二十 いい子のふりは、もう
長いです。すみません。
「軍曹さん」
さようならと、私は言おうとしたのでしょうか。
自身の思いさえ分かりかねて、けれども、事態は急変したのです。
ばん。
突然、小部屋の扉が乱暴な音を立てて開きました。
観音扉の向こう側には、どうしたのでしょう、兄様と同じ光護国軍服の方々がいらっしゃいました。大変、物々しいご様子で。
な、なに?
驚いて全身を固まらせたのは私だけで、ウィアヌス様を始め、イレフ様も社長もじろりと軍人さん方を一瞥されました。
軍曹さんは私を背中に隠してくださって、どうしよう、こんな時にも胸は高鳴ります。
「入室を許可した覚えはないよ」
「失礼は承知」
イレフ様のご不興も関せず、軍人さんは慇懃無礼に敬礼なさり、一枚の書状を取り出されました。
「逮捕状?」
た?
も、もしかして軍曹さんを逮捕なさりに?
私の位置では書状に綴られた内容まで伺えません、けれども、最後に署名されたお名前だけはしっかり見えたのです。
そのお名前は。
「〈華〉のニイタカ メネリック。その者は情報漏洩、逃亡、背信行為の嫌疑が掛かっております。我らにお引き渡しを」
「彼はウィアヌス家が調査中だ」
「幾ら〈貴〉と言え越権行為です」
「軍に所属する以上、決定権は軍部にある。逮捕状に異論が?」
一触即発でした。
居丈高な軍人さんはゆっくりと見回して、軍曹さんを見遣りました。
「メネリック」
そうして、蔑むようにおっしゃったのです。
「貴様の女はこちらの手の内にある。投降しろ」
ひくり。
軍曹さんの喉が、通せないものを無理に飲み込んだように動きます。ぎゅっと握り締めた拳も、僅かに震えて見えました。
ああ、どうしよう。
奥様のことを失念しておりました。ここ、光揚館にいらした筈です。私が軍曹さんとお逢いしている間に、奥様は軍部に拘束されたのでしょう。
わ、私のせいです。
だけど、奥様を口実に脅されるなんて。
「これまで、ですね」
穏やかな口調でした。
「投降します」
両手に枷を嵌められても、周囲を荒々しく取り囲まれても、軍曹さんは凛と背筋を伸ばしていらっしゃいました。
「セシカさん」
じっと私に向けられる鳶色。
ああ。
あの日と同じです、息の形が見える寒空の下、綺麗な敬礼を残されて出兵なさったあの日の朝と。
切なくなる程、綺麗な色。
そうして、結んだ唇がそっと開閉しました。声なき声で告げられたのは。
さようなら。
ぱちん。
私を縛る全てが壊れました。
「い、行かないで…」
あの朝、本当は、私。
軍曹さんに言いたかった言葉がございました。
けれども。
馬鹿馬鹿しい羞恥心と、くだらない意地と、ちっぽけな自尊心に縛られた私は、行ってらっしゃいませと口にしたのです。
心と反対のことを。
本当は、私、言いたかったのです。言いたかったのです。
行かないで。
何処にも行かないで。
私、もう、いい子のふりはできません。
「軍曹さん」
胸に縋りつこうとして伸ばした二つの手。
ばしっ。
「邪魔するな、小娘」
軍人さんによって振り払われ、あっ。容赦のない力に、私の身体はみっともなく床にごろりと転がりました。
それでも。
軍曹さんと離れ離れは、もう、いや。
いやなのです。
「お願いします。連れて行かないで、お願いします」
「ちっ、面倒な」
涙の滲んだ私の視野は、黒い軍靴に塞がれました。反射的に目を瞑り、来るべき衝撃に身を竦めましたが、ふわり、柔らかな熱に包まれたのです。
え?
