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十九 いつかきっと訪れるこの時

た、大変遅くなってしまいました…。


 別棟とは言え、光揚館の一室です。

 優美な設えに少しぼうっとしてしまい、けれども、机に積み上げられた書類に現実に戻されました。気を引き締めなければなりません。

 二つの手の平で覆った頬が、ぺちんと音をたてます。


 軍曹さんとの対話が、ようやく始まるのです。


「貴女は私の隣に」

 寛大なウィアヌス様は、この場への立ち合いを許してくださいました。もちろん、イレフ様と社長と同じ様に軍曹さんに向き合う訳ではございません。

 大きな衝立を介した向こう、長椅子に導いてくださいました。

 柔らかな座り心地はこの際おいて、ど、どうしてまたウィアヌス様と同席なのでしょう。こ、光栄が身に過ぎます。

 まごまごしている間にも扉が開き、社長自らが、軍曹さんと兄様を案内くださいました。お部屋には私たち以外、他のどなたもいらっしゃいません。

 軍曹さんを信用くださっているのだと、嬉しく思いました。

「では、始めよう」


 イレフ様のお声を皮切りにして、軍曹さんの甘い声が響きます。先ずは正式に名乗られて、今までの経緯が語られました。

 兄様の尋問により、同じ内容が書面によって提出されております。ウィアヌス様と額を突き合わせるようにして、私も書類に目を落としました。

「軍部を離れ、練国を逃亡先に選んだのは母の生国だったからです」

 突然、突き付けられた覚えのない罪。

 同朋である光護国軍から猜疑をかけられ、そして拘束。拷問まで執行された上に、銃で撃たれたと軍曹さんは淡々と語られて、私の唇が戦慄きました。


 ああ、どうして軍曹さんだけがそんな辛い思いをなさるの。

 同じ苦しみを、どうして私に分け与えてくださらないの。

 神様。


「トエルフの名も、嘘偽りなく私の名です」

「では、メネリック家の罪状も嘘偽りないと?それを信じろと言うのかい?」

 終始穏やかなイレフ様ですのに、今は猜疑に満ちていらっしゃいました。けれども。

「いや」

 決然と、社長がおっしゃったのです。

 信じると。

「あいつはメネリックを心から信じている、ならば、俺も信じよう」


 ふ、不覚にもじんとしてしまいました。

 社長はやっぱり、社長です。


「機密漏洩も人身売買も、潔白です。ただ父は、不都合な何かを知っていたのです。だから私は軍部に出向させられた」

 妙だ。

 ウィアヌス様の呟きはささやかで、お隣の私にしか聞こえなかったでしょう。

「〈華〉の継嗣が軍部に出向し、西国に出兵など有り得ない。妙だ」

 そうなのですか?

