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十八 悲しみも涙も全ては


 夜の闇にほんのりと輝く白い肌。

 綺麗な線を描く内側には切れ長の瞳。

 きゅっと寄せられた柳眉さえも美しくて、まるで白百合の花のようなご様子に、私の身は氷のように固まってしまったのです。

 あ、あの夜のお方です。小刀を振りかざされた。

「無礼者」

 鋭いお声と共に振り上げられた繊手。

 まさか短鞭を握っていらっしゃるなど思いもしませんでした。ばしりと左肩に引き裂くような衝撃を感じて、ようやく礼を欠いたことに気が付いたのです。

「お、驚かせてしまい申し訳」

「許さないわ、虫けらが」

 ひゅ。

 空を切る音に、一瞬、避けようとしてしまいました。でも、そのような振る舞いはご不興を増長させるだけでしょう。


 が、我慢しなくては。


 ばし。

 鈍い音が響きましたが、え、痛みはありませんでした。革でできた鞭は私の目の前で、大きな手のひらによって停められていたのです。

「こいつに何をする」

「しゃ、ちょう?」

 ぎらりと光る漆黒。

 ぶんと手を振り払われれば、鞭を握っておられた華奢な白百合のお方はよろめきました。ら、乱暴ではないでしょうか。

「大丈夫か、アサツキ」

 むうと唇を尖らせている場合ではございませんでした。珍しく狼狽えたご様子の社長に、がしり、両肩を掴まれてしまったのです。

 し、しまった。

 私、社長から逃げている途中でした。

「サージェット様」

 社長の向こう側で、瞳を燃え上がらせる白百合のお方。その鋭さに身体がぶるりと震えました。

「その無礼者を処罰してくださいませ。突然現れて、わたくしを驚かせたのですわ。挙句、礼も取らない無作法。嫌ですわ、下賤で」

「下賤とは〈武〉の身分を持つ者を指すのか」

「わたくしは〈貴〉ですわ。〈貴〉のキティル ニルスス」

 そして、と続く歌うたうようなお声。

「そして貴方も〈貴〉。ならばお判りでしょう、〈貴〉は至高の存在。〈武〉などの下々とは違うのですわ。そうでしょう?サージェット様?」


 身分。


 ぐっと私の喉を詰まらせた正体は、一体何でしょう。苦しい。ああ、やっぱり身分は私を苦しくさせるだけ。

「〈武〉を統括するニルスス家は、堕ちたな」

 ぶわりと社長のお背中から吹き出された威圧。その強さは圧倒的で、私もですが、同じ高貴な身分の白百合のお方さえたじろいでしまわれる程でした。

「アサツキ」

「は、はい」

「身分なき者は人として下か。ならば、身分とは何だ。答えろ、アサツキ」


「…身分とは」


 ど、どうして私に聞かれるのでしょう。

 けれども、社長の強い視線は私に注がれて、目を逸らすこともできません。おそるおそる口を開きます。

「己の果たすべき役割、です。人は平等であり、身分の有る無しに差別できません」

「正解だ」

 え?

