような状況ですのに、疲れきって、うとうとしてしまったようです。筋を残す冷たい頬をぐいと拭うと、打たれた鞭の跡が痛みます。
泣いちゃだめ、しっかりしなければ。
時間の感覚が無くなった頃でした。
出港した船の振動が伝わり、重たげな音と共に扉が開いて、水兵さんが顔を覗かせたのです。
「来い」
配管が剥き出しになった船の内部は、鉄の扉が並んでおりました。その部屋も鍵が掛けられており、中央には粗末な椅子が一脚。
女性が座っていらっしゃったのです。
射干玉の髪を彩る翡翠のかんざし。
「お、奥様…っ」
コルセットと下着だけを身に纏われて、か、辛うじて翡翠色の肩掛けを腕に巻いていらっしゃいます。白い両肩も胸も、艶めかしい大腿も剥き出しのままでした。
ひゃっ。
「お、お怪我はございませんか、奥様?」
私の単衣も下着のようなものですが、きっと抵抗とか逃亡防止の為でしょうけれど、あ、あんまりです。華奢な踵の金色の靴が背徳的過ぎます。
水兵さんはまた鍵をかけられ退出されたようですが、何てお姿を…奥様。
「馬鹿ね、アサツキ」
肩掛けを広げ、そっとお掛けすると奥様は微かな吐息を漏らされました。
「あたくしを心配するなんて」
「だ、だって」
「聞いたでしょう、あたくしの正体を」
あたくしはあなたの敵よ。
〈武〉を冠する多くの家は、先祖代々受け継ぐ名がございます。我がアサツキ家が「セ」を受け継ぐように、〈貴〉のニルスス家も、確か。
そう。
テル、と言うお名前を。
キティル様然り。
そうして奥様のお名前は、ティルニ様。
「…奥様は、ニルスス様の」
「ええ。そう、キティルは腹違いの妹。ニルスス家当主があたくしの父なの」
ごくり。
乾いた喉が音を立てました。
「でも、でも。お、奥様は」
西国で、傷付かれた軍曹さんを助けてくださいました。例えニルスス家御一門のお方でも、て、敵だと思えません。
「…人の心は本当に複雑だと思わない?」
ティルニ様の吐息は愁いを帯びていらしました。
「あたくしは父に逆らえないの、正真正銘の獣だと知っていてもよ」
あたくしの母は、決して手折ってはいけない花だったの。遥か遠くに想いを馳せられて、奥様はおっしゃいます。
実の妹を、父は。
「獣よ」
望まない妊娠の末、母は出産したわ。心も身体も若過ぎたのね、直後に亡くなったわ。庇護者のいない子どもの行く末なんて決まっていてよ。
獣の子は獣。
あたくしは闇に生きる者となったの。ニルススの、父の為に何でもしたわ。身体を投げ出し誘惑することだって、命を奪うことだって、何だって。
それで幾つもの家が、人が破滅したわ。
それでも。
「あたくしの存在する意義はそれだけだったのよ」
「そ、そんな…」
酷い。
酷過ぎます。どうしてそのような酷い事を実のお子さまに強いるのでしょう。
「汚いでしょう、あたくし、自分でも分かっていてよ。でも、どうしても逆らえないの」
「き、汚くありません」
ぽろぽろと涙が零れました。
「奥様は翡翠のよう。人々を魅了する翡翠のように綺麗です」
「翡翠…あたくしが?」
ふふふ。
暗い色を宿していらした奥様の頬が、仄かに色付きました。
「あの方と同じ事を言うのね…ヒダカ様と」
ヒダカ様。
軍曹さんのお父様である、〈華〉のヒダカ メネリック様?
「そうよ、外交高官だったヒダカ様。人身売買の一件があの人に露見して、父はいつもの指示を出したの。でも」
「誘惑して陥れる筈が、逆にあたくしが誘惑されてしまったわ」
貴女は翡翠のように美しい。
あらゆる障害から持ち主を守護する奇跡の石のように。
「遠く離れた妻を今でも想っていると、あたくしを近づけさせないあの人。不器用で一途で優しいあの人を、あたくし、愛したの」
「殺せなかったわ、あたくし、初めて父に逆らったの」
奥様は全ての証拠を隠滅し、別の外交官とご結婚されてまで西国へと赴かれた。それは愛しいお方を守られる為。
けれども。
「けれども、あたくし、守れなかった。あの人を」
ああ、だから奥様は軍曹さんを助けてくださったのです。
切ない程に瞳を潤ませるティルニ様の手を、ぎゅっと握り締めずにはいられませんでした。
「同情は禁物よ、アサツキ」
「え?」
「あたくしは敵なのよ」
あたくしは敵。
ニイタカに想う人がいると知っていて、結婚を強請ったわ。どうしてもメネリック夫人になりたかったから。
ニイタカは受け入れてくれたけれど、逃げ延びた先の練国で死人のようだった。あたくしをちっとも見ないの。だから、あの人の仇討ちを唆して平穏な生活を捨てさせたわ。
優しいニイタカ。
でもあの人と同じよ、決して心をくれないの。黒ウサギさんと呟く切ない声を、あたくし、何度も聞いた。
あなたの事でしょう、アサツキ?
