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十五 何も要らない、あなたさえ


 小夜風に揺れる草野、宵闇に輝く星と月。


 私の膝の上にもお月様。

 あなたの亜麻色の髪。

 指にさらさらと心地良くて、つい、何度も梳いてしまいました。この時がずっと続けばいいのに、なんて過ぎた望みを抱きながら。

 いけないのに。

 そう思った瞬間、きゅ。

 手袋の上から、指を絡められてしまったのです。先程までご機嫌で膝枕されていらしたのに、何だか、怒っていらっしゃるみたい。

 え、あの。


 か、髪をくしゃくしゃにしてしまったから?


「彼にも膝枕を?」

 急な質問でした。


 かれ?


「彼にも膝を許し、こんな風に髪を撫でたのですか。黒ウサギさん」

 もしかして兄様のことをおっしゃっているのでしょうか。確かに兄様には、膝枕で耳かきして差し上げましたけれども?

「セーリクではありません、それも複雑に思いますが」

 そう囁かれて、私の手をご自身の、く、唇に押し当てられるのは何故ですか。は、はは恥ずかしいです。

「あの身分高き彼の事です。あなたの肩を抱き、あなたと踊ったあの男」


「社長の事、ですか?」

 何故、社長のお話をなさるのでしょうか。それよりも、少しだけしかめられた眉も綺麗な亜麻色なのだわ、と、思っておりました。

 だって。

 こんなにも近づいてお顔を拝見したことはございませんでした。魔法使いさんの全てにどきどきしてしまいます。

 す、素敵だなって。

「社長とは?」

「は、はい。ご縁をいただき、あのお方の元で働いておりました」

 鳶色の瞳が、どうしてでしょう、複雑な色に瞬いております。それだけですかとお尋ねになられても、そうですけれど?

 え?

「彼はあなたの特別になったのでしょう?」


 と、特別?


 首を右に傾けて、それから、左に傾けて考えてみました。

「ああ、ご恩のことですか。はい、社長は特別です。私を雇っていただいた恩義がございます」

 にっこりとお返事いたしました。

 けれども、魔法使いさんは疲れたようにため息を吐かれたのです。ま、間違った返答でしたか?

「特別の意味が違います」

「意味?」

 もう一度考えてみましたが、うう、やっぱり分かりません。私、頭の回転が鈍いのです。お教えください。

「…周囲は、彼とあなたは」

「社長と?」

「…彼はあなたを」

「社長は?」


 どんなにお聞きしても、聞こえない程のささやかな声でおっしゃるばかり。


「…違うのですか?」

 え、お聞きしているのは私ですのに、何故、疑問形?

 そんな風に見つめられても、私の頭は混乱する一方なのですが、何をお聞きしたいのでしょう。本気で分かりません。

「い、意地悪しないで教えてください。社長が何ですか?」

「あなたは」

「わ、私は?」

「…あなたの手強さを、忘れていました」


 は?


 またも意味不明です。更にくつくつと笑いだされたので、もう、私はどうしたらいいのでしょう。お手上げです。

「あなたらしいですが、少し、彼に同情します」

 はい?

「…特別を望んでも通じないもどかしさ、切なさに、私も振り回されましたから」


 変な魔法使いさん。

 何がそんなにおかしいのかしら。


「黒ウサギさん、まだ足りません。もう少しあなたを強請っても?」

 

 散々笑われた後で、形の良い唇から紡がれた声は、甘く。

 私の手に口づけられて、ちゅ、可愛い音が響きます。先程の不機嫌は払拭されたご様子に、不思議な気持ちになりました。

 こんな魔法使いさん、初めて。

 いつでも優しくて、家族思いで、星のようにきらきらなさっていらっしゃるのに、何だか今日の魔法使いさんは子どもみたい。

 不機嫌になられたり、拗ねたようになさったり。

 どうしよう。


 可愛い。


 と、思うなんて。

 胸の小鳥がさわさわ羽ばたいて苦しいくらいに、可愛く思うのです。

 へ、変だわ、私。

 やっぱり、あなたの魔法でしょう?