 そうおっしゃって、私から白百合のお方に視線を移された社長は、凍える氷のお声でぴしゃりと雷を落とされたのです。

「身分とは何か、正しく理解した者だけが身分に相応しい。それをはき違え、偉そうに講釈し、人を鞭打つだと。ニルスス、お前は〈貴〉を名乗るに値しない」


「失せろ」

 短くとも強い言葉の威力に、白百合のお方は、きりりと唇を噛み締められドレスの裾を翻されました。質の良い香りに気を取られた私は、この後、後悔することになるのです。

 美しい形を歪めながら吐き出されたお言葉。

 何故、聞き逃してしまったのでしょう。


「このわたくしに向かってよくも…許さないわ。虫けらが」


「アサツキ」

 張り詰めた弦を緩めたようでした。

 普段の社長のお声、でも、私の両肩に痛い程食い込む社長の指。どうしよう、た、大変怒っていらっしゃいます。

「この莫迦。大人しく鞭打たれる〈武〉がいるか。攻撃しろっ」

 お互いの鼻先がぶつかる距離で、うう、叱られてしまいました。

 だって。

「〈武〉は民を守るもの。安易に攻撃してはいけないのです」

 防御態勢は取りましたし、い、一応。

 それに。

 あの白百合のお方だって、光護国の民なのですから。

「…お前は莫迦だ」

 いつも綺麗に撫でつけられた社長の前髪は乱れて、はらはらと額に落ちておいででした。見上げれば、夜の瞳には切ない炎が揺れるのです。

「一人で頑張ろうとするな。俺を頼れ。必ず守ってやる」

 手のひらから伝わるぬくもりに、ようやく私は気付いたのです。


 心配させてしまったのだと。


「…ごめんなさい」

「謝るな。謝罪すべきは俺だ。お前を信じなかった俺が悪い」

 え?

「許せ」


 えっ。


 ええと、では。

 仲直り、で、宜しいでしょうか…?


 何だか違う気もいたしますが、色々な出来事にもう頭が回りません。まさか社長が、私を庇って下さるとは思っておりませんでした。

 あんな風に、同じ〈貴〉であるお方を退けられるなんて。

 もしかして、私こそ、社長を信じていなかったのかも知れません。

「仲直りか。なら、握手だな」

 そ、そうなのかしら…?

 きゅっと握った社長の手は大きくて、温かくて、安心するのです。軍曹さんの手はどきどきしますのに、不思議。

「メネリックの話を聞こう」

 お声を深めて、そう譲歩してくださった時には、ぴょんと飛び跳ねました。だって、嬉しいのですもの。

「ありがとうございます」

 きちんとお話し合って、お互いの誤解を解いて、そうしたならこの状況を抜け出せるかもしれません。いえきっとそうなるに違いありません。

 だって、社長ですもの。


 軍曹さん、軍曹さん。

 もう少し待っていてください、軍曹さん。


 ただ。

 ええと、握手ってずっと握っているものでしたか?

「何だ。他に望みがあるのか?」

「えっ。十分です。とても嬉しいです」

「なら」

 次は俺の番だ。

 にやりとなさった社長は、ひゃっ、わわわ私を抱っこされたのです。な、何故っ?

「仕置きだ。靴も履かず飛び出したじゃじゃ馬に相応しいだろう」


 じゃ、じゃじゃ馬?


 ゆらゆらと揺られる心地良い振動に、羞恥心は募るばかりでした。は、恥ずかしい。

「子どもじゃないです、私、抱っこなんて」

「子どもでも、そうでなくても俺は困る」

 は?

 お庭を抜けて、敷き詰めた絨毯の先の一室に辿り着きました。控え目な装飾のご様子から、光揚館本館ではなく別館のようです。

「ウサギさん?サージェ?」

 室内にいらしたイレフ様が、ばさばさと書類を落とされて驚愕に目を見開かれたので、私の顔から火が吹き出しました。

 だ、だから抱っこはおやめくださいって何度もっ。

「捕獲に手こずった」

 目を眇めたイレフ様と社長。

 しばし無言で睨み合われましたが、諦念のため息を深々と吐かれたイレフ様。

「…必要な部屋以外、封鎖しておいて良かったよ。外で無体を働く恥知らずな弟はいらないからね」

 

 無体?

 首を捻る私は、お二人が打ち合わせなさる間に、控えの間で身支度を整えさせていただきました。花の装飾が施された壁掛け鏡に映ったのは、凄まじくぼろぼろな私。

 残念さに、がくり、です。


 そうして元の小部屋に戻ると、見知らぬ紳士様が椅子に座っておいででした。

 どなたでしょうか。

 扉の傍で戸惑っていると、さっと立ち上がられ、脱がれた黒の上衣を私の肩に掛けてくださったのです。しなやかな足取りと、上品な所作。

 何て素敵なおじ様でしょう。

 上着をお返しすることも忘れ、莫迦みたいにぽかんと見惚れていた私に、夜色の瞳が注ぎます。

「その傷は鞭の跡に見える」

「あっ」

 髪を結わえ直し、鞭の跡が残る左の首筋を隠したのですが、紳士様は目敏くいらっしゃる。慌てて右手で覆うと、ばたんと扉が開閉し、イレフ様と社長が入ってみえました。

「父上。いつの間に此処へ」

 ちっ?

