十七 同じくらいに信じていても
長めです。すみません。
社長とイレフ様。
それに兄様まで突然現れて、ど、どうして睨み合われるのですか。空気が険悪に感じるのは私の気のせいですよね。それに先程のお言葉は。
ばしばし。
「何している、アサツキ」
ええと、巡りの悪い頭を働かせる為に頬を叩きました。
「頬が可哀想ですよ、セシカさん」
軍曹さんに窘められて、い、いえ、それ程痛くございません。ちょっとじんじんするだけです。
社長も軍曹さんも唖然となさって、でも、言い争いは止まりましたでしょう?
なら、頬を叩いた甲斐もございました。良かったですとにっこりして、まずは、社長に向き合いました。
「社長」
「…何だ」
社長は背がお高くいらっしゃるので、私はその大きな両手をぎゅっと握り締めました。失礼な行為ですが、こうすることで私の思いがより伝わるような気がするのです。
「いけません、社長」
きちんと視線を合わせることも大事です。
「屑だなど、おっしゃってはなりません」
人々に情報をお届けする版元は、言葉を大事にしなければならないと、社長ご自身がお教えくださったのです。
私はとても感激いたしました、何て素晴らしいのでしょうと。
だから。
「いけない言葉です。軍曹さんに謝罪してください」
首を傾げて社長を促しましたが、ひくりと唇の端を歪められてしまいました。もう。では、私も一緒に謝りますから。
ね?
「申し訳ございません、言葉が過ぎました」
「…すまない」
軍曹さんに向かってまず私が先に頭を下げました、うん、ちゃんと社長も謝罪してくださいましたね。お声は小さいようでしたが、はい、良くできました。
では、次です。
今度は手袋に包まれた軍曹さんの両手を、きゅっ、握ります。嬉しそうになさらないで、ま、真面目なお話ですよ?
「ぐ、軍曹さんもいけません。正式に名乗られたお方に、名をお返しする礼儀はお持ちでしょう?」
「そうですね、セシカさん」
小刻みに肩が震えていらっしゃいますが、くくくって、笑っておいでですね。もう。ぎゅううってしてしまいますよ?
「あなたも一緒に謝ってくれますか?」
い、いいですけれど、あの。
ゆ、指を絡められては謝罪できません。軍曹さん。
「も、申し訳ございません」
「謝罪します」
結局、指は絡んだまま、私の隣で軍曹さんは謝罪なさったのです。
「〈華〉のニイタカ メネリック、それは失くした私の名です」
雲間から差し込む月光。
同じ亜麻色の髪は、風に吹かれ、悲しく輝きました。
「遠い異国の地で、私は私で無くなりました。身に覚えのない罪、銃殺刑に処された父、弁明も許されませんでした。打たれた銃弾の数は、逃亡を贖うに足りませんでしたか?」
闇に染まる鳶色の瞳。
「ぽたりぽたりと大地に落とした血も少なすぎましたか?底の見えない断崖から転落し、何故、そのまま奈落に行かなかったのかと高貴な方は思うのでしょう」
切り立つ断崖。
風に吹かれてからからと落ちる石たち。情景を思い起こして、私は縮み上がりました。
「自分が死にゆく音が聞こえました」
遠い異国の地。
軍曹さんがたった一人で受けられた苦しみ。
「僅かな光明もない暗闇の世界で、少しずつ自分が死んで行く。何もかも失くし絶望の果てに思うのは、あなたのことだけでした」
セシカさん、あなたのことだけ。
あなたの元へ必ず帰ります。セシカさん。