 メネリック家に届いた書面を思い出しながら、私も声を潜めました。

「いただいた命令書には、確かに軍部長官のお名前がありました。私も確認しています」


「何故この国に戻った」

 固さを保たれたままイレフ様がおっしゃいます。

「君は逃亡犯だ、別人に成りすましても帰国は危険過ぎる。それより練国で平穏を望めただろう」

「…それは」

 一瞬言い淀まれて、短い時間が流れました。そして響く軍曹さんの声は。

 約束、と。

「必ず戻ると約束したのです、あの人と。セシカさんと」


 約束です、必ずあなたの元へ戻ります。


「一目顔を見たいと、ただそれだけを願ったのです」

「嘘だ」

 びり。

 部屋の空気を揺るがす低音。社長。

 お部屋の酸素が一気に圧縮された、そんな気がいたしました。私の二の腕は、知らず、産毛が逆立っていたのです。

「それだけの筈がない」

「そうだね。それが理由なら、これ程長くこの国に留まりはしない。嘘だと、僕も思う」

「自身の存在が愛しい者を追い詰めるだけならば」

 更に深みを増した雨粒が、ぽつんと落ちました。

「俺なら二度と姿を見せない…遠くから幸せを願うだろう」


 まして。

 イレフ様は口調を決して緩められません。

「まして君は女性を伴った。偽装だとしても、あの子を苦しめる下策を僕は認めない」

 ああ。

 ようやく私は分かったのです、イレフ様は私の為に怒ってくださるのだと。温かいお心を感じて、つんと胸が痛むのでした。

「…偽装では、ありません。ティルニは、私の妻です」


 ひゅっ、私の喉が悲鳴をあげます。

 私の、妻。

 聞きたくないと、心の何処かで叫んでいるのです。


 私の弱虫。


「偽装ではないのか?」

「死の淵から私を救い出したのは、ティルニでした」

 耳を塞ぎたい気持ちを必死で抑え込みました。

 西国の山の中、底の見えない断崖から、地元民だけが知る秘密の通路を使い、軍曹さんを救ってくださった奥様。

 そして命辛々、西国を抜けて練国まで逃げ延びたのです。

「夜露を凌ぐ為、食物を得る為、また安全の為に彼女は…口にできない犠牲を払ってくれました。彼女無しでは到底練国に辿り着けなかったでしょう」


 きり。


「私以上に彼女は全てを捨てた。彼女が望んだ妻の座以外、私に返せるものはなかったのです」


 きりり。


 胸が、ああ、砕けるよう。

 傷ついた軍曹さんと献身的に支えてくださった奥様。

 お二人は、私が思いつかない程の苦難を味わわれて、深く結びついたのです。当然です。当然です、なのに。

 ああ、私、私。

 心の奥底から真っ黒い雲が沸き上がり、私を覆ってゆくのです。どうして、奥様なの。どうして私ではないの。どうして。


 軍曹さんをお救いするのは、私でありたかった。


 頬を滑り降りるのは、醜い心。

 嫉妬です。


 ぐっと奥歯を噛み締めましたが、堪え切れませんでした。

 ひらり。

 白いハンカチが差し出されて、潤んだ眼にも眩しいそれは、ウィアヌス様からの物でした。私の方を見ないよう、明後日の方向を向かれたお気遣い。

 心に沁みました。


「彼女は知人だったのかい?」

「面識はありませんでしたが、ティルニは、父と共に西国へ赴任した外交官の夫人でした」

 外交官の旦那様を不慮の事故で亡くされて、奥様は西国で異国の方々と再婚なさったのです。

「それだけの関係?…腑に落ちないな」


「献身的な妻を得て尚、帰国した理由は何だ。あいつを出汁にするな」

 一転して厳しく響く社長のお声。

 ほんの僅かな間が空いて、夜空から落とされた光。

「…セシカさんに逢いたい、それは本心です。けれども、それだけではありません」


「復讐です」


「醜い傷を負い、父を、名誉を失い、復讐の炎が私に宿ったのです」

 掠れた甘い声に、私は、漏れ出す息を必死で押さえました。


 軍曹さん。

 軍曹さん。

 炎とおっしゃったのに、私にはあなたが氷に閉じ込められたように感じるのです。決して融けることなく凍えたように。

 どうして私は何もできないの、温めて差し上げたいのに。


「そしてこの国の現状を知りました。強大な権力が絡む、卑劣な犯罪に蝕まれていると」


 〈商〉を統括する〈貴〉のウィアヌス家。


「当家は関わっていない」

「…そのようですね。セーリクから聞きました」

 かたんと椅子の音がして、初めて兄様が発言なさいました。衣擦れはきっと敬礼なさったのでしょう。

「実は、人身売買の情報を僕にもたらしたのは、メネリック本人です」

 え?

 北国に遠征中だった兄様に、軍曹さんは密かに接触なさっておりました。不審を抱いた兄様が捜査を開始した矢先に、当のウィアヌス家から書状が届いたそうです。

 書状?

「妹に毒牙がかけられたと思いました」

「…くそ、間が悪い」

 忌々し気に社長は呟かれましたが、ど、毒牙?

