16 Ain’t no mountain high enough
長いです。すみません。
あいつは今頃何をしているだろう。
一人で泣いていないだろうか。
軽い音だけを残し、手中の書類は簡単に形を歪ませた。
「サージェ」
兄の咎める声がしたが、彼女の行方を記されたそれを握り潰さずにはいられなかった。それ程の内容だったのだ。
「全くあの子は…僕の予想を遥かに上行くよ」
本物のじゃじゃ馬だ。
車椅子の肘掛けにもたれイレフは乾いた笑いを発し、彼も、サージェットも痛む頭を抱えた。あいつは一体何をしている。
アサツキ。
彼女が暇乞いを願ったあの時。
監禁するしかない、彼はそう決心した。
彼の傍を離れるなど絶対に認められなかったし、彼女が傷つけられるのは二度と御免だ。まして他の男に触られるなど許し難い。
「僕も、彼女が傷つく姿は二度と見たくない。監禁か、いいかもね」
イレフレートも同意した。
その後まさか結婚話を言い出した時には、裏切りだと腹を立てたが、逆に感心もした。成程、あいつを手中にできるならそれもいい。
だが兄は考えを変えた。
「彼女は本気だ、閉じ込められない。それでも実力行使するならば、サージェ、覚悟が必要だよ」
君は覚悟があるかい?
彼女に嫌われる覚悟だよ。
僕には、ない。あの子に嫌われたくない。
「お世話になりました」
イレフの言葉が頭を逡巡している間に、彼女は綺麗な一礼を残し、彼の元を辞した。
執務室の扉が閉まる音を、彼は、ただ聞いていた。心の片隅で囁く声がする、アサツキは俺の傍を離れる訳がないと。
そう。
こうして仕事机に向かってさえいれば彼女は戻って来る、と。
なのに。
かちかちと時の過ぎ行く音がこれ程耳障りだと知らなかった。アサツキは何故来ない、此処はお前の居場所だろう?
ついに椅子を蹴り倒して部屋を飛び出したが、彼女の姿はなかった。
「アサツキ?」
サージェットの胸に、その日、大穴が穿たれた。
「アサツキ殿には時間と距離が必要なのです。サージェット様」
視線や声音だけで人を魅了する主の不器用さを、部下たちは知った。いや、初恋の威力を思い知ったと言うべきか。
「そ、そうですとも。五日、長くても七日のちは戻ってきますとも」
「南区から出ない手筈は整えておりますし」
「雇用を断るよう店に指示もしてあります」
経験豊富な部下にとって、暴れ馬は十分走らせてから捕獲するのは定石だ。
良い仕事をしたとほくほくする部下たちに、サージェットは言えなかった。アサツキのじゃじゃ馬は半端でないと。
第一に。
職を求めて南区中を歩き、全て断られるのだ。要らないと言われ続け、あいつはどんなに傷つくことだろう。
くそ、まただ。また、あいつを守れない。
「南区に住まわれる方々は幸せですね、社長が治めておいでですもの」
花のように綻んで、お前は言った。そう思うならば、何故、俺から離れた。お前が俺にそうしたように、俺もお前を。
幸せにしたい。
お前だけを、俺は。
そして、部下の思惑を振り切って、彼女は宿屋から姿を消した。
「…あいつは莫迦だ」
くしゃりと潰れた書類に踊る文字、それは彼女の行方だった。
南区にある中堅の〈商〉シュン家。その最奥の別邸は現在、異国の夫婦に宛がわれている。シュン家当主が招いた貴人。
遠津国 練より訪れた、トエルフ夫妻。
アサツキは其処にいる。
「確かにあの子は莫迦だね」
想い人だと信じる相手が、自分以外の女性と睦み合う。
眼前でその姿を見たいと、誰が思う?