「その思いが私を生かした。西国から練国に渡り、安寧な生活を送ることも望めましたが、あなたがいない日々は耐えられなかった」
あなたは私のそら。
あなたを失くしては息もできない。
「たった一目で良かったのです、セシカさん、あなたに逢いたかった」
もう限界でした。
軍曹さんが苦しまれる中、私は、のうのうと暮らしていたのです。どうして西国へ飛んで行かなかったのでしょう。
あなたのお傍が私の居場所なのに。
必死で留めていた涙が、ぽろりと一粒、頬を伝いました。
あなたが苦しむなら私も。
どうか一緒に。
「一目だけ。一目あなたの姿を目に焼き付け、それで全てを諦めようと思っていました。私の存在は混乱を招くだけで、誰も幸せにできないと知っていましたから」
ゆっくりと瞬いて、鳶色の奥で立ち上がる炎。
「ですが」
社長とイレフ様に向けられた光は鋭く刺すようでした。
「あなた方がセシカさんの隣に立つことだけは許せません。どうしても」
メネリック家を無実の罪に貶めたあなた方。
〈貴〉のウィアヌス家。
私の全てを奪い、次は、セシカさん。あなたまでも。
「戯言も大概にしろっ」
「アサツキ少尉、彼を拘束せよ」
イレフ様の命を受けたとはいえ、兄様が軍曹さんを拘束される姿に、私の頭から血の気が引いて行きました。
「に、兄様っ」
手を伸ばしましたが、社長、どうして邪魔をなさるのですか。大きな体でぎゅっとされては軍曹さんに届きません。
放してください。私、軍曹さんの元へ行きたいのです。
「連れて行け。アサツキ、お前はこっちだ」
「軍曹さん、軍曹さん、軍曹さんっ」
もう滅茶苦茶に暴れました。
肘打ちに膝蹴り、どうして脛を蹴られても社長は平気なのでしょう?
長身の社長は壁のようで、悔しいけれど私の力などちっとも通じません。アサツキ、と何度も名を呼ばれ宥められましたが、いやっ。
「放してく」
「放さん。二度と放さない」
「や」
「暴れるとサージェを煽るだけだよ、ウサギさん。食べられたくなかったら大人しくしていなさい」
「食べられてもいいですっ、それよりも」
冷静さを欠いた発言でした。
社長のお心を逆撫でしてしまったのでしょう、うんと低いお声が耳元を掠めました。
「…ほう、食っていいと」
「か、噛みついたら、や、やり返します、から」
毅然としたつもりでした。
けれど、ぎらりと光る社長の瞳に身体はぶるぶる震えるし、見上げる目は潤んでしまうしと自分でも情けない有様でした。
「…限界だ」
そう呻かれた社長は、何故か、私を抱きかかえたまま走り出したのです。
何処へ、とか。
私の靴と鏡は、とか。
イレフ様を置いて、とか。
全て喉の奥で詰まって、出て来ません。
「あの男は卑劣な犯罪者だ。アサツキ、お前に信じろというのは酷かもしれん、だが、真実だ」
少しの隙間もなく私の身体を引き寄せられた社長は、現在の状況をお教えくださいました。その言葉を裏付ける光景が、私の目に飛び込んできたのです。
「見ろ、あいつらを」
光揚館の象徴、時計塔のある本館を取り囲まれていたのは、見知らぬ制服を纏われた方々でした。
右肩から下がる金の飾緒。
それに怯えるように呆然と項垂れる人々は、品の良い社交服に身を包まれて、如何にも身分高そうな方ばかりです。
「身分を利用し、光護国の女を不当に売買して利益を得ていた者どもだ」
え…?