「まだ唇に、していただいておりませんよ?」


 頬から湯気が出そうになった時でした。

 僅かに欠けた月の夜に、時を告げる鐘の音が響いたのです。ごんごんごん。私がはっとしたように、魔法使いさんのお身体も、ぴくりと身動ぎされました。

 ああ。


 魔法の終わり。


 夜を照らす鏡が西の地平に沈むように、物事には全て終わりがあって、素敵な魔法もいつかは解けてしまうのです。

 時間は過ぎて。

 魔法が解けたなら、私はちっぽけな私に、魔法使いさんは異国の邦人様へと戻らなければなりません。

 お別れしなくては、ならないのです。


 この方には、奥様がいらっしゃる。


 そっと広い肩に手を置くと、私の意図が伝わったのでしょう、軍曹さんは私の膝から身を起こされました。じっと見つめる鳶色の瞳に浮かぶ、私の顔。

「まだ、鳴り終わっていない。まだ」

 長い腕でぎゅっと抱きしめてくださったので、もう十分だと思いました。私の奥深くまで沁み込んだこの温かさだけで、私は満たされたのです。


 これ以上は、いけません。


「いいえ。どうか、お別れの言葉を」

「十二の鐘はまだ鳴っていない。別れられない。あなたは何も聞かないけれど、私は」

 ふるふると頭を振る事しかできませんでした。

「いいえ。この国にあなたはお戻りになられた、それだけが私の大事です」

 込み上げて来る涙を耐えて、懸命に笑顔を作りました。

 にこり。

 どんなご事情を抱えられていらっしゃるのか、本当はとてもとても、お聞きしたいです。でも。それは私の大事ではないのです。

 大切なことは、生きていらっしゃること。


 軍曹さん。

 あなたが生きていてくだされば、私は何もいらないのです。

 身を切るように痛んでも、お別れだって、受け入れます。


「…以前も言ったでしょう、あなたはいい子過ぎると」


 遠い昔、軍曹さんは私をいい子だとおっしゃいました。

 あれから随分と時は過ぎましたが、私、我が儘だし意地っ張りだと思います。決していい子ではございません。


 ごん。

 鐘はもうすぐ終わり。


「いい子はもう十分です。言ってください。本当のあなたの望みを」

「本当の望み?」

 それは、お別れの言葉、を。

「違います」

 切なげに揺れる亜麻色の髪。よく考えてくださいと囁かれても、益々強く抱きしめられては、か、考えられません。

「あなたの本当の望みは、私と別れることですか、違うでしょう?」

 澄んだ鳶色がまるで矢のようでした。

 心に深く刺さり、ぱりぱりと脆く崩れ去る音が耳に響きました。ささやかな強がりに隠された私の深淵には、浅ましい望み。


 私の本当の望みは、あなた。


「い、いけませ」

「私の一番求める言葉は、あなたの望みと同じ。どうか、あなたの口から告げてください。そうしたなら私は」


 何も要らない。

 あなたがいればそれだけで。

 あなたと二人、どこか遠い空の下へ。


「あなたを攫います」


 戦慄きました。

 二つの手も、足も、身体も。

 唇さえも震えて、止める術は何一つないのです。

 ああ。

 ああ今にも飛び出してしまいそう、攫って、と。

 遠くへ、遠くへ、ずっと遠くへ。

 心の思うままに、この思いを吐き出してしまえたならばどんなに。


 どんなに。


「私、は」

 掠れた声が、漏れ出てしまいました。

 けれど、それに続く言葉は夜を揺らす音にかき消されたのです。ごん。


 ああ、最後の鐘の音。



 瞬間。

「アサツキ」

 と、私の名を呼ぶ声が何処からか聞こえたのです。

 聞き覚えのある艶を含んだ低音は、山茶花の垣根をざっと割りました。しなる枝がぶつかり合い、幾つかの葉を落としながら。

 現れたのは、闇よりも深い漆黒の髪の持ち主。

「社長?」

『そいつに触るな』

 荒げられていらっしゃらないのに社長のお声は、私のお腹にびりびりと響きました。怒気を酷く孕んでいらっしいませんか?