自身が傷つくだけだ。引き千切られた心は血を流すだろう、だのに。
あいつは。
敢えてその選択した理由は、アサツキの事だ、相手を奪いたいなどと私欲の為ではないだろう。多分、そうせざるを得ない事情があったに違いない。
「辛い道を、あの子は選ぶ。それ程にあの子は」
それ程までに、アサツキはあの男だけを想っている。
「くそ…っ」
苦々しい息を吐き出し、彼は扉に向かった。彼の長い脚ならばすぐに辿り着く筈だったが、軌道上にイレフの車椅子が滑り込んだ。
「何処に行くの、サージェ。話しは終わっていないよ」
「決まっている、あいつを迎えに行く」
「駄目だ。今は時期が悪い」
時期。そんなもの。
「今、君が乗り込めばシュン家は警戒する。黒幕に逃げられる」
それでもいいのかい。
冷静過ぎる兄の言葉に、彼はぐっと拳を握り締めた。噛み締めた奥歯が、ぎり、嫌な音がする。ちきしょう。
無力だ、俺は。
アサツキ。
それからの日々は、じりじりと彼を焦げ付かせた。
彼女のいない時間は、彼の胸を凍えさせ、穿たれた穴を拡げるばかりだ。仕事も酒も役立たない、こうして帝都の家に通いイレフと情報をやり取りする以外。何も。
そして。
「父の書斎へ行こう、許可は得ている」
何時になく顔色を失くした兄、それは情報が全て揃った証だった。ようやく反撃の時が巡って来たのだと、彼は思った。
「父上、人身売買の事実を報告いたします」
「我が国の女性が不当に攫われ、西国を仲介し、列強の国々へ売買されておりました。これが証拠です」
ウィアヌス家当主によって人払いされた書斎に、イレフレートの固い声が響いた。提出された書類の束を一瞥した父は、闇よりも深い眼を細める。
「それで?」
「主犯は〈華〉のメネリックです」
光護国外交高官、それも長官補佐として西国に赴任していたメネリック家当主はその地位を利用し、卑劣な犯罪を行っていた。
軍部が察し、情報漏洩という罪で銃殺刑に処したが、加担した全ては未だ潰えていない。まして長子は軍部の手を逃れている。
『もう一度調査なさるといいでしょう、綿密に。身元ではなく、私の名を』
あの男は挑戦的に言った、名、と。
シュン家当主はヒダカ、そしてあの男の本当の名は、ニイタカ。
ニダカとの名も繋がりを感じさせる。真名を失った彼が、声なき声で叫んでいるように感じた。国に対する怨嗟を。
だが、それは逆恨みだ。
「異国からの訪問者を装った息子が、この国でまた罪を犯すと?」
「はい。〈商〉シュン家にも不穏な動きがあり、近々実行するかと」
シュン家。
兄の報告を聞きながら、サージェットは思う。あいつはどうなる、と。
まるで綱渡りだ、慎重に歩を進めなければ転落する危険に晒されている。アサツキが異国に売買されないと、誰が保証する?
「人身売買は国家の威信を貶める大罪。だが、腑に落ちん箇所も多々ある」
父の威厳に満ちた声が、書斎を震わせる。
「〈貴〉の矜持で以て慎重かつ迅速に行動せよ」
「父上に願う。あいつを迎えに行きたい」
体内で渦巻く激情は嵐に似ていた。今すぐにでも駆けつけたい衝動を懸命に堪え、父に訴える。しかし返答は。
「天女を望むには経験不足だと思うぞ、サージェット。手の内から逃げられたのだろう?」
「もう逃がさない」
サージェットは決意していた。
「あいつと結婚する」
「は?」
「あいつの、アサツキ家に書面を送り、正式に申し込んだ。父上、どうか許可を」
青天の霹靂。
頭を下げた息子に、父は、ぴしゃりと落雷の音が聞こえた。上の息子ならともかく、サージェットが女性と結婚を願うとは。
「サージェット、抜け駆けだ」
「イレフが結婚を言い出したお陰だ。先手を打ったに過ぎん」
「あの子は僕が守るよ。君は引っ込め」
「煩い。あいつは俺のだ」
「は、好きだとも言えないくせして」
車椅子から立ち上がって興奮するイレフ、珍しいことだと父は呟いた。兄弟喧嘩を繰り広げる息子たちは微笑ましいものだ。