「そして、黒幕はメネリック。軍部から寄せられた情報の数々に裏付いた事実だ」
私の脳裏を駆け巡る思い出。
異国のお城のようだったメネリック家。本物のお姫様マァヤ様が住まわれて、厳しくココノエ様が守られておりました。
至らない私を、若奥様と呼んでくださった皆さま。お友達になってくださったウルさんとカイエさん。
今も私を支えてくださる、大切な思い出です。
軍曹さんの大切な家族。
あの方々を悲しませるなんて、軍曹さんは、絶対になさいません。
ぴたりと長い脚を止められて、揺れが治まりました。何処に辿り着いたのでしょう、聞こえていた喧騒も遠ざかったようです。
熱を孕んだ吐息が、私の髪に絡みました。
「こっちを向け、アサツキ」
できませんでした。
だって。
涙が溢れて止められないのです。
〈武〉は決して泣いてはならないのに、目から押し出された涙は次々と頬を伝い、覆った掌にぽとぽと落ちておりました。
どんなに頑張っても、わたしはやっぱり弱虫のまま。
意地っ張りで強情で。
矜持だけは高くて、卑屈な私。本当の私はそんなみっともない女で、誰にも知られないよう隠して参りました。
大恩ある社長であっても、お見せできません。
でも、軍曹さんだけには。
軍曹さん、あなたは私のそらです。
どんなにみっともない姿も、あなただけに。
涙は、あなたの胸で流したいのです。
「アサツキ、頼む。顔を」
懇願されても、駄目なのです。
「お前の顔が見たい」
私に巻き付いた硬い腕が、ふと緩みました。
「俺は、お前を」
「やっ」
出来た隙間に手をねじ込んで、どんと突き放しました。私もたたら踏んで、行き止まりの壁にぶつかってしまいましたが、何とか体勢を整えます。
僅かな灯りに照らされた社長の、強張ったお顔。
傷つかれたような。
「大丈夫か。どこか怪我をしなかったか」
それでも心配を滲ませて、腕を伸ばされる社長の姿に、私はぎゅっと身を竦めました。
「軍曹さんは、そのような方ではございません。誤解です」
「…俺を疑うのか。お前はあいつを信じるのか」
「私は」
私は、軍曹さんを信じます。
けれども。
同じくらい、社長を信じております。
「私にとって社長は、厳しく深く、海のように包んでくださるお方です。誰よりも尊敬しております。信じないなんて、有り得ません」
「ならば、俺の傍に」
仄かに熱を帯びた瞳で、一歩。
詰められた距離に、私は、右手の欄干の上に飛び移りました。綺麗な彫刻が施された欄干の下に広がる暗い闇。
こちらに来てはいけません。
「降りろ、アサツキっ」
ふるふると首を振りました。
だって。
「だって、社長は私を信じてくださらないのでしょう?」
腕の中に囲い込んで、何も言えないようぎゅうと締め付けて、私の話を聞いてくださらない。それではいけないのです。
適切な距離が必要なのです。
「距離、そんなもの必要ない」
「では私を信じてくださいますか。社長も軍曹さんも、お互い、誤解なさっておられるだけです。きちんとお話しする時間をください」
「…その必要は、ない」
お言葉は、私の胸に刺さりました。
必要ない。
何て辛い言葉でしょう。
「アサツキっ」
酷く緊迫したお声を背に、私は、暗闇へと身を躍らせました。
乏しい灯りでしたので目測を誤ってしまいました。
お庭の下草に着地を失敗し、勢いのまま転がってしまったのです。うう。灌木に引っ掛かり、ドレスの破ける音がしました。
この裾さえ短ければ、もう少し上手にできたのに。
「アサツキっ、無事か。何処だ」
ひ。
多分、社長も同じ様に欄干から飛び降りられたのでしょう。直ぐ近くでお声が聞こえ、私は飛び上がって逃げ出しました。
「何処だ、何処にいる。頼む。出て来てくれ」
アサツキ、アサツキと呼ばれるお声に、私の心臓はきゅうと痛みます。心配してくださると理解しておりました。
大丈夫ですと、本当は言いたいのです。でも。
私が信じていても、社長は私を信じてくださらない。
社長に拒否されたのです。
悲しい気持ちで胸が塞ぎました。
いいえ、だめ。
今、考えるべきは軍曹さんのこと。
私にできることをしなくては。
ああ、そうだわ。
兄様に。
ざざ。
背後に威圧感を感じながら、背丈ほどの垣根を割りました。枝にあちこち引っ掛けながら、ようやく飛び出した先には。
「きゃあっ」
ど、どなたかがいらしたようです。辛うじて身を躱しましたが、驚かれた女性の高いお声がいたしました。
も、申し訳ございませんっ。
がばりと頭を垂れて謝罪する私の耳に、歌うようなお声が届きます。
「あなた」
このお方は。
お読みいただき、ありがとうございました。
第一稿では部屋に連れ込まれたセシカ。
だめぇと冷や汗を流しました。
何度も書き直し…あ、危うく回避。