悔しくて、困ればいいと思った。味方はあたくしだけだと思い知って欲しかった。だから情報を偽り、父を擁護したのよ。
「あたくしを、あなた、許せるの?」
私の答えを待つ間もなく、奥様はくしゃりとお顔を歪めました。
「罰はもう下ったわ、あたくしはまた父に利用された」
「利用?」
「罪を全てニイタカに押し付けて、そうして、殺した。あたくしはまたあの人を喪った…」
人の心は何て複雑なのでしょう。
気付いていらっしゃらないのでしょうか、その胸に燃える想いの名を。ヒダカ様の代わりではなく、奥様は軍曹さんを。
私と同じ様に。
「…軍曹さんは死んでおりません」
握り締めた手に力を込めて、そっと囁きました。
社長のお力添えで手当てを受けられ、きっと助かる筈です。だから。
「軍曹さんの下へ帰りましょう、奥様」
「…あなたって馬鹿なの、アサツキ?」
とうとう流れ出した涙もお隠しになられない奥様に、私は微笑みました。にこりとはいきませんでしたし、力ないものでしたが。
「あたくしを許すの?」
もしも私が奥様だったならば。
私も奥様と同じ様に悩み、苦しむのでしょうか。なら、どんな風に声をかけていただきたいのでしょうか。そう思ってしまうのです。
「許すとか許さないとか、私、考えられません。馬鹿ですから」
ええ、色々な人がおっしゃるように、やっぱり私は馬鹿なのでしょう。
「奥様は敵ではありません。同じ方を好きになってしまった、同士、です」
同士には敬意を以て。
「帰りましょう、奥様。軍曹さんが待っております。そして、ごめんなさいって言いましょう。きっと許してくださいます」
軍曹さんは、頭上に広がる空のように優しく包み込んでくださる方ですもの。
「…本物のばかよ、あなた」
ふ。
吐き出された奥様の小さな息は、複雑な色が滲んでいらしました。
「でも帰れない」
「ど、どうして、ですか?」
それは易々と逃げ出せないと思います。けれども畏れ多くも光帝様までも事件は知る処となり、異国へ向かう船は現在取り締まっている筈です。
勝機はあるでしょう。
に、苦手ですが私も〈武〉として力を尽くします。
「ニイタカが生きていると知ったら、父や妹は何をするか分からない。それに」
それに?
「この船は商品を乗せて、異国へと密航中よ。今回の商品はあたくしとあなた、そして、もう一人」
え?
もう一人?
「リン、あの娘よ」
リンさん?
シュン家の離れで、たくさんのお土産を手にされて実家に戻られたリンさん。伸びやかで、屈託のないリンさんがどうして。
「家が財政困難でね、売られたのよ。あの娘が知らない内に」
「そ、そんな…」
必ずリンさんも連れて帰りますと固く決意した私は、また頬をばしばしと叩いて気合を入れ、奥様を何とか言い包めました。
捻り出した逃亡案は、奥様が悲鳴を上げ、駆けつけた水兵さんを拘束する手筈です。
「こういうの得意よ」
おっしゃる通り成功しました。すごい。
でも。
翡翠のかんざしを振り上げた奥様は、喉元に突き立てようとなさって、ひぃっ、思わず水兵さんを足払いして倒してしまいました。
お、奥様、過激です。
「下着だけって動きやすいのよ、ほら」
鋭い踵落としにより気絶なさった水兵さんを猿轡して、後ろ手に拘束して、鍵の束をいただく奥様の手際の良さったら。もう。
軍曹さん。
待っていてください、きっと奥様をお連れしますから。
きっと。
お読みいただき、ありがとうございました。
今回は女性のよる闘い編。
その頃の社長は…。
馬車を駆り、朝靄に沈む光揚館へと辿り着いた。
当然の如く光帝は厚い守りの中にいたが、面会を求めた。顔見知りの侍従に嫌な顔をされる、どうでもいいから早く報告して来い。
「サージェット…お前って奴は無礼にも程があろう」
眉間の皺を益々深くしていたが、現れた光帝の顔は、不快よりも何があったのかと問うものだ。手早く事情を説明した。
「女が絡んでいるだろう、そうだな?」
光帝はにやにやして勘の良さを発揮し、医師団を動かしたばかりか、光揚館に滞在する異国の医師にも依頼したのだ。
くそ。
借りは大きい。
設備が整った医療室に運ばれた男を見送り、多分、悪運の強いあの男は助かるだろう。あいつの祝福も額にもらっていたことだし。
これで、あいつの望みは叶えた。
「アサツキ、早く戻ってこい」
あいつが戻ってきた暁には、必ず俺にも祝福を貰う。ああ、必ず。
そうして。
あいつが是と言うしかない告白の文句は何だ、と考え出した。