こんな場合でも。
「それで、お前たち、彼女の同意は?」
どちらの息子も彼女に選んで貰えなかった、その事実を知った父が、どかんと鉄槌を下したのは言うまでもない。
結局、父から許可は下りなかった。今は余計な行為を慎め。
サージェットは準備を進めるしかなく、彼女の安寧を願った。俺が行くまで、頼む、無事でいてくれ。
人身売買に関わった者の中には高位身分者も含まれ、余すことなく捕縛する為、夜会を囮にする手筈が整えられた。
会場に選ばれたのは光揚館。
送った招待状の中には、当然、トエルフ夫妻の名もあった。
時計塔のある本館は華やかに飾り付けられて、楽団の音が夜を彩る。
揺らめく照明、貴婦人のドレスは数多の花が咲き誇ったかのように美しい。紫煙を燻らせる紳士の社交服は艶やかな黒。
「〈武〉のセーリク アサツキ、参上いたしました」
小部屋に待機した〈貴〉の面々に、かつんと軍靴を打ち揃え、縁なしの眼鏡をかけた青年が敬礼した。
「間に合ったな。俺がサージェットだ」
「…存じております、同じく帝学生でした。この度は情報を与えてくださり感謝いたします」
セーリクは北国に遠征していた彼女の実兄だ。結婚の申し込みに付随して判明したが、彼は人身売買を内密に調査していたのだ。
全くの偶然とは言え、神に感謝してもいいだろう。
「ですが、当家への申し込みとは別物とお考え下さい」
ちっ。
兄や父にも聞こえる舌打ちが、サージェットの口から洩れた。
十を超える鐘の音に、厳かに光帝が会場に降り立たれた。光護国第一の神々しい姿に、会場は色めきだったが、その表情が無い事に気付いた者はいるだろうか。
「恥を知れ」
「軍部に内通者が存在するかも知れません」
セーリクの諫言に、今回は、光帝と一部の〈貴〉を警護する特殊機関を動かした。金の肩章を付けた猛者が会場を素早く制圧する。
何が起こったのか理解できないと、捕らえた人々は茫然自失だった。
「ニイタカが居りません」
会場入りは確認していたが、あの目立つ亜麻色の髪は何処にもいない。逃亡した?
折良く部下の一人から紙片が届く。アサツキが南区を出て、帝都、光揚館に向かったと小さな文字が書かれていた。
「あの莫迦…っ」
寄りにも寄ってこの時に、何故、此処へ。
まさか、あの男が何か。
嫌な予感に血の気が引いて行く。裾を翻し、大広間を駆け抜けた。廊下。回廊。庭。広大な敷地を有する光揚館、その一部を包囲したが、手薄な所もあるだろう。
事前に叩き込んだ地図を頭の中で広げ、彼は走った。
山茶花の肉厚な葉の向こう。
なだらかな斜面をごんごんと鐘の音が滑って行く。小さな灯りだけの野原には一輪の花。その光景に、昔、訳した古詩が巡った。
花咲く君。どんなに高い山に咲こうとも、私は諦めない。君は私だけの花。
「アサツキ」
ほっとしたのも束の間だった。
「あなたを攫います」
瞬時に、腹の奥底から灼熱が沸き上がった。させるか。
『そいつに触るな』
地を這うような声で威嚇したが、亜麻色の髪の男はアサツキから離れようとしなかった。苛立たしさが募る。
「その男は危険だ」
『それは貴方でしょう。彼女を弄んで騙して、飽きた時はどの国に捨てるつもりだったのですか?』
侮辱だった。
俺を貶めて、アサツキを騙そうとする手管に、怒りが迸る。
『俺は〈貴〉のサージェット ウィアヌス。真の名を忘れていなくば、お前も名乗れ』
『私の名は疾うにございません。あなたが奪ったのでしょう?』
この男。
『では、お前を良く知る者を呼んでやる』
車椅子の軋む音、それに小枝踏みつけた足音に、背後に誰が現れたのか理解していた。兄様と、喜色を滲ませる彼女。
アサツキ。
証明してやる、この男の嘘を。
「この男の名を知っているか」
彼の名は〈華〉のニイタカ メネリック。
嘘と大罪に塗れた屑の名だ。
お読みいただき、ありがとうございました。
長さの割に一向に進まかったのは、全て社長のせいです。