「大丈夫か」
おそるおそる瞼を開けると、社長の引きつったようなお顔がございました。酷く焦られたような、そんな表情でした。
私を庇ってくださる社長、それにウィアヌス様とイレフ様のお姿もございます。
「我が国の矜持を何処に捨てた」
〈貴〉のお三方から吹き出される圧。
それは私を守ってくださる為のもので、軍人さん方さえも、じりっ、後退させる程でした。
「…アサツキ少尉だな。貴様にも本部への出頭命令が出ている。速やかに馳せ参じろ」
「行くぞ」
ざっ。
忌々し気に踵を返された軍人さん方は、軍曹さんを取り囲みながら小部屋から出て行きました。軍靴の足音と共に遠ざかる背中。
もう亜麻色も見えません。
「行かないで、軍曹さん。軍曹さんっ」
どうして?
こんなにも、私は、あなたが好きなのに。
「何故、軍部が此処へ?」
「分かりません。今回、軍部の関与無きよう取り計らったのですが」
「妙だ、察知されるには時間が短すぎる」
「提示された逮捕状には署名がありました。偽造ではないでしょう」
ウィアヌス様とイレフ様のお話に、愕然といたしました。
だ、だって。
「わ、私のせい、です…」
社長の硬い腕から何とか抜け出して、自分の足で立とうとしましたが、がくり。力なく床に座り込みました。
「アサツキっ」
逮捕状にあったお名前、それは。
私たち〈武〉の統括者であり、光護国軍部の最高峰。
ニルスス様。
「私、私が、ご不興を買ってしまったから…」
あの白百合のお方は、キティル ニルスス様と名乗られました。
ああ。
社長に手酷く追い払われた後で、光揚館での一連を、お父上に報告なさったのではないでしょうか。だから、巡り巡って、軍曹さんの存在が軍部に知られてしまう結果に。
ああ、ああ。
何もかも私のせい。
「鞭打ったあの女か。だが、まさか」
「でも、私はあのお方に二度も…」
い、いけない。
「二度?」
はっとして口を押えた時には手遅れでした。かちり、イレフ様の黒い瞳が瞬きます。
「あの交流会で、君を襲ったのはキティルか。そうだね?」
う。
迂闊な自分を恨めしく思います。違いますと否定しても、イレフ様は確信なさっておいででした。社長も烈火の如く怒ってしまわれて。
し、失態です。
「あの女…許さん」
冷や汗が滲む中、ウィアヌス様がおっしゃいます。
「書類を見ながら貴女は、何故証言は軍部からだけなのですか、と言ったね」
「は、はい…?」
どうして、今、そんなことをお聞きになるのでしょう?
見せていただいた書面には、大勢の方の証言が記されておりましたが、全て軍部関係者によるものばかりでした。
メネリック家は代々外交官を任ぜられていらっしゃいますのに、何故、内務省の証言は無いのでしょう。確かにそう思いましたが?
ええと、それが何か?
「…偏った情報は正確ではない」
「情報が操作されたとおっしゃるのですか?」
「貴女は聡明だな。ならば、操作したのは誰か?」
「誰って、ええと、軍部が全て関与しておりますから」
「つまり〈貴〉のニルスス家が黒ということだ」
えっ?
「裏に潜むは〈貴〉ニルスス家か。私は議会を招集し、帝に上奏する」
決然とウィアヌス様がおっしゃって、場は騒然となりました。
「全力で証拠を揃えます」
「僕は、軍本部へ参ります」
イレフ様だけでなく、兄様も血相を変えて飛び出して行きます。
〈貴〉のニルスス家が一連の事件の首謀者?
なら、何故、軍曹さんを連れ出したのでしょう?
まさか。
「アサツキ、お前にも危険が及ぶかも知れん。俺の傍に居ろ」
「いえ」
社長の申し出は大変ありがたく思いましたが、私はふるりと頭を振りました。現在、最も危険なのは私ではございません。
軍曹さんです。
全ての罪を、軍曹さんに押し付けるのではないでしょうか。
「あいつのところに行くつもりか、アサツキ」
「いいえ」
「攫いにまいります」
軍曹さんに危険が迫っていて、どうしてじっとしていられるでしょう。私は今度こそ、軍曹さんのお力になりたいのです。
軍曹さん、あなたは私のそらだから。
「見事だ」
ぱんぱんと拍手なさったのは、ウィアヌス様でした。
「貴女には感服だ。褒美として、そうだな、わが家へ嫁に来なさい」
は?