 ど、どうして社長が此処に。

 普段より蒼ざめて見えるのは月下のせいでしょうか。はらりと乱れた髪も、社長らしくございません。いつもきちんと整えられていらっしゃるのに。

 な、何かございましたか?


「こっちへ来い、アサツキ。その男は危険だ」

 危険?


『危険なのは貴方でしょう、逃げられないよう彼女を囲いこんでいらした。身分を考慮しても、行き過ぎた行為でしょう』

 急な変化に、え、驚いて顔を上げました。異国語もそうですが、にこやかな笑顔でいらっしゃるのに棘のある態度は軍曹さんらしくありません。

『貴様に言われる筋合いはない』

 相対されるお二人はじりじりと間合いを詰められて、今にもぶつかってしまいそうです。どうしてお二人とも険悪なのですか?

 

「あの?」

『こいつを攫ってどの国へ売る算段をしていた?練国か、それとも他の国か?』


 えっ?


「教えてやる、アサツキ。この男の正体は、人身売買を目的にこの国に入り込んだ屑だ」


 じ、じんしんば?


 重い何かが降ってきたような衝撃でした。

 息を飲む私の前で、滔々と言葉を紡ぐ社長の瞳は、鋭い光に満ちておりました。軍曹さんを斬りつけようとなさるみたいに。

 そして、それを受けられる軍曹さんの瞳もまた。

『それは貴方でしょう。彼女を弄んで騙して、飽きた時はどの国に捨てるつもりだったのですか?』


 色の違う刃同士が、がきん、打ち合うのです。

 飛び散る負の感情に、私は情けなくも、くらりとしてしまいました。本物の刃でなくとも、お二方の言葉は十分に鋭いものです。

 わ、私を異国に売買する?

 軍曹さんが、それとも、社長が。どちらが?

 いえ。

 もしかしたならば、どちらも?


 ま、まさか。


 がたがたと震えが伝わったのでしょう、軍曹さんは私の身体を放し、ご自身の背後へと導いてくださいました。

 守られている筈ですのに、私はむしろ、熱を奪われて凍えるように感じました。

 何故、こんな風に言い争われるのでしょう。

 お二人とも誠実で、大罪を犯すお方ではございません。きっとお互い勘違いなさっておられるだけなのです。

 お互いの声に耳を傾けられれば、相互理解を図れますのに。

 なのに、どうして。

 

『俺は〈貴〉のサージェット ウィアヌス。真の名を忘れていなくば、お前も名乗れ』


 ぴしゃりと落とされた社長の雷に、私はびくりと震えました。

 くすりと嗤う軍曹さん、どうか、もうおやめください。


『私の名は疾うにございません。あなたが奪ったのでしょう?』


 ばちり。

 お二方の間で、見えない火花が激しく瞬きました。

 どうして、どうしてやめてくださらないの。お二方の耳に、私の声は届かないのですか?


 では、と更にお声を低くされ、社長はおっしゃいます。

『では、お前を良く知る者を呼んでやる』

 長身を翻された社長の背後。

 少し小さめの影は、車椅子に乗られていたから。それと。


 それと。


「兄様?」

 イレフ様の車椅子を押されているのは、縁のない眼鏡をかけられた軍人さん。襟元だけが朱色で、深緑色の軍服は光護国軍のもの。

「この男の名を知っているか、〈武〉のセーリク アサツキ」

「はい。彼の名は」


 姿勢を正した兄様は、最敬礼なさって。 


「〈華〉のニイタカ メネリック、です」





お読みいただき、ありがとうございました。

少し切な仕様となりました。

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