「けれどもウィアヌス家に直接関わる機会になり得ました。僕の見解はメネリックに伝えた通りです」

 遺憾ですと兄様。

「ですが、申し込みは身に余る光栄につきご辞退を」

「待て、少尉。早計だ」


 ええと、話しが見えない所もございますが、つまり。


「…僕たちは互いに、黒幕だと誤解していたということか。君の言葉を鵜呑みにするなら、だけどね」

「いや、俺はメネリックを信じる」

 ふうとため息を吐かれたイレフ様と、どこか複雑そうな社長。お二人は、軍曹さんへの誤解を認識されたのです。

 そうして、軍曹さんも。

 けれども。


 ははは。


 乾ききった笑い声が響きました。軍曹さん?

「申し訳ありません、おかしくて、つい」

 虚脱しきった、掠れた声。

「高貴な方々を邪推した。私の罪が増えましたね…」


 こんな。

 こんな笑い方をなさる軍曹さんではございませんでした。

 星のように。

 月のように。

 あなたの笑顔は、いつも私の心を明るく照らしてくださったのに。

 こんな。


「軍曹さん…っ」


 長椅子を蹴って、衝立から飛び出しました。

 だって、もう、堪えられなかったのです。

 驚かれる皆さま。軍曹さんの鳶色の瞳も見開かれ、苦しそうに歪められておりました。椅子から立ち上がられる前に、私はお傍に膝を付きました。

「軍曹さん」

「…セシカさん」

「何一つ、軍曹さんに罪はございません」

 じっと私を見つめられる鳶色。

「…いいえ。私はあなたを裏切った」

 そうして胸の袷に手を差し入れて、一片の用紙を取り出されたのです。何度も広げ折り畳まれたのでしょう、端々は擦り切れておりました。


 それは。


 私が軍曹さんにお出しした手紙。


「…あなたの手紙も汚してしまいました」

 黒く広がるのは、ああ、きっと軍曹さんの血に違いありません。

「許してはいけません」

 ふるふると首を振った拍子に、涙が四方八方に飛び散りました。

 そんなもの、汚れていいです。

 鳶色の瞳に映る私の顔はくしゃくしゃで、とてもみっともないものでした。懸命に笑いましたが、返って軍曹さんは酷く辛そうなお顔をなさるだけ。

「ぐ、軍曹さんの血は、汚れていません。綺麗です」

「…綺麗なのはあなただ、セシカさん」


 私は汚れてしまった。


 どうか、そんなことおっしゃらないで。

 軍曹さん、あなたは私のそら。

 朝焼けの橙、澄んだ青、夕闇の紫。

 刻々と色が変化しても空は空であるように、復讐を抱かれたあなたも、私のそらに変わりないのです。


「軍曹さんはいつでも素敵です」

「…困ります。あなたは本当に可愛すぎて、私を困らせる」

 

 亜麻色の髪。

 優しい目元。

 困り顔の、私の魔法使いさん。


 どうか、手を握ってください。

 私の心が伝わりますように、どうか。


「…あなたの手は小さい」

 望んだ通りに私の手は温かい熱に包まれて、持ち主である軍曹さんの思いが、大きな手から伝わりました。ああ。

「小さいのに、空のように広い。セシカさん、あなたはそらです」

 鳶色の瞳に浮かぶ切ない光。

「けれども、私は」


 私はもう。

 あなたのそらではない。


 そっと身を屈められて、私の目の前には亜麻色の旋毛。

 ちゅ。

 軍曹さんの形の良い唇が、私の親指に押し当てられました。

 僅かな音と共に、次は人差し指へ。

 中指。

 薬指。

 そして、最後は小指へ。


「…これ以上、あなたを汚せない」


 ぼろり、ぼろり。

 涙が溢れて、頬を伝い、顎先から落下しました。

 いつかきっと訪れるこの時を、私は覚悟していた筈なのに、やっぱりこんなにも苦しいのです。言葉にして贈られるよりも、もっと。

 五つの指へと贈られた熱。


 それは、五つでできた言葉の代わり。




 さようなら。




お読みいただき、ありがとうございました。



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