「駄目かね。息子二人は君が良いと言っているけれども」
「父上、俺自身の力で振り向かせるつもりだ」
はい?
「状況は大いに不利だな、サージェット。助力は必要だろう?」
「必要ない。時期を見計らっているだけだ」
えっと、話しが見えません。
「ふむ。では、メネリック家の名誉回復に尽力しよう。それと私の馬を献上する。貴女の略取の成功を願うよ」
「あ、ありがとうございます」
「しかし私の馬、諫早は気が荒い。貴女に乗りこなせるかな?」
が、頑張ります。
「サージェット、お前はどうする?」
「俺は、こいつの傍にいる」
捜査は部下に任せると社長はおっしゃるのですが、そ、そんないけません。
「煩い。お前が行くなら俺も行くまで」
「言い争う時間が無駄だ。私に似て息子は頑固だ、諦めなさい」
そうして馬場に急行いたしました。
闇に溶け込むような青鹿毛に、頭部に流星を抱く社長の馬も素晴らしいのですが、全身真っ黒の青毛は美しい筋肉を纏っておりました。
「諫早?お願い、あなたに乗せて」
私の心を理解してくださったように、かつかつと大地を蹴られる諫早。馬具の調節も大人しくしていてくださって、なんて賢い子でしょう。
「お前、そんな姿で乗るつもりか」
ドレスではいけませんか?
裾は広がる形でしたが、念のため、社長に裾を裂いていただきました。そんな呆然となさらなくても、お願いしたのは私です。
足は丸見えですが、幸い、辺りはまだ暗いので。
「…お前に似合うドレスを贈らせてくれ」
「いえ、女学校時代に縫った思い出のあるドレスですので、これで十分です」
走り出せば、諫早は風になりました。
私の背で揺れる矢筒と弓は、社長がご用意くださいました。鏃のない矢に、お前はこの方が良いのだろうとおっしゃったのです。
心遣いは、どれ程私を嬉しくさせたでしょう。
「父より巧みに諫早を操るとは。じゃじゃ馬過ぎる」
社長のお声はみるみるうちに後ろに流れて行きました。
光揚館は小高い丘に建てられていて、ぐるぐると巡らされた道のりさえ楽しめるように、美しい垣根や彫刻が連なっております。
当然、移送車ですと正規の道を通るしかございません。
軍曹さんに追いつくためには、これらの障害物を飛び越えなくてはなりません。普通の馬ではきっと叶わぬことでしょう。
でも、諫早なら。
「お願いね、諫早」
「これを飛び越えただと、莫迦な…っ」
ようやく移送車の影を捉えました。
並走なさる二頭の軍馬の方から、私に気が付かれたのでしょう、矢が射られました。諫早は気の強い良い子です。
怯むことも無く、寧ろ、突進いたしました。
騎射。
遥かな昔を思い出します。
「ミレイ様、どうか私に力を」
あら、黒ウサギさん。
わたくしの力は必要なくてよ。
どんな障害も飛び越える強い脚が、あなたにはあるから。
ふふっと薔薇の微笑みが蘇りました。
そうです、鏃さえなければ私は平気。思い描いた軌跡通りに、ほら、矢は飛んで行きます。私の矢掛けは兄様仕込みですもの。
決して、的を外しません。
放たれた矢は、次々と、軍人さんが握る手綱を引き裂きました。
移送車の窓から身を乗り出された方も、ごめんなさい、ご容赦できません。
落下なさっても軍人さんですから、骨折くらいで済むでしょう…多分。
「軍曹さんっ」
ううと呻く軍人さんを無視して、停車した移送車に乗り込みました。中には倒れた方がお二人いらして、ああ、月の光に輝く亜麻色の髪。
「軍曹さん」
「…セ、シカさん?」
「軍曹さん、あなたを攫いにまいりました。私、あなたが」
ところが。
その言葉の先を紡ぐことはできませんでした。
広い軍曹さんの胸はしっとりと濡れていて、私の手を赤く染めたのです。
ぐ、軍曹さん?
お読みいただき、ありがとうございました。
自覚なくウィアヌス家を陥落してはいけません。
→一歩間違えば、監禁ルートへ突入。