 さぁっと頭から血の気が引きました。イレフ様と社長のお父様ならば、当然〈貴〉、それもご当主でいらっしゃいます。

 わ、私などお目通りできないお方です。

 ひぃっと飛び上がった無礼を、ど、どうかお許しください。


「お前たちは女性への気遣いが足らん。まして鞭から守ることも出来んとは、情けない」

「配慮が足りませんでした」

「…ニルススの娘にやられた。反省している」

「北が?庭は人払いしていたのではなかったのか」

 お二人を叱りつつお父様は、私を長椅子まで導いてくださいました。余りにも自然過ぎて、同じ長椅子に座る不遜をお断りできませんでした。

「私から謝罪しよう。〈貴〉の資質に欠いた非礼をどうか許されよ」

 きっ、気にしておりません。

 お願いですから頭をさげないでくださいっ。


 事は国を揺るがす大罪。

 軍曹さんとの話し合いは重要、立場あるお父様もお立ち会いくださるそうです。時間まで山積みされた書類に、私も目を通すようおっしゃいました。

 宜しいのでしょうか?

「貴女は重要な関係者だ。何か気付いたら教えるように」

 ご厚意、嬉しく思います。

 難しい文章に悩みながら、時々イレフ様にお聞きしました。何故証言は軍部だけなのですか、軍曹さんが勘違いなさった理由はどこでしょう、等々。

 そんな私の横顔をご覧になられ、お父様の目元の素敵な皺が深まりました。

「彼を想う貴女の気持ちは尊い。だが」

 しんとお部屋が静まって、艶のある低いお声だけが響きます。

「彼と結ばれることは無いと分かっても、貴女は信じ抜くことができるだろうか?」


「はい」


 微笑みたかったのですが、へにょり、失敗してしまいました。

 強がりだと、皆さまに見抜かれてしまうでしょうか。それでも。


「奥様がいらっしゃることは理解しております。軍曹さんと結ばれる日は来ないことも。それでも私は、軍曹さんを信じます」


「何故だ」

 ぎりっと噛み締めた奥歯。

「報われもしないのに、何故、お前はそう言い切る。婚約だって解消された。あいつを見限っても誰も文句は言わない、寧ろ当然だろう…っ」

 まるで血を吐くような、社長のお声。


「それは」

 軍曹さんからいただいた沢山の温かな気持ち、それは別の女性を選ばれた今でも、私の胸で輝いているからです。

 軍曹さんがくださった真心。

 誰からも見向きもされなかった私を、見つけてくださった。

 意地っ張りな私を、選んでくださった。

 星空の下、私のそらと告白くださった。


 それだけで十分です。


「私は十分満たされました」

 哀しみも、流した涙も全て、きっと星のように輝く日が来るでしょう。

 だから。

 今、私が願うことは、私と軍曹さんが結ばれることではないのです。おそろしい嫌疑が晴れて、ほんの僅かでも軍曹さんの名誉が回復されたなら。

 奥様とご一緒に、幸せな人生を。


 ああ、それこそ私の切なる望み。


「軍曹さんが幸せなら、私は幸せなのです」


 軍曹さんが幸せでありますように。

 ただそれだけ。

 それだけを。


「信じているのは軍曹さんだけではございません」

 今度こそにっこりと微笑みました。


 社長も、イレフ様も。

 お父様も心から信じております。

 それに。


「この国の正義を、私は、信じます」



お読みいただき、ありがとうございました。

素敵なおじ様と、セシカに言わせたかっただけの回でした